倭人の南方への民族移動の開始

このまま、言語や、倭人の北方居住の補強証拠(「偎人愛人問題」など)を挙げていると、倭人が何時までたっても列島に渡来しそうに無いので、少し話を進めたいと思います。

遼河流域にいた @ハプロタイプHLA−A24−B52−DRB1*1502(DR15)を高頻度に持つ倭人集団の諸部族は、前13世紀頃の、民族大移動(奥州における印欧語族の第二次民族大移動)の渦に巻き込まれ、移動を開始します。

民族大移動はユーラシア大陸全域に影響するもので、ヨーロッパ史を基準に考えると

T前20世紀頃(印欧語族の第一次民族大移動)
 印欧語族が、ヨーロッパに侵入し、先住の巨石文化の所有者を征服し、ほのヨーロッパ全域を印欧語族諸派の居住地とします。
オリエント方面では、アナトリア高原にアナトリア語派のヒッタイト族が侵入し、メソポタミアとインドの北西部には、インド・イラン語派のミタンニ、インド・アーリア人が侵入します。おそらくこの時代に中央アジア東部にもインド・イラン語派のイラン系諸族やトカラ語派が拡がったと思われますが、漢民族がこの時西方から中原に入ったかは不明です(中国語「人」や印欧語の同義のman、manuなどの語彙より両語族の接触〜同系を説く論者もいるようですが、ちょっと証明は無理だと思います)が、いずれにせよ「夏」の中原での建国もしくは移住もこの民族移動の影響下にあると思われます。殷そのものの建国は、前15〜14世紀頃の東夷の南下、西進の一環だったと思われます。

U前13〜12世紀(印欧語族の第二次民族大移動)

ヨーロッパでは中欧のイリュリア人、ケルト人の移動から始まり、ギリシャにドーリア人が入り、同じくバルカン半島のトラキアからフリギア人がアナトリアに移動し、インドでもやや遅れてインド・アーリア人のガンジス河流域への移住が開始されます。バイカル湖周辺の金石併用文化(グラズコボ文化、BC1700〜1300?)もこの頃終わります。

Vゲルマン民族の大移動(フン族の東ゴート圧迫、AD375が大移動の開始とされます)

おそらく、江上波夫氏の「騎馬民族説」は、ゲルマン民族の大移動と
AD316年の(西)晋の滅亡後の五胡一六国時代を、ユーラシアの同時代現象と考え、ゲルマン民族の移動によるローマ帝国瓦解とゲルマン諸王国が、その後西欧の国民国家の母胎となったことから、東アジアでも、並行現象が起こり、後の朝鮮民族国家の母体である統一新羅の前身である三国の新羅や、日本の母体たる「大和朝廷」の建国をAD400年前後に求め、「倭の五王」が征服王朝だとしたのでしょう。高句麗好太王の碑で、「倭」が高句麗と戦ったのは、まさにAD391年渡海して百残を破ったからです。
しかしそのために、弥生時代の終りと古墳時代の開始という時代の画期ではなく、中途半端な古墳時代の間に「王朝・支配民族の交代」という重大な歴史的現象を、挿入せざるを得なくなりました。
その原因の一つに、「弥生時代の開始」という歴史の画期が、前300年頃と考えられていたという考古学上の定説が、前提になっていたことがあると思われます。本来、弥生時代の開始は、民族移動を伴う世界史的現象の日本に於ける表れであった筈が、春秋戦国の戦乱を逃れたボート・ピープルの日本移住という矮少な話になってしまったからです。もし、江上氏が騎馬民族説を提出される前に、弥生時代の開始が、前10世紀に溯る可能性が提示されていたならば、氏は民族移動・国家形成などの時期を、世界史・東洋史との連動性から、弥生時代の開始=日本への民族移動、統一国家の形成=古墳時代の開始=邪馬台国による西南日本の統一、と言う仮説を提示したのではないでしょうか?氏も扶余族=騎馬民族の日本渡来の文献的根拠が、薄弱なのは認めていたように思えます。


