中国正史から見た倭人諸国の統一 1

(前ページ神武東征Fの続きとなりますが、今回からは記紀神話を離れて、中国文献=「論衡」のような古いものではなく、漢書以降=や、考古学的資料も参考に、倭人の統一国家形成への過程を考えてみたいと思います。)

中国正史で倭人が初登場するのは、有名な「漢書地理誌」分野誌の燕地の条の「夫れ、楽浪海中倭人有り。分かれて100余国を為し、歳時を以って来たり献見す、といふ。」の一文です。前漢は、前202年項羽の死により、ほぼ中国を統一し、後(AD)八年王莽が簒奪して「新」を建国して終わります。漢の武帝が、前108年〜107年にかけて、衛氏朝鮮を滅ぼして置いた朝鮮四郡の一つ「楽浪郡」設置後に「倭人100余国」のおそらく「楽浪郡」への「献見」が開始されたと考えられます。後の三国志の魏書倭人伝時代の倭人国家の小国は、1千戸程度であり、万戸以上の大国や卓越した国家の存在が見えないことから、おそらく九州や山陰、瀬戸内海西部、あるいは丹波・北陸あたりも含むかも知れませんが、そのあたりの千〜数千戸の部族国家が、郡に使者を派遣していたものでしょう。ここに「歳時を以って」とありますから、一応これら100余国は、漢暦を(大雑把でしょうが)知っていたと思われます。いくつかの文字を知っていた可能性も十分あると思われます。

さて、同じ漢書地理誌の呉地の条の末尾に「会稽海外東テイ(魚是)人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以って来たり献見す、と云ふ。」との全く種族名;倭人→東テイ(魚是)人、国数;100余→20余、8使者派遣先の)郡名;楽浪→会稽の三ケ所を変えただけの朝貢関係記事があり、古くから注目されていました。東テイ(魚是)人倭種説は、清初からあり、近年でも古田武彦氏や森博達氏が述べています。
因みに古田氏は邪馬台国九州説から、九州王朝説を採っていますが、邪馬台国時代の、九州女王国の東一海を渡った倭種の国を想定し、森氏は、倭人伝の女王国以北の遠絶20・21ヶ国を、「東テイ(魚是)人」の諸国にひきあてています。私は邪馬台国近畿説を採っていますが、この「東テイ(魚是)人20余国」については、
 @もし、古田氏のように(邪馬台国が九州にあったとしても)近畿に東テイ(魚是)人諸国があったとすれば、半島側の楽浪郡に近く、わざわざ会稽郡まで使者を送るとは考えられないこと、
 A森氏の説の如く、魏志倭人伝の「女王国以北」の詳細不明の遠絶20/21ヶ国(斯馬国以下)を宛てる場合も、@同様の不合理が存在すること、この「女王国以北」を(南→東の改訂に準じて)「女王国以西」に改訂するにしても、事情はかわりません。
 従って、漢代に倭種の国々が、楽浪郡ではなく、「会稽郡」にわざわざ「献見」する理由として考えられるのは次の三つのどれか(或いは全部)ということになります。
 @「東テイ(魚是)人二十余国」は、半島よりも中国南部との航海が容易であったか、少なくとも同等程度の困難さであった(地理的条件)。
 A倭人諸国と、「東テイ(魚是)人20余国」が政治的ないし宗教・文化的に対立しており、且つ地理的条件から、倭人諸国は、東テイ(魚是)人諸国の半島への航海の妨害を容易に行い得た。一方東テイ(魚是)人側は、半島への航海がより容易であったにせよ、会稽郡への航海が可能な航海技術(半島航路より困難な航路を「歳時を以って献見」する以上、倭人諸国より航海技術は上でしょう)を有し、且つ出航可能な港湾を有していた。
 このAの条件を考えると、「倭人」100余国と「東テイ(魚是)人」20余国は、部族国家としての独立性はあったにせよ、それぞれ、祭祀を共通に行うなどの「連合体」〜祭祀同盟」といったものを結んで、統合の方向に向かっていたと考えられます。(技術的条件及び/又は宗教・文化・種族的相違)
 B以前から、会稽郡と交通があった。この場合この東テイ(魚是)人集団が、江南出自の集団を含んでいたとも考えられ、「呉の太伯の子孫」とか「夏后少康の子孫」とかいう南方系の伝承や習俗を、「倭人」100余国に比し、多分に持っていたと考えられます。
 
 以上の@〜Bの条件を満たすのは、少なくとも九州の西岸に港湾を有する部族国家を含む必要がありますが、玄界灘に面する諸国家は、この条件には合わないと考えられ、有明海以南の、九州中部(肥後)、九州南部(薩摩、大隅)一帯の諸国(即ち、肥人くまひと、熊襲くまそ、隼人はやひと)が中心となり、南四国、紀伊半島南部(更に東海・神奈川といったHLAハプロタイプA24−B54−DR4を指標とする海人や、kum/kun系の音を名称にもつ諸部族の国家群を考えたいと思います。
ただ、その証明には中国南部系の漢代の遺物が、考古学的に証明される必要があるでしょう。


中国正史から見た倭人諸国の統一 2

「漢書」の次の時代の中国正史となると「後漢書」ですが、次代の正史である「三国志」と成立年代が逆転していますので、中国王朝と倭人諸国との交渉を、年代順に論じたいと思います。

「後漢書」の倭人/倭国関連記事としては、「倭伝」(烏丸鮮卑東夷伝の一部)の他、「倭伝」と同じ烏丸鮮卑東夷伝の中の鮮卑伝中の「倭人国」記事、及び「光武帝紀」の倭奴国朝貢記事、「安帝紀」の倭国王帥升記事の四つがあります。

この他、「韓伝」に、三韓諸国と倭の地理的関係を記載しています。
ここではまず「後漢書韓伝」の記事から、「倭」について論じたいと思います。
それによると、
@馬韓54ヶ国の北部は、「楽浪郡」と、南部は、「倭」と、東部は、「辰韓」と、それぞれ接しています。

