(余談)「倭人のおこり」

ここでは、九夷の一派で「于夷」と呼ばれていたと考えられる集団が、後に「倭人」と言われるようになったことについて、若干の論考を加えたいと思います。ただ、「于夷」についての部分は、私の考え(先人は当然あると思いますが、私の見た範囲の文献に記載の覚えなし)、「倭人」についての文献の紹介や論考は、先に紹介した金関丈夫氏の「倭人のおこり」(史話「日本の古代A謎につつまれた邪馬台国・倭人の戦い」直木孝次郎編、作品社、2003年4月、に収載)に詳細に論じてあり、この1980年に発表された文献を、この8月になるまでの20年間知らなかったとは、本当に残念です。
「イ(人畏)人愛人」問題などは、森浩一編「日本の古代@倭人の登場」中央公論社、昭和60年11月)を発売後すぐ購入・読破したのですが、金関氏の「朝鮮の北方から倭人が日本に入った」と言う説は、@倭人が「于夷」の後身である、A移住の時期を殷周革命以前に求める、B倭人の起源に殷民族の要素を大きく考える、の三点を除いては、全く私の考えと一致しています。本当に20年間の時間的浪費が、悔しく感ぜられます。
尚、森氏は、倭人南方系説を採っているようで、このため後漢書鮮卑伝の「倭人国」の倭人や、「倭人字セン(石専)」の倭人などほとんどの中国文献の倭人を「日本列島」出自の倭人として、説明されようとしています。


ここでNo856の一部を訂正します。
> 箕子が殷の遺民を率いて箕子が「箕子朝鮮」を建国したのは、BC1027/1026年と考えられていますから            →BC1027/1026年(殷周革命の起こった年)以降
と「以降」を挿入します。                        
暫く金関丈夫氏の「倭人のおこり」に従って、「倭人」の名称の起源を論じたいと思います。
同氏は「倭」の名称の起源について、まず「詩経」の小雅(鹿鳴)の章の「周道倭遅」について検討し、「倭遅」が他の文献では「倭夷」「威夷」(韓詩外伝)、「郁夷」(漢書地理誌)となっていること、更に後漢の鄭玄は「倭遅」はもと「委遅」であったとしていることなどから、「詩経」のこの部分に「倭」を使用する必要がなかったとしています。
次に、この「倭」字が、「左伝」に「魯の宣公」(BC609〜BC592)の「名」として現れますが、これは「接」とも言われ、また「委」であった可能性もあります。
更に、王充の「論衡」儒増編に「周成王時」に越裳(越常)が白雉を献じ、「倭人」が「暢(本字は文字化けしそうなので暢で代用)草」を貢したという記事について、周の成王は前1020年頃の人なのでこの頃(前11世紀末)に「倭」字はなく、後漢の王充が、倭人の祖先だろうと考えて「倭人」の字句を挿入したとしています。(私は別な文献に「倭人」ではなく、「鬱人」とあり、また「暢草」が「鬱林郡」あたりの産物と考えられる「鬱金(うこん)」であると考えられるので、この「倭人暢草」記事を否定しています。この記事は有名であり、倭人南方起源説の論拠としても良く使用されます。)
以上の点から、同氏は「倭」の字は前漢以前の「経書」などにはなかったとします。

同氏は「倭」字の初出は、「山海経海内北経」の「蓋国在キョ(金巨)燕南倭北、倭属燕」とし、「山海経」は秦〜前漢武帝の間に記録されたとしています。
また「山海経第十八海内経篇」(「山海経」に郭璞が追加)の「「東海之内、北海之隅、有国、名曰朝鮮天毒、其人水居、イ/ワイ(人畏)人愛人」の文について、宋の司馬光の「集韻」の「ワイ(人畏)、北海之隅、有国、曰ワイ(人畏)」とあることから、「愛人」の字は元々無く、「倭」と「ワイ(人畏)」の音の近さから、ワイ(人畏)人=倭人であり、「北海之隅」に「水居」する「倭人」あるいはその後に言われた「倭国」があったと推測されています。

ここまでの氏の論考には、私も全面的に賛成です。

同氏は、水居の「ワイ(人畏)人」が、同じく「水居」と言える同音の「倭人」の名を、秦漢の間に山海経の筆者に与えられたのは、「水人」ではなく「農人」であるからだとしています。「倭」はすなわち「委」であり、「委」は殷代の甲骨文に見られる禾(稲の穂)の下に屈む女性の姿であり、殷は漁撈農耕の民であり、自族の女性の称であったが、殷の族名とはならず、その種族の一部が、北海あるいは、朝鮮に渡り言語も変って、異名が必要になり、「倭」の名称が秦漢の時代に与えられたと説いています。彼らの生活は男の漁撈と、女の農耕(陸稲、麦、稗、黍のような乾畑の禾の作)だったとされ、また言語はツングース系に変ったと推測されています。

