補説:記紀神話 「天の石屋」について 1

(「邪馬台国の習俗」)の次の書き込みですが、補説よいうか、記紀神話の「天の石屋」(天の岩戸)について、kitunoさんのHPの掲示板に書き込んだのですが、そのHPが消滅したので、改めて書き込み、記紀神話が中国の商(殷)などの持つ神話に近い古層の面影を伝えており、決して天武天皇の時代に机上で、帰化人の史官などによって造作された(勿論、当時の「現代風解釈」は為されたでしょうが)ようなものではない事を主張したいと思います。

記紀神話といっても、日本書記は、「一書」などの異説が多く、どの説を採るかの検討がまず検証されなければならず、その作業にかかる時間を節約するため、ここでは「古事記」の神話・伝承に拠り、書記は用字の異同などの際に引用する程度に留めたいと思います。

さて、日本神話の特徴はいろいろありますが、

 @「人類」(ヒト)全体の起源について触れられていない。

 A天上世界と考えられる「高天原」と「葦原中国」以下の地上世界の関係が国土創生時、不明確であり、また天地の分離の次第や時期が不明である。

 B国土創生や山川草木の神の起源は記載されているが、「黄泉国」の起源説話や「根の堅洲国」の起源の記載もない。

 など「神話」とはいうものの、説明されずに「存在」しているものが極めて多いことが挙げられます。神話の体系としては、「欠陥」が著しく、記紀の神代については、どうも「氏族」(おそらく「部族」も)の始祖としての「神名」とその神の系譜にしか、関心がなかったのではないかと考えられます。

 更にいえば、「日月星辰」の起源説話もあるとは言えません。「三貴子」の誕生でも、別に天照大神が、「太陽神」であるとは明確には書かれていません。「高天原」を「分治」するよう命令されただけです。この神が「太陽神」とされることは、その意味では極めて不思議なことです。同じく三貴子のあとの二人の月読命が「夜の食す国」、須佐之男命が「海原」を与えられ、ギリシャ神話などのゼウス三兄弟の「天」「海」「冥界」の三分治などとの類似を見せる(冥界=黄泉の国は、すでに三貴子の母?の支配地で、分治の対象から外れていますが、これも日本神話の特徴かも知れません)ので、そのように解釈されてきたのでしょうが、結局日蝕現象の神話化とも考えられる「天の石屋」神話がなければ、天照大神を太陽神(日神)と考えることは極めて困難です。

 また@の「ヒト」の起源についての記載がないことについては、実はヒト以外の、獣・魚・植物などの起源も記されていません。「山」「海」「野」「草」の神(これらを「管掌する」神)の誕生記事はありますが、それらの神が、「山」「海」「野」「草」を創造した(生んだ)という記事もありません。

 要するに、古事記(書記も)の神代記事・神話というのは、徹底して「氏族始祖説話/伝承」が主体であり、「天の石屋」神話もその意味では、日蝕を題材にしているようで、実のところはこの神話と天孫降臨神話に登場する五部神などの神を始祖とする「氏族群」の、天皇家との関りの古さの主張のために、「たまたま」記録されたものと考えた方が良いのかもしれません。

補説:記紀神話 「天の石屋」について 2

>  要するに、古事記(書記も)の神代記事・神話というのは、徹底して「氏族始祖説話/伝承」が主体であり、「天の石屋」神話もその意味では、日蝕を題材にしているようで、実のところはこの神話と天孫降臨神話に登場する五部神などの神を始祖とする「氏族群」の、天皇家との関りの古さの主張のために、「たまたま」記録されたものと考えた方が良いのかもしれません。