A辰韓12ヶ国は、西部は、「馬韓」と、北部は、「ワイバク」(この場合は、「ワイ」族)と、南部は、「弁辰」と、それぞれ接しています。

B弁辰12ヶ国は、北部は、「辰韓」と、南部は、「倭」と接しています。

C更に、「馬韓西方の海上」の島に「州胡」賀住んでいます。これは済州島の事と考えられますが、この州胡もまだこの段階では「韓族」とは別な種族と考えられているようです。

以上の韓伝の記事から、「倭」が、「馬韓」と「弁辰」に、半島内でその南に、隣接して居住していたと、後漢書の編者范曄が認識していたことを示しています。
もし「海」を隔てている場合、「辰韓」の東方の海上とか、「弁辰」の南方の海中とかいう表現で倭地を示したと考えられます。

もう一つ、「弁辰」について、注目すべき記事があります。
@「辰韓」と入り雑じって居住している。
この記事は、おそらく、韓族の中心的な部族連合体「馬韓」(黄海道から京畿道にかけて居住?)の東部手段が分離して「辰韓部族連合」を作り、東進(東南進?)して、「ワイ族」と{倭族」の間を占拠し、その「辰韓部族連合」から、更に「弁辰部族連合」が分かれ、倭人居住地に向かって南下を開始した後、まだ時間が経過していなかった(或いは、倭人の抵抗が強かった)ことを意味しているものでしょう。

A弁辰は、辰韓と言語・風俗で異なった部分があり、皆背が高い(辰韓の人々より北方系の血が濃い?)、倭人に似て「文身」をする者が多いと記載されています。当然弁辰部族連合の占拠地にば、まだ倭人も残存していたでしょうし、或いは、先住の倭人系の部族国家が弁辰部族連合にも加入した可能性があります(伽耶諸国)。


中国正史から見た倭人諸国の統一B

> 「後漢書」の倭人/倭国関連記事としては、「倭伝」(烏丸鮮卑東夷伝の一部)の他、「倭伝」と同じ烏丸鮮卑東夷伝の中の鮮卑伝中の「倭人国」記事、及び「光武帝紀」の倭奴国朝貢記事、「安帝紀」の倭国王帥升記事の四つがあります。

AD57年後漢の建国者光武帝の末年「倭奴国王」が後漢に朝貢し、印綬を賜りました。この現物と思われる「漢委奴国王印」が、福岡県下志賀島から出土しました。これが、光武帝が「倭奴国王」に下賜したとされる印綬であることは最近では、ほぼ疑う人はないといって良いでしょう。

さて、この印が真に「光武帝紀」に記された印綬だとすると、

@「倭奴国王」に与えたはずなのに、「委奴国王」の印となっている。

A三韓諸国の君主には、「邑君」などの称号(「漢廉斯邑君」など)が与えられたが、「倭」には何故一段高い「国王」の称号が与えられたか。(後漢は、次代により若干の相違はありますが、「郡国制」を採っており、漢帝国内では、郡=国で、郡の長官の「太守」と国の長官である「相」は同格の二千石の官。尚、「国」の「王」は俸禄だけを貰います。これに対し、「邑」は、郡に含まれる行政区画の「県」に相当する。)

Aについては、「委奴国」/「倭奴国」を、「倭国」の中の「奴(な/の/ぬ?)国」の君主だとすれば、仮に奴国が、一千戸の小国ではなく、二万戸の大国であったにしても、おそらく馬韓には一万戸くらいの国があったと考えられ、厚遇の理由としては、「遠方」からの朝貢しか考えられませんが、「漢書地理誌」の100余国の献見記事を考えると、やはり、説明が困難です。まして「委奴国」を「いと」と読んで「伊都国」に宛てると更に小国と考えられます。
結局、後漢は「倭奴国/委奴国」を「倭人諸国」の代表国家とみなして、「倭国王」のつもりで「王号」を与えたと考えるべきでしょう。
この点については、次回に説明します。

中国正史から見た倭人諸国の統一C

結局、後漢は「倭奴国/委奴国」を「倭人諸国」の代表国家とみなして、「倭国王」のつもりで「王号」を与えたと考えるべきでしょう。


この「倭奴国王」又は「委奴国王」が、「倭国(倭人諸国の総称)」の中の「奴国王」ではないことの説明を、もう少し詳しくします。

@先ず漢は、前代の秦とことなり、儒教を国教化しており、中華意識が前漢末には確立しており、「蛮族」の長を中華の君主と同格と見做すことはありえなくなっていました。

高祖劉邦の時代のようにまだ儒家の権威が確立せず、実力で匈奴と対決して大敗し、単于の后妃アツ(「門」の中に「於」)氏に贈り物をして辛うじて難を逃れるといういわゆる「平城の恥」(前201年)の後、漢の皇帝と匈奴の単于は「兄弟の盟約」を結び、対等(名目上は漢が兄ですが、漢帝室の女を皇女=公主として差し出し、毎年絹・酒・米などを献上する)と認めたため、匈奴の諸侯王は、漢の王侯と横並びに同格として待遇せざるを得なくなります。

後に、四代に亘る匈奴単于の長子相続が、途絶えると匈奴内で単于の地位を巡り、内紛が起こり、一方国力の充実した漢の武帝は、衛青、霍去病らを用いて匈奴を破り、また匈奴の東西、南北への分裂もあり、すっかり匈奴は弱体化しますが、匈奴の諸王侯への王号授与や任官などは、以前の待遇を引き継ぎます。

しかし、これはいわば匈奴のみの例外的処置ともいうべきであり、他の外族で、匈奴のように一国家内に当該国家の大君長(匈奴の場合は単于)の下位の君長〜侯王に「王号」を認めた例は殆どありません。
勿論、漢の皇帝に直属する形で一民族内に複数の王を認めることは有り得たでしょうが。

以上の点を考えると、三韓78カ国の有力な首長が、与えられた称号は、県/邑を食邑とする「侯」とほぼ同格の「邑君」です(韓廉斯邑君)。倭人100余国の中の一国の首長の朝貢に対し、「王号」を授与することがあり得ないことは明らかです。

その点から「(漢)委奴国王」は、倭人全体の代表として「倭国王」の意味で任命されたと考えられますが、「委奴国王」=「委(倭)国王」ではなく、いわば、倭人100余国中の有力国の王を、直接「漢帝国」が掌握するつもりで、とりあえず「奴国」あるいは(「委奴」を「イト」と読んで、「伊都」/「怡土」にあてる)「イト(委奴)国」の首長を王に封じた可能性を除外する必要があります。

