邪馬台国時代F黄龍2年(AD230)     

魏が、遼東の公孫氏を滅ぼして、魏・呉・蜀・燕(公孫氏)の「四国時代」から、名実ともに、魏・呉・蜀の「三国時代」になる(魏の)景初3年(AD239)の少し前の、呉の黄龍2年(AD230)、呉の皇帝孫権は、将軍衛温と諸葛直に命じて、兵1万を与えて、渡海して「夷洲」と「亶(たん)洲」を求めさせます。三国時代は動乱のため、人口の大激減時代であり、三国の人口は漢の盛時の「一郡にも及ばない」と言われた時代であり、北方の魏に比して、人口の少ない呉は、いわば、「人狩り」をして、人口を増加させ、国力の増大を計画したもので、その意気込みは、「一万」という大兵力に現れています。(赤壁の時の呉の兵力は3万と言われています)

 「亶(たん)洲」は、三国志呉書巻二呉主伝黄龍2年条によると、

大海の中にあって、老人達が言い伝えるところでは、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、童子と童女と数千人を引き連れて海を渡り、蓬莱の神山とそこの仙薬を捜させた時、徐福らはこの島に留まって帰ってこなかた。その子孫が代々伝わって数万戸にもなり、その洲に住む者が時々会稽にやって来て布を商ったり、会稽郡東部の諸県に住む者が、大風に遭って漂流し、亶洲に着く場合があるという。

 という怪しさ満点!の説明がついています(ちくま学芸文庫「正史三国志6」より)。
 結局、この洲は遥かな遠方にあって、衛温たちは捜し当てることが出来ず、ただ「夷洲」から数千人の住民をつれ帰っただけであった、という結末に至り、衛温と諸葛直(姓からして、諸葛謹の一族と思われ、つまり孔明の一族ということになります)の両将軍は、翌年下獄され、誅殺されます。

 その2年後、(呉の)嘉禾元年(AD232)3月、孫権は遼東に将軍周賀と校尉の裴潜を派遣しますが、同年9月魏の部将田豫が迎撃して周賀を成山で斬ります。その翌月の10月「魏」の遼東太守公孫淵が使者を派遣して、呉の藩国になりたいと伝え、貂(てん)の毛皮と馬を献上します。孫権は大喜びして、「使持節・督幽州・領青州牧・遼東太守・燕王」に任命します。
 あるいは、これは失敗したとはいえ、「夷洲・亶洲遠征」の効果が、遼東に伝わったためかも知れません。

 「夷洲」は、No.1095「倭人字セン(石専)」の項で論じたように、おそらく「東テイ(魚是)人」の本国とでもいうべき、九州中南部であったと思われます。東テイ(魚是)人も「倭種」であり、かつての倭国王帥升以下の「倭人諸国」の攻撃を受け、おそらく、一旦は倭人諸国連合体に組み込まれ、その「東征」に協力して、一部は近畿方面に遠征し、その後の「倭国大乱」により、再び「狗奴国」(おそらく紀伊半島の「熊野」地方から「吉野」あたりを中心とした「国」でしょう)を盟主として、「邪馬台国」連合と対立していたものでしょう。

 公孫淵はおそらく、倭人諸国に共立された女王「卑弥呼」の使者を受けたか、あるいは「韓族」の部族国家からの情報を得て、「呉」の水軍の遠洋航海能力(といっても遼東や朝鮮方面ですが)を確信したのでしょう。あるいは、邪馬台国が、おそらく公孫氏などに交通したのも、「呉」からの侵攻を恐れた可能性もあります。

邪馬台国時代G景初2年(AD238)6月    

>呉の黄龍2年(AD230)、呉の皇帝孫権は、将軍衛温と諸葛直に命じて、兵1万を与えて、渡海して「夷洲」と「亶(たん)洲」を求めさせます。

> その2年後、(呉の)嘉禾元年(AD232)3月、孫権は遼東に将軍周賀と校尉の裴潜を派遣しますが、同年9月魏の部将田豫が迎撃して周賀を成山で斬ります。その翌月の10月「魏」の遼東太守公孫淵が使者を派遣して、呉の藩国になりたいと伝え、貂(てん)の毛皮と馬を献上します。孫権は大喜びして、「使持節・督幽州・領青州牧・遼東太守・燕王」に任命します。

