倭人の言語@日朝両語の関係など

@ハプロタイプHLA−A24−B52−DRB1*1502(DR15)

 本土日本人で最多の頻度8,6%、(沖縄人 1,5%、 アイヌ人 1,0%、 韓国人 1,4%、 中国朝鮮族 2,2%)で、外蒙古(モンゴル共和国)にも、分布するとされるこのハプロタイプを日本にもたらした集団こそ、中国・朝鮮の史書に「倭人」として現われ、また自らも「倭国」と称した日本列島の(少なくとも西南部の)主流民族だったと、考えられます。

この集団が、列島に発生し、列島外に移住して半島や満洲、蒙古に拡散したと考えることは、形質人類学や考古学上、きわめて困難せあり、現在の分布と頻度から推定される限りでは、満洲西部・内蒙古〜東蒙古・朝鮮半島北部に、移動・拡散の中心を想定せざるを得ません。

以下、このハプロタイプに代表される集団「倭人」の、列島移住までの状況を推論してみます。まず言語、特に朝鮮語との関係について。

この「倭人」集団は、アルタイ諸言語の一つを話していたと考えられますが、現存する他のアルタイ諸言語ーチュルク・モンゴル・ツングース三言語群と、韓国朝鮮語ーと、比較言語学的方法によって、学会で広く認められた同系の言語が存在しないことから考えて、その他のアルタイ語との分岐は、通常の比較言語学で証明可能であろうとされる年代(4〜5、000年)以前に分岐したと思われます。
日本の言語学者服部四郎は、日本語と隣接し、歴史的にももっとも関係が深いとされる朝鮮語との分岐年代を、(日朝両語が同系だとして)4530〜6470年前と推定しました(水深測量という慎重な表現で)。

この服部説も特に強い根拠があるようには見えませんが、その後の日朝両語同系論者には、議論の叩き台というか、基準を提供したようにも思え、よく引用されます。ただ村山七郎氏のように「混成語説」を唱える人は、余り論議の対象にしないようです。

日本語の祖語と考えられる倭人が遼河流域や鴨緑江周辺にいたとすると、当然朝鮮語や、満州語(ツングース語系)、モンゴル語などとの同祖関係が問題になります。日本語が、その文法構造や音節・音韻の多くの特徴の点で、アルタイ諸言語に類似し、その一つと見做され得ることには、ほとんどの言語学者が認めています。

服部氏以外に日朝両語同系論を唱える人で、その分岐年代に触れた学者としては、韓国の李男徳氏がいますが、服部氏の論を引用した上で、服部氏の4530年前分岐は、両言語が分岐後独立して発達した場合の数字で、6470年前分岐というのは分岐後も影響(李氏はどうも一方的に朝鮮語が日本語に影響を与え続けたと考えているようですが)が続いた場合の数字と捉え、日朝両言語の分岐は6470年前に近いと判断しています。(「韓国語と日本語の起源」学生社、昭和63年6月、p37)

また、金芳漢氏は、古地名の研究から、韓半島の古地名は韓半島の言語が「アルタイ語化」された状態をしめすと同時に、ある不明の言語の基層があったと主張し、「原始韓半島語」をその基層語とし、この原始韓半島語が、韓半島全域、または中部と南部に亘って分布していたと結論しています。その論拠として三国史記地理誌から抽出される(いわゆる「高句麗地名」)言語には、二つの言語層があり、1つはアルタイ語系の言語層であり、もう一つは*mir「3」、*uc「5」、*nanin(iの上の点は2個)「7」、*t・逆e・k「10」のような数詞体系を持つ、ある不明の基層の言語であり、この言語を「原始韓半島語」と命名しています。別に金芳漢氏は、韓国語に古アジア語の一つである「ギリヤーク語」の要素を認めこれらは単純な借用語とは考え難く、韓国語の基層言語即ち「原始韓半島語」はこの(ギリヤーク語類似の)「古アズア語」と関連していると推測しています。ところで、この金芳漢氏の「原始韓半島語」の数詞が日本語の数詞が日本語のそれに類似しており、それについて同氏は、「古代韓半島から言語の波が継続的に日本に流入しが、この原始韓半島語は早く消滅したが、日本語及び韓国語の形成過程において多少吸収されたであろう」としています。同氏は「韓国語」は、「原始韓半島語」の基層の上に、ツングース語に近いアルタイ語が被覆して形成されたと考えているようですが、日本語を韓国語から分岐したと言語と考えるよりも、基礎語彙である数詞の類似を考慮するとむしろ同氏の説く「原始韓半島語」が、日本語祖語である可能性が高いと思われます。尚、ギリヤーク語や他の古アジア諸語の数詞体系の日本語の一致が報告されていない以上、「原始韓半島語」は、韓国語の中に発見される「ギリヤーク語類似」の語彙を持つ「古アジア語」の一種と、「倭人語」(あるいは原倭人語?)の二言語に分けて考え、前者(古アジア語系)の層を代表するハプロタイプが、BのA24−B7−DRB1*0101(韓族のハプロはAA33−B44−DRB1*1302)であると考えた方が良いと思われます。(金氏の説は「日本語の系統・基本論文集T」和泉書院刊、昭和60年、p166−178、「韓国語の系統」による)