A「委奴国」を「イト」と読み得るか否かについては、当時は、漢字の音韻の移り変わりの激しい時期であり、これを中古音でよめば、「ノ」、前漢の音で読めば、「ナ」と読むべきであり(南方の後代の音に近い呉音で「ヌ」と読むことも可能){森博達氏「特別増刊歴史と旅・吉野ヶ里遺跡と邪馬台国」p41、秋田書店、平成元年7/5号)、「t/d」系の音では読めないと考えられます。
(もう一人、長田夏樹氏は「邪馬台国の言語」で、「伊都」を「イタ」と読んでいます。「奴」は「ナ」ですが)

以上のように「委奴/倭奴」を「伊都」国にあてることは、音韻的に困難だと思われます。
「奴」国に宛てるのは、「倭奴/委奴」が、「倭/委」の「奴」国と二段に分けて読むことが、王号を授与される大国の名称向きではなく(先述のように「匈奴」の諸侯王は別ですが)、「委奴」/「倭奴」=「委」/「倭」を表わすと解釈すべきであると考えられます。

中国正史から見た倭人諸国の統一D

> 「奴」国に宛てるのは、「倭奴/委奴」が、「倭/委」の「奴」国と二段に分けて読むことが、王号を授与される大国の名称向きではなく(先述のように「匈奴」の諸侯王は別ですが)、「委奴」/「倭奴」=「委」/「倭」を表わすと解釈すべきであると考えられます。

さて、漢の光武帝劉秀が、倭人の大君長〜統率者として、王号を授与するのに、「倭王/委王」あるいは「倭国王/委国王」ではなく、「倭奴国王/委奴国王」だったのでしょうか?その説明が必要ですが、「倭『奴』国王」の『奴』の部分の解釈については、昔から「倭奴国王(委奴国王)=倭国王(委国王)」説を唱える論者の間で、一般的だったのは、

@『奴』は、別称であり、「匈『奴」」の『奴』と同様のものである、というものでした。

また、最近では

A『奴』は、九州弁の助詞の「ん/ン」である、即ち「倭/委・奴・国」は「倭/委・ん・国」で「倭(委)の国」の意味だというものです(福島雅彦氏=yamattaiさんが唱えています)。

この内、Aの説については、邪馬台国九州説が正しいとすれば、当然倭人伝の30ヶ国やそれ以前の漢書に記載されている「倭奴国」や金印の「委奴国」も九州弁もしくはその祖語の音訳である可能性は大きいと考えられ、あながち無視できないと思われます。現に長田夏樹氏は、その著書「邪馬台国の言語」の中で、上代日本語の三方言区分が、おそらく7世紀の1000年程度前に分岐したと考え、魏志倭人伝時代の倭国語は、上代日本語九州方言と同じs方言であるとしています。
ただ、私はこの点については「奴」が「ん」即ち「n」の音価を表わし、その音訳だとした場合、魏志倭人伝の「奴国」は「ん国」という到底日本人に発音できそうにもない国名となることから、ちょっとありそうにないと思っています。勿論、現代でも東アフリカの(バントゥー語族に属する言語だとおもいますが)諸言語中に「ん」を語頭に置き、発音するものがありますので、前漢〜三国時代の倭人語〜古代日本語九州方言で発音したのだと頑張られると、水掛け論になりますが。

ということで、私は邪馬台国近畿説論者でもあり、また、いくら古代でも日本語の祖語(の方言とは言え)では、「二重子音」を発音したり、語頭の「n音」を単独で発音したりすることはなかったと信じていますので、「倭(委)『奴』国」の『奴』については、@説と同じく「倭(委)」人/国に対する蔑称であったとする説を採ります。
ただ漢が初めて「奴」を「倭/委」に付したのではなく、その前に、前漢を簒奪し「新」を建国した王莽が、倭人に爵号を与える時(文献には記録されていませんが)、「奴」を付して「倭奴/委奴」と称したものと考えています。

王莽は、西周の周公旦の治世を理想とした儒教の復古主義者であり、且つ中華主義者でした。彼は、漢を簒奪する時に「禅譲」の形態を取りますが、彼は「論衡」(王充)の周の盛時、「越常(越裳)白雉を献じ、倭人暢草を献ず」記事から、王莽の治世を称えるために、越常と倭人に「貢上」させようと考えます。その内、益州あたりから工作して「越常」(多分ヴェトナムあたり?)が「白雉」を献上します。
次は、倭人が暢草(ウコンのことか?)を献ずる蛮ですが、おそらく王莽は楽浪郡の役人あたりに工作させたのでしょうが、倭人はあいにく「暢草」に縁がなく(すでにこのあたりで倭人が南方の海南島あたりと習俗が似ていると思われていた可能性があります)、やむを得ず、「東夷」に「方物」を献上させますが、この「東夷」は中国人には馴染みの薄い倭人だったと思われます。しかし、この時倭人に「方物献上」の代償〜褒美として、爵号授与が約束されていた可能性が在ります。

王莽は、元来、漢帝と「兄弟の約」を行っていた匈奴の単于に対し、「新」建国後、従来の「匈奴単于璽」に替えて「新恭奴単于章」を与え、更に「単于」を「善于」と呼び、長安に質子として抑留されていた単于の子を殺し、新と匈奴は戦争に突入します。
この王莽が、倭人に爵号を授与しようとする時、「倭王/委王」とか「倭侯」とかの称号を与えるとは考えられません。当然「倭奴/委奴」といった蔑称で表わすでしょう。私は「漢委奴国王印」の「委」も印章を作る都合上、「イ」を省略したものではなく、王莽が「倭人」をいわば「人」扱いせずに故意に「イ」を省略し「委」とした上に「奴」をも付したのではないかと考えています。
漢の光武帝は、遠方からはるばる方物を献上してきた倭人の大君長に、王号を与えることにしたのでしょうが、それは王莽時代のそれを引きずって「委奴国王」となったものでしょう。それを後漢書の編者の范曄が、「倭奴」に改めたと考えられます。彼は、三国志の編者陳寿と異なり、倭/倭国/倭人について関心が深かったと思われます。

