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投稿時間:03/05/08(Thu) 15:40
投稿者名:勇者ロト(管理人)
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タイトル:hn2602さんへの質問・反論用スレッド
こちらのスレッドに質問や反論はこちらのスレッドにお願いします。
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投稿時間:04/05/16(Sun) 23:26
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:Re:出雲と大和
> こちらのスレッドに質問や反論はこちらのスレッドにお願いします。

出雲の国譲りがテーマとして見当たりませんが、
hn2602さんは、やはり事実として考えておられないのでしょうか?

なにか寂しい感がしますが、
高天原の神と出雲の神のもめごとであるから
やはり儀式的であり霊的・あるいは想念的なものであったのかもしれませんね。

まぁ。神武東征あたりは、大和王権が畿内を強固に統一できてたようには感じられないですし、東征前での出雲と大和の2極化での戦争は考えずらいですね。遠方すぎますし。

hn2602さんのコーナートップへ戻る][古代出雲王国の謎トップ
投稿時間:04/05/17(Mon) 01:35
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^2:出雲と大和

> 出雲の国譲りがテーマとして見当たりませんが、
> hn2602さんは、やはり事実として考えておられないのでしょうか?

私は、天孫族というか、天皇氏というか、彼等の記紀編纂の意図というか、歴史観/宗教観を考えると、まず、何らかの宗教的且つ歴史的事実があって、この「葦原中国」を支配・領有する権利があるということを、宣言していると考えます。天孫降臨するときのように、列島の原住民はあずかり知らぬことであっても、彼等は同じ「倭人」、同じ宗教観や習俗を持つ部族・種族の同意は取り付けていたと考え、それは倭人諸部族への「神託」による「葦原中国」支配の「神勅」が下されることであり、且つ、その実効に際して「成功」を保証する「祓邪」の儀式であり、それは、記紀によれば燕遼圏由来の東夷系民族の伝統通りに行われているわけです。

とすると、「国譲り」にも、同様に、神話的(宗教的・歴史的)根拠があるはずであり、それがなければ、「オホクニヌシ」一族は、国譲りなどしない筈です。即ち、同じ文化圏で、いわゆる出雲族が、天孫族に「国譲り」を認めなければならない「神話的」及び「歴史的」事実が存在したはずであり、それを「天石屋」神話から復元したわけです。

即ち、オホクニヌシ一族の始祖スサノヲが、「アメ(アマ)国」(半島、対馬・壱岐も含む?)にいた時に、天孫族に損害を与え、その「償い」として、ススノヲの子孫は、部族ごと「アマ国」を追放され、且つ天孫族の「従属部族」(隷臣)となったという解釈です。


> 高天原の神と出雲の神のもめごとであるから
> やはり儀式的であり霊的・あるいは想念的なものであったのかもしれませんね。

当然、神話と歴史とじゃ異なりますが、古代人は両者を一貫したものと捉えていたと思われ、天孫族側の侵攻に遭遇した出雲系諸部族は、そのような神話は無効とするものや、或いは無用な摩擦を避けて従属する口実として天孫族側の神話/伝承を受け入れるものなど、様々であったと思います。

> まぁ。神武東征あたりは、大和王権が畿内を強固に統一できてたようには感じられないですし、東征前での出雲と大和の2極化での戦争は考えずらいですね。遠方すぎますし。

そうです。出雲を中心として諏訪あたりまでを含んだ大戦争〜大抗争などは史実の上からも考え難いところです。
しかし、個々の神話的局地戦や伝承自体は存在したと考えています。
hn2602さんのコーナートップへ戻る][古代出雲王国の謎トップ
投稿時間:04/05/17(Mon) 17:06
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:Re^3:出雲と大和
> そうです。出雲を中心として諏訪あたりまでを含んだ大戦争〜大抗争などは史実の上からも考え難いところです。
> しかし、個々の神話的局地戦や伝承自体は存在したと考えています。