上記の金芳漢氏の論じた「三国史記地理誌」の所謂『高句麗地名』を、同氏のように、「アルタイ系(ツングース語類似〜韓国語)」と「原始韓半島語」の二層に分けて解釈せず、全て「一つ」の言語、即ち「高句麗語」であると解釈したのが、「李基文」氏です。この高句麗地名を一言語であると解釈すると、この言語は@(復元された)80語ほどの高句麗語(即ち扶余系言語)の語彙の約30語が日本語と、また同じ位の語彙が韓国語と関係付けられる(類似している)。日本語・韓国語双方が類似しているものもあるので重複してカンントされている語彙もある。A満州語などツングース語に類似している語彙も15〜20語ある。従ってB日本語は、扶余語または高句麗語の系統に属し、韓国語と扶余語も同祖関係にある。
という結論が導かれることになります。
ところで、「高句麗」は、「扶余系」であり、一般に満州族の祖か、少なくとも扶余はツングース系であるとされていますから、この復元された「高句麗語」なるものを信用すると、「扶余」をツングース系とすると、現在の満州語やツングース系諸言語よりも、この「高句麗語」は、「韓国語(朝鮮語)」に近いということになります。この矛盾を解決するためには、扶余族はツングース系ではなく、「朝鮮民族」だという主張が出て来、盲目的愛国主義者?が多い韓国・北朝鮮では、高句麗も渤海も「朝鮮民族」の国家で、三国時代の後は「新羅・渤海」の「南北朝時代」だなどという話になりますが、満洲全域に拡がっていた「扶余」や「高句麗」が、もし韓族と同系であったとすると満洲の主要言語がその後、ツングース語に取り替えられたことになり、一大矛盾が発生します。

要するにいわゆる「高句麗地名」を一言語即ち「扶余系高句麗語」としたことに、最大の矛盾があり、この80語ほどの「地名より復元された言葉」は、@満洲語・ツングース語に類似した語彙は、本来のツングース系扶余族の言語、即ち「高句麗(支配階級)語」、A韓国朝鮮語に類似した語彙は、本来の韓族の言語(高句麗の半島北部の被支配者の言語)、B日本語に類似した語彙は日本語(先住の倭人の残した地名を後に到来し支配者となった高句麗領内に残った地名)、という解釈がもっとも矛盾がないと思われます。

倭人の言語A一部訂正他

ところで、この金芳漢氏の「原始韓半島語」の数詞が日本語の数詞が日本語のそれに類似しており、

(訂正)→ところで、この金芳漢氏の「原始韓半島語」の数詞が、日本語の数詞3(みつ)、5(いつ)(または「い」)、7(なな)、10(とを)に類似しており、        

「李基文」氏の説は、「日本語の系統」(現代のエスプリ別冊、昭和55年6月15日発行、編集大野晋、至文堂)収載の「高句麗の言語とその特徴」(p81−108)に主によります。   

要するにいわゆる「高句麗地名」を一言語即ち「扶余系高句麗語」としたことに、最大の矛盾があり、この80語ほどの「地名より復元された言葉」は、@満洲語・ツングース語に類似した語彙は、本来のツングース系扶余族の言語、即ち「高句麗(支配階級)語」、A韓国朝鮮語に類似した語彙は、本来の韓族の言語(高句麗の半島北部の被支配者の言語)、B日本語に類似した語彙は日本語(先住の倭人の残した地名を後に到来し支配者となった高句麗領内に残った地名)、という解釈がもっとも矛盾がないと思われます。


→(追加)上記の他、C古アジア語系の言語層も追加できる可能性もありますが、わずか80語ほどの語彙を四層に区別するのも、問題があり、私は3種の言語層をこのいわゆる「高句麗地名」の中に区別するにとどめたいと思います。
李基文氏が、ギリヤーク語類似の語彙として挙げているのは、日本語の「ウサギ(兎)usagi」対応語の「烏斯含」osaxamで、ギリヤーク語の「osk(うさぎ)」で、「岩波古語辞典」では、日本語の「うさぎ(宇佐岐)」を朝鮮語の「とっき」t‘oーkki(兎)と同源としていますが、日本語の「兎」usagiの語形が、この「烏斯含」osaxam(xの発音はgに似る)、ギりヤーク語oskに近いことは一目瞭然です。尚、他に李氏はいわゆる「高句麗語」の根、泉、巌の意味の語彙をギリヤーク語と比較しています。この内、後の2語については、新羅語、中世韓国語に対応例があるとコメントしています。