更に、(呉の)嘉禾2年(AD233)3月、孫権は太常(官職)の張弥、執金吾の許晏、将軍賀達らを使者として、兵1万を率いて財宝珍貨と九錫を公孫淵へ賜るべく、遼東へ派遣しますが、公孫淵は張弥らを斬って、その首を魏に送り、兵士と食糧を奪い取ります。孫権は大いに怒って、自ら軍を率いて、公孫淵を討とうとしますが、家臣たちの諫止に遭い、中止します。この時、張弥らが遼東に実際にどれくらいの兵力を率いていったかは、不明ですが、呉の使節団は高句麗王位宮とも接触しています。

魏の青龍4年(AD236)秋7月高句麗王位宮が、魏に呉の孫権の使者胡衛らの首を斬って届けています。
魏の景初元年(AD237)遂に公孫淵は、自立して「燕王」を称し、年号を立て、「紹漢元年」と称します。魏は、燕討伐のため、軍船の建造等の命令を出します。
翌景初2年(AD238)正月司馬懿(仲達)に公孫淵攻撃を命じます。
魏の遼東出兵という事態を受けて、高句麗(位宮は司馬仲達に援軍数千を送った)、倭、(夷洲も?)など、東夷の諸族/諸国は、国難にどう対処するか、それぞれ、対応を迫られたわけですが、以上のように、実際は、呉の黄龍2年(AD230)以来、この地方は、魏・呉・燕(公孫氏)の角逐の舞台だったのです。
これら東夷諸国の内、高句麗は、後漢の光武帝の八年(AD32)、倭は同じく光武帝の末年(AD57年)、それぞれ「王」に封じられています。

同年9月、司馬仲達は、公孫淵を遂に殺しますが、この年の6月、倭の女王卑弥呼の使者(太夫と自称)が、魏に生口10人を献上します。これについては、翌年の景初『3年』(AD239)の6月との説もありますが、どちらとも決め難いのですが、私は、AD230年(呉の黄龍2年)以来のこの地方の政治的状況を考える時、まだ合戦中の魏に使者を送った(生口10人も、単なる奴婢ではなく、何らかの技能を持っていた可能性もあります)と考えた方が良いように思えます。あるいは、倭の女王卑弥呼が、倭人諸国からの援兵の申し出をした可能性もあり、魏は黄龍2年以来の呉の動きを考え合わせて、卑弥呼の処遇を考え、これが「厚遇」につながり、「親魏倭王」の封冊にと至ったのかもしれません。

邪馬台国時代H景初2年(AD238年)12月  

> 景初2年(AD238)正月司馬懿(仲達)に公孫淵攻撃を命じ

> 同年9月、司馬仲達は、公孫淵を遂に殺しますが、この年の6月、倭の女王卑弥呼の使者(太夫と自称)が、魏に生口10人を献上します。

その年(景初2年)12月、魏の明帝曹叡は、詔書を出し、倭の女王卑弥呼を「親魏倭王」に任じて「金印紫綬」を与え、卑弥呼の使者太夫難升米を率善中郎将に、次使都市(これは官職か?)牛利率善校尉に、それぞれ任命して「銀印青綬」を与え、更に卑弥呼に銅鏡百枚を含む大量の下賜品も与えます。