まぁ。記録や青銅器が裏付ける、
少々突出したなんらかの地方勢力であったとは思いますがね。
その地方勢力が大和と大戦争にいたったわけではないといったスタンスです。

私は、この国譲りは事実とは異なった儀式的なものとして見てますが、
そうした場合、やはり国譲り→天孫降臨→神武東征(事実の幕開け)
といったストーリーが自然に思えるんです。
(MINSTRELさんとは、ちょっと違った見解になってしまいますが、苦笑)

実際の出雲と大和の抗争は、
記紀を見ると祟神朝と景行朝で見られますが、
この辺で初めて大和と出雲勢力が衝突したのだと思います。

だからといって、祟神朝・景行朝での抗争が国譲りの真相だったとは思ってはおりません。
景行朝でのメインは出雲というより九州・熊襲って感じですし。
同じ事を時代を隔てて2回記録することもないと思いますし。
後代の大和と出雲の抗争は国譲りとは別者だったと思います。

投稿時間:04/05/17(Mon) 23:17
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^4:出雲と大和

> まぁ。記録や青銅器が裏付ける、
> 少々突出したなんらかの地方勢力であったとは思いますがね。
> その地方勢力が大和と大戦争にいたったわけではないといったスタンスです。

しかし、「大和朝廷」(の前身)も、ある時期までは、「地域国家」として、勢力や宗教的正当性(例えば「倭人諸部族」の宗教的・神話的支配権を主張し得るいわゆる「天孫族」だとしても)を主張し得る「地域国家」(部族国家連合体/部族連合体国家)の中の「一つ」でしかなかったと考えられます。
「出雲」が、オホクニヌシ一族を「王」に戴いている限り、「天孫族」の王には、刃向かうだけの「宗教的・歴史的・血統的」正当性を欠いていたでしょうが、仮に天孫族の「アメノホヒ」の家系から国王を出したとしたら、「ニニギ」系天孫族の王国と対等だった筈です。

結局、「天皇氏」は多くの競合する「天孫氏族」の中で、最終的に勝利者となったからこそ、時代を遡って「正当性」を獲得したと考えています。
しかし、それは「天孫」という主張が嘘であるということではありません。ある民族が統一された時に確立した「支配氏族」が、その民族の分裂記以降も、民族結集の軸となる現象は沃監察されており、私は、燕遼圏から、列島に移住した「倭人」においても同様な現象が存在し、「倭人の支配氏族」となって、遼河流域から、半島南部への民族移動を主導した「天孫氏族」(阿毎氏?)が、列島移住後、広範囲に分散し、多くの地域国家に分かれた倭人諸部族・諸国家が統一しようとした時の「核」と成り得たと考えています。

実はこの考えは、西洋史のゲルマン人の一派東ゴート族の「アマーラー」王家の存在や、或いは「中国史」の「五胡十六国」時代の「匈奴」の諸国家の君主が、ほとんど匈奴単于の出身氏族であった「屠客部(種)」の「攣鞮氏(虚連題氏)」の後裔であったことなどから、着想されたものです。

> 私は、この国譲りは事実とは異なった儀式的なものとして見てますが、
> そうした場合、やはり国譲り→天孫降臨→神武東征(事実の幕開け)
> といったストーリーが自然に思えるんです。

基本的に私も同感ですが、天孫系氏族も多くに分れ、各地に「天孫降臨」したものであり、天皇氏も、アメノホヒ(出雲国造氏)も、穂積・物部氏も、尾張氏も、何れも本来、同等の資格を持った天孫後裔氏族であり、謂わばその勝ち抜き戦が記紀に変形して記載されたと考えています。

> 実際の出雲と大和の抗争は、
> 記紀を見ると祟神朝と景行朝で見られますが、
> この辺で初めて大和と出雲勢力が衝突したのだと思います。
>
> だからといって、祟神朝・景行朝での抗争が国譲りの真相だったとは思ってはおりません。
> 景行朝でのメインは出雲というより九州・熊襲って感じですし。
> 同じ事を時代を隔てて2回記録することもないと思いますし。
> 後代の大和と出雲の抗争は国譲りとは別者だったと思います。

私も、「国譲り」神話で各地のトーナメントを一つの「試合」としたために「大国主」の像がおかしくなったと考えています。
本来は、「オホクニヌシ」「オホナモチ」「オホモノヌシ」はそれぞれ、「出雲」「大和」「物部(河内?}」などの国々の代表者だったのでしょう。