そのように記紀の編者〜著者の立場を捉えると、実は日本書記の神代篇の「一書記事」の多さは、編纂者の歴史家としての「客観性」を示すものではなく、実は、(おそらく中国系帰化人が主であったろう)「史官」の、「日本神話」全体に対する「無関心さ」の表れであり、氏族の始祖伝承が洩れている/自氏族の伝承と異なっていることに対して、血相を変えて抗議してくる倭人諸氏族関係者に対して、「ああ、そうですか。それじゃあ、お宅の氏族の伝承を一応記録しておきますが、他の氏族が別なことを主張しているので、それと並べて、〈一書に曰く、云々〉で書いておきますから。」といううんざりしたような中国系帰化人史官の返答が聞こえてくるような気がします。また、当時の倭人(日本人)諸氏族に比し、中国系帰化人系諸氏は、日本古代神話にその出自を求めることも困難であり、そもそも、日本神話の体系など信じていなかったと考えられます。

 日本書記がそのような態度で編纂されたとすると、古事記はどのような態度で編纂されたかという問題が残ります。ここで、「古事記偽書説」が思い浮かびます。実際、江戸時代に至るまで、『先代旧事本紀』の方が、『古事記』より尊ばれていたことはよく知られています。
 しかし、後代では記載できない「甲乙八母音」の使い分けなど、少なくとも「上代日本語」で八母音が使用されていた時代の伝承であることは間違いありません。日本書記のおおくの「一書」から合成したものというよりは、「多氏」あるいは「猿女君」?(稗田阿礼の氏族??)などの特定の氏族の「書」乃至「語り」に基付いたものであり、その意味では、いわゆる「物部氏」や「尾張氏」などの諸氏族の主張を述べた『先代旧事本紀』や、斎部(忌部)氏の氏族的主張である『古語拾遺』に近い性格の書であり、その成立がこれらの二書より古かったと考えたいと思います。(天武天皇が実際に成立に関与したかは、なんとも言えませんが、「多氏」が神八井耳命以来、「忌人」として祭祀に関ったという伝承が事実であったとすれば、その可能性は有り得たでしょう。)

 しかし、現代の我々の手元にある神話〜古代の伝承は、他には偽造〜粉飾を受けたいわゆる「古史古伝」や「神社の縁起」類しか手に入りません。このあたりの資料を使用するのは、篇密な資料/史料批判が必要であり、素人の我々には、現実には困難です。従って、成立の古い『先代旧事本紀』や『古語拾遺』までが、許容範囲ということで、「一書」間の異同を余り考えずに済む『古事記』神話を主に、論を進めたいと思います(極めて便宜主義的ですが)。

補説:記紀神話「天の石屋」について 3

さて、「天の岩戸(岩屋、石屋)神話」に初めて接した現代日本人は、まずこの神話が「日蝕」という自然現象の古代人の解釈ではないかという思いが浮かぶでしょう。この自然現象の説明としての「神話化」は、原始諸民族でも良く観察されることであり、この日本神話にもその要素があることは勿論ですが、古事記神話として、ほとんど登場人物(登場神格)の同一である「天孫降臨」という極めて政治的とも捉えられる神話と一連であることを考える時、その間に挟まれた「国譲り神話」をも含めたいわば「神話的史実〜歴史観」の解釈が為されていることに気付かされます。即ち、「神話(的伝承)」「氏族始祖伝承」を撚り合わせた「古代人(おそらく記紀編纂時期の時代をかなり古く遡る時代の)による歴史記録」としての読み取りが必要であり、この「補説」全体は、そのためのものです。

もう一つ、神話に詳しい現代人ならば、この「天の石屋」神話に、大陸や、東北アジアに広がる「射日神話」の影響を読み取ることも可能でしょう。「射日神話」とは、複数ある太陽を、(毎日一つずつ昇って交代するはずの太陽が、いっぺんにたくさん出てきて地上を焦がし、その暑さにたまりかねて)英雄が、太陽を射落とし、一個に減らす、というものであり、更に東北アジアや中国では、地上に落ちた「太陽」の正体が「三本足のカラス(烏)」だったというものです。

この射日神話から読み取れるもう一つの事実は、「太陽神(日神)」は、天上(を含めた全世界)の最高神ではないということです。日本神話でも「三貴子」ではありますが、「高木の神」(タカミムスビ)を始めとする「ムスビ(産生)の神」や、「天の御中主」よりも「下位」の神格であり、しかし、列島において尊崇される最大の(神話的)根拠は「皇祖神」であり、且つその天孫が「神勅」により、「葦原中国」の支配権を与えられたということに尽きます。

