邪馬台国時代@前々史

今回から、魏志倭人伝にある「邪馬台国」についての仮説を述べたいと思います。
尚、No.1095の「補遺;倭人字セン(石専)」からの続きとなりますが、ツリーが長くなりすぎるので、上げています。

さて、基本的に私は、邪馬台国近畿説を採っています。
それは倭人が、民族移動でその形成された原郷地を去った経緯を推定すると、その「統一」〜「部族国家」〜「部族国家連合体」の形成といったものが、かなり早期に形成されたと考える必要があるからです。その点について、もう一度再説(以後の勉強?の成果を踏まえて、若干の修正があるかも知れません)します。

倭人は、北方の遼河流域(中国史ではどうも「燕遼(文化)圏」という表現の方が良さそうです)の「紅山文化圏」に属した民族であり、狩猟・採集・漁撈・雑穀農耕(黄河流域から発展、粟・黍・大麦・大豆などを栽培、稗や陸稲、小麦も時代が下がるに連れ、栽培穀物に加わったと思われます)という生業を持った東夷〜東北夷の一種族だと考えるからです。

この倭人は、前20世紀の西方での「印欧語族の第一次民族大移動」と連動した東アジアの大変動により、長江下流域の良渚文化の崩壊、黄河中流域のいわゆる中国「中原」の「夏」王朝の建国、といった大事件が起こったおそらく少し前(といっても前3000年くらいから前2000年までの間、おそらく紅山文化に次ぐ「小河沿文化」の終わると考えられる前23〜22世紀頃が、焦点だと思います。次の「夏家店下層文化」の時期には、韓族との分離が進行していたでしょう)にゆるい部族連合体〜祭祀同盟を、形成しつつ、独自の(といっても北方系諸民族や東夷と共通性の高い)「山岳信仰」を形成していたのでしょう。

さらに、前16世紀頃?中原の東端にいた本来北方系狄族の流れを汲む「殷(商)民族」が、東隣の山東龍山文化→岳石文化との接触から、形成したと思われる「漢字」を含む「二里岡文化」をもって中原中央部の「夏」を征服し、「殷(商)」時代が始まります。

前13世紀頃の印欧語族の第二次大移動が、欧州で起こった頃、東アジアでの同時代現象として、やはり民族大移動が起こり、この結果、陰山や燕山以北の牧畜民や狩猟民が、漠北より南下し、殷は都である「ハク(「毫」の中の「毛」の横棒が一本少ない字)」(鄭州商城方面)を捨て、安陽(殷墟)に「遷都」せざるを得なくなりますが、同じ前13世紀に、陰山・燕山以北の諸民族は山東方面から更に、淮河方面にまで南下し、東夷、淮夷、南夷などが再編・形成されます。
この時、燕遼圏即ち遼河流域より、青銅器文化(遼寧式銅剣やおそらく支石墓?などの墓制も)を持って、朝鮮半島西岸沿いに南下した集団があり、これこそ「倭人」だったと考えられます。ただ、この時、南下したのが「倭人単独」だったのか、「韓族」も同行したのかは、今後の検討課題です。(現在は、同行もしくは相前後して南下したと思っていますが。)

民族移動する集団が、連合せずばらばらで我先に、移動する、という現象は考え難く、おそらく、倭人集団はかれらの信仰・祭祀の中心である「倭山」で集会を開き、大祭司などの種族(民族)の指導者を選んで(おそらく、移動時はかなりの権力を一時的に委ねられたでしょう)、狩猟民(戦闘力はもっともあったと思われます)のやり方で、「三部(左右/前後と中央)」あるいは「五部(左右前後/東西南北と中央)」といった編成をして、一気に南下して半島南部を占拠したと考えられます。

移住先でも、当面は団結の必要上、祭祀を行う聖なる「やま」が必要とされ、おそらく「(大)伽耶山」がその聖山として選ばれ、この地の管理を任された祭司を出した部族/氏族(これこそ後に「天孫族」とか「アメ/アマ」氏と呼ばれた集団の祖でしょう)が作った部族国家こそ、後の「大伽耶」(高霊伽耶)の前身である「意富加羅」国ですが、本来は後に魏志倭人伝に記録される「弥烏邪馬」国だと思われます。この「邪馬」は「倭人語」で「やま」を意味し、魏志はこれを「音訳」したものでしょう。
しかし、この倭人居住地全体は総称で、あそらく、「アマ(アメ)」国と呼ばれたと思われ、あるいは「高天原」の別称があったかも知れません。
また、記紀では、「対馬」「壱岐」がそれぞれ、天之狭手依姫、天比登都柱となっていますので、この前13世紀〜前11世紀の倭人が半島南部にいる頃に、この両島には、倭人が到達していた可能性もありますが、考古学的証拠からは、「アマ」はもう少し、後の倭人の列島移住後のようにも思われます。