投稿時間:04/04/05(Mon) 11:42
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:Re: 女王国とは全体か個か
> こちらのスレッドに質問や反論はこちらのスレッドにお願いします。

箸墓の年代設定でもめてることはよくわかってますが、

ヤマトトトビソモモソビメが
全長280メートル級の古墳に葬られるくらいですので、
畿内説論者にしては女王とされても仕方ないとは思います。

神功皇后と共に
邪馬台国に都する女王であった可能性は高いように思います。

問題はこれらが女王国の卑弥呼・台与政権と一致したものかどうかということかと思います。

なぜか、邪馬台国という語は一箇所のみ。
魏志倭人伝でのメインは邪馬台国ではなく、
女王国のように思います。

・このことは女王国というのは倭全体のことで、
首都が邪馬台国だということを記したからだというのならわかりますが。

これとは別に、
hn2602さんもわかってるとは思いますが、私は今の所
・女王国(北部九州)と邪馬台国(畿内)は別物という立場ですけど。

結局のところ女王国の実態とはなにが正解なのかはわかりません(苦笑)

投稿時間:04/04/06(Tue) 21:20
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^2: 女王国とは全体か個か

> 箸墓の年代設定でもめてることはよくわかってますが、
>
> ヤマトトトビソモモソビメが
> 全長280メートル級の古墳に葬られるくらいですので、
> 畿内説論者にしては女王とされても仕方ないとは思います。

菊池さんは、「台与(壹與)」が、ヤマトトトビモモソヒメとお考えですか?

> 神功皇后と共に
> 邪馬台国に都する女王であった可能性は高いように思います。

神功皇后とヤマトトトビモモソヒメでは、記紀の時代設定上、離れ過ぎ、且つ、神功皇后=卑弥呼とするなら、時代の逆転現象が起こっているよに見えますが・・・。


> 問題はこれらが女王国の卑弥呼・台与政権と一致したものかどうかということかと思います。
>
> なぜか、邪馬台国という語は一箇所のみ。
> 魏志倭人伝でのメインは邪馬台国ではなく、
> 女王国のように思います。
>
> ・このことは女王国というのは倭全体のことで、
> 首都が邪馬台国だということを記したからだというのならわかりますが。

三国志魏書東夷伝倭人条では、そのように読み取れますが?

> これとは別に、
> hn2602さんもわかってるとは思いますが、私は今の所
> ・女王国(北部九州)と邪馬台国(畿内)は別物という立場ですけど。
>
> 結局のところ女王国の実態とはなにが正解なのかはわかりません(苦笑)

確かに、菊池さんの説に似たことは、私も昔、考えたことはあります。南九州の「狗奴国」=熊襲(・隼人)と考えると、魅力的ですが、仮に、近畿の邪馬台国が魏との交通路を狗奴国によって、妨害あされたとしたら、日本海航路を採り得たと考えられます。勿論、出雲と大和が犬猿の仲で、卑弥呼の仲裁で漸く、何とか付き合っているといったことも考えられますが、「女王の都す所」と明記されている以上、「女王卑弥呼」が「邪馬台国」のなかに「王都」を設けていたことは動かせません。

 ここで「『女』に騙されるな』と言いたいのですが、「女王国」の「女」というのは、「男」に対する対語であり、要するに「女王国」とは、「卑弥呼王(偶々、女性だった)の治める『倭王国』」を意味している訳ですから、「女王国」=「王国」であり、この場合は、「魏帝国」が認めた「親魏『倭王』」の支配する王国を指していることは明らかです。即ち、「倭王国」=「女王国」であり、「女王国」≠「邪馬台国」、「倭国(倭王国)」≠「邪馬台国」です。「女王国」は、「倭国王」として、「女王卑弥呼」を、「共立」した倭人諸国の一つではあり得ないのです。「倭王国」を構成する29/29ヶ国の名は、全て魏志に挙げられています。

投稿時間:04/04/07(Wed) 09:41
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:Re^3: 女王国とは全体か個か
> 菊池さんは、「台与(壹與)」が、ヤマトトトビモモソヒメとお考えですか?