中国正史から見た倭人諸国の統一E

今回は、安帝紀にあるいわゆる「倭国王帥升」の生口献上記事について論じますが、その前に一つ王莽が倭奴国と関係を持ったことを裏付けると考えられる根拠を、付け加えたいと思います。

それは、後漢に朝貢した倭奴国(実際は委奴国?)の使者が「自ら大夫と称した」ことです。これは、倭奴国が、前代、即ち「新」の時代に朝貢し、その使人がおそらく新から叙任され、例えば率善中郎将(四品、比二千石、降伏した蛮夷を管理する)とか率善校尉といったような官位を貰っていたと思われます。あるいは、「新委奴国王」の称号得て、内国の諸王侯に習い、「王府」を開いていたとすれば、「相」「都尉」「傅」「保」「友」「郎中令」「中尉」「大農」「司馬」「謁者大夫」といった属官を任命していた可能性があります。

さて、後漢書安帝紀永初元年冬10月「倭国遣使奉献」の記事ですが、同じ後漢書烏丸鮮卑東夷伝倭人条(後漢書倭伝)では、倭国王帥升等が生口160人を献じて拝謁を求めています。この後漢書の記事については、諸々の問題があることが知られており、特に原文が一体どうだったのかについては、魏志の「台/壱」問題以上の大きな問題を抱えており、正直なところ、解釈できかねるものですが、とりあえず問題点を列記します。

@遣使した「国」は、どこか?

現在の刊本の後漢書安帝紀では「倭国」となっていますが、平安時代日本に写本として入った後漢書では、「倭面国」或いは「面国」となっており、更に天満宮所蔵の「翰苑(かんえん)」所引の後漢書には「倭面上国王帥升」、「通典」では「倭面土国王師(帥の誤植ではありません)升等」、松下見林著「異称日本伝」所引の「通典」には「倭面土地王」となっています。一体、どれが正しいのか?ということを決めるのは容易ではありません。
一応、西嶋定生氏の説に従い、「倭面土国王」→「倭面土地王」→「倭国土地王」→「倭国王」という経緯で変化したとしても、最初の「倭面土」をどう読むかが問題です。「倭・面土」の二段国名で読み、「面土」国を魏志の「末盧国」に宛てる考えもありますが、西嶋氏に従うなら、「倭面土」を「やまと」と読む方がすっきりします(音韻学的には無理筋のような気もしますが)。

A倭国王?の名は「帥升」か「帥升等」か、「師升」か「師升等」か?

文献上は、「帥」が「師」よりもただしそうなのですが、李家正文氏司馬師の「師」を避けた「避諱」により、「帥」としたと唱えています。どちらにしろサ行音で、まあ後代の日本人の発音としては余り相違はないと思われます。
 次に「等」の解釈です。これを倭国王?の人名の一部と考えるのか(s*s*r*、例えば「しそら」というような三音節の名)か、複数形の「など」と取るか。そうすると倭国には面土王のほか多くの小王がいた可能性があるということになり、「委奴国王」=倭国王として、倭人諸国に中国王朝の承認する倭人の王は、一人のみという私のドグマ!?にも反しますので、この「等」を複数形としては考えたくありません。

この「帥/師・升」の音から、「スサノヲ」や「オホサザキ」に比定した論者もありますが、「等」を含めて「S*S*R*」という記紀神話や古代天皇は見当たらないようです。

B生口160人を献上したことをどう考えるか?

この160人という数字は、魏志倭人伝のあの親魏倭王卑弥呼が献上した生口が僅か10人だったのに比べ、棒大な数と言えます。これを一国で贈ったとすれば、その国力は相当なもので、実は、私がこの「帥升?」が「倭国王」であったと考える理由」の1つです。
それとこの生口160人がどうして得られたかを考えると、「倭国大乱」があり、その勝利者の戦争捕虜だったか被征服国の民だったかもしれません。 

Cこの記事から、倭国王帥升自身が、後漢に赴き、皇帝に謁見を求めたという論者もいるようですが、これはちょっとあり得ないと思われます。戦争をしていれば当然のこと、そうでない場合でも国王が遠い外国に赴くなど、外征でもしない限り、困難だったと思われます。

中国正史から見た倭人諸国の統一F

前回の書き込みの補足です。

> A倭国王?の名は「帥升」か「帥升等」か、「師升」か「師升等」か?
>
>  次に「等」の解釈です。これを倭国王?の人名の一部と考えるのか、複数形の「など」と取るか。そうすると倭国には面土王のほか多くの小王がいた可能性があるということになり、「委奴国王」=倭国王として、倭人諸国に中国王朝の承認する倭人の王は、一人のみという私のドグマ!?にも反しますので、この「等」を複数形としては考えたくありません。

ただ、先の「国名」の問題とも関連しますが、後漢書地理誌燕地の条の楽浪郡に献見した「倭人百余国」の代表者/支配者として、「倭王」(委奴国王)に任命された王家の当代の王「帥升」が、配下(即ち、支配権?を認められた倭人100余国の君長)ではなく、これまで、漢王朝やあるいは楽浪郡に朝貢/献見したことない別な「倭種」の部族国家連合体(別な祭祀同盟や、帥升らの「倭人」と異なる文化・習俗を持つ「方言」の異なる集団など)の「使者」を同行していた可能性があります。
この場合、「帥升『等』」という表記がされる可能性があります。

ただ、このような場合、朝貢を受ける中華王朝の側は、これまで朝貢がなかったり、大昔に朝貢して以後朝貢が途絶えた国などの、朝貢は王化が進んだ証拠でもあり、自慢になることですから、史書に記載さっるのが普通だと思われます。「新唐書日本伝」に日本の使者が「蝦夷人」を伴っていたことや、「日本書記」の斉明5年7月条の蝦夷男女2名を唐の天子に見せたという記事などが参考になります。

そこで、この「帥升『等』」の「等」を、上記のように、「委奴国王」=倭国王の支配下のいわゆる「倭人100余国」の後身ではない、別な「倭種」の国家群の使者を含んでいたと考え、且つ後漢がそのことを認識しながら、故意にその国家(群)の記載を漏らしたとすれば、それは如何なる理由かが問題となります(余り関心がなく、記載しなかったとすればそれはそれで良いのですが9.