さて、本当に「天の石屋神話」が射日神話と関係しているかを、判断する時、まず「英雄的射手」の候補を探す必要がありますが、これが「スサノヲ」(須佐之男)であることは、どなたも異論のないところでしょう。
古事記の「うけひ(宇気比)」のあとのスサノヲの乱暴行為(「天津罪」?)は、「田の畦を壊し、その溝を埋め、祭殿に糞を撒き散らす」といった農耕(稲作農耕とははっきり記載からは読み取れず、雑穀農耕時代の、狩猟民と農耕民のいさかいの神話化のようにも解釈できます)や祭祀の妨害・破壊行為があっても、アマテラスはこれを赦しますが、古事記によると、アマテラスが「忌服屋(いみはたや)」に坐して「神御衣(かむみそ)」を織らしめているときに、「天の斑馬を逆剥ぎ」した死骸?をこの建物に放り込んで、「天服織女(アマノハトリメ)」は「梭(ひ、機織の際に機の横糸を通すための舟形の道具)に陰上(ほと)を衝きて」死にます。

さて、この「アマノハトリメ」は、アマテラス自身が「天服屋」に入って機織をした/させたわけですから、アマテラス大神かその同格の「太陽神(日神)」である可能性が高いと考えられます。ここで、「梭(ひ)」fiは、「ひ甲類」の音(「火」は「ひ乙類」)であり、「日」「氷」の「ひ」と同音です。
更に『先代旧事本紀』によれば、「一書(あるふみ)」によれば死んだ織女の名を「稚日姫(ワカヒヒメ)尊」と記し、「天照大神の妹なり」としています。
また、『日本書記』の本文では、「ひ(梭)」で怪我をしたのはアマテラス自身だと記載されています。

以上の記載より、「射日」されたかどうかは別として「日神」が、「舟形」の「道具」によって「死傷」したという伝承があり、この「舟形の道具」が「弓を引き絞った形」を暗喩しているのか、或いは日本神話では、「弓矢」でなく「銅鉾」のような武器に変っていたのかは不明ですが、記紀神話に出てこない「アマテラスの妹」=別な日神が殺されたことが、神話の原形だった可能性が十分に示されたと思います。

 更に、引き続いてこの神話に直接続く筈の、登場人物(神格)が共通する「天孫降臨神話」の前に、「スサノヲ」の地上追放とその子孫による国土開発の営為が描かれ、更に「国譲り」の話が記載されている理由も、この「天の石屋神話」の段の「スサノヲによる日神の殺害」伝承と本来、関っていると解釈されることにより、整合性の取れた話となります、
即ち、「スサノヲ」とその子孫(オホクニヌシを含む一族)は、「高天原」(もしくは「アメ国」)で犯した重罪の「償い」として、「太陽神」の子孫たる「天孫氏族」に対し、いわば「奴婢」として従わざるを得ない「罪」を犯したわけであり、これこそが、本来の「アマツツミ」であったのでしょう。
倭人は北方から来た狩猟・漁撈・雑穀農耕などを生業とした諸部族の連合体だったと考えられますが、後代のモンゴル族の説話にもあるように、各部族間のルール「与えた損害(罪?)の償い」に、ある氏族や部族の一部または全部が被害氏族/部族や被害者個人の「奴婢」の身分に落とされることがあるからです。
モンゴル部では、チンギズ汗の祖先が、ジャライア部族に殺された償いとして、ジャライア(ジャライル)部族の一部が、世襲的にキャン氏(キャト氏、チンギズ汗の所属した氏族)の支配下にあったことが知られています(この間、他のジャライア部族は勿論独立した部族として行動しています)。
おそらく、いわゆる出雲族(の一部)は、神話的に、天孫族の「隷臣」として、天孫族と古い関係を持っていたと思われます。