さて、ハピロタイプ@の倭人集団は、前13〜12世紀頃からの、Uのユーラシア大陸での民族移動の開始に連動した、東夷集団「九夷」の移動に合わせ、南下します。もともと、九夷は同系の夷族とも考えられる「商民族」が、南下して中原に「商(夷)」を建国した時に同様に南下して黄河河口域から山東、あるいは淮河あたりまでは到達していたと考えられます。商(殷)は、その甲骨文に窺えるように四方の部族「国家」である多くの「方」を攻めています(鬼方、召方、夷方など)が、もともと商の出身母体に近い東夷諸族の背反は王朝の経営を困難にするものであり、帝辛(紂王)は即位の初めから、山東方面の東夷の討伐に追われ、二度も大東征を行います(「人方」「夷方」)が、2回目の長征の帰還後間もなく、西方の周に滅ぼされます。周も東夷、東南夷、南夷と呼ばれる夷系諸族を討伐するのに難渋し、初代武王のあと成・康王二代を要します。

倭人の南下はこの殷周革命を惹起した九夷の南下の一環ですが、山東から、淮水、泗水にかけて南下した九夷集団に含まれていたかは不明です。山東半島周辺の人々のHLAハプロタイプが判明すれば、結論が得られるでしょうが、そのデータがありませんので、当面は半島方面への南下のみと考えたいと思います。
九夷の中で、倭人はその音通から「于夷」の後身であると考えられますが、九夷の中で最有力とされるのは、「風夷」であり、春秋時代に「任」「宿」などの国家が子孫とされていました(戦国時代の「魏」の史書「竹書紀年」夏紀篇)。周初、「徐」の偃王が九夷を率いて周と戦ったとされていますが、あるいは倭人〜于夷の一部はこの叛乱に参加したかも知れません。

倭人の南方への民族移動の開始A

> 九夷の中で、倭人はその音通から「于夷」の後身であると考えられますが、九夷の中で最有力とされるのは、「風夷」であり、春秋時代に「任」「宿」などの国家が子孫とされていました(戦国時代の「魏」の史書「竹書紀年」夏紀篇)。周初、「徐」の偃王が九夷を率いて周と戦ったとされていますが、あるいは倭人〜于夷の一部はこの叛乱に参加したかも知れません。

この「竹書紀年」夏紀篇に現れる「九夷」を再録すると、「ケン(田犬)夷」「于夷」「方夷」「黄夷」「白夷」「赤夷」「玄夷」「風夷」「陽夷」です。この「竹書紀年」と近い時代の記録である「論語」子カン(穴の下に干)篇にも九夷が見えますが、残念ながらその名称は不明で、唐代の疎によると、玄ト(漢の四郡の玄と郡と同じ)、楽浪、高(句)麗、満飾、フ(鳥の下に几)、ユ(諛の言が無い字)、索家、東屠、倭人、天鄙となっていますが、春秋時代の九夷を記録したものとは到底思えません。結局、九夷の名称としては、「竹書紀年」を採らざるをえません。
尚、九夷より北方にいたとされるのが、「東北夷」で、魏・晋時代の注釈書には「粛慎族、狢族、孤竹、不令支」などが挙げられます(「日本の古代@倭人の登場」森浩一編より)。
粛慎より遅れて、「古朝鮮族」の名が現れますが、これは先の九夷の「陽夷」と「于夷」の分布と一致するとされます。この「古朝鮮族」
は、おそらく「鮮」という魚をトーテムとしていたと考えられます。「鮮」は白川静氏「字通」によると、「生臭い」臭い(腥臭)を持つ「魚」の意味と解されます(新鮮な魚も生臭い)。「説文解字」に「魚の名なり。貉国に出づ。」とされています。これから見て、古朝鮮族が、遼河から満洲に居住し、漁撈を主とした水居の民であることが窺えますが、これは又、山海経第十八「海内経」の「東海之内、北海之隅、有国、名曰朝鮮天毒、其人水居、ワイ(人畏)人愛人」と言う難解な一節があり、これを金関丈夫氏はワイ人=倭人と解釈しています(「倭人のおこり」、「謎につつまれた邪馬台国、倭人の戦い」直木孝次郎編、作品社、2003年4月、ただし金関氏のこの論文は1980年発表された)。私は、この文章の「天毒」は「天鄙」の誤りかとも思うのですが、「天毒〜天鄙」に近い音を示す種族が満州〜沿海州あたりで認められないので、まあトンデモ説です。