いえいえ。ヤマトトトビモモソヒメは魏志倭人伝で記載されている邪馬台国に都した女王の可能性があるということで、実際大和に居て大きな古墳に葬られているということです。
さすがにそれ以外(卑弥呼・台与と同一か?)の断定はできません。


> 神功皇后とヤマトトトビモモソヒメでは、記紀の時代設定上、離れ過ぎ、且つ、神功皇后=卑弥呼とするなら、時代の逆転現象が起こっているよに見えますが・・・。


卑弥呼・台与の情報と大和の女王の情報が一致した年代のものだったかという疑問が最近生まれています。

それとhn2602さんは天皇世代数を重視してるように思ってますが、
紀年代重視でいくと神功皇后の可能性が高くなります。
そうなった場合、欠史八代の組み立てにもう何代か追加する必要性もでては来ますが。。。
どっちにせよ、世代数・在位年数どれかを修正しなければ成立ちません。


> > なぜか、邪馬台国という語は一箇所のみ。
> > 魏志倭人伝でのメインは邪馬台国ではなく、
> > 女王国のように思います。
> >
> > ・このことは女王国というのは倭全体のことで、
> > 首都が邪馬台国だということを記したからだというのならわかりますが。
>
> 三国志魏書東夷伝倭人条では、そのように読み取れますが?


その線でも説を構築中です。
もう。卑弥呼の居た場所は畿内でも九州でもどっちでも良くなってきました。
邪馬台国を九州に持っていく為とか、畿内に持っていく為とかの考察では、どんどん事実から離れていってしまうような気がしますし。


投稿時間:04/04/07(Wed) 23:56
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^4: 女王国とは全体か個か
> いえいえ。ヤマトトトビモモソヒメは魏志倭人伝で記載されている邪馬台国に都した女王の可能性があるということで、実際大和に居て大きな古墳に葬られているということです。
> さすがにそれ以外(卑弥呼・台与と同一か?)の断定はできません。

「大きな古墳」には、「倭女王」の卑弥呼・台与の他に、大和朝廷の「天皇」である「邪馬台国王」歴代も埋葬されている可能性が高く、更に、「大王級古墳」は、大王(天皇)の数より多いと考える専門家もいるようです。従って、私としては、「大王(天皇)」=邪馬台国王の他に、倭国女王、更に記紀の「祝人」となった「神八井耳」以下、祭祀を管掌した大王の兄弟姉妹も同数、大王級古墳に割り当てても良いのですが。


> 卑弥呼・台与の情報と大和の女王の情報が一致した年代のものだったかという疑問が最近生まれています。
>
> それとhn2602さんは天皇世代数を重視してるように思ってますが、
> 紀年代重視でいくと神功皇后の可能性が高くなります。
> そうなった場合、欠史八代の組み立てにもう何代か追加する必要性もでては来ますが。。。
> どっちにせよ、世代数・在位年数どれかを修正しなければ成立ちません。

「直系系譜」を伝えているということで、世代数を重視しているのですが。

> > > なぜか、邪馬台国という語は一箇所のみ。
> > > 魏志倭人伝でのメインは邪馬台国ではなく、
> > > 女王国のように思います。
> > >
> > > ・このことは女王国というのは倭全体のことで、
> > > 首都が邪馬台国だということを記したからだというのならわかりますが。
> >
> > 三国志魏書東夷伝倭人条では、そのように読み取れますが?
>
>
> その線でも説を構築中です。
> もう。卑弥呼の居た場所は畿内でも九州でもどっちでも良くなってきました。
> 邪馬台国を九州に持っていく為とか、畿内に持っていく為とかの考察では、どんどん事実から離れていってしまうような気がしますし。