補説:記紀神話「天の石屋」について 4

もう少し、「天孫降臨神話」以前の話を続けたいと思います。

アマテラスとスサノヲの「宇気比」に際し、生まれた男神五柱の子孫が「天孫諸氏族」の祖として、まず「氏族始祖伝承/説話」として記録されます。ここで、女神三柱についてその子孫は「天孫」ではないことに注意が必要です。天孫族を含む「倭人集団」が、おそらく当初は「父系制氏族」制度を持ち、「(父母)双系的」でないことを表わしていると考えられるからです。

更に、古事記に「子孫氏族」の記載のない「男神」についても、本当にその後裔氏族が存在しなかったのか、留意する必要があります。
私は、「熊野久須毘」(クマノクスビ)と「活津日子根」(イクツヒコネ)の子孫を称する氏族も当然存在したと考えています。

クマノクスビの子孫としては、おそらく「熊野の高倉下(タカクラジ)」の子孫たる「尾張氏」が考えられますが、穂積/物部氏系譜に後に組み込まれたのでしょう。
イクツヒコネの後裔集団は不明ですが、きっと存在したと考えられます。

更に「宇気比」の際に、「六柱」の男神が生まれたとする『日本書記』の「第三の一書」や『先代旧事本紀』の記録があり、神名は「ヒノハヤヒ」で、序列は、クマノクスビの前の第5番目となります。この神の後裔氏族もはっきりしませんが、「ミカヤヒ」「ニギハヤヒ」といった古い「日神」の名(速日)と共通しており、「ニギハヤヒ」の父として、「ニギ」に注目して「天忍穂耳(忍骨?=忍穂根??)」の子とするよりも、「ハヤヒ」に注目して「ヒノハヤヒ」を選ぶべきではないかとも思われます。

即ち、天照大神の子として、

1)アメノオシホミミーーーホノニニギ  (天皇氏)
2)アメノホヒ   −−−タケヒラトリ  (出雲国造等)
3)アマツヒコネ  −−−(凡河内国造等)
4)イクツヒコネ  −−−?
5)ヒノハヤヒ   −−−ニギハヤヒ   (穂積氏、物部氏)
6)クマノクスビ  −−−アマノカゴヤマ? (尾張氏)

という系譜が本来あったと思われます。(カゴヤマの代わりにホアカリを入れろことも可能ですが、神名としては、ニニギの子の世代のホデリ、ホスセリ、ホヲリと同世代としたいところです)

また、『先代旧事本紀』にある保食神説話にでてくる「天熊人」という天神は、神話的な「くまひと(肥人)」の祖であり、クマノクスビの後裔に従ったという伝承があったのかもしれません。


補説:記紀神話「天の石屋」について5〜7まで

さて、前置きが長くなりましたが、「天の石屋」神話の解釈に遷りたいと思います。

この神話の登場人物(神)は、後の天孫降臨神話に登場する「五部神」(五つの伴の緒)と「思金命」「天手力男命」を含み、10神ほどです(ただし、私は「鳥」まで数え込みますのでこれを除くと九神です)。また、神名よりこの神話に本来登場していたと思われる「天石門別神」(櫛岩窓神、豊岩窓神)の名は、「天孫降臨神話」には見えますが、「天石屋神話」には見えません。この点からも、記紀神話が、「神話」としての一貫性よりも「氏族始祖伝承」に関る伝承を採録したものだという推測が裏付けられます。