さて、「于夷」は、@居住地が、古朝鮮族の居住地と重なっていたと考えられること、A「于」の音hiuaは、「迂」iua、「汚」の正字とされる「ウ(水于)」、「委」、「倭」iuai、などと音が近いこと、B古朝鮮族は水居・漁撈の民と考えられる、同じことから地域に住んでいた陽夷・于夷も同じ生業であったと推測されること、などから、後に「ウ(水于)人」や「ワイ(人畏)人」を経て(或いは同時期に)「倭人」と呼ばれるようになったと思われます。
ここで「古朝鮮族」と「倭人」の関係ですが、「韓族」が「箕子朝鮮」の王族が「韓族の王」となったという伝承を(多分後代のものでしょうが)持っているのに対し、倭人にはその伝承はありません。殷の遺民を率いて箕子が「箕子朝鮮」を建国したのは、BC1027/1026年と考えられていますから、古朝鮮が仮に箕子によって建国されたとすると、すでに「于夷」→「倭人」は、一部の残存部族を残して、南下しており、おそらく黄海道・京畿道あたりにいた「(原)韓族」の居住地を縦断して、半島南部一帯(慶尚道・全羅道一帯)の支配的集団となっていたと思われます。「箕子朝鮮」は、「陽夷」と殷民によって形成されたのでしょう。

弥生時代の開始が前10世紀とすると、倭人の南下は、その数世代前には、半島南岸に到達して、同じ頃、淮水流域から渡来した「淮夷」や長江流域から渡海した百越の一派(これらの集団が、水稲耕作を海峡両岸にもたらしたと考えられます)や、先住の古アジア語族系の部族を支配下に置いていたと考えられます。即ち倭人の南下は、殷の滅亡後(殷周革命後)ではなく、殷の衰亡をもたらした東夷諸民族、特に九夷の南下が開始された前12世紀以前でしょう。勿論、移動する集団は統一的な軍事的・政治的指導者が必要であり、「古契丹八部」の「大賀氏」のような「大君長」の氏族が成立していた可能性が高いと思われます。

倭人の南方への民族移動.

>殷の遺民を率いて箕子が「箕子朝鮮」を建国したのは、BC1027/1026年と考えられていますから、古朝鮮が仮に箕子によって建国されたとすると、すでに「于夷」→「倭人」は、一部の残存部族を残して、南下しており、おそらく黄海道・京畿道あたりにいた「(原)韓族」の居住地を縦断して、半島南部一帯(慶尚道・全羅道一帯)の支配的集団となっていたと思われます。「箕子朝鮮」は、「陽夷」と殷民によって形成されたのでしょう。

尚、従来朝鮮半島の「無文土器」は、弥生土器との関連が考えられ、その先行型とも考えられていましたが、その起源は前14〜13世紀とされていました。しかし、弥生時代が日本列島で、前10世紀(以前)に開始されたという今回のAMS法による「弥生時代開始期の500年繰り上げ」が正しいとすれば(私は正しいと信じていますが)、無文土器の製作の開始が繰り上がらない限り、「倭人」(HLAハプロA24B52DRB1*1502)の文化の「弥生土器」(半島南部では前10世紀の前に製作されていたと考えられます)との開始年代の「差」がほとんどなくなります。「無文土器」を半島に入った「韓族」(HLAハプロA33B44DRB1*1302)の文化と考え、その前の櫛目文土器を「古アジア語族系?(ギリヤーク語類似?)の原始韓半島語所有者」(HLAハプロA24B7DRB1*0101)の文化と仮定(ちょっと単純化しすぎですが)すると、韓族と倭人の半島への南下時期が殆ど変わらない可能性もあります。その場合、「古アジア語族系?」の居住域に韓族と倭人がほぼ同時期に移動し、韓族が黄海道、京畿道領域を占拠したため、倭人主力は、更に南方の全羅道、慶尚道方面を占拠し、忠清道あたりが両者の混成地域となったとも考えられます。尚、この前12〜10世紀頃の時点では、扶余=満洲・南方ツングースの祖?は基本的に、鴨緑江中流域の満洲側以北までが分布域だったと思われます。