その通りだと思います。私は、「近畿説」を「一応」採っていると最初から断っているように、前13世紀の「燕遼圏(遼河流域)からの倭人の半島南部への南下、前10世紀の倭人の列島進出(当初、北・中部九州)と弥生時代の開始、前4世紀(あるいは前6世紀くらいに繰り上がる可能性もあるのではないかと考えています)頃の弥生時代中期開始(天孫族の列島渡来?あるいは、「越系海洋民・稲作民」と「倭人の支配氏族の一派」との結合による「天皇氏族」の誕生時期?、紀元前後から紀元後一世紀くらいまでの「倭王権」(委奴国・倭面土国)の誕生と、王族(天孫族)系の諸氏の東遷・東征、そして3世紀中葉の卑弥呼登場前の古墳時代への移行、というように、大雑把に倭国史を捉えると、邪馬台国が筑紫では、日本の統一が遅すぎるのです。

投稿時間:04/04/05(Mon) 10:51
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:Re: 90度回転
>さて、魏志倭人伝に見る倭国の習俗が、海南島に比せられるほど、著しく南方風であるという問題があり、これを「九州説」の根拠とする論者がありますが、女王国の都周辺の邪馬台国の習俗がこれほど南方風であるのが事実だとすれば、邪馬台国を北九州に求めることも、近畿説同様困難になると思われます。真夏の南九州あたりだと、何とか及第するかも知れません。


どっちかといったら北部九州説の方が不利かと思いますが、
「畿内説」にしてみれば、まつろ国を中心に90度回転させて一致させる技がありますし。
そのような地図もあることはあるようですし。

郡から一万二千里離れた(倭奴国時代のものかもしれません)北部九州において倭人伝の南国風習と一致させるのは困難でしょう。
魏志倭人伝記事では南国風習だからこそ北部九州では無理があるのです。

私も東を南に間違えたといったことかと思います。
ですが、九州論者は倭人伝記事での南国風習は北部九州の風俗そのものだとの主張を繰り返すだけかとも思います。

投稿時間:04/04/06(Tue) 20:53
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^2: 90度回転

> どっちかといったら北部九州説の方が不利かと思いますが、
> 「畿内説」にしてみれば、まつろ国を中心に90度回転させて一致させる技がありますし。
> そのような地図もあることはあるようですし。
>
> 郡から一万二千里離れた(倭奴国時代のものかもしれません)北部九州において倭人伝の南国風習と一致させるのは困難でしょう。
> 魏志倭人伝記事では南国風習だからこそ北部九州では無理があるのです。
>
> 私も東を南に間違えたといったことかと思います。
> ですが、九州論者は倭人伝記事での南国風習は北部九州の風俗そのものだとの主張を繰り返すだけかとも思います。

昨日は、なぜかインターネットに接続できず、やきもきしました。今日接続できてやれやれですが、一体何が原因だったのでしょうか?
 いまだにパソコンにとっくに買ってあるプリンターを接続していない(今やできないかも?)私には、五里霧中です。

 閑話休題、この魏志倭人伝における南方風習俗は、本当に邪馬台国を、北九州に求めても、畿内に求めても、うまく説明できません。沖縄あたりで、やっとあり得そうな話ですが、しかし、沖縄に一万戸以上の国を求めることは不可能です。なにしろ、17世紀初頭の薩摩の琉球攻めのころで確か人口は八万人くらいだった(12万人だったかも)ように覚えているのですが。
 
 まあ、この習俗は、「鬱人(鬱林・蒼梧郡あたりの民族)」あたりの話が紛れ込んだとでも、考えた方が良いのでしょう。

投稿時間:04/04/07(Wed) 13:10
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:畿内説の逆襲の沖縄説
>  閑話休題、この魏志倭人伝における南方風習俗は、本当に邪馬台国を、北九州に求めても、畿内に求めても、うまく説明できません。沖縄あたりで、やっとあり得そうな話ですが、しかし、沖縄に一万戸以上の国を求めることは不可能です。なにしろ、17世紀初頭の薩摩の琉球攻めのころで確か人口は八万人くらいだった(12万人だったかも)ように覚えているのですが。
>  
>  まあ、この習俗は、「鬱人(鬱林・蒼梧郡あたりの民族)」あたりの話が紛れ込んだとでも、考えた方が良いのでしょう。