この時の下賜品中では、「銅鏡百枚」が特に注目されていますが、下賜品目録の中では(王位と印綬は勿論別ですが)卑弥呼の献上物(生口10人と班布二匹二丈)に対するお返しとされた織物類を除くリストで下位に属します。
 即ち「紺地句文の錦三匹、細班華のケイ(毛織物?)五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠・鉛各五十斤」の順であり、銅鏡は「五尺刀二口」より下位の扱いです。
要するに、銅鏡百枚は、「倭人百余国」(この頃は倭国大乱により、滅んだ国もあるでしょうから、実数はもっと減少していたでしょう)に更に、卑弥呼から「下賜」して、「魏帝国」の冊封体制下に「倭国」が入っていることを、おそらく呉や、他の倭種の諸国に知らしめて、これらの倭種の国々が、卑弥呼の倭国や、あるいは魏に献見することを、狙ったものでしょう。

 この時の魏の待遇は、外臣の諸王に対するものとしては、最大級の厚遇であり、西方の大月氏に対するものとほぼ同じ扱いです。これをそれほどの厚遇ではないとする説もありますが、確かに中国国内の王(金属製の印ではなく、「玉」製の印を使用する)よりは下位ですが、そもそも三韓では、「王/公/侯」に封ぜられた者とてなく、高句麗王位宮は、正始年間、魏の追討対象となるなど、魏は、高句麗・三韓対策(や対呉政策上も)の上からも、切実に半島を中心とした諸郡の安定上からも、忠実・有力な協力者を求めていたと考えられ、これが倭国王(女王)に対する待遇に反映されていると考えられます。

邪馬台国時代I正始元(240)年 

魏の正始元年(AD240)、帯方郡太守弓遵は、建忠校尉梯シュン(イ雋)らを、倭国に派遣し、(先帝明帝曹叡の詔書に従って)詔書・印綬以下の下賜品を、送り届けます

 この時、使者が倭国(「女王国」/「邪馬台国」では無いことに注意)のどこまで行ったのかは、邪馬台国の所在論とも関係し、議論の多いところですが、おそらく「伊都国」止まりで、後は、卑弥呼の使者で魏より官職を与えられた率善中郎将「難升米」と率善校尉「牛利」(これで「都市牛利」の「都市」の部分は、「市」を管理するという「役職」であることが判明します)に託したものでしょう。

 また、ここで再録された魏の下賜品リストでも鏡は、下位(明帝の詔書の順番通りの記載ではないが、やはり最後の「采物」として一括されたものの直前に「鏡」と記載)で到底、魏・倭の交流史上、倭国側の最大関心事といった扱いではありません。
結局「鏡」は、現代日本人考古学者の「最大関心事(これを「好物」といっても良いでしょう)」だったということになるのではないでしょうか?

 倭王はこれに対し、使者に託して「上表」し、感謝の意を表わしています。上表文を郡に持ち帰ったのは、勿論建忠校尉梯シュンと考えられますが、彼が「倭都」や「邪馬台国」に至ったという記事が一切ありません。前の卑弥呼の生活ぶりの記載を見ても、彼女と会見することがあったとしたら、特筆されたと考えられます。

 正始四(243)年、再び「倭王」が遣使し、「倭錦」その他を献上します。この当時の日本には錦織がなかったとする説がありますが、「糸兼(けん、かとりぎぬ)」「綿衣」「帛布」などの織物類が丹・短弓/矢及び生口とともに献上され、括、麻・蚕・綿花などの栽培も記載されていますので、実際の生産量はともかくとして、倭国でも作られていたと考えられます。

 この正始四年の遣使で注目すべきは、大夫二人を含む8人の使者を送り、全員が「率善中郎将」に任命されていることです。先の難升米とあわせ、計九人の「率善中郎将」(と一名の率然校尉)という異例なほどの「軍官」(それも異民族の外臣に対しては高位)が任命されていることです、
 この任官は、倭国側の事情によるもの(共立諸国の軍事責任者を、横並びで「率善中郎将」に任命した?)の可能性がありますが、「倭王」を共立した倭人諸国」の「王」が、魏に冊封・叙任されていない場合、倭国内部の秩序を乱す可能性があり、従ってこれは、魏の側からのおそらく「半島」方面での何らかの軍事行動を企図しての、大量任官だったと思われます。
 尚、魏の官制では、「率善中郎将」は、常員なし、比二千石、降伏した蛮夷を管理することが任務とされ、四品の官です。

