漢民族の形成の問題

弥生時代の開始前後の倭人の移住について触れる前に中国大陸で主役を演ずることになる「漢民族(夏人)」が何時、どのように形成されたかが重要な問題として存在しますが、私には手に余る問題です。

しかし日本人の起源について論ずる時、触れずに済ませられる問題ではありませんので、一応現時点での考えを述べさせていただきます。

学生時代に読んだ本の印象で、暫くは5千年前に黄河流域がほとんど無人となり、その後南北より後の中原と称される地域やその東西に移住が行われ、漢民族が形成されたと大雑把にかんがえていたのですが、その場合南北いずれが優位であったかについては、当時の漢語の起源論から「シナ・タイ語族」が存在し、謂わば「原タイ語」の所有者が長江流域下流から北上して淮河流域に達し、更に北上して中原に入り伝説的な「夏」を建国し、「漢民族」の形成の契機となり、その後「東夷」に「北狄」の混じた「殷」(衣、商)が東方から中原を征し、「漢語」が成立し、後に西方から「周」及び同盟の「羌」族が「殷」を征し、その結果(羌はチベット系ですから)「漢字」の一部を正方系のチベット語系言語で「訓」読みし、この結果周以降の「漢語」の語彙が本来のタイ系に近い語彙とチベット系に近い語彙が混在し、「漢語(中国語)」が「シナ・チベット語族」と見做されるような変化を受けたというように考えていました。

また「狄」はチュルク(トルコ)の音訳でT*R*K(*は母音が入る)の音で子音Rが弱化してT*Kの形となったもので、突厥同様の音訳であり、鉄勒はT*R*k、丁零はT*R*で語尾のKの弱化であると考えていました。勿論この説(狄のトルコ起源説)には先人がいますが、いわば民族・種族・部族名が長期的に「保存」されやすいという私の考え方(偏見?)はどうもこの頃に強くインプットされたようです。

南蛮の「蛮」は基本的に苗族を中心とした南方系の諸民族で一部南島語族やオーストロアジア語族系(ヴェトナム人の祖やモン・クメール語話者を含む)も含めた総称であろう(西戎は勿論チベット・ビルマ語族の特にチベット系諸民族を指す)と考えていました。

東夷は勿論満洲・ツングース語群、韓民族、日本民族の祖先だと考えていました。

その後形質人類学・遺伝学の進歩により「漢民族」の形成をもっと北方系及び西方系の要素を中心に考えるべきだと思うようになっていますが、まだ中国の人類学的・遺伝学的データが少なく考えをまとめられない状態が続いています。

特に長江文明を黄河文明の先行と考えるべきか、mtDNAのデータなどから考えられるように、白人を含む西方系の集団の東進(北のモンゴリアを経由して南下する可能性と甘粛・陝西と直進する場合が考えられます)を「漢民族・黄河文明」形成の主役と考えるべきか迷っています。遺伝学的には羌族の太公望呂尚はどうも白人の血が濃かったようですが。

漢民族形成の詳細なストーリーはさて置き、4000年前の寒冷期にユーラシア大陸の東西で、長江・インダス・先史ヨーロッパの巨石文明を滅ぼす民族大移動が起ります。

これは気候の寒冷化・乾燥化を契機として「印欧語族」の大移動(第1次移動)で、印欧語族はヨーロッパ、メソポタミア、インドに現れ、ほぼ時を同じくして「漢民族」も黄河流域に現れます。(「環境考古学のすすめ」安田喜憲、丸善ライブラリー349;「環境と文明の世界史」石弘之+安田喜憲+湯浅赳男、洋泉社)

大三元さんからはヨーロッパなどで起ったことがアジアでも起るはずという考えは・・・というご批判を受けそうですが、気候の変動という共通点から反応の違いはあるとしても洋の東西でほぼ同時的になんらかの広い意味での共通現象が起ると考えて良いのではないかというのが私の昔からの考えで、安田氏の「環境考古学」などの提示にすぐ飛びついたということになります。

印欧語族が黒海周辺よりの中央アジア西部を原郷地として拡散・移動を開始したとすれば、中央アジア東部アラル海周辺からイリ盆地あたりから漢民族が同じ頃東方へ移動を開始したという話が整合性がありそうなのですが、むしろアルタイ語群、とりわけチュルク語派の原郷をこのあたりに比定し漢民族もしくはその前身の一部(周?羌?チベット・ビルマ語族?)はもっと東の甘粛あたりが考えやすいかもしれません。