> 弥生時代の開始が前10世紀とすると、倭人の南下は、その数世代前には、半島南岸に到達して、同じ頃、淮水流域から渡来した「淮夷」や長江流域から渡海した百越の一派(これらの集団が、水稲耕作を海峡両岸にもたらしたと考えられます)や、先住の古アジア語族系の部族を支配下に置いていたと考えられます。即ち倭人の南下は、殷の滅亡後(殷周革命後)ではなく、殷の衰亡をもたらした東夷諸民族、特に九夷の南下が開始された前12世紀以前でしょう。勿論、移動する集団は統一的な軍事的・政治的指導者が必要であり、「古契丹八部」の「大賀氏」のような「大君長」の氏族が成立していた可能性が高いと思われます。

この「倭人」の政治的・宗教的統一をもたらした集団自体は、外部の狩猟・遊牧系(当時は騎馬民族はまだ未出現でした)の可能性もあります。あるいは、チュルク系民族の東漸により、後の「胡(匈奴)」「東胡(鮮卑、烏丸)」が成立したのを受けて、倭人にも文化的影響があっただけかもしれません。どちらにせよ、後の「鮮卑」が「鮮卑山」により、「烏丸」が「烏丸山」により、「扶余」が「扶余山(鹿山)」によって、その「種族名」がおこったとされるように、「倭」も「倭山」によっておこったことは、間違いないでしょう。ただ、この「種族名」=「山名」は、実の所どちらが先行して存在したかは不明で、種族名が先行して存在し、その種族に属する各部族(後に従属・同盟した部族も参加したでしょう)が、集まって「祭祀」(おそらく種族の始祖や主神を祀るのでしょう)する「山岳」に種族の名称が与えられたのでしょう。
そうすると「倭」人が祭祀同盟を結成し、民族移動に際し、「軍事・政治指導者」を選んだ地域は、後に「倭山」があるとされた地域ということになり、「倭山」のあるところこそが、倭人の民族移動の基点であったと考えられますが、残念ながらそれは「三国史記高句麗本紀」の高句麗の国祖王宮の時代の高句麗領内にあったということしか推察できませんが、同時にこの倭山周辺の地名に「倭人語」の地名が残されたということを、強く示唆するものです。

倭人は、「倭山」で、主神や始祖を祭り、指導者(祭祀を主宰した部族の中の有力氏族から選出されたでしょう)を選び、占い(鹿の肩甲骨などを使用?)や神託(シャーマニズム)などで、意志決定(を権威化)し、南下をしたものと思われますが、その指導者氏族と部族の固定が、後の「天皇氏」を生むことになったと思われます。

倭人が「倭山」を去ったのは気候の寒冷化による民族移動の中で、活路を南方に求めたためと思われますが、漸12〜10世紀頃にかけて、北方の遼河流域から鴨緑江下流域には、極く僅かの部族が残ったのみで、半島南部に倭人の大半(これに異民族=韓族、扶余族、東胡系や古ジア語族系,後には殷の遺民も?=も同盟・従属部族とじて参加したものもあると思われます)が、移住したと思われ、移住後は、各部族単位で(移動期に部族の再編は当然行われたでしょう)居住し、部族国家を半島南部で形成したと思われます。そして、倭人全体の祭祀は従来の「倭山」に負えるものと同様に行われ他と考えられますが、その場所は、後の高霊伽耶即ち大加羅=意冨加羅(オホカラ)の地にある「大伽耶山」でしょう。この地は、魏志韓伝の「弥烏邪馬国」があったとされ、「邪馬」は日本語の「山」を音訳されたものであり、同じく魏志の倭人伝の倭人諸国の代表国家「邪馬台国」の「邪馬」と共通します。