邪馬台国時代A前史

さて、半島南部に到達した倭人は前13世紀から前11世紀にかけて、半島南部で、部族国家群を形成し、前10世紀に、九州北部に上陸します。これには、倭人と同時期に半島南部に到達していたと考えられる「韓族」の一部部族も参加した可能性があります。また倭人が、既に半島内で、2〜3方言に分かれていた可能性もあります。

半島南部の「無文土器」は、早期(突帯文)→前期(孔列文)→中期前半(先松菊里式)→中期後半(松菊里式)と変化したと考えられており、日本の弥生土器が、この無文土器の早期〜前期の流れを引くことものと考えられてきました。
 歴博によるAMS法の見直しが進み、弥生時代の開始が前10世紀に遡ったことにより、無文土器の年代の見直しも当然考えられ、ソウル大学と歴博の共同研究の成果が、2003年12月に発表されています。

 それによると、日本では
 
九州の弥生時代早期の開始;前10世紀
       前期の開始;前9世紀末〜前8世紀前半
       中期の開始;前4世紀前半

四国の弥生時代前期の開始;前9世紀末〜前8世紀末以降
        (北部九州より若干おくれるかも?)
       
近畿の弥生時代前期の開始;前8世紀〜前5世紀の間
         (まだ絞り込めない)
       中期の開始;前4世紀前半〜中頃

北九州縄文時代晩期の黒川式(新);BC1120〜BC910の間(90%の確率)

さて、問題の韓国無文土器のAMS法の年代ですが、

無文土器早期(突帯文);前13世紀〜前11世紀

無文土器前期(孔列文);前13世紀〜前11世紀

無文土器中期前半(先松菊里式);前10世紀〜前9世紀

無文土器中期後半(松菊里式);前9世紀〜前8世紀

というもので、無文土器中期前半の先松菊里式と、北九州の夜臼T・U式が、無文土器中期後半の松菊里式と、北九州の板付T式が、それぞれ、併行関係にある、というものです。

まだ、データ不足の部分もあり、近畿時代の前期の開始時期が絞り込めなかったり、従来、先後関係にあると理解されていた無文土器早期と前期が同時期になるなど、結論はもう少し先になるようです。

しかし、私は、元来、非常に大きな地域差のある韓国の、櫛目文土器の分類には、何か釈然としない感が有り、特にその荷担者が、全て韓族(及びその同族)といういわゆる「属族」問題については、とくに違和感があり、ツングース系や、古アジア系に扶余族がかぶさったのではないかと考えられるワイ(シ歳)族や沃祖、更に韓族や倭人のそれが、区別されなければおかしいと思っていましたので、同時期に同地域で、突帯文土器(早期土器)と孔列文土器(前期土器)の2種類が見られるとすれば、一方が倭人の、他方が韓族の文化として、解釈でき、これで列島渡来前の倭人と韓族の分離状況が証明されるのではないかと期待するところ大です。

さて、倭人と韓族ということなった二種族が、同地域かもしくは隣接して、住む場合、祭祀同盟などの「連合」組織をそれぞれ組んでいたと考えられます。民族移動のような大事業を成功させた指導者の権威の高まりは、当然その血族(出身氏族/部族)の地位を高め、種族全体の「大君長」(当初は戦時など危急時のみ、ある程度権力が集中した程度でしょうが)が、「支配氏族」化したものと思われます。この支配氏族の後裔の中に、後の「天皇氏」や「天孫」を称する諸氏(穂積氏、尾張氏、物部氏、出雲国造家?など)がいたと思われます。

そのような状況で、漢の勢力が、半島南部に及んできた時、倭人の中心勢力(すでに連合体の中心は、半島南部から、北九州に移っていたと考えられます)は、漢からの干渉を防ぐため、「倭王」を立て、それがAD57年の「委奴国王」(「奴」は蔑称として付されたもので「委」=「倭」国王でしょう)、AD107年の「倭国王帥升」だったと思われます。