尚、最近安田氏の一派(だと思いますが)の研究では、どうも日本(を含む東北アジア?)では寒冷期がユーラシアの大部分に比し、300年くらい速く始まり、終わるのはやはり数百年遅いという記事を新聞で読みましたが、詳細不明で私の誤読の可能性もあります。


民族あるいは言語群の形成

5000年前に始まったユーラシア大陸の乾燥・寒冷化が動因となって4000年前の、

ユーラシア西部の「印欧語族のヨーロッパ・中東・インド」への侵入と、

ユーラシア東部の「黄河流域への漢民族の進出と(夏・)殷の建国」

が起こりますが、勿論印欧語族と漢民族の形成以外に他の言語集団ー語族といっても良いでしょうーもこの5000〜4000年前に形成されたと考えられます。

西シベリアからサヤン山脈の北あたりが原郷と考えられる

「ウラル語族」(フィン・ウゴール語派とサモエード語派)、

アルタイ山脈から大興安嶺あたりに原郷地が比定されるいわゆる「アルタイ語族(ウラル語族程成立が定説化されてはいませんのでアルタイ諸言語という表現で、チュルク・モンゴル・ツングース3言語群と朝鮮語を含む)」

の他に陝西〜甘粛あたりの「チベット・ビルマ語族」は比較的異論はなさそうです。

おそらく東シベリアから満洲東部、樺太、沿海州の古シベリア語族(古アジア語族)これは雑多で到底一つの語族として扱うのは困難です。

他にミャオ(苗)・ヤオ系がチベット・ビルマ語族の東方、陝西省あたりに、長江下流域あたりにタイ系の諸民族が形成されたと思われます。

あるいはタイ系はもっと北におり、長江中下流域にはオーストロネシア(南島)語族やオーストロアジア語族(モン・クメール語群、ヴェト・ムオン語群など)が居住・形成されつつあったと考えるべきかも知れません。

漢民族の最初の言語「原初漢語」が何処で形成されたかが問題となります。

前項「漢民族の形成」でも検討しましたように、

河南省(後の中原)で商業ネットワークの共通語としていわゆる「夏人」によって使用され、中原に入った「商(殷)」に継承された(この場合商は東夷の一派であったか?

あるいはチュルク系か不明)と考えるか、「夏」を過大評価せず、「殷」こそが「漢語」を中原にもたらしたか?

に、ついてですが、当面「夏」民族が黄河中下流域の原住民で後の「タイ」族(チアン、プーイー、カム、スイなどの諸族も含む)の祖たる「原タイ族」に極めて近い集団で、中原に進出(というよりも中原の原住民?)し交通の要衝を占めたことから四周のチベット、ミャオ・タオ、チュルク、殷などの語彙も吸収して「原初漢語」(夏語?)を形成したと考えたいと思います(作業仮説ということで、もう少しデータが揃えば当然代わります)。

モンゴリア(蒙古高原)から満洲西部のかけてのアルタイ諸言語群の中に日本語の祖語が形成されたのもこの前30〜20世紀(5000年前=4000年前)の間であり、

現存のアルタイ諸言語のチュルク、モンゴル、ツングース、朝鮮四語群とは別個の言語の一つ(失われたアルタイ系の言語が他にも存在した可能性があります)として存在したと考えられ、おそらく遼寧省の「紅山文化」圏内で成立した可能性が高いと思います。

前20世紀から前16世紀頃にかけての北方諸民族の南下運動で、

@河南省を中心とした中原地域は山西省か河北省あたりから南下(河北省からこうが下流域に入り西進して中原に侵入したか、山西方面より直接中原に入ったかは不明)にて中原に入った殷民族が夏の故地に「商」を建国しますが、

A同じころ河北省・山東省から淮河流域は東夷諸民族の九夷と呼ばれる諸集団が入り、

B一方陝西より南下したミャオ・ヤオ系諸部族は黄河中流からその南方に移住し、

C甘粛から陝西にかけて形成された?チベット・ビルマ語族は南下して四川省に、西進してチベットに東進して陝西から山西・河南に拡がり、「夏」の流れを汲む「周」民族とも混交します。

このチベット系の移動にはさらに西北方からのコーカソイド(印欧語族?)からの圧力がかかっていたと考えるべきでおそらくチベット・ビルマ系の諸部族の一部は印欧語族〜コーカソイド系の支配下に入っていた可能性があり、ロロ族やキョウ(?)族が問題となるでしょう。