半島南部の倭人世界

>前12〜10世紀頃にかけて、北方の遼河流域から鴨緑江下流域には、極く僅かの部族が残ったのみで、半島南部に倭人の大半(これに異民族=韓族、扶余族、東胡系や古ジア語族系,後には殷の遺民も?=も同盟・従属部族とじて参加したものもあると思われます)が、移住したと思われ、移住後は、各部族単位で(移動期に部族の再編は当然行われたでしょう)居住し、部族国家を半島南部で形成したと思われます。

この倭人及び同盟・従属諸部族(被征服の先住古アジア語族系や、同時期の淮河・長江流域から渡来した越系諸族や淮夷、韓族その他や殷民など)は、移動・定住中に再編されたと思われますが、その再編は後の北方系遊牧民族に見られるような、「左方(左翼)、中央(王庭)、右方(右翼)」のような三分や、五部五方のような五分が一般的でしょうが、地形などの条件(一方が海や険峻な山岳だったり、構成主要部族が4〜6部族だったりした場合など)によっては、もっと柔軟に四分、六分された可能性もあります。ただ、周囲に敵対者がいて移住する場合は、中央に支配部族・氏族が位置し、前後に同盟者を配置すると「三分制」となり、前後左右に配置すると「五部五方」が成立することとなります。従って日本の古代に高句麗や百済のような「五部」や「五部五方」と同様な制度が見られることは、日本に「騎馬民族征服王朝」があったことの証明にはなりません。ただ、倭人の列島への移住も同様に行われたと考え、ある氏族が左右や五方のいずれかに配置されていたと考えられる痕跡が認められれば、倭人の民族移動時、当該氏族が、移動の主力だったか従属的存在であったかの推理の手助けになると思われます。

>そして、倭人全体の祭祀は従来の「倭山」に負えるものと同様に行われ他と考えられますが、その場所は、後の高霊伽耶即ち大加羅=意冨加羅(オホカラ)の地にある「大伽耶山」でしょう。この地は、魏志韓伝の「弥烏邪馬国」があったとされ、「邪馬」は日本語の「山」を音訳されたものであり、同じく魏志の倭人伝の倭人諸国の代表国家「邪馬台国」の「邪馬」と共通します。

半島南部に入った倭人は、忠清南北道から全羅・慶尚南北道に拡がって、先住民や同時期の移住者と、半島南部の支配権を争ったと考えられますが、数世代内に早くもその一部は、渡海して北九州に橋頭堡を築き、同族の移住を誘ったことでしょう。しかし、半島到着後の数百年は、倭人の主力はまだ半島南部におり、おそらくその祭祀を、「大伽耶山」で各部族が共同で行ったと思われます。

大伽耶山での祭祀は、民族の主神(系譜上、全人類〜全民族の祖)や始祖を祭ったと思われますが、おそらく倭人の諸部族全体の始祖が降臨したとされる聖地「倭山」での祭りと異なり、半島南部への移住に参加した部・氏族の始祖の祭祀が中心でしょう。
チュルク系の高車、突厥には、狼祖伝説があり、また、前に述べたように、ツングース系の扶余族の名称は、「鹿」を意味し、おそらく鹿を祖先とする伝承があったのでしょう。井上靖氏の有名な小説「蒼き狼」に有る如く、チンギズ汗の属する「モンゴル部」は、「蒼き(実際は誤訳らしいのですが)狼」と「なま白き雌鹿」の間の子孫とされています。これらの北方民族にみられるように倭人も、おそらく民族全体の始祖は、聖なる山岳(倭山?)に降臨した狼や鹿或いは熊といった聖獣の子孫であるといった伝承があったのでしょうが、「大伽耶山」では、すでにそのような民族・部族全体の始祖伝承はなく、支配者の氏族・部族の始祖伝説になっています。余談ですが、私は、倭人が「獣祖伝説」を持っていたとすれば、それは「狼」の可能性が強いと思っています。狼「オホカミ」ofokamiが、大神「オホカミ」ofokamiに由来することは、国語学上は常識ですから。