一方、倭人の東方植民運動ともいうべき、各部族の東遷/東征により、膨張した倭人は、各地域ごとに、おそらくは「天孫族」の小王(首長)を地域的祭祀同盟(後に地域国家とでもいうべきものに発展?)の主宰として「共立」したものと思われます。弥生時代後期には、倭人は、筑紫、出雲、吉備、大和、尾張?吾妻?のそれぞれ特徴ある青銅祭器を擁する5つの祭祀同盟と、その中間地帯の諸部族に分れ、「ゆるやかな」連合体としての「倭人」の求心力が低下したため、「倭人」の大君長は、それなりの団結/統制を試み、その努力の現われこそが、「委奴国王」の王号取得とおそらくは、列島への物資輸入独占の試みでしょう。これを、倭人化したものの中国長江下流域から出自した海洋民を含む中南部九州の「くまひと(肥人、熊人?「天熊人」なる神?がいますし、熊野大神や、天忍穂耳の兄弟とされるクマノクスビがいます)」などが、会稽郡と交通し、倭国王家としての輸入独占権?を脅かしたため、当時も倭国王帥升の攻撃を受け、帥升は戦いで得た「生口」160人を後漢に献上し、皇帝に接見を求めたのでしょう。
また、一方で、北九州の天孫族は、「祭祀権」の返上/接収を求め、出雲に「アメノホヒ」、大和に「ホアカリ」「ニギハヤヒ」を、送ったのでしょう。

神武東征は、帥升らの倭国勢力が、「東テイ人」を攻撃して、ある程度、屈服させ、その勢力下に置いた後に、ニギハヤヒ一族に合流すべく、隼人、肥人の諸部族(なかには久米部のように部民化した集団もいたでしょう)をも率いて、東征したものでしょう。

邪馬台国時代B建国はいつか?

魏志倭人伝で、「女王」の都すところ、とされた「邪馬台国」は、いつ建国されたのでしょうか?

魏志倭人伝によれば、「其の国もと男子を以って王と為し、とどまること七,八十年(住七,八十年)倭国乱れ」云々とあります。この文の「其国」が、「邪馬台国」を意味するのか、「邪馬台国」を含む「倭国=倭人百余国?/三十国?」を意味するのかが、まず、問題です。

「相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼」とありますから、この倭国大乱以前の「王」は、「倭人諸国全体の王」=「倭国王」であったと解釈すべきでしょう。即ち、「倭人諸国」は、卑弥呼を共立する以前、男王が平和的に?治めていた70〜80年と、相攻伐していた「歴年」を合わせると、共立に参加した「倭人諸国」(この「国」は、部族国家でしょうから倭人諸部族と換言しても良いでしょう)=「倭人諸部族」が、連合体を組織したのは、ほぼ1世紀前ということになります。
 勿論、この「相攻伐した歴年」の期間については、「後漢書
倭伝」による「桓霊の間」(AD146〜189)の最長40余年間、或いは「梁書」「太平御覧」所引「魏志」の漢霊帝の「光和中」(AD178〜183)の5〜6年間、という短期間の何れが正しいかは不明であり、あるいはこの両者の間を取って一世代約20年間くらいと考えるべきかもしれません。
 三国志の「烏桓鮮卑東夷伝」で、「共立」の語が使用されたのは、

@「倭人条」のこの「倭国乱」後の卑弥呼の共立、

A「扶余条」の、簡位居(扶余王)に嫡子がなく、その死後に、諸加が庶子の麻余を共立、

B「高句麗条」の伯固王の死後、長子の抜奇が不肖の子であったため、国人たちは、次子の伊夷模を共立して国王とした、

以上の三ケ所で何れも本来の、「王家」の正統後継者が、(「共立」ならぬ)「自立」して即位できない時に、この『共立』という語が用いられており、いわば、王家或いは王族の力が不足して「自立」できない時に、「大人」「諸加」「国人」などの「他氏族(王族以外の氏族)」または「非王族」と考えられる有力者によって、「王族」内の「非正統的王位継承権者」が、王位に推されています。扶余では、「庶子」、高句麗では「次子」、そしておそらく、「倭国」では、「宗女」の卑弥呼であり、「男王」の後継を巡って、王族男子が争い、それに巻き込まれた諸部族(部族国家であり「国」としても良い)が、緊急避難的に、(本来、王家が司っていた「祭祀」を王家の女子に委ねたと考えられます)霊威の高いとされた王族女子の「卑弥呼」を「共立」したものでしょう。