私は上記の金関氏の説について、「倭」字の起源については、「于」夷との関係を考えますので、「水居」で漁撈と狩猟を主にしていた「于」夷が、遼河流域より南下して、おそらく多くの部族に分かれて鴨緑江を越えて、平安道方面の鴨緑江下流域に拡がった時点で農耕(畑作)が女性の主たる生業となり、「委「倭」が使用されるように成ったと考えています。また、「倭」の名称はともかく、「委」の族名は周代には使用されていたと思います。「陽夷」が、殷の遺民を受け入れ(征服され?)、「箕子朝鮮」を建国して、「朝鮮族」と呼ばれた時(後代の韓族とは、別なツングース系の集団でしょう)、その南方にいて、彼らと別れた集団はまず、「于」夷の名に因んで、同音の水居・漁撈の民としてまず「ウ(水于)」人と呼ばれ、また「ワイ(人畏)国」(部族連合体の形成が進捗したのでしょう)とも呼ばれたのでしょう。更に女性の農耕が生業として比重を増し、且つ、「倭山」なる山岳を中心に祭祀同盟が明確化した時に、「委」人とも呼ばれるようになり、更に「倭」字が種族〜民族の名称として作られたと思われます。

あと金関氏は、倭人の居住地についても考察されていますが、また必要なところで触れます。

(余談)商(殷)および東夷の起源

まず、「商(殷)」民族については、以前にもその起源論に触れましたが、「帝俊」を最高神とし、またその子孫ともされています。帝俊(舜と同一神格)は、神話上、「鳥」との関係が深く、五色の鳥(鳳凰?)と良く遊んだとされています。さて、後代の史書では、殷の祖簡狄(ここに「狄」の字があります)は、「玄鳥(燕)」の卵を飲んで、商民族の祖「契(セツ)」を生んでいます。さて、帝俊と同一とみなされる「帝コク」は、おそらく後に、周民族によって、「帝俊」の神話が変えられたものと思われますが、彼には4人の妻があり、@姜ゲン(女原)は、有タイ(台の右にこさとヘン)氏の出で、周民族の祖となる后ショク(稷)を生み、A簡狄は、有シュウ(女戎)氏
の出身で、商民族の祖契(セツ)をうんでいます(ここで簡狄が有「シュウ(女戎)」氏の出身とされ、西方の「西戎」との関係を窺わせます。ただ、これは周民族の組替えた神話ですので、商=殷民族が、本当に(狄=チュルク?系の他に)西方民族の血統であったかは疑問です。周は、「商」を「殷」と呼び、又、その王を「衣」王とよんでもおり、殷を「夷」即ち、東夷、東南夷、南夷といった諸族と同系と見做していました。
では商=殷は西方民族と無関係と考えて良いかというと、「甲骨文」の神名表とも言うべき文の四方の神名の中に、「西方を夷と言い、風をイ(ロロ族の最近の中国名イ族の「イ」字に似る)と言う」と言う記事があり、後代の山海経の大荒西経の「人あり。名を石夷といふ。來風を韋(イ)といふ。西北隅に処(本字は旧字体)りて、以って、日月の長短を司る。」という文は、甲骨文の神名・風名と異同はあるものの、卜辞の「四方風神」を記載したものと同じと考えられます。

以上から、「東夷」を含めた北方系諸民族は、前20世紀頃より前に、西方より東方へ移住・移動して来たことの記憶が神話上に、残っていたのではないかという可能性を考えます。即ち、印欧語族の大移動(第一次)を、前20世紀頃とし、印欧語族が、欧州・オリエント・北西インドに侵入しましたが、この時に、中央アジア東部から西シベリアにもその圧迫があり、印欧語族西方派のトカラ語派と東方派のインド・イラン語派が東進し、圧されて、アルタイ語群のチュルク(=狄?)語派や、チベット・ビルマ語族(先のロロ族=イ族はこの語族に属する)が、東進し、更に玉突き式に他の諸民族の移動を招き、この中に「商民族」がいたと考えれば、商民族が、「西北隅」の「夷」(石夷?)と同族で、「狄」+「戎」の要素を持っていたとしても、説明可能かも知れません。西方に居住して、チベット系?族(姜姓)と混交・同盟していた周民族には、「商」民族の西北方居住についての情報があったのかも知れません。
尚、「商」の音はsjiangで、「戎」の音はnjin・逆e・nですが、戎声として、「説文解字」に有シュウ(女戎)氏の「女戎」を収める、とされています(白川静氏「字通」より)。


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