さて、「大伽耶山」で、倭人諸部族の始祖神話は、はるか後代の「東国輿地勝覧」に記録されています。即ち高霊県の条で、「元は大伽耶国なり。始祖伊珍阿鼓(一に内珍朱智とも云ふ)から道設智王に至るまで凡そ十六世五百二十年、新羅真興王がこれを征服し、その智を大伽耶郡とす。」とあり、その注に「伽耶山の神、正見母主は天神、夷ヒ(田比)カ(言可)に感ずるところとなり、大伽耶王悩窒朱日と金官国王、悩窒青裔の二人を産めり。悩窒朱日は伊珍阿鼓の別称、青裔は首露王の別称なり。」(以上、「漢半島からきた倭国」李鐘恒著、兼川晋訳、新泉社、1990年)とあります。この「伊珍阿鼓」は「イザナキ」と音通し、李鐘恒氏は同一だとしています。この「伊珍阿鼓」は、逆算すると後漢光武帝の18年(AD42年)生まれとなっていますが、これはより記述の古い日本神話の記紀に従うべきで、それより遥かに昔とすべきでしょう。

この伊珍阿鼓を日本神話の「イザナキ」と考えると、記紀の「アメ(アマ)国」「高天原」はこの任那加羅時代及びそれ以前の遼河流域時代の倭人の歴史的記憶の伝承〜神話化と解釈されることが可能です。私は、記紀神話・伝承の捨てたくないので、当面、高天原=列島渡来前の倭人の居住地の反映と考えたいと思っています。

(閑話)半島南部の倭人と「やま」

> >そして、倭人全体の祭祀は従来の「倭山」に負えるものと同様に行われたと考えられますが、その場所は、後の高霊伽耶即ち大加羅=意冨加羅(オホカラ)の地にある「大伽耶山」でしょう。この地は、魏志韓伝の「弥烏邪馬国」があったとされ、「邪馬」は日本語の「山」を音訳されたものであり、同じく魏志の倭人伝の倭人諸国の代表国家「邪馬台国」の「邪馬」と共通します。

日本語の「ヤマ(山)」に相当する語形は、韓国朝鮮語にはなく、「タカ(高)」から来たと思われる「タケ(岳、背丈の丈も同源)」に相当する「タル」talがいわゆる高句麗地名にあります。本来の倭人語では「山」を意味する言葉はおそらく「タケ」であり、「ヤマ」は、「岩波古語辞典」にある如く、「地表の極めて高く盛り上がっているところ。通例、丘より高いものをいう。古く、神聖なるものとされ、神が降下し、、また神が領有すると信じられた。」場所を意味し、従って、弁韓諸国家中、「ヤマ」を国名に持つ「弥烏邪馬国」は倭人の国家であり、しかも同じ始祖を持つとされる金官伽耶国をふくむ伽耶諸国(五伽耶、六伽耶と称されるが、合計七ヶ国ある)とおそらく祭祀同盟の関係にあったことはまちがいないでしょう。尚、韓国語の「山」を意味する言葉はnopノプで、アイヌ語の「山]nupuriヌプリや日本語の「登る」との関連はありそうですが、「ヤマ」と語形は相違しています。(nop、nupuriなどは徐廷範「日本語をさかのぼる」徳間書店、1989による)

魏志韓伝の馬韓54国、辰韓12国、弁辰(弁韓)12国の内、「邪馬」の入る国名は、「弥烏邪馬国」のみであり、魏志倭人伝では、そのものずばりの「邪馬国」と「邪馬台国」の2国のみが「やま」のある国です。これらの3カ国は、倭人の諸部族国家の山岳信仰の「聖山」を祭祀し、周辺の倭人諸部族国家と祭祀同盟を結んでいたのではないでしょうか?