この「共立記事」を、「烏桓鮮卑東夷伝」全体の文脈で解釈すれば、上記のような解釈が、もっとも正しいと考えられ、このことから、次の二つの推定が導かれます。

T)倭人諸国は、卑弥呼共立以前の約1世紀以上前から、「倭王(倭国王)」を立てていた。

U)この「倭国王」は、「共立」されるのではなく、自立して、おそらく「血統上の相続権」を根拠として、「王位」を継いでいた(「相続」していた。

 以上の二点から、卑弥呼の遣使した、魏の景初2年(AD238)のおよそ100年前には、この王家から「倭王」が出ていたことになります。
 卑弥呼遣使の景初2年は、後漢安帝の永初元年(AD107年)の131年後にあたります。卑弥呼は、生口160人を献上した「倭国王(倭面土国王?)」の後裔か、少なくとも彼と同一王家(氏族)に属していたと考えられます。

 以上のことから、「倭国王帥升」の時代には、少なくとも「邪馬台(やまと)国」は、建国されていたでしょう。ただし、部族連合体だったと考えられるこの倭国の中心部族国家「邪馬台国」の東遷の可能性が残ります。

邪馬台国時代C帥升の倭国の所在地は?

さて、後漢安帝の永初元年(AD107)に生口160人を献上した「倭国王」帥升と、その131年後の、魏明帝の景初2年(AD238)6月に男の生口4人、女の生口6人を献上して「倭女王」卑弥呼とは、同じ「王家」に属すると考えられます。この「王家」の本拠地と国名のいわれが、本稿での検討課題です。

T]帥升ー卑弥呼王家の本拠地はどこか?

 卑弥呼の本拠地は、三国志の「女王の都すところ」と記載されている「邪馬台国」すなわち「やまと」であることは、はっきりしています。また、卑弥呼の時代が、現在、古墳時代の初期(開始期)と考えられることにより、考古学的に、「山陰(出雲)」「山陽(吉備)」「東海(尾張?吾妻?)」や、三丹地方などからの土器その他の生産物が入り、むしろ地元畿内の影響が少なすぎるとさえ考えられる「前方後円墳」という「墓制」を採用した近畿地方の「大和」こそ、地名の類似や、「墓制」の融合振りが「共立」の実態を示すと考えられることなどから、おそらく纏向周辺に求められることは、間違いないでしょう。

 一方、帥升の「倭国」の王都、あるいは「王国」(倭人諸部族中の大君長である帥升の氏族=王族を含む「部族」/「部族国家」)が、大和近辺にあったと即断はできません。卑弥呼時代は、大和にあったとしても、「倭国大乱」の前か、最中か、後に「東遷」した可能性を、排除できないからです。

 さて、これを「国内文献」で再構成しようとすれば、記紀に「帥升」を思わせる人名はありません(オホサザキの「ササ/サザ」とか、イクメイリヒコイサチの「(イ)サチ」などが辛うじてこじつけられる?)。「イサチ」を「S*S*」(*は母音)の音韻(ts、t∫、も上代日本語の「サ行音」方言系だったと考えられるので、後代のタ行音も検討対象に入り得るか?)に比定するくらいなら、いっそのこと、「山幸彦/海幸彦」の「サチ(幸)」と解釈したいくらいですが、結局「帥升」を天皇家の王名に求めることは、不可能でしょう(スサノヲは、はじめから除く)。

 結局、現時点での「帥升」の倭国の王都は、考古学の進歩を待ち、弥生時代後期の青銅祭器や墳墓、土器、副葬品などの発掘の成果によって判断できるようになるまで、「保留」ということになります。
 勿論、私は、「邪馬台国近畿説」であり、且つ「神武東征」説も取りますが、後代の「倭の五王」から、「東征」の年代を推定しようにも、手がかりが足らず、定点となるべき「倭王倭讃」も誰か成案がない状態で、帥升と神武の生存年代が比較できないのです。

U]国名(やまと)のいわれ

 これについては、倭人が、北方系諸民族の、始祖伝承「天界降臨型」あるいは「天神降臨/天孫降臨型」とでもいうべき、伝承により、「天神」が降臨して、(おそらく大地母神の後身たる)「山神/地神」との間に「子」を作り、それが部族/氏族の始祖となるという神話に基付く「山岳信仰」で、「聖地」を「やま」といったか、あるいは神々と人界の「境界/峠」(「やま」の原義は「峠」?)を越える権能を持った氏族/部族の「国名(部族名)」から来たものでしょう。