さて、『古事記』の天石屋神話を小学館版に従って、記載します

(天照大神が岩戸隠れして葦原中国が暗闇となり、悪神万妖が満ちた後)
是を以ちて、八百万の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、@高御産巣日神の子、A思金神に思はしめて、常世のB長鳴鳥を集め、鳴かしめて、天の安の河の河上の天の堅石(かたしは)を取り、天の金山の鉄(くろがね)を取りて、鍛人(かぬち)のC天津麻羅を求めて、D伊斯許理度売(いしこりどめ)命に科(おほ)せ、鏡を作らしめ、E玉祖(たまのおや)命に科せ、八尺(やさか)の勾玉(*玉の字は代用)の五百津(いほつ)の御須麻流之珠(みすまるのたま)を作らしめて、F天児屋命・G布刀玉命を召して、天の香山(かぐやま)の真男鹿(まをしか)の肩を内(うつ)抜きに抜きて、天の香山の天之波々迦(あまのははか)を取りて、占合(うらな)ひまかなはしめて、天の香山の五百津真賢木(まさかき)を、根こじにこじて、上つ枝に八尺の勾玉(*)の五百津の御須麻流之玉を取り著(つ9け、中つ枝に八尺の鏡を取り著け、下つ枝に白丹生手(にきて)・青丹生手を取り垂(し)でて、此の種々の物は、布刀玉命、ふと御幣(みてぐら)と取り持ちて、天児屋命、ふと詔戸(のりと)言祷(ことほ)ぎ白(まお)して、H天手力男神、戸の掖(わき)に隠り立ちて、I天宇受売(あめのうずめ)命、手次(たすき)に天の香山の天の日影を繋(か)けて、天の真析(まさき)をカズラ(糸曼)と為て、手草に天の香山の小竹(ささ)の葉を結ひて、天の石屋の戸にうけを伏せて、踏みとどろこし、神懸り為て、胸乳を掛き出だし、裳(も)の緒をほとに忍し垂りき。(以下、略)

以上の文中の@〜Iの10人(神)が、「天の石屋」神話の段の登場人物(神)ということになります(ただし天照大神を除く)。

> (天照大神が岩戸隠れして葦原中国が暗闇となり、悪神万妖が満ちた後)
> 是を以ちて、八百万の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、@高御産巣日神の子、A思金神に思はしめて、常世のB長鳴鳥を集め、鳴かしめて、天の安の河の河上の天の堅石(かたしは)を取り、天の金山の鉄(くろがね)を取りて、鍛人(かぬち)のC天津麻羅を求めて、D伊斯許理度売(いしこりどめ)命に科(おほ)せ、鏡を作らしめ、E玉祖(たまのおや)命に科せ、八尺(やさか)の勾玉(*玉の字は代用)の五百津(いほつ)の御須麻流之珠(みすまるのたま)を作らしめて、F天児屋命・G布刀玉命を召して、天の香山(かぐやま)の真男鹿(まをしか)の肩を内(うつ)抜きに抜きて、天の香山の天之波々迦(あまのははか)を取りて、占合(うらな)ひまかなはしめて、天の香山の五百津真賢木(まさかき)を、根こじにこじて、上つ枝に八尺の勾玉(*)の五百津の御須麻流之玉を取り著(つ9け、中つ枝に八尺の鏡を取り著け、下つ枝に白丹生手(にきて)・青丹生手を取り垂(し)でて、此の種々の物は、布刀玉命、ふと御幣(みてぐら)と取り持ちて、天児屋命、ふと詔戸(のりと)言祷(ことほ)ぎ白(まお)して、H天手力男神、戸の掖(わき)に隠り立ちて、I天宇受売(あめのうずめ)命、手次(たすき)に天の香山の天の日影を繋(か)けて、天の真析(まさき)をカズラ(糸曼)と為て、手草に天の香山の小竹(ささ)の葉を結ひて、天の石屋の戸にうけを伏せて、踏みとどろこし、神懸り為て、胸乳を掛き出だし、裳(も)の緒をほとに忍し垂りき。(以下、略)

この段の登場神格/人物/動物には、@〜Iの番号を付しました。これらが、4〜5グループに分かれることが、その尊号(「神」「命」「尊号なし」「動物」)に注目することにより、わかります。

第一グループ:@タカミムスビAオモヒカネHアマノタヂカラオ

 この三神は、尊号に「神」が付されています。後段の天孫降臨とあわせ、Jアマノイワトワケ(天石門別神)も同じ立場の神(別天神)として、AタカミムスビとB別天神三神に分かち、
Aは、地上と無関係な「天上の神々」、かつ、その名からして「創世」に関る「主神」格の神であり、Bの三神との「神格」の違いは明白です。また、このグループの神は古事記では「後裔氏族」の名が無く、「始祖神」としての性格は次のBグループと比して、感じられません。ただし、『先代旧事本紀』では、オモヒカネ神の後裔を称する氏族(信濃国に天降ります阿智祝部「あちのはふりべ」)がありますが、この系譜の信頼性は低いと思われます。