 正始六(245)年には、魏の斉王芳(明帝の後継者で当時の皇帝)は、詔して難升米に「黄ドウ(巾童)」を与えています(郡に託して送った)。前の正始四年の率善中郎将の大量任命とあわせ、矢張り魏が半島方面での軍事行動を倭国にさせるつもりだったと考えられます。

邪馬台国時代J正始8(247)年  

帯方郡太守として、魏は王キ(斤頁)が赴任します。彼は、戦死した前任の太守弓遵の後任です。弓遵の戦死の状況から、正始四(243)年の倭人の率善中郎将8名の任官と、正始六(245)年、先任の率善中郎将難升米に「黄ドウ(巾童)」(軍旗と考えて良いでしょう)がが授与されたのは、弓遵等の軍事行動を支援するようにとの、魏の意図が、窺えます。

 三国志魏書韓伝によれば、部従事の呉林は、楽浪郡が元々、韓国を統治していたことから、辰韓の8ヶ国を分割して、楽浪郡に編入しようと考えていましたが、配下の意見がまとまらない内に、臣智(韓族の首長の称号の一つ、「朱智」も同じ物を指すと考えられる)がその地の人々(辰韓の諸部族でしょう)を煽動して、帯方郡の崎離営(兵営の名?)に攻撃をかけ、帯方郡太守弓遵と楽浪郡太守劉茂は、韓族を征討しましたが、この戦いで帯方郡太守弓遵は戦死します。
 先の、魏帝の(斉王)曹芳が、倭国の9人の率善中郎将の最先任者の難升米に「黄ドウ(巾童)」を授けたのは、正始6(245)年のことであり、且つ、「郡(勿論、帯方郡です!)に託して仮授した」わけですから、この「黄ドウ(巾童)」を倭国に送付するよう命じられた帯方郡太守以下は、「軍旗」のみ渡して自分達だけで「辰韓諸国(諸部族)」と戦ったとも考えられません。当然、「倭国」の援兵を要求したはずです。

 おそらく、正始四年の率善中郎将8名の任官は、魏の部従事呉林らの献策で、辰韓12ヶ国のうち、大半の8ヶ国を楽浪郡に併合するため、韓族の諸国の背後の倭人諸国(半島内)の了解〜抑えを、倭人の利害を代表する倭王(この場合は女王ですが)に依頼し、且つ、軍事力の提供を求めた「対韓政策」の一環でしょう。公孫淵征伐時からの構想とは考えられませんが、魏の明帝曹叡による「親魏倭王」任命から、魏の「半島政策」の基本方針として、「以夷制夷」の方針が採られ、「韓族」という「近い『夷』」を、「遠方の『夷』」=「倭国」で制するため、倭に対し、厚遇が与えられたのでしょう。
 勿論、「倭」の魏の要求に応えられるだけの「実力」があったと魏は判断したからこそ、「親魏倭王」を与えたのでしょう。

 さて、帯方郡太守弓遵は、韓族との戦いで戦死しますが、二郡(楽浪郡と帯方郡)の兵は進んで「韓を滅ぼした」と記載されています。三韓全域が、魏の直轄領域に入ったとは考えられませんが、「韓」が滅んだという記事は無視できません。
 即ち、楽浪郡の併合対象だった辰韓の(12ヶ国中の)8ヶ国はこの時、自立した「部族国家」としての存在を一時的にでも、喪失したと考えるべきでしょう。

