「倭」の名はいつ生じたか?

甲骨文や金文に「倭」の文字は現れないので、「倭」という文字がいつ生じたかは、古代中国人(この場合「夏」人という用語で殷・周代、あるいは殷=商の前代の原初漢語の話者も含めて、使用しますが、要するに、「漢字」を使用・作字した漢民族の古代の祖先のことと思ってください)が、いつごろ「日本人」の祖先集団を認識したかに、つながる重要な問題ですが、今のところ、結論の出ない問題です。

また、「倭」という字のできる前に、
どこでどのような特徴を持った集団として、「倭人」を夏人が、記載したのか、
あるいは「倭」「倭人」という語彙が生じた後に、
@ある種の特性(背が低い、従順である、あるいは水稲耕作に伴った豊作祈願の歌舞を行う風習がある、漁撈に長けているなど)を持った集団の一つとして、後の魏志倭人伝の「倭人」の祖を「倭人」と命名したのか、
Aその民族の、種族名(自称か、夏人以外の周辺諸民族によりすでに命名されていた)ないしは「一人称複数形」といった部族名・種族名になりやすい語彙が、「倭」と音通したので、夏人が、彼ら(魏志倭人伝の倭人の祖)を「倭人」と命名したのか、
は不明ですが、私は、「倭人」の祖は北方にいて、九夷の一派として、古くから「商」民族(殷人)に知られていたと考えますので、「倭人」「倭」との種族名の成立前に、別な名で、夏人に知られており、後にその種族名を表わす字として前記Aの理由が主で、「倭」字が宛てられた(あるいは「倭」字がそのために作られた)と考えます。

「倭」「倭人」が、何時ごろから、日本列島の住民を指すようになったかについては、一般に「弥生人」のことだと考えられていますが、「日本の古代1倭人の登場」(森浩一編、中央公論社、昭和60年11月)の中で、森氏は、「ある時期からの縄文人を中国人たちは倭人とよびだしたとみられる」(p10)と書いていますが、弥生時代の開始が「前10世紀」に溯るとするこの間のAMS法の成果発表を踏まえると、多分、同氏も「縄文人説」は撤回されるのではないでしょうか?

さて「倭人北方起源説」に対して、「倭人」が南方に(も)いたという論者は、魏志倭人伝の南方風風俗の他に、文献上、王充の「論衡」の例の「周」(成王)時の「越常(越裳)」が白雉を献じ、「倭人」が「暢草」を献じた記事(儒増篇、恢国篇、異虚篇)をあげますが、これについては、越常(百越の一派で、漢代にはヴェトナムに比定される)の近くの「鬱林」郡あたりと考えられる「鬱人」が暢草を献じたという記録もあり、「鬱」と「倭」の音の近さから、「鬱」の代わり」に「倭」を使用した可能性があり、原資料では「倭人」ではなかったと考えた方がよいでしょう。暢草は鬱林あたりの産で、列島や北方の産物ではありませんから。

文献上、「倭」の初出については、はっきりしませんが、春秋時代の「魯」国(山東省の河南省寄り)の君主宣公倭の「名」として出るのと詩(経)、小雅の「周道倭遅」ですが、後者についても問題があるようで、宣公の「名」用にわざわざ「倭」字を作ったとも考えられない(後代、則天武后が専用の文字を作ったりしましたが)ので、どうも「倭」字は、「倭人」「倭族」あるいは「倭国」を表わすために作られたと考えて良いと思われます。
この場合、「倭」に先行する種族名を表わす文字は「委」であろうことは、現に後代の「漢委奴国王」印で倭=委と通用していることや、「倭」の発音が「委」に随う(同一)とされることで、十分でしょう。

補足、三国史記高句麗本紀の「倭山」他

後代に成立した文献(AD1145年成立、日本書記に遅れること400年以上)なので、「倭」「倭人」記事に富む「新羅本紀」を含む隣国朝鮮の正史「三国史記」には、触れなかったのですが、その「高句麗本紀」に「倭山」記事があります。倭人北方起源説の補強史料として、挙げておきます。
 
「三国史記・高句麗本紀」第三の第六代大祖大王(三国史記での在位年代AD53−146)諱(いみな)宮、幼名於漱(おそう)、の

80年(AD132)秋7月、弟の遂成(後の、第7代次大王)が、『倭山』(未詳)で田猟し、近臣たちと宴会し、この時に貫那部の弥儒、桓那部(桂婁部のことか?)の於(くさかんむりが付く)支流、沸流那の陽神らの家臣に謀叛をすすめられています。

また同94年(AD146)秋7月、遂成は「倭山」で田猟し、家臣と謀叛を謀り、これに反対した家臣の一人を口封じのため殺しています。

高句麗本紀では宮、遂成、伯古(新大王)の3人を兄弟としていますが、親子関係で三代を直系相続とする中国史書(後漢書高句麗伝)もあります。また「後漢書」高句麗伝で「宮」の年代は、後漢の安帝の建光元年(AD121)死亡とされていますので、高句麗本紀の記事とずれていますが、この頃から高句麗は歴史時代に入っています。

この『倭山』の場所は未詳ですが、後代の記録とはいえ、後漢末の実在の高句麗の王族の謀叛記事に絡み、この地名が二度も現れたのは、無視できません。高句麗が部族国家から征服国家(東沃祖などの征服、扶余族の葛思王の投降記事、漢の遼東、玄菟郡などへの侵攻など)、古代国家への成長を遂げたのは実にこの「宮」の時代で彼は別名「国祖王」とも呼ばれています。

この時代の高句麗の領域は主に満洲方面と考えられ、「倭山」もこの方面にあったと思われます。東胡の後身「鮮卑」「烏丸」が、それぞれ、「鮮卑山」「烏丸山」に拠ったことから、その名が起こったとされ、また「扶余」も「鹿山」から起こったとされる(扶余はおそらくブユbuyuの音を写したもので、ブユはツングース語の鹿の意味だと解釈されます。白鳥庫吉、村山七郎氏らの説)ことから類推すると、「倭人」も「倭山」近辺より勃興したと考えられることは、間違いありません。

あと、これは中国の「晋書」の記事で、倭の五王の朝貢の最初ともされる晋安帝の義熙9年(AD413)に高句麗と倭国の東晋への朝貢です。
これについては高句麗王が叙爵されているのに対し、倭王には一切官位等が与えられていないこと
、又、倭の献上したものが、「貂皮(テンの皮)・人参」という高句麗の特産品(この時高句麗はシャ「赤者」白馬を献上した)だったことから、
坂元義種氏の説(「倭の五王・空白の五世紀」教育社、昭和56年9月、第一章東晋交渉の謎、p33−73)に従って、この「倭国の使者は「倭讃」のものではなく、高句麗の陰謀だと考えたいと思います。
坂元氏は、AD400前後は、高句麗広開土王が、倭と激しく戦った時代(AD407年歩騎5万を派遣して大戦果を挙げていますので、この時得た倭人の捕虜を「倭国使」に仕立てあげたと考えていますが、私としては、先の「王沈」の「魏書」にある「ウ人」=倭人(今=晋の時代に至るも数百家が烏侯秦水のほとりに住む)か、あるいは高句麗領内の倭山周辺に残存していた「倭人国」の倭人を、「倭国」の使者とした(当時の高句麗王は広開土王の次代長寿王)可能性も考えたいところです。


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