第二グループ:DイシコリドメEタマノオヤFアマノコヤネGフトタマIアマノウズメ

この五人(神)は、いわゆる「五の伴の緒」(五部神)であり、尊号は「命」(みこと)であち、先のAグループの「神(かみ)」とは異なり、氏族始祖としての性格が強く出ており、天孫降臨神話の段で、取ってつけたように「名」の出る大伴氏の祖「天忍日命」、久米氏の祖「天津久米命」とは異なり、本来の「天石屋ー(国譲り)−天孫降臨神話」の構成要素だったと思われます。

第三グループ:Cアマツマラ

この天津麻羅には、『先代旧事本紀』では、「五部人」として物部造らが、また梶取りとして阿刀造が、挙げられていますが、古事記の子の段では全く後裔氏族の名は出ず、従って「氏族始祖伝承」の一環として名がでたものではなく、本来の「天石屋神話(説話〜伝承)」にその名があったと考えて良いでしょう。

さらに「鍛人(かぬち)」とあり、これは『先代旧事本紀』の記載「五部人」と併せ考えると、「高天原」(古事記)または「アメ/アマ(天)国」(アマの方が古形だと思いますので、「アマ」国として以後、アメではなくアマを使用します)は、「神」の他に使役される「人」が居住していたことがわかります。
即ち、「高天原」あるいは「アマ国」を「天上」に求め、「地上」と対比する考えは、後世の考えであり、いわば「伝承の合理的解釈としての神話化」が行われたものであり、本来、「天石屋〜天孫降臨」神話は、、「アマ」国から、「葦原中国」への民族移動を反映したものとして、読み取るのが正しいと思われます。

また、「アマ国」(古事記の「高天原」の表現は、既に伝承を歴史として読み取るというよりも「神話化」の方向に進んだものと思われ、おそらく「アマ国」を海外の地に求めるべきだと思われます)には、「命」の尊号で呼ばれ後代の有力氏族の始祖とされる「支配氏族」集団と、「人」と称される被支配者集団(これも氏族構成を成していた様にも思われますが、神話からは読み取れません)の二層に分れていたことが、わかります。

第四(三は誤記)グループ:B(常世の)長鳴鳥

これは、「鳥」であり、「人」でもありませんが、後段の「国譲り神話」に出て来る「雉」名は「鳴女(なきめ)」との関係で、これも実は何かの氏族なり、人の階級なりを表わしている可能性を考えたからです。

本来の神話の体系で、「動物始祖神話」のようなものが、北方系諸民族にあり、「くま」「とり(雉、烏など)」「狼」といった動物の始祖神話の名残りではないかと思い、九神・人とともに挙げました。

もし私の考えが正しいとすれば、

「狼」   天孫族の始祖
「熊」   天孫族に従う「アマノクマヒト(天熊人)」の親?
      「肥人(くまひと)」の祖?
「鳥」(隼/雉/烏/鴨)
      天孫族に従う「はやひと(早人/隼人)」の始祖
      即ち隼人族の祖
    尚、鴨氏など、氏族始祖伝承に本来、「鴨」を奉じていたのかも知れません。

 まあ、この第四グループは、冗談とでもお考え下さい。
しかし、「アマ国」において、「神」の尊号を持つ本来の支配階級氏族の「神々」と、「命」の尊号で呼ばれる支配氏族群の始祖と、「尊号のない」「人」である被支配階級(氏族?)の始祖の三者が、厳然と区別されていることは、読み取れると思います。