沖縄の魅力は水行10日・20日の根拠になることと、
会稽東やに近ずくといった所ですかね。
南・東90度回転畿内説の拠り所でしょう。

投稿時間:04/04/07(Wed) 23:59
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re: 畿内説の逆襲の沖縄説

> 沖縄の魅力は水行10日・20日の根拠になることと、
> 会稽東やに近ずくといった所ですかね。
> 南・東90度回転畿内説の拠り所でしょう。

確かにもうチョイ回転すれば、大陸南部に重なりますね(笑)。

投稿時間:04/03/07(Sun) 17:26
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:これは物凄い
> こちらのスレッドに質問や反論はこちらのスレッドにお願いします。

知らぬ間に、
いやぁー
それにしてもすごい研究論説ですね。
こんだけ派手に飾られたのでは
hn2602さんの名前、古代史通の間では相当売れたと思います。

いっそ。出版化を目指してみてもいいのではないでしょうかね?

投稿時間:04/03/07(Sun) 22:12
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re: これは物凄い
> > こちらのスレッドに質問や反論はこちらのスレッドにお願いします。
>
> 知らぬ間に、
> いやぁー
> それにしてもすごい研究論説ですね。
> こんだけ派手に飾られたのでは
> hn2602さんの名前、古代史通の間では相当売れたと思います。


いいえ、全然反応ナシです。ただ、はやく「大和朝廷」まで辿り着かないといつまで経っても終わらず、ロトさんにご迷惑がかかるので、少しいそいでいるのですが。

> いっそ。出版化を目指してみてもいいのではないでしょうかね?

ご冗談を。なにしろ頼りが記紀しか無い時代を扱うとなると、「トンデモ」度が上がらざるを得なくなります。もう少し「ありそうな」話に煮詰まらないと、どうしようもありません。

投稿時間:04/01/05(Mon) 14:28
投稿者名:巫俊
Eメール:brownie@e-net.or.jp
URL :
タイトル:九夷と于夷と倭
はじめまして古代史掲示板の皆様、巫俊(ふしゅん)です。あるとき白川静氏に興味をもち、以来殷代史研究を志しています。弥生の幕開けが500年遡ったことで、殷と日本の関係は理解しやすくなったと思えますが、以外に殷と日本を結びつける論考は少なく、この掲示板の論説は貴重なものに思われますo(^^)o

倭人は東夷であり、竹書紀年の九夷のひとつ于夷が倭につながる。なるほど魅力的な説です。ただこの説を主張なさるなら、まず于夷・九夷の典拠になっている竹書紀年の史料批判が必要でしょう?竹書紀年は3世紀末、戦国魏王の墓から発見された戦国魏国の年代記ですが、その後散佚し(古本竹書紀年)、元・明のころ偽『竹書紀年』がつくられます(今本竹書紀年)。hn2602さんの引用する竹書紀年は後漢書東夷伝に引用された古本竹書紀年です。

竹書紀年が編纂された戦国時代は、急速に氏族社会が崩壊し、白川静氏の言うような呪術者による統治も完全に崩壊した変革期にあたります。華夷思想をはじめとして徳(道徳)の観念、陰陽五行説、踰年称元法、夏暦、禹の九州、音楽理論といった中国の伝統は戦国時代にはじめて成立した概念で、それ以前の殷周には存在しなかったものです。詳しくは東京大学東洋文化研究所教授の平勢隆郎氏のHPを 
http://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edo2/edo.cgi/hirase

九夷={田犬}夷、白夷、赤夷、玄夷、風夷、陽夷、黄夷、于夷、方夷

http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gokan-toui.html

そんな時代に、魏王の正統性を主張する目的から編纂された魏の年代記(竹書紀年)ですが、「九夷」を見てまず目につくのは色です。「白夷」「赤夷」「玄夷」「黄夷」は明らかに陰陽五行説の五色です。青色がないのは青色自体が「東」を象徴するからでしょうか。陰陽五行説は戦国時代の成立なので、この四夷は戦国時代に整理されたことが解ります。