その場合考えられる理由としては、後漢が既に献見/朝貢を受けていた国家〜国家群が、帥升率いる「倭国」により、征服・占領され、帥升がその被占領国の使者や、捕虜(生口160人!の一部又は全部?)をその証拠として、伴った場合です。この場合、会稽郡に献見していた「東テイ(魚是)人二十余国」が、候補となり得ると思われます。

勿論、「帥升」の「委奴国」が、「漢委奴国王印」の発見場所が北九州であったことから考えられるように、北九州(の「邪馬国」?)に本拠を持ち、後漢への遣使直前に、「倭種」統一作戦〜領域拡張に乗り出し、「東征」し、異なる領域国家群(「出雲」や「吉備」など)に征服戦争を仕掛け、本来の帥升配下の百余国(北九州から中部九州の北部、長門、伊予、土佐の一部の、弥生時代後期の青銅祭器で言えば、「広型銅矛/広形銅戈」を祭器とする地域、このあたりに百余国を想定すれば、律令時代の「郡」程度の規模の部族国家を想定すれば、何とか百余国くらいは押し込めると思います)以外に、「出雲形銅剣」や吉備の「平形銅剣」の分布/祭祀地域との中間域の「周防、安芸」や「石見」などの倭種の「小国家」群を併呑したとすれば、元々
筑紫・出雲・吉備の中間的な地帯であり、「国名」を記載するほどではなかったので記載しなかった可能性もあります。

しかし、私は、「倭人字セン(石専)」なども併せ考え、むしろ「帥升」の委奴国連合=倭人百余国には、むしろ始めから、石見、安芸、伊予、土佐の大半が含まれていたと考えます。そして彼が攻撃したのは、後の出雲・吉備・大和遠征に備え、その前に後顧の憂いを断つべく、本拠地北部(及び中部の一部)九州の南に隣接する後代の「家型石棺」を特徴とする「熊襲・肥人(くまひと)」の諸部族群ではなかったでしょうか?
この地域は有明湾にも面し、長江下流域からの渡来系海人部族の要素も強く、前10世紀以来倭人の南下により「倭種化」したとはいえ、「筑紫」とは異なった祭祀同盟を形成し、更に黒潮沿いに、土佐、紀伊半島南部、東海、神奈川などにも同族の部族国家が散在していたのでしょう。そして、この集団=祭祀同盟こそ、中国南部の「会稽郡」に「歳時を以って来たり献見した」『東テイ(魚是)人』だったと思われます。

即ち、帥升は中部・南九州及び土佐方面の「東テイ(魚是)人」二十余国を征服し、その使者を伴って、後漢に遣使し、「東テイ(魚是)人」諸国に対する支配権の承認を求めた(まだ、敵対残存部族が居り、後漢・会稽郡などに保護や休戦の調停を求めていたため、謂わば戦果を示し、後漢に生口という実利をも示した?)ものと考えます。

「倭人字セン(石専)」については、また次回以降別記論じたいと思いますが、上記のように考えると、「委奴国」と「倭面土国」等の表記問題についても別解釈が可能です。
即ち、倭人百余国以外の新たな「倭人」あるいは倭種の国家の使者が、「倭国」《以前述べたように、「委奴」の国名または種族名?が、王莽の「中華意識」に基付く「卑字」として、付加され、また、「委」も同様に王莽により「倭」から書き換えられた経緯があったとすると、後に、「(漢)倭国王印」に替えられ、国名の後漢側で「倭国」とされていたと考えられます》の使者と来朝した場合、新しい倭人の国と区別するために帥升の「倭国」が、その特徴や首都名などに因んで「倭面土国」と表記されたという可能性があります。


> この「帥/師・升」の音から、「スサノヲ」や「オホサザキ」に比定した論者もありますが、「等」を含めて「S*S*R*」という記紀神話や古代天皇は見当たらないようです。

「等」の音は、流音(r/l)ではないと思われ、t/d系の音を表わしたものでしょう。従って「s*s*t*」や、「s*z*t*」「s*z*d*」に近い音だったのではないでしょうか?

> B生口160人を献上したことをどう考えるか?
>
> この160人という数字は、魏志倭人伝のあの親魏倭王卑弥呼が献上した生口が僅か10人だったのに比べ、棒大な数と言えます。

160人は、献上されるためには、不具などではなく、健康なものであり、これを選抜することを考えると、航海途上での病死や外傷も見込み、仮に200人連れて行ったとすると、選抜するための母集団は、少なく見積もってもその5〜10倍、1000人から2000人は必要です。三国志魏書の韓伝や倭人伝を見ると、一国の戸口が少ないものは、数百家から千戸程度ですから、この生口を出すために必要な戸数は、小国(小部族)1〜2個分に達します。
これほどの労働力を、自国や同盟国から、供出することは、為政者として困難でしょう。これも戦争があり、且つ、平時から、余り交流の無い(自国民と婚姻等で深い交流がない)集団=東テイ(魚是)人などから、得られたと考える根拠の一つです。

中国正史から見た倭人諸国の統一G

さて、後漢書に記載されている倭人関係の記事で、@光武帝紀の倭奴国朝貢記事(AD57年)、A安帝紀の倭国王?帥升の生口160人献上記事、の2つは何れも、後漢書倭伝(烏桓鮮卑東夷伝倭人条)に詳細な記事が記載されていましたが、B同じく烏桓鮮卑東夷伝の鮮卑条(鮮卑伝)に記載されている「倭人国記事」は、後漢書倭伝になく、且つまた、後漢書の先行文献と言い得る陳寿の三国志の魏志倭人伝にも記載のない、しかも日本列島の倭人ではない、更にいえばひょっとして「倭人」ではない可能性のある「問題記事」です。

この「倭人国」記事については、以前、この掲示板の管理人である勇者ロトさんと、応答がありましたが、その時の内容と重複がありますが、もう一度、再説したいと思います。

東胡が、匈奴の冒頓単于によって滅ぼされ、その遺衆が凍走して、大興安嶺に至り、鮮卑山と烏丸山によって、各々、鮮卑、烏丸を称しますが、匈奴が分裂して、その南匈奴が漢に降り、北匈奴が西走するや、蒙古高原を占拠しましたが、後漢の桓帝(在位AD146〜167)の時、檀石槐が鮮卑を統一し、王庭を「弾汗山」(「汗」を「シ于」に作る刊本もある、山西省高柳の北三百余里にある)に置き、東方では扶余を退け、西方では烏孫を討ち、北方では丁零に至る大遊牧帝国を建設します。