 この時、滅んだ辰韓の一国に「斯盧国」即ち後の「新羅」があったと考えることは、強ち、無理な想像ではないでしょう。
この事実を、朝鮮/韓国側の資料で探すことは困難ですが、後代の正史『三国史記』新羅本紀を読むと、新羅の王統が、交代したことが記されています。即ち、最初(おそらく韓族の)朴氏三代の後、四代目に倭人出自と考えられる「昔氏(積氏)」の脱解尼師今が即位しています。また、十二代(昔氏)テン解尼師今の3年(AD249)、倭人が王族の于老を殺した記事があり、一かた、日本書記の神功皇后紀には、例の「新羅征伐」の記事があります。降伏した新羅王が神功皇后に出した人質のミシコチハトリ(微叱己知波珍)干岐を逃そうとしたモマリシチら3人の新羅使者を、焼き殺した話と同一の説話に基付く可能性は、以前から指摘されていましたが、卑弥呼=神功皇后説を書記がほのめかしているのも、卑弥呼の時代に倭国が新羅などの辰韓8ヶ国を討ったという伝承があり、それと混同された可能性も、無きにしも在らずです。(昔于老、朴提上=モマリシチの話もいろいろ議論できそうです。)

さて、正始八(247)年、戦死した弓遵の後任として着任した王キ(斤頁)の下に、倭の女王卑弥呼の使者載斯烏越らが来たり、倭の女王卑弥呼と不和だった狗奴国の王卑弥弓呼の軍と倭国の軍との交戦を報告します。王キは、魏帝の詔書と「黄ドウ(巾童)」を使者張政に託し、難升米に「拝仮」させます。

 この時の、「詔書」「黄ドウ(巾童)」は、先の正始六年のものだと言う説が主流のようですが、三国志を見ると、正始六年のものについては、「其六年、詔賜倭難升米黄ドウ(巾童)、付郡仮授。」とあり、次いで正始八年の記事「其八年、王キ(斤頁)到官。」から始まり、「遣塞曹掾史張政等、因齎詔書・黄ドウ(巾童)、拝仮難升米、為檄告喩之。」で終わっており、これは、明らかに正始六年のものと異なっており、しかも、詔書も含め、難升米が、受取人となっており、いわば「倭王」を無視して直接取引きした形になっています。ありは、卑弥呼は既に死亡しており、魏の信頼厚い難升米を魏が、「倭王」に推そうとしたのかも知れません。

邪馬台国時代L台与(壹與)の時代

おそらく、正始八(247)年頃に死亡した倭国王である「女王」卑弥呼の死後、短かったと考えられる「男王」が「倭国王」として「自立」したものの、卑弥呼の女王共立に参加した倭人諸国の大半の支持を』得られず、激しい内乱が行われ(短期間でしょう)、結局倭人諸国は、卑弥呼の宗女で13歳の台与(壹與、臺與)を倭王(女王)として「共立」することにより、「国中津に定まる」ことになります。

卑弥呼の没年も不明確ですが、男王が退けられて、台与(この名や使用文字に諸説ありますが、ここでは「台与」と表現します)が共立された年代も不明確です。ただ、魏が、塞曹掾史張政に、台与に檄を以って告諭し、また、台与側も「太夫」の(正始四年=243年に任命された)率善中郎将掖邪狗等「二十人」を使者として派遣し、張政を送っています。この記事から見て、卑弥呼の死と台与の即位(共立)の間の期間は短く、「男王」の在位期間は殆ど無視できる程度の短期間(数ヶ月〜半年といった一年未満?)だった可能性もあります。