これらの倭人の祭祀同盟(政治的、軍事的同盟に容易に転化したと考えられます)を主宰した氏族は、「倭山」以来の伝統を持つ氏族で、後のいわゆる「天孫」の系譜に連なるものと思われますが、ここで一つトンデモ説を、開陳しておきます(将来、トンデモ度が減少するよう努力するつもりの説です)。

即ち、上記のように倭人語→日本語の「やま(山)」が、普通の「山」の意味ではなく、天神が降臨し、各部族共通の祭祀を行うべき「神聖な山岳」を意味するとすれば、それに従事する氏族・部族の人々は、自分達の部族〜部族国家を他の倭人国家と峻別して「やま」国(魏志倭人伝の「邪馬国」)
あるいは美称をつけて「弥烏邪馬国」
(この「弥」「烏」が美称と思われますが、「弥」は「み」で上代日本語の美称、「霊」を意味する「ミ」の転でミ甲類。身の意味のミはミ乙類。ただ、「烏」は母音と考えられ、説明し難い」のですが、「烏滸]wokoの「wo」という例もあるので、これを「を」woの音価を表わしたものと考えて、「雄、牡、男、夫」か、「尾」の何れかの意味と考え、雄・男と一応しておきます。まあイザナミがいないのでヲヤマ雄山・男山としたのですが)
と国名を付けたと考えられます。
そうすると、肝腎の「邪馬台国」ですが、これを倭訓では「ヤマト」国と呼ぶべきことには、異論がないと思われます。この「yamato」の「ト」はト乙類で、「ト甲類」の「門、戸」「外」の意味のトとは異なります。
ところで、「隼人」は「はやひと」とお呼ばれ、fayafito(to乙類)の「fi」が脱落して縮約された言葉とされています(万葉集では現に「はやひと」の形があります)。同じように「やまひと(山人、この場合はやま族の意味か、聖なる山での仕事=聖職に従事する人の意味でしょう)yamafitoの「fi」が脱落・縮約して「やまと」yamatoに変化した可能性を考え、これが「邪馬台国」の「邪馬臺(やまと)」の語義であると考えます。
尚、後代ですが、「酒人」さかひと、「宍人」ししひとなどの職掌に因んだ名称があります。

以上のように、「邪馬台国」を建国した集団は、自らの「国名」「部族名」を「やまと」「やま族」と称したと考えます。

斯盧国は倭人の国家だった?

半島南部、全羅南北道、慶尚南北道、及び忠清南北道(一部)に到達した倭人諸部族は、これら各地に小部族国家を建国するとともに、緩い祭祀同盟を各地域で結成したと考えられますが、倭人の移動には、当然韓族や、古アジア語族系の同盟・従属部族が参加し、彼らも倭人諸部族と入り混じって自分達の部族国家を作ったと考えられます。この内、韓族には、京畿道や黄海道から後続の同系諸部族の南下・合流があり、本拠地からの同族の後続がなく、倭人(や韓族)に同化される方向に向かったでしょうが、江南よりの淮夷や長江からの越系の住民は、倭人に従来の畑作(陸稲を含む雑穀栽培)の他、新たに「水稲耕作」の技術も伝え、倭人の祭祀や語彙に南方系要素をもたえらしたと考えられます。もっとも、倭人の基本的な言語の特徴(アルタイ諸言語共通の文法、開音節的音韻体系やヒ、フ、ミといった固有の数詞体系、母音の連接を避けるなど)や山岳信仰(天神またはその子が聖山に降臨し山神〜地母神と婚姻して始祖が誕生する)、文身の風習(これが東夷の習俗であることは明らかですが、抜歯については不明)などは、倭人諸部族がその伝統を(倭人主力の渡海まで)守ったと思われます。