檀石槐は、AD156年秋より、漢の北辺の侵攻、掠奪を開始し、166年頃には、東部・中部・西部の三部にその支配下の五十余邑を分かちます。霊帝(在位168〜189)の即位も檀石槐の後漢北辺への侵攻は続きますが、彼の死ぬ光和年間(178〜184)のおそらく初年(AD178)頃人口が増加して、牧畜・狩猟による食糧のみでは、その部衆を養いきれなくなった檀石槐は、

倭人が網漁に巧みだとの噂を聞き、
『東に向かい、倭人国を撃ち、千余家を得て、これを移して、烏侯秦水(老哈川か?)のほとりに住ませ、魚を捕らせて、食糧を補給した』(文字化けしそうなので、漢字は正確ではありません)
というのが、

「後漢書鮮卑伝」の「倭人国記事」です。

この記事が、鮮卑が列島の倭人を連れ去ったのだとする、森浩一氏(中央公論社刊「日本の古代1倭人の登場」p30)のような論者もいますが、多くの反論もあります。
代表的なものとして、坂元義種氏のものを挙げます(「別冊歴史読本、新視点、古代倭国の研究」所収の「後漢書鮮卑伝に描かれた倭人」、新人物往来社、2003年5月13日発行)。

坂元氏は、裴松之付注「三国志」鮮卑伝に同様の記事があり、そこでは、「倭人」ではなく「汗人」、「倭人国」ではなく「汗国」となっており、且つ、范曄が「後漢書」を編纂したのが、元嘉9年(432)、裴松之が陳寿の「三国志」の注を完成させたのは、元嘉6年(429)であり、僅かに「後漢書」より、「裴注三国志」の方が早く范曄はこれを見て「後漢書」を書いたとして、そのオリジナリティは低いとしています。
また、王先謙の「後漢書集解」にある(清中期の学者恵棟の説)「倭」は「シ于」(サンズイの代わりにシで表記しました。前は「水于」と表記した字です)の誤りであり、「シ于」は「倭」と同音で「シ于」人は「倭」人のことであると言う説について、話が逆であり、裴松之が引用した王沈著「魏書」の記す「汗人」「汗国」を、范曄が、「汗人」が漁師として優れているという史料がないために、勝手に魏志倭人伝の「倭の水人好んで沈没して魚蛤を捕ふ」を解釈して「汗」を「倭、に改訂したものだとしています。

坂元説に対して、まず、当時は裴注三国志「刊本」が、完成後直ちに発行されて、付注完成後、僅か3年の内に、范曄がこれを見て、考察して解釈して改訂するということが可能かどうか、それは不可能でしょう。まず付注本三国志が、3年内に観光されたか否か、次いで、その刊本或いは写本(写本完成だけで何年かかることやら)から、本紀や列伝の他の部分を無視?して、三国志の魏志倭人伝の部分を真っ先に読んだということなど、正直なところ、考えられません。
即ち、范曄は付注本は見ていない可能性が高いように思われます。そうすると、彼の手元にあった史料・資料は、王沈の「魏書」の写本か、あるいは先行した後漢についての史書、例えば漢書の著者の一人班固らの「東観漢記」など多くの書物のどれかによったものでしょう。彼は後漢書を作るにあたり「広く学徒を集め、旧籍を窮覧し、煩をけずり略を補って後漢書を作る」とされています。当然、王沈の魏書以外にも多くの資料があったことは間違いなく、陳寿の「三国志魏書東夷伝倭人条」やあるいは鮮卑伝の「略」を補ったと思われます。
三国志鮮卑伝に「倭人国」記事がないのは、当時倭王倭讃の朝貢を見た彼の目には、「略」されていると遷ったに違いありません。

坂元氏の「付注三国志」が、後漢書鮮卑伝の倭人国記事の種本だったという説は以上のように、成立しないと考えられます(王沈の魏書が元である可能性はありますが、それが「シ于」国でなく、「汗」国であったという証拠もありません。現に、鮮卑伝で檀石槐が王庭を置いた場所が、弾「汗/シ于」山と2種の刊本があり、この2字が混同されやすいことは明らかですから)。(続く)

中国正史から見た倭人諸国の統一H

> 坂元氏の「付注三国志」が、後漢書鮮卑伝の倭人国記事の種本だったという説は以上のように、成立しないと考えられます(王沈の魏書が元である可能性はありますが、それが「シ于」国でなく、「汗」国であったという証拠もありません。現に、鮮卑伝で檀石槐が王庭を置いた場所が、弾「汗/シ于」山と2種の刊本があり、この2字が混同されやすいことは明らかですから)。(続く)

あともう一つ、有力な反論として、「汗」人もしくは「シ于」人が、「倭人」ではなく、「汗」と同音か類似音と思われる「韓」人だとか、あるいは、朝鮮半島南部の「ワイ(シ歳、これもサンズイの替わりにシで代用します)」族であるとする説です。

「干越」という種族名が、「于越」と混同されたりすることから、「干」=「于」とする考えも有り、そのあたりからの発想でしょうが、本来「音義」と「語義」が関連する漢語・漢字を考えると、よほどの根拠がないと、単なる「誤記/誤植」も「何でも有り」の世界に入ってしまいます。従って「干」人=「韓」人説は(当時、中原王朝に韓族が良く知られていて、本来、「干」であったとすれば、王沈がまず、改訂したでしょうし、范曄、裴松之もそうしたでしょう)論ずるに足りません。

しかし、「シ歳」人説は、問題です。この説は、「汗」人が、「シ于」人の誤記であったかあるいは本来王沈の「魏書」に「シ于」人となっていた可能性を認めた上で、「シ于」と「シ歳」の音義(「シ于」は、「倭」と音通するくらいですから、u,ua、waに近い音でしょう)及び語義(「シ于」は白川静博士によると、「汚」の正字であり、「汚穢」おわい、という熟語にもあるように、「シ歳」も穢れ、汚いという意味を持つ)の面で共通性があり、後漢書「シ歳」伝では、その海では班魚をとらえ、その使節(「シ歳」侯の使者でしょう)がくれば、これを献上するとの記事などから、「シ歳」人が漁撈に長じていると考えられるからです(班魚は漢代の「魚禺・皮」、統一新羅時代の「海豹皮」と同じ)。