> (天照大神が岩戸隠れして葦原中国が暗闇となり、悪神万妖が満ちた後)
> 是を以ちて、八百万の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、@高御産巣日神の子、A思金神に思はしめて、常世のB長鳴鳥を集め、鳴かしめて、天の安の河の河上の天の堅石(かたしは)を取り、天の金山の鉄(くろがね)を取りて、鍛人(かぬち)のC天津麻羅を求めて、D伊斯許理度売(いしこりどめ)命に科(おほ)せ、鏡を作らしめ、E玉祖(たまのおや)命に科せ、八尺(やさか)の勾玉(*玉の字は代用)の五百津(いほつ)の御須麻流之珠(みすまるのたま)を作らしめて、F天児屋命・G布刀玉命を召して、天の香山(かぐやま)の真男鹿(まをしか)の肩を内(うつ)抜きに抜きて、天の香山の天之波々迦(あまのははか)を取りて、占合(うらな)ひまかなはしめて、天の香山の五百津真賢木(まさかき)を、根こじにこじて、上つ枝に八尺の勾玉(*)の五百津の御須麻流之玉を取り著(つ)け、中つ枝に八尺の鏡を取り著け、下つ枝に白丹生手(にきて)・青丹生手を取り垂(し)でて、此の種々の物は、布刀玉命、ふと御幣(みてぐら)と取り持ちて、天児屋命、ふと詔戸(のりと)言祷(ことほ)ぎ白(まお)して、H天手力男神、戸の掖(わき)に隠り立ちて、I天宇受売(あめのうずめ)命、手次(たすき)に天の香山の天の日影を繋(か)けて、天の真析(まさき)をカズラ(糸曼)と為て、手草に天の香山の小竹(ささ)の葉を結ひて、天の石屋の戸にうけを伏せて、踏みとどろこし、神懸り為て、胸乳を掛き出だし、裳(も)の緒をほとに忍し垂りき。(以下、略)

さて、「天の石屋」神話に登場する「五部神」(五の伴の緒)の性格について考えたいと思います。
この「五部神」は、「五」氏族の始祖伝承であることから、扶余系諸民族の「五部」と同じ性格のものではないかと考えられ、「騎馬民族説」の根拠の一つにも挙げられてきました。

しかし、仔細にこの神話を検討すると、高句麗の支配階級を構成した「五部」や、同じく百済の統治システムの「五部五方」とは全く、異なったものであることがわかります。

まず、扶余系諸族の元である「扶余」は、本来、ツングース語の「鹿」を意味する語彙であったと考えられる「ブヨ」buyoの「音」を写したものと考えられ、「扶余族」とは「鹿族」を意味したと考えられることは、白鳥庫吉氏や、村山七郎氏らの論考にある如く明らかです。
また、「扶余」は「六畜」の名を以って「官名」を定めたとされ、「東明始祖伝説」を王家や建国の伝承として持っています。「六畜」の名を付した官名としては、「馬加」「牛加」「狗加」「猪(実際は異体字)加」があり、「五部」の相当する官制や「五方」についての官職や行政区画の記事はありません。「扶余伝」は、『後漢書』『三国志』『晋書』の三史にしか見えませんが、高句麗・百済や後代の渤海などの諸種族・諸国家の原型と考えられるため、その記述は無視できません。扶余は、西晋の初期に鮮卑慕容部(後の前燕)に滅ぼされ、咸鏡道方面に「東扶余」を建国しますが、「高句麗」好太王に滅ぼされます。

次に、高句麗は、支配組織として「五部」を持ちますが、この「五部」は、「方角」をあらわす「東西南北内」または「左右前後中」の「五方」を表わしたものであり、王族(王を出す氏族、本来一氏族であったのか、五氏族の連合体だったのかは不明)の「区分」から出発したものであることは明らかです。
これが日本の「五部神」の「五部」とは全く無関係であることは明白でしょう。

最後に「百済」の五部五方ですが、これは、中国史書では、王都(畿内)や地方の行政組織として表れますが、本来は支配階級氏族(百済の支配民族の扶余系の王族か貴族?)の何らかの氏族制度であったと思われます。