 倭人が、半島南部に残した「弥烏邪馬国」や、魏志倭人伝の旁国の一つ「邪馬国」(私はこれを北九州にあったと考えています)、畿内の「邪馬台国」などに共通する「やま」は、この「神聖な部族」の領国/領域を表わしたものであり、「倭人諸国」に多い「〜奴(の)」国の「奴(の)」が、「野」(里とともに「山」に対比される)または「地(な)」を意味するのに対しています。

 前にも述べたように、「ひと(人)」に「部族」などの「から」と同様な意味があったとすれば、「○○ひと」は「○○族」を意味したと考えられます。
 そして、「はやひと」(早人)は縮約して、「ひ」fi<piが脱落し、「はやと」(隼人)という部族名が成立します。同様に、「やまひと」(山人)も「ひ」fi<piが脱落して、「やまと」(山族の意味)となった可能性があります。この「やまと」族という部族名がそのまま「国名化」したものが「邪馬台国」であった可能性もあります。

 「隼人」(敏捷な部族の意味か?あるいは、漢字のように、「隼」を部族の始祖伝承に持っていたのかもしれません)同様に、同じくその支配者に倭人の支配氏族/部族の血統を引く伝承を持つ集団(部族)に、「くまひと」(熊人?肥人;「天熊人」の子孫とか、クマノクスビ/熊野大神の子孫とかいう伝承を持つ集団で、おそらく「熊」のように獰猛勇敢という意味の「部族名」でしょう)があり、これに出自を持つと思われる「久米部」が「隼人」とともに、神武東征に従っているという伝承を重視すると、「高地性集落」の時代、東征した北九州勢力は、神武一族ではなく、「倭人」天孫族の中心部族群=物部を率いた別系の天孫族(穂積氏か尾張氏)かもしれません。


邪馬台国時代D「女王」の「共立」

「委奴国(倭奴国)王」「倭国王(倭面土国王?)帥升」の流れを汲む「倭国」の王として、「倭人28/29(重複する奴国を1と数えるか蚊2と数えるかで国数が変る)ヶ国」から、「共立」されたのが「倭女王」卑弥呼ですが、この「共立」は、先に述べたように「王」が自己/自族(王家)の血統原理にのっとって「自立」して「王位」につけない異常時に、有力者によって「王位」に「擁立〜推戴」されたことを意味します。

「卑弥呼」は、戸数七万戸の大国で、戸数の記載のある対馬/対海国から邪馬台国までの8ヶ国の合計十五万余戸の47%を占め、「遠絶」または「旁国」と称される「斯馬国」以下の20/21ヶ国及び「女王国」に属さない敵対的な「狗奴国」の人口、更に「女王国の東、海を渡ること千余里」にある「倭種」の国々などの戸数は記載がなく、また『魏略』にあるように「伊都国」の人口が千余戸ではなく「万余戸」であるとすれば、女王国連合を含めた「倭種」の国々の戸数、人口は、同じ『三国志』韓伝五十余国十万余戸、弁、辰韓24ヶ国の戸数4〜5万戸、で「三韓」合計約15万戸(半島南岸の倭人の国々はおそらく含まないでしょう)に比し、数倍の人口(150万〜200万人?)を有していると考えられます。

 さて、倭女王卑弥呼は、「邪馬台国」に都していますが、三国志のどこにも「邪馬台国王」であるとは、書かれていません。
あくまでも「卑弥呼」は、「邪馬台国王」「投馬国王」「奴国王」らによって「共立」された「倭王」であって、もし、卑弥呼が、同時に「邪馬台国女王」であれば、そのように「記載」されたと考えられます。また、このことが、後の「大和朝廷」の記録に「卑弥呼」が「君主」として現れない「理由」だったと思われます。即ち「邪馬台国王」にとっては、「卑弥呼」は、戦乱を収めるために、やむを得ず「共立した」一族の「祭祀を執り行っていた」巫女であって、卑弥呼は、基本的には「邪馬台国」の内政には、不干渉だったと思われます。邪馬台国の内政は、国王以下の王族と諸豪族が執政しており、その大官が、「伊支馬」以下の四職だったのでしょう。
 これに対し、卑弥呼の「属官」(共立諸国の合議により選ばれたものでしょう)は、皆「大夫」を称しており、この外、「伊都国」に駐留したと考えられる「大率」もしくは「一大率」があります。「伊都国」の内政自体は、「邪馬台国」同様、「伊都国王」および「爾支」以下の三職を中心とした伊都国支配階級の豪族によって、執政されていたと考えられます。