更に、新倭王台与の送った「使者」の「掖邪狗等二十人」です。この二十人を使者と随従のその部下と考えるのは困難であり、「正始四年」の使者「伊声耆・掖邪狗等八人」と同様、おそらくほぼ同格の「使者」が、既に魏に「率善中郎将」に任ぜられた「太夫」の掖邪狗も含めて、遣使されたということになります。
 正始四年には、使者八人全員が、「率善中郎将」に任命されていますから、倭の新女王らは、この二十人の使者のうち、既に任官済みの掖邪狗を除く他の19人の使者(倭国の「太夫」でしょう)が、魏によって「率善中郎将」か或いは「率善校尉」に任命されることを期待していたと考えられます。この使者二十人は、おそらく台与共立に功労のあった倭人諸国の代表者と考えられ、「男王」の「倭王即位」に反発したのが20ヶ国だったのかもしれません。
或いは、最初の率善中郎将難升米以降魏は9名の率善中郎将と、一名の率善校尉(牛利)を任命していますので、これに19名の使者(掖邪狗以外にも中郎将任官者がいた可能性もありますが)を加えると、合計29名の「比二千石」の高級武官ー率善中郎将と率善校尉ーの任官を、倭国としては期待したのかもしれません。
 女王卑弥呼に従った倭人諸国の「国数」は、「旁国(遠絶)20/21ヶ国」と、対海国〜邪馬台国の8ヶ国の合計28/29ヶ国になります。倭人諸国は、国の大小(千戸〜七万戸)にかかわらず、横並びに一国一人の「率善中郎将」を求めたのかも知れません。

もし、そのように考えると、倭の「太夫」は、倭王卑弥呼の「属官」というよりも、共立参加28/29ヶ国の代表者(国王ではなく)で、女王国の首都の邪馬台国に各国から派遣され、「合議」して倭国の国内調整に当たっていた存在だったのかも知れません。

台与の朝貢は、おそらく魏の(斉王)曹芳の在位中(在位239〜254)に在った筈ですが、三国志からは時日は不明で、次代の晋の武帝司馬炎の泰始二年(266)が、『晋書』に現れますが、以後、中国の史書への倭国の登場は「倭の五王」の時代まで待つことになります。

邪馬台国時代M倭国の習俗 
> 「国中津に定まる」

済みません。「国中遂に定まる」の誤植です。

さて、魏志倭人伝に見る倭国の習俗が、海南島に比せられるほど、著しく南方風であるという問題があり、これを「九州説」の根拠とする論者がありますが、女王国の都周辺の邪馬台国の習俗がこれほど南方風であるのが事実だとすれば、邪馬台国を北九州に求めることも、近畿説同様困難になると思われます。真夏の南九州あたりだと、何とか及第するかも知れません。

 この習俗記事の解釈として、私は

@倭種の中で、南方に分布している南九州の「夷洲」や、もっと南方の種子島あたりの「亶洲」あたりの記事が紛れ込んだ。

A会稽郡に献見していた「倭種」の「東テイ(魚是)人」の習俗や、航海にあたった倭国海洋民が、南方系の種族(越系)の習俗を伝えており、それを倭人全体のものと混同した。

B一部の論者の言うように、「呉」への牽制のため、呉の背後〜近隣に、魏の同盟国が存在すると宣伝した。

 などという解釈が考えられますが、先ずBについては、陳寿はすでに「呉」が滅亡してから、三国志を記述したということから、可能性はないと思われます。
 従って、@とAが考えられますが、他に、「倭人字セン(石専)」を考慮に入れれば、倭国大乱前後に会稽郡を頼って、中国大陸南部に亡命した倭人集団が、陳寿の時代に生き残っており、彼等が、自分達の祖先が越人の流れを汲むと言う伝承や、あるいは南方風習俗を持つことを陳寿に示したのかもしれません。

 この場合別の「魏書」を書いた王沈も、山西省出身で烏丸や鮮卑の情報に詳しく、鮮卑の「倭人国」情報を知りながら、大陸南方亡命の倭人(列島の倭人と同族であることは確実)と同じ種族か否か迷い、「倭人国」と書くべきところを変えて、「倭」と同音の「ウ(シ于)人国」と記載したのかも知れません。このあたりは、推測だらけで、きりがないので、終りにしたいと思います。

 邪馬台国時代が終われば、邪馬台国近畿説論者としては、国家形成論もほとんど終わったようなものですが、「補説」として、最近読んだ本などから刺激を受けて、以前論じたことを補ったり、若干修正したいことなどを、次回以降、暫く書き込みたいと思います。


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