しかし、「ワイ(シ歳)族」は、後漢、魏を通じて、良く中華王朝に知られ、後漢代は楽浪郡の支配下にあり、また、その有力者は、侯や邑君に封ぜられ、魏は斉王芳の正始八年不耐ワイ(シ歳)侯を、不耐ワイ(シ歳)王に封じています。

しかし、東沃祖や、ワイ(シ歳)は、中国に倭よりも良く知られていたとはいえ、范曄等の時代には、朝鮮半島は、南部の倭人を除くと、新羅・高句麗・百済の三国時代であり、直接の使者などはありませんし、種族としての実態もほぼ消滅していた(韓族化)と思われますので、范曄が、どちらとも判断できない時に、「シ于」=「倭」説を採用した可能性はあります。

ただ、陳寿「三国志」に付注された王沈「魏書」の「汗人」の記事には、今にいたるも「汗人」数百家が、烏侯秦水の傍に住むと記載されています。王沈の「魏書」は、司馬氏におもねり、極めて曲筆が多いとされており(王沈は魏の高貴郷公が司馬昭を攻めようと相談した時に、魏帝である高貴郷公を裏切って、司馬昭に内通したとされており、「シ于」人が倭人の同族であることを知っていて、司馬氏の功績(東夷の「倭」の朝貢)の価値を高めるため、故意に「倭」を「シ于」に書き換えた可能性もあり得るのではないでしょうか?

折角、司馬仲達が燕王公孫氏を滅ぼす大功を挙げ、はるばる遠方から倭人が朝貢したのに、鮮卑にも「倭人」が従属していたという事実があっては、司馬氏の功績が傷つくとでも考えたかもしれません。

中国正史から見た倭人諸国の統一I

さて、後漢書の倭人関係記事は、「烏桓鮮卑東夷伝」の鮮卑伝倭人国記事、倭伝の倭奴国記事、帥升関係記事、の他、冒頭に「大倭王は邪馬臺(以下「台」で代用)国に住む」と記されています。この一文は、いわゆる「邪馬壱国」と「邪馬台国」の何れが正しいかについて、「台」説を支持する有力な手がかりになると同時に、また、范曄が、彼の生存していた宋(劉宋)時代の倭王讃の朝貢に関連して得た後代の倭国の知識に基付いて、陳寿の「三国志」を改訂した可能性を否定できません。
しかし、この点については、後に「邪馬台国」を論ずる時に譲るとして、今回は、後漢書末尾の諸国の記事について論じたいと思います。

@狗奴国記事;これは三国志の魏志倭人伝記事の、「女王国の東、海を渡ること千余里にして、復た国有り。皆倭種なり。」と「女王国の境界の尽くるところの南にある狗奴国」が合成されたものであり、狗奴国と、東の倭種の国々とは、別とかんがえるべきでしょう。しかし、或いは、「狗奴国」が、「女王国の南」から、東遷したという伝承が記載されたものがあったのかも知れません。

A侏儒国;女王国から南に四千余里で、この国に到達します。この「四千余里」が正しければ、列島(付属島嶼も含めて)内にあったと考えるべきです。あるいは、フィリピンなどに住む「ネグリト族」のような低身長の種族が、列島に居住していた可能性もあるかも知れません。後漢書倭伝でゃ、女王国から侏儒国までは、「船」(舟)でとは書かれていませんので、「陸行」だと考えられます。

B裸国・黒歯国;侏儒国から、船で「東南」へ一年かけて行った先に、この両国があるとされていますが、日本の東南?(東)のハワイあたりの情報が記載されているとも思えません。
ただ、「裸国」にしても「黒歯国」(お歯黒でしょう)、あるいは先の「侏儒国」にしても、日本の「西南」の台湾〜フィリピンの範囲内で、類似の種族を求めることができるだけに、全くのデマ情報とも考え難いところがあります。
邪馬台国論争で、九州説は「距離」た「日数」を、近畿説は「方角」を原文改訂して自説を補強/構築した歴史がありますが、この手法を使えば、この三国を列島内や、日本の近国に求めることはそう無理ではありません。

C会稽海外の東テイ(魚是)人;これは、漢書地理誌呉地の条の、東テイ人記事をここに持ってきた者ですが、これを倭伝の記事の内と考えるか、短いながらも独立した「伝」(正確には「条」)と考えるか次の徐福以下の記事と併せて、解釈に困るところですが、私は、范曄に迷いがあり、倭人と関係有りそうな記事を、まとめて並べたのではないかと考えています。
東テイ(魚是)人については、私の解釈は、九州中南部から黒潮沿いに南四国、紀伊半島南部から東海地方にかけての、越系海洋民の流れを汲む集団(部族)を含む「倭種」(北方系倭人により、倭人化されつつあった)20余国だということです。

D夷洲およびタン(シ亶)洲;
夷洲は台湾、タン洲は済州島という説もありますが、私は、この2つとも、「倭種」の国と考えています。

タン洲は「種子島」に宛てる考えがあり、私もそれで良いと思います。屋久島も含むかもしれません。

夷洲については、森博達氏の、『月刊日本語論、創刊1周年記念、11−1994、特集|日本語の起源をさぐる』(山本書房)所収の《「魏志倭人伝」と弥生時代の言語》という論文が注目に値します。森氏は、魏志倭人伝の「遠絶21国」(好古都国、蘇奴国など)を先の「東テイ(魚是)国」20余国とされています。この点については、「会稽郡」と交通する以上、東テイ人諸国は、倭人100余国より、南方で九州(中)南部を主として、四国・近畿・東海の太平洋沿岸部を考えるべきだと思われますが、森氏は列島からの「江南ルート」が前漢時代より存在したとし、左思の「魏都賦」(280年代撰)「於時東テイ(魚是)即序、西傾順軌」の句より、この句の前半が卑弥呼の「親魏倭王」への冊封を意味するとしています。これは、私には無理な解釈であると思われますが、次の「魚是」字の解釈については、氏の説に従いたいと思います。