次に「{田犬}夷」ですが、甲骨文解読で知られる王國維氏は、西周を脅かした外族「ケンイン」(ケンインは青銅器銘文。戦国文献は犬戎と書く)と「{田犬}夷」は音通して同部族だと論じているようです。(つまり東夷ではないと)私には東方沿海夷系の九夷に「{田犬}夷」がまざっていることが疑問ですが、北方系を想定するhn2602さんには好材料かもしれません。

最後に、「九夷」の「九」は戦国時代の聖数です。音楽理論といって、戦国時代の編鍾の音階変化の法則から、「九」「六」「八」が聖なる数字とされ、戦国時代の文献は聖数を使って歴史を整理しています。(音楽理論については平勢氏の著書に詳しいです)以上を総合すると、古く夷系の(いわゆる東夷の)文化があり、戦国時代の竹書紀年は「夷」の前に聖数であり多数をあらわす「九」をつけて「九夷」と呼んだ。そんなところではないでしょうか。

余話:「于夷」の出所は?しいて探せば甲骨文に「于方伯」(実際の字は于のしたに皿がある)という邦がありますが。「方夷」を逆さにしたら甲骨文の邦「夷方」すなわち「人方」ですね。「陽夷」は?太陽?殷の湯王?
HLAハプロタイプは初めて聞く言葉なのですが、現代人の遺伝情報ですよね。現代人の「北方系」とはどこまでの地域を指すのでしょうか?

投稿時間:04/01/05(Mon) 23:59
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re: 九夷と于夷と倭
> はじめまして古代史掲示板の皆様、巫俊(ふしゅん)です。あるとき白川静氏に興味をもち、以来殷代史研究を志しています。弥生の幕開けが500年遡ったことで、殷と日本の関係は理解しやすくなったと思えますが、以外に殷と日本を結びつける論考は少なく、この掲示板の論説は貴重なものに思われますo(^^)o

巫俊さま、丁寧な書き込み、鋭いご指摘まことに有難うございます。私も、白川静氏(先生と敬称したいところですが、私のようなトンデモ説を唱えるような無縁の者に先生と奉られるとかえってご迷惑かと思い、「白川静氏」で通しています)の本(東洋文庫の「甲骨文の世界」「金文の世界」)を昭和40年代末に読んで以来、殷周には
興味をもっていますが、何分本職(内科医)が忙しく、十分、勉強ができませんでした。
それと並行して、日本人/国家/民族/言語などの起源についてもずっと関心がありましたが、門外漢には何の手がかりももないものの、現在の通説〜定説にも何か違うという違和感がありました。
 しかし最近の免疫学や分枝遺伝学の急速な進歩の中で、HLAハプロタイプのデータが出始め、徳永勝士氏の人類学的な論文を見たときに、他の分野と学際的に統合/共同研究を行えば、日本人/国家/民族/言語などの起源に、重要な、決定的な進歩がもたらされると思い、興奮して待っていましたが、その後は確かに進歩はしていますが、極めて遅く、どうの私の頭の呆ける前に、結論がでる可能性はなさそうだと思えたので、とりあえず暴走覚悟で何らかの結論を早く得たいと、非力を顧みず、あちこちから読み齧った諸科学?のデータ?を統合して、私なりのストーリーを組み立てる試みを始めたところです。従って、新事実がでれば、それが正しいと確信できしだい、常に訂正の容易はあり、各分野にお詳しい方の、ご教示/ご叱正は大歓迎です。ただ、自説を出した以上、ある程度はそれを主張して、議論しなければ討論になりませんので、多少は自説を固持する場面もあると思いますが、ディベートだと考え、ご海容の程、お願いします。尚、繊毛かの書先生は、例シュウが少なかったり、証拠の蓄積まで、発言を控えられるため、成果を周知できないのだろうと思われますが、わら氏はいつでも意見を修正できる「素人」の立場に九本的に立っていますので、少数例や、根拠がやや薄弱でも、大単位踏み込みます(当然トンデモ説度は高くなります)ので、お含みおきください。
 