これらに対し、この「天の石屋」神話に登場する「五の伴の緒」「五部神」の性格は、まさに、天孫族8倭人支配氏族)の「祭祀」に伴う「呪器」「祭器」の製作や準備、祭儀に預かる「神職/神官」としての役目そのものであり、しかも「祭祀(祭儀)」の「主催者」ではなく、その「補助者」であることは明白です。少なくとも「大祭司」とか「神官長」といったものではなく、そのような最高級神官(祭司)に仕える立場であることは明白です。彼等が仕えた大祭司を出した氏族こそ「天孫」を称した氏族だったと思われます。そして、これら「五の伴の緒」の後裔氏族は、その始祖伝承を「記紀」に記録することに誇りを持っていたと思われ、それは、記紀編纂時の有力氏族の「中臣氏/藤原氏」においても同じだったのです。

まず五部神の最初に名の上がるDのイシコリドメは、「作鏡連」の祖(女性の名のようですが)ですが、おそらく重要な祭器である「青銅器」の製作を担当していた氏族の始祖伝承を伝えたものでしょう。

次のEタマノオヤは、「玉祖連」の始祖であり、宮中祭祀に用いる「玉器類」の製作にあたる「玉造部」の統括氏族の祖ですが、本来、商/殷以降中原王朝が、威信財として「玉」を重んじたことは、有名であり、「金銀」より貴重な威信財として、広く東夷にも伝わったものであり、騎馬遊牧民族の重視した「黄金」ではなく、「玉」がここに登場していることは、日本の支配者の天皇氏族の出自が、「騎馬民族」の系統ではなく、「東夷」系民族の出自である傍証の一つとなるでしょう。

次のFアメノコヤネとGフトタマの両名は、どうもその分担がはっきりしません。しかし、彼等の管掌した神事の内、「祭器」製作に関る部分は良く見ると、

T)鹿卜に関る部分(「鹿の肩甲骨」を「神聖な山」から手に入れて神聖な燃料など「聖別された」物を用いて「卜」に供する。

U)「丹生手」やおそらく「御幣(みてぐら)」を製作して、真サカキに懸ける

V)「ノリト(祝詞)」(呪言)を挙げて言ほぐ。

という三つの行為に分析できます。この内、V)は、祭祀の最高責任者(祭司/大祭司)の職責でしょうから、おそらくT)とU)を、この二部神が分掌したと考えられます。
神名の順序と名から見て、中臣連の祖Fアメノコヤネが「鹿卜」を、忌部首の祖のGフトタマが「丹生手」「御幣」などの「布帛」を用いた祭器の製作にあたったと考えられます。

この段落で「亀卜」ではなく、「鹿卜」を行ったことは、この天孫族集団が基本的に「海洋民」ではなく、「山岳祭祀」を行う北方系の民族であること、且つ、「牛を殺してその蹄で吉凶を占う」とされた「扶余」とも異なっています。

最後に、舞踊を行ったIのアメノウズメの役目は、はっきりしませんが、単なる巫女で「舞い」をする職掌ではないことは、その「ストリップ」ぶりで明らかですが、後段の「天孫降臨」の段で、天孫降臨の前に「道を遮る」塞(さヘ)の大神「サルタヒコ」似たいし、真っ先に対応し(軍事氏族の大伴氏や久米氏の祖神より先です!)、これを懐柔します。この段の記述より、ウズメが、商/殷の船倉に際し、まず陣前にでて敵兵を呪詛し、その戦意を削ぎ、戦傷に導く「媚蠱(びこ)」の術を用いる「媚女」であることがわかります。
商/殷以外に、東夷でこのような先方や呪術を用いた民族は、先ずないと思われ、この典から「猿女君」の祖ウズメのような媚女を「直属の神官/巫女」集団として抱え込む「天孫族」=倭人の支配者集団の出自が、殷/商などと共通の祭祀/習俗を持つ東夷の古い祭祀を行う集団であることが判明します。

このような中国の正史などにも載らない様な古代の殷・東夷の習俗を伝える記紀神話の「天の石屋」「天孫降臨」(それにおそらくこの両神話に挟まれた「国譲り神話」も)は、7〜8世紀の中国人帰化系氏族出身の史官の机上の創作でないことは明らかです。


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