即ち森氏は、「魚是」は「魚夷」ともかかれ、その上古音が、「夷」字と同じく、『脂』部陰声開口に属し、(中略)「東・魚是」は「東・魚夷」と酷似した音であり、その実態は倭人だったろう、と推測されています。

私も、東テイ(魚是)人は、「倭種」であったと考えますが、楽浪郡に献見する「倭人100余国」と、会稽郡に献見する「東テイ(魚是)人20余国」は、別な政治的・宗教的集団(祭祀同盟)に属すると考えます。
ここで、「夷洲」に「夷」字が含まれていますが、「魚是」=「魚夷」であるならば、同地域に住み、同じ「字」で表わされる種族/部族は同一存在を表わしていると考えるべきでしょう。「魚是」「魚夷」に含まれる「魚」は、彼等の生業が漁撈であることを意味して付されたものと考えられることから、「是」=「夷」であり、東テイ人は「夷洲」の住民であることを意味していたと考えられます。

「夷洲」が、「東テイ(魚是)人」の主たる居住地、即ち、九州島の中南部を指すとすれば、併称される「タン洲」は種子島などの島々を指すと考えるべきでしょう。

補遺;「倭人字セン(石専)」について

後漢代、@初代光武帝の末年(AD57年)の「倭奴国」または「委奴国」の入貢(使者はみずから「大夫」と称した)と「王号授与」、

Aその50年後の安帝の永初元年(AD107年)の「倭国王(倭面土国王)帥升等」の生口160人献上、

Bその後の「桓霊の間(AD147〜189)の「倭国大乱」

C鮮卑伝に載せる、鮮卑の檀石槐の光和初年(AD178)?の「倭人国討伐」記事

 以上の四点が、後漢代の倭人に関する年代の判明する記事です。
しかし、後漢書に記載はありませんが、後漢代の倭人関連の一級資料と目されるのが、前にも少し触れた「倭人字セン(石専)」です。これは、淮河の支流渦河の上流域にあるハク(「毫」の「毛」の横棒が一本少ない字)県の曹氏の後漢代の墳墓の1つ、「元宝坑村一号墓」より出土した164点の「字セン(石専)」のなかにあった「有倭人以時盟不」の刻字されたものです。
この字センの中には、「建寧3年(AD170年、霊帝の初期)2月」の年号もあり、AD170年頃が、「石専」を作った時期で、造墓の年代もこの頃と考えられています(李燦氏説)。

この墓は、会稽郡太守を勤めた曹胤のものと考えられています。曹胤は、曹操の祖父曹騰の甥(兄の子)です。(ちなみに曹操は、AD155年生)
ちょうど、この字センや造墓の年代と考えられるAD170年は、後漢書のいう「倭国大乱」の「桓霊の間(147〜189)」に入り、倭人字セン(石専)の「有倭人以時盟不」の意味は、李燦氏や森浩一氏は、「倭人が時を以って盟することがあるか」良い烏意味であり、「倭国大乱」を逃れて、海外の中国大陸に活路を求めた倭人集団だと解釈しています。
会稽郡太守だった曹胤はおそらく、中央の意向を受けて?、倭国大乱の収束のため、中国に古来からある「結盟」という手段を用いて、調停を図ったと、李氏は考えています。(中央公論社刊「日本の古代1倭人の登場」森浩一編、昭和60年11月20日より)

この説の「倭国大乱の調停をはかった」かは別として、倭国大乱の謂わば「負け組」の倭人集団が、おそらく部族/氏族単位で(李氏は数百から、ことによると数千人と推定)、会稽郡太守の管轄下に集団移住しやことはまず間違いありません。しかも、「楽浪郡」ではなく、「会稽郡」に保護を求めていることや、江南航路を習熟していることから、この集団は、「楽浪郡」と通交する倭人100余国に属する部族ではなく、「会稽海外」の東テイ(魚是)人20余国の後裔であったと考えられ、「倭人字セン」で倭人と刻字されていることから、「東テイ(魚是)人」も「倭人」の一派であったことが判明しますが、同時に、楽浪郡との関係が窺えないことから、この「東テイ人」集団は、「倭人100余国」と異なった政治的/宗教的集団(グループ)を形成していたと考えられます(おそらく「祭祀同盟」の差で、倭人百余国と異なった「祭器」や祭祀を行っていたのでしょう)。

私は、先の書き込みのように、この九州南部(肥後あたりも本来の居住地でしょう)から中部を中心とする、本来の倭人と若干習俗の異なる、後の熊襲・隼人の祖とも考えられる東テイ人の本拠地こそが、「夷洲」であり、また、その東南方の海上の島々(屋久島、種子島、奄美あたりも?)が、「タン(亶)洲」だったと考えています。

尚、先に、帥升の代表する倭人100余国を、北九州、長門、石見、伊予、土佐あたりの、律令時代の旧郡程度の範囲のおおきさの国と考えて、この範囲に百余国が収まると書き込みましたが、当然、国(当時は部族国家ですので、「部族」と呼んだ方が良いかもしれません)の大きさには、当時でも大小があると考えるべきであり、そうすると「帥升」の代表する倭人100余国は、九州中南部(「広形銅矛/銅戈」を祭器としない、即ち「筑紫」祭祀同盟に入っていない地域)及び太平洋岸沿いの土佐、紀伊、東海の同系部族を含めた「東テイ(魚是)人」20余国のの約5倍の国数であり、これは、当時、青銅祭器を持つ五つの祭祀同盟(筑紫「広形銅矛」、吉備「平形銅剣」、出雲「出雲形銅剣」、大和「近畿式銅鐸」、尾張以東の「三遠式銅鐸」)全体の「連合体」が、大連合(といっても極めてゆるやかな)を組んでいたと考えたいと思います。

この状態は、韓族を記述する晋書辰韓伝に、「辰韓はいつも馬韓人を王として戴いていた」「辰韓王は、王位を継承していても、自立することはできなかった」、或いは三国志弁辰伝の「辰王」記事にも、類似の状況(三韓の中の、辰韓12ヶ国は、共通の「辰韓王」を共立?しているが、それは、馬韓人である)が示されています。



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