余談

いよいよHLAハプロタイプと民族移動を絡ませて、弥生時代開始前の倭人などの列島移住についての仮説を提示する(これまでのあちこちの書き込みから察しておられるかも?)ことになりますが、その前に、余談ですが、私が「人骨」のデータを軽視してHLAを重視するようになったことについての弁明をお聞き下さい。全くの余談ですので、興味がなければ、飛ばしてください。

私は昔、安田徳太郎氏の「万葉集の謎」などの、いわゆる「レプチャ語説」に、中学生時代に接して以来、日本人・日本語の起源に興味を持ち、マスコミで話題になった本については、いわゆる「トンデモ本」以外は目を通してきました(ただし金と時間の関係で立ち読みで一読しただけの場合が結構多いです)。

医学部進学後は、当然人類学や遺伝学的データに留意するようになりましたが、どうも「古人骨」による形質人類学的データの信頼性に疑問を持つようになり、同じ頃読んだタキトゥス「ゲルマーニア」、ユリウス・カエサル「ガリア戦記」、ヘロドトス「歴史」(大分後にタキトゥス「編年史(時史)」、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」なども)の影響もあり、結局、最初考えていた『日本人は、縄文時代からずっと日本語を話し、渡来人の影響はほとんどない』という説は、成立しないと考えるようになりました。

以後は、「何時の時代に、如何なる民族集団が、どのような形質と文化を持って、列島に入って、後世にどのような影響を与えたか」についてを、自分なりに文献、考古学、民俗学などの先学者の論議を参考に、自然(形質)人類学・遺伝学のデータと組み合わせていろいろなストーリーを考えました。

それらからもっとも正しいと思われる仮説を立て、新しいデータ(遺伝学・人類学など)や他分野(考古学、文献史学、言語学など)の専門家の新説が出る度に、そのデータや新説が正しいと思えない時は別として、修正してきました。

別に専門家ではないし、学会に発表するわけでもないし、決定的と思われるような基礎データなどもないように思えたのでいわば「シミュレーションゲーム」を楽しんでいたわけです。

しかし、自然(形質)人類学上、当初極めて重要と考えられた「古人骨」などの形態学的研究については、違和感があり、30年程前には、骨などの形態は環境要因の影響が大きく、起源論には無力(下手に使うと有害)だと結論するに至り、以後は血液型、耳垢型、諸種の酵素型などの遺伝的形質に重点を置いていました。

ですが、なかなか民族や人種の移動の良い指標(トレーサー、追跡子)として使用できる形質はありませんでした。

尚、人骨の計測データ(長頭、中頭、短頭などや身長など、顎なども形態など)が遺伝とは関係のないものが多く環境の影響を受けやすいことは昭和30年代の欧米の本(たしかクセジュ文庫??)などではっきり書いてありましたが、日本の人類学関係の本では余り素人にわかりやすい書き方はしておらず、この点で骨を扱う形態学者に不信感を持たざるを得なかったのです。

卒後、学位を免疫学関係で取得(医師は大部分が取得します)したのですが、研究室に入ってごそごそ研究を開始した頃が、丁度免疫学の発展期であり、パラダイム・シフトが起こる時代でした。

そのころリンパ球に、T細胞とB細胞の2種類があることが、(ニワトリとマウスでは証明されていました)ヒトでも言われだしたのですが、当初は我々は半信半疑でした。

T細胞は当時ヒツジ赤血球(SRBC)を、ヒト末梢血リンパ球に付着させ、4個以上付着したリンパ球をT細胞(Tリンパ球)とするというものです。

何故4個以上がT細胞で3個以下がT細胞でないかの合理的説明はわかりませんでした(勿論5個以上付着したものがT細胞で4個以下がB細胞ではいけないのか?ということも)。

更にスウェーデンのカロリンスカ大学の隣り合わせの研究室から別々に日本にほぼ同様のSRBCロゼット形成法によるT細胞分離が日本に入ったのですが、一方の方法ではT細胞が70%、もう一つでは30%という成績が得られるといった状況でした。

そこで私は、ヒトのリンパ球にはT,Bの区別は実際には明瞭にないのではないかとも考えたのですが、勿論厳然と存在しました。

大局的に考えれば、「鳥類」である「ニワトリ」と「哺乳類」である「マウス」で存在が確定している「T,B細胞」の区別が、「哺乳類」の一部である「ヒト」に存在しないことは考えられません。

しかし「目先」の手技やデータにこだわっていると「大局」(全体像)が見え難くなることもあるということを、この経験は私に教えてくれました。
以後、私は日本人の起源を考える時、必ず人類全体、世界史・東洋史全体の流れとの整合性が取れるか否かをチェックし、且つどうしても流れと合わないと考えられる文献や考古学、人類学的資料などがあれば、そのデータや資料が正確か、あるいは研究者が(データは正しいが解釈などで)視野狭窄に陥ってないか検討しています。

ですが、近年の藤村新一氏の「旧石器捏造」や、現世人類の起源の「アフリカ単一起源説」が正しいと考えられるのにアジアでの「二地域進化説」などは、明らかにおかしいと考えられました。

同じように弥生時代開始前後の民族移動を検討すると、殷周革命前後がその基点と考えざるを得ないのですが、「弥生時代」の開始期が遅すぎるという問題があり、前10世紀、最大限タイムラグを見込んでも2〜300年内の前7〜8世紀には列島内での弥生時代が開始されたと推測せざるを得なかったのですが、幸いにも一気に弥生時代が前10世紀に溯る可能性が示され、倭人を含む東アジアの民族移動については本来の説に戻してもよさそうです。

弥生時代の始期が前10世紀以前に溯るだけでなく、古墳時代の始まりも卑弥呼の死亡前後、つまり「邪馬台国の時代」に、届くことになりそうですが、卑弥呼以前に「男王」がいたことも記録されていますから、ひょっとして古墳時代がこの「男王」の時代、さらには「倭国王帥升」の時代、あるいは「漢委奴国王」の時代にまで溯る可能性についても検討が必要になってきました。

「漢委奴国王」印については「かんのわのなの」国王よりも、「新匈奴単于章」に準じて「委奴」が「倭人」そのものを指す可能性のもう一度考慮する必要がありそうです。


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