 さて、「倭国」の女王卑弥呼の執政は、各個の国に及ぶことはなく、ただ、外交やおそらく共通の敵(狗奴国?)に関する国防や交易の調整と倭人諸国共同の「祭祀」がその管掌するところだったと思われます。
 執政府は、文官(大夫)とおそらく武官の「大率」(これは「大帥」に音通し、同義とする説があり、そうすると「大帥」は複数存在し、その一人が、「伊都国」に置かれた「一大率」だったと考えられます)を中心とし、更に「王号」を得たことから、漢代以来の制度にならって「王府」を置き、その属官の形で諸役人を置いていた可能性があります。
 魏の制度では、「王府(公府も同じ)」には、「相」(定員1、五品、二千石)以下、「都尉」(定員1、以下定員のみ記す)、「傅」・「保」・「友」(各1)、「郎中令」・「中尉」・「大農」・「司馬」(各1)、「常侍」・「侍郎」(ともに不定)、「家令」(1)、「諸雑署令」(各1)、「謁者大夫」(1)、「諸署長」(各1)を置きます。

 勿論、独身の巫女であった卑弥呼の任命した官職はもっと少なかったでしょうが、光武帝に遣使された「倭奴国」の使者が自ら「大夫」を称したことから考えて、「倭」王の「淵源」は古く、史書に表れない「新」時代の封冊以来の伝統を継いでいるものと思われます。


邪馬台国時代E「伊都国」の立場

> 卑弥呼の「属官」(共立諸国の合議により選ばれたものでしょう)は、皆「大夫」を称しており、この外、「伊都国」に駐留したと考えられる「大率」もしくは「一大率」があります。「伊都国」の内政自体は、「邪馬台国」同様、「伊都国王」および「爾支」以下の三職を中心とした伊都国支配階級の豪族によって、執政されていたと考えられます。

さて「伊都国」については、後漢光武帝に朝貢した「倭奴国」(もしくは「委奴国」)であり、伊都国王はかつて「倭人諸国」を代表して後漢によって「倭奴国王」に任ぜられたという説もありましたが、これは「委奴」もしくは「倭奴」を「いと」と読んだことによるものであり、「委/倭」の音が「ゐ」wiで、「伊」の音が「い」iと考えられること方も、困難であり、なにより『後漢書』倭伝、『三国志(魏志)』倭人伝の双方が、否定しています。

 魏志倭人伝では、伊都国のところに、「世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。」とあります。この文を、「伊都国王が、女王国を統属する。」と読むへそ曲がりもいますが、「郡使往来常所在」がそうすると説明できません。これは、やはり、「伊都国王」が、代々、現在の「女王卑弥呼」の王家の属する「国王」(=倭国王帥升の王家歴代の王、「委奴国王」もその祖先であり、卑弥呼以外は、皆「邪馬台国王」若しくはその先行国家の王でしょう)に従っていたということを意味していると考えられます。
 更に、もし「漢倭奴国王」または「漢委奴国王」が、通説のように、「奴国」(博多)の王であったとすれば、郡使の往来は、直接「奴国」の港湾を利用することが考えられますので、後漢代の「楽浪郡」と往来していた「主体」は、「奴国」「伊都国」ではなかったということになります。
 しかし、大和の邪馬台国ではなく、北九州を含めた玄界灘に良港を有しない「国」(あるいは「国々」)が、後漢代に「伊都国」を交易中継点として使用した可能性もあり得ます。

伊都国に置かれ、諸国が憚った「一大率」は、倭人諸国を代表する「倭国王」やその連合体(祭祀同盟か、交易のための同盟)が、調整のために置いた官の後身であり、「倭国大乱」後は、「軍事的権限」も付与されていたため、近隣諸国はこれを警戒したものでしょう。

 尚、『後漢書』倭伝では、伊都国には触れていませんが、「大倭王は邪馬臺に居る」と書かれており、「奴国」や「伊都国」にはいません。



戻る