さて、後の慶尚北道にあり、辰韓12ヶ国の中心となり、更に後代「新羅」として韓民族の中心国家となった「斯盧」国は初めから、韓族の国家だったのでしょうか?私は最初は、倭人国家として建国され、後い韓族の浸透により、王家が韓族出身の王家に交代し、民衆も韓族が多くなり、残存した倭人も遂に韓族化され、「斯盧(しろ)」国から「新羅」国に変わったと考えています。

その根拠の一つは国名です。当初、この国は三国志(魏志弁辰伝)に「斯盧」国として現れます。「斯盧」は「シロ」siroと発音し、日本語の「白」の意味だと思われます。韓国朝鮮語の「白」を意味する言葉は、ヘ(hε)で、太陽を意味する言葉より出た(日本語の「ヒ(日)」と同源でしょう)といわれています。尚、例の高句麗地名に「尸臘」シラsira(シロと読んだほうが良いように思えますが・・・)があり、満州語サラカ(saraka、白髪頭)、サラカビ(sarakabi、白髪)、蒙古語シラ(sira,siro)、アイヌ語シル(siru,白)など、アルタイ諸言語(アイヌ語のsiruは日本語からの借用かもしれません)に、同じ色彩語「白」の類似が見られます。ここでモンゴル族や満洲族が「斯盧国」を建国したと考えるよりも、この国名を記録した魏志弁辰伝にもあるように「男女は共に倭に近く、文身している」とされる倭人が「シロ/シラ」国即ち「白国」を建国したと考えた方が良いでしょう。仮に韓族が建国したとしたら、自国語で解釈される国名を付けて「ヘ(hε)国」=「日国、太陽国、白国」の名称を充てるものと思われます。

もう一つ、新羅の建国が倭人により行われたと考えられる理由は、三国史記新羅本紀での王統譜で、新羅の王家が、朴氏、昔(積)氏、金氏と交替したとの伝承があることです。歴史時代の新羅の王家は金氏であり、新羅滅亡前に朴氏の王が存在しました。一般に、「昔氏」は架空の存在と考えられていますが、この昔氏の始祖(新羅王は初めの三代は朴氏とされています)の第四代脱解尼師今は、倭人と考えられています(倭国〜女王国の東北1千里の多婆那国〜花廈国の生まれ)。ここで朴氏の最初の三代の新羅王は、金氏より王位を簒奪した朴氏が、それを正当化するために新羅建国の王家は「朴氏」であるといわば歴史を偽造した時に、金氏の前に「倭人の王家」があったはずとの伝承が存在したために、「昔氏」の王家を挟んだもので、実際には、韓族の金氏の前に「倭人」の王家がいたという事実を無視できなかったからでしょう。この王家の「昔氏」なる名称は勿論「むかし(昔)」と言うことで与えられたものであり、本来は倭人共通の支配氏族の成員によって建国されたものと考えられます。そしてこの王家は韓族に圧されて、倭人を率いて倭国(多婆那=丹波〜但馬?又、花廈=加賀あたりでしょう)に移住したことがあり、それが逆に、多婆那国〜花廈国から新羅に移住して王になったという話に変えられたのでしょう。

尚、「白国」を建国した集団は、「弥烏邪馬国」=「意富加羅国」を建国した伊珍阿鼓王=悩窒「朱」日や、「狗邪国」=「金官加羅国」を建国した首露王=悩窒「青」裔同様、倭人の支配種族の一員であり、おそらく民族移動時に、倭人諸部族を左右前後中や、赤(朱)、青、白、黒などに配属された時に、「白色」に属した部族を率いたものでしょう。

実の所、これもトンデモ説ですが、北方民族の移動・征服には、五つの伴の緒、五部五方、天つ物部など、このような部隊〜部族編成が行われただろうことは、記紀神話等を解釈すれば、そう無理でもないように私には思えるのですが。


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