元来黄河中下流域から淮河あたりにかけて居住していたタイ系の集団は押されて南下し長江中下流域に移住し、

長江中下流域にいた南島語族やオーストロアジア語族の諸集団も更に南下し、

ついに東南アジアに姿を現し、

一部は先住のオーストラリア・メラネシア系の残存者と混血します。

尚モンゴロイド(シベリアからモンゴリアで形成された)の南下は少なくとも15000〜20000年前に開始されたと思いますが、「語族」の形成は5〜6000年前と考えられ、「南島」「南アジア」語族の東南アジアへの南下開始はその頃と一応考えています。タイ、ミャオ・ヤオ、チベット・ビルマ語族の南下は殷や東夷諸民族の南下と同じく4000年くらい前ではないかと思っています。

日本語の祖語集団、即ち後の倭人は九夷の一派と考えられますが、諸民族とともに南下した集団なのか、内蒙古・西満洲・蒙古高原東部あたりに残ったのかは困難ですが、私はこの時は(前20世紀ころから夏殷交替までの時期)は移動しなかった可能性が高いように思います。

遼河流域に倭人が居住していたか?

「後漢書烏丸鮮卑列伝」に、有名な「倭人国」の記事があります。

即ち、鮮卑を統一した英雄「檀石槐」が、増加した部衆の食糧難を解決するために、後漢の光和元年(AD178)頃、東方の「倭人国」を討って、「倭人」1000余家を得て、これを遼河の支流「烏侯秦水」(老叭河とされる)の沿岸に移して、網漁をさせたというものです。

この記事を信頼すれば、「倭人」と称される集団が、明らかに、後漢に朝貢した日本列島の倭人諸国の他に、鮮卑の領域に存在したことを示しています。即ち「北方遼河周辺の倭人の存在」を疑うことはできず、「倭人江南出自説」を唱える論者には、

@長江流域の倭人の一部が移動して遼河流域にいた、

A列島の倭人が、満洲方面に移住し、鮮卑と接触した、

B「倭人」というのは、単一の民族集団を指すものではなく、出自の異なる「倭人」と称される集団があちこちにいた、

C中国の史書は全く信用できない、

という四つの選択肢のどれかを採らざるを得ません。

勿論、「魏志(三国志)鮮卑伝」では「倭人」ではなく、「汗人」になっているので、

D「倭人」ではまく「汗人」の誤記である。

という選択肢も残っています。

以上の五つの選択肢の内、Cについては、「魏志倭人伝」なども否定せねばならず、日本の古代史像の組み立てにも支障が生じ、且つこのような議論自体、無意味ということになりますから、採用するわけには行きません。

Dの「汗人」説については、三国志の裴松之注に引用された『魏書』(王沈)の記事です。後漢書の范曄よりも、三国志の陳寿の記載の方に信憑性が高いとする論者は多いですが、この「汗人」「汗国」記事は陳寿の記載したものではなく、後漢書の完成より3年前に記載された「注」の記事です。范曄が「裴注」を見た可能性は少ないと思いますが、王沈の『魏書』か「裴松之注三国志」、あるいは『魏略』など他の記録の何れかは見ていたでしょうから、その原文に「倭」でないとすれば 

?

(文字化けする可能性がありますが、例の「サンズイに于」の字です。「汚」の正字とされていますが、以後「水于」と表現させていただきます)

と記載されていたことは、間違いないと思われます。

王沈の『魏書』にはその当時(王沈の生存時)「今に至るも」「水于」人数百戸が、烏侯秦水のほとりに住む旨の記載もありますので、後漢代から晋代まで「『水于』人」〜「倭人」の一支が遼河流域に居住していたという事実を知らせてくれます。

王沈の『魏書』は魚拳の『魏略』と並んで信用ならない「史書」の代表として『史通』に酷評されている(ちくま学芸文庫版「正史三国志」C解説p499、今鷹真氏)ことを考えれば、范曄の「後漢書」の記事をとるべきでしょう。即ち、檀石槐が征した部族の名称は史書にはっきりと「倭」と記載されていたのを、范曄が見たままを記載したか、あるいは「水于」と記載してあったのを「倭」と訂正したか、(あるいは両方ともあったのかも?)の何れかであったと思われます。


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