上代日本語と魏志倭人伝の言語

現在の日本語で、文献的に溯り得る上限は、奈良朝期の万葉集、木簡類や、その前の推古朝の遺文などのいわゆる「上代(上古)日本語」ですが、その特徴と「魏志倭人伝」の地名・人名より復元される3世紀の「倭国語(倭人語)」の特徴が、以下の点で共通することから、3世紀の倭国語(長田夏樹氏の用語に従い、倭人語ではなく倭国語を以下使用いたします)即ち3世紀の列島で話された(半島南部でも使用された可能性あり)言語が、日本語の更に古い形であると考えて良いと思います。

長田夏樹氏による「倭国語」の特徴(洛陽音によって倭人伝の言語を比定、「邪馬台国の言語」学生社、昭和54年3月、p48)
@語頭に濁音とr音が立たない(唯一の例外は、投馬国の「投馬」であるが、「太平御覧」所引「魏志」に〈於投馬〉とあるから語頭の音節が脱落したと考える)
Aほとんどが子音+母音の開音節であって、明らかな複合語を除いてその音節数が一音節ないし三音節と日本語の特徴を示す
B子音+母音+子音の閉音節も、〈以下の言語学的説明は私には理解困難ですので途中省略します〉、いずれも開音節的用法として読める

以上の特徴から長田氏は、「倭国語」を日本語として良いとしています。

尚、森博達氏は、〈「魏志倭人伝」と弥生時代の言語〉に於いて(月刊日本語論11−1994、Vol、2No、11、p114−13}、「邪馬台」「卑狗」「卑弥呼」など、倭の地名・人名を表わす54語の音訳漢字の表記から、これら54語に使用された漢字64字種・延べ146字の中国音を調べ、

倭人語(森氏は「倭国語」ではなく「倭人語」と表記)は、開音節的性格を強く持ち、おそらく上代日本語同様、弥生の日本語にも「子音終り」は存在しなかったであろうと推測しています(実は『開音節』《子音終り》と書いていますが、開音節=母音終り、閉音節=子音終りですので、この『開音節』は明らかに『閉音節』の誤植でしょう)。
この他森氏は、上代日本語の音韻結合の特徴として、さらに位置による音韻の種類の制限法則3項を挙げています。
@母音音節即ち「ア」行音が、語根の頭以外の位置に立たない
A「ラ」行音が語根の頭に立たない
B濁音音節が、語根の頭に立たない
以上ですが、@については「支惟国」の「惟」、「呼邑国」の「邑」が例外であるが、「惟」や「邑」はヤ行音やワ行音を表わすのに使用されたと考えられる(ので法則を満たす)、Bについては、「投馬国」「兕馬国」「臺与」の最初の文字(投、など)が例外ですが、中国語の全濁音は倭人語の濁音よりも有声音的な聞こえが弱かったと推測されるので、倭人語の清音を写した可能性があると考えられる。
とし、上代日本語の音節構造や、位置による音韻の制限法則が倭人条の音訳例にもほぼ、該当する、としています。

以上のように、長田夏樹氏、森博達氏の両氏とも、奈良朝期の豊富な文字資料に支えられた「上代日本語」と、3世紀の「魏志倭人伝」の「倭人語(倭国語)」が、同一の言語と考えて良いとされています。

さらに、「岩波古語辞典」では、解説の「用語について」のアクセントの項で、
「現代日本語の各地のアクセントは、ほとんど残るくまなく調べられている。」として、3種類のアクセントを挙げ、そのうち「京都式」と「東京式」とでは単語によっては全く逆になること、「京都式」については、現代より溯って時代毎に、「院政時代」まで各々の単語について、各音節毎に知ることのできる資料があること、このことから語根を同じくする言葉の初めのアクセントは(極く少数の例外を別として)同じである
と述べています(他に母音交替による造語についても解説あり)。

この現代日本語のアクセントの方言差の大きさは、上代日本語にも溯りうるものとも考えられます。
上代日本語の方言差の大きさから、それらの各方言(あるいは独立した言語といっても十分なものです)の起源は古く、「日朝両語同系論」を唱える長田氏は、弥生時代以前と考え、朝鮮半島ですでに(日本語の東国・中央・筑紫三方言への)分化が起こっていると考えています。ただし、長田氏の考えは、弥生時代の開始が、紀元前3世紀頃と考えられていた時代に発表されたものですので、弥生時代の開始が、前10世紀に溯るとすれば、国内で方言分化したとしても良いかも知れません。


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