> 倭人は東夷であり、竹書紀年の九夷のひとつ于夷が倭につながる。なるほど魅力的な説です。ただこの説を主張なさるなら、まず于夷・九夷の典拠になっている竹書紀年の史料批判が必要でしょう?竹書紀年は3世紀末、戦国魏王の墓から発見された戦国魏国の年代記ですが、その後散佚し(古本竹書紀年)、元・明のころ偽『竹書紀年』がつくられます(今本竹書紀年)。hn2602さんの引用する竹書紀年は後漢書東夷伝に引用された古本竹書紀年です。

このあたりの資料批判については、巫俊(ひょっとして商=殷の最高神「帝俊」からのHNでしょうか?)様にご教示お願いしたいところです。

> 竹書紀年が編纂された戦国時代は、急速に氏族社会が崩壊し、白川静氏の言うような呪術者による統治も完全に崩壊した変革期にあたります。華夷思想をはじめとして徳(道徳)の観念、陰陽五行説、踰年称元法、夏暦、禹の九州、音楽理論といった中国の伝統は戦国時代にはじめて成立した概念で、それ以前の殷周には存在しなかったものです。詳しくは東京大学東洋文化研究所教授の平勢隆郎氏のHPを 
> http://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edo2/edo.cgi/hirase
>
> 九夷={田犬}夷、白夷、赤夷、玄夷、風夷、陽夷、黄夷、于夷、方夷
>
> http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gokan-toui.html
>
> そんな時代に、魏王の正統性を主張する目的から編纂された魏の年代記(竹書紀年)ですが、「九夷」を見てまず目につくのは色です。「白夷」「赤夷」「玄夷」「黄夷」は明らかに陰陽五行説の五色です。青色がないのは青色自体が「東」を象徴するからでしょうか。陰陽五行説は戦国時代の成立なので、この四夷は戦国時代に整理されたことが解ります。
>
> 次に「{田犬}夷」ですが、甲骨文解読で知られる王國維氏は、西周を脅かした外族「ケンイン」(ケンインは青銅器銘文。戦国文献は犬戎と書く)と「{田犬}夷」は音通して同部族だと論じているようです。(つまり東夷ではないと)私には東方沿海夷系の九夷に「{田犬}夷」がまざっていることが疑問ですが、北方系を想定するhn2602さんには好材料かもしれません。

この点については、わたしも@西戎のケン(田犬)戎とは別に、山東から、淮河流域にかけて、ケン(田犬)夷が存在した(東洋文庫「東アジア民族史1」では、後漢書東夷伝の九夷の開設では、淮河流域にケン戎とは別のケン夷がいたとの説をとっているようです)、Aケン(田犬)戎の一部が東進して「ケン(田犬)夷」となった、のいずれがただしいかは、わかりません。後代、春秋時代の燕国の西北(北狄の東に「山戎」を考える(孤竹国の北)こともあり、一筋縄ではいかない問題です。
そもそも、甲骨文の四方風神の中に、「西方を夷といふ」の一文もあり、私は、これを「山海経大荒西経」の「人有り。名を石夷といふ。來風をイ(偉から「イ」を除いた字)といふ。西北隅に処(本来は旧字体)りて、以って日月の長短を司る」とあわせて、「夷」系諸族が、商民族や狄系諸族とともに、4千年〜5千年前に「西北」砂割、黄河河源地方やその北方を通って、東進しyてきたことの伝承ではないかと考えています。

> 最後に、「九夷」の「九」は戦国時代の聖数です。音楽理論といって、戦国時代の編鍾の音階変化の法則から、「九」「六」「八」が聖なる数字とされ、戦国時代の文献は聖数を使って歴史を整理しています。(音楽理論については平勢氏の著書に詳しいです)以上を総合すると、古く夷系の(いわゆる東夷の)文化があり、戦国時代の竹書紀年は「夷」の前に聖数であり多数をあらわす「九」をつけて「九夷」と呼んだ。そんなところではないでしょうか。

その可能性も十分あると思いますが、夷、戎、狄、蛮の前に「九、八、七、六」を付けた成語を見た覚えがあり、あるいは単なる語呂合わせかもしれません。あるいは、「九夷」どころではなく、十以上の東夷諸族があり、「多数」の意味で「九」を用いたのかも知れませんが。

> 余話:「于夷」の出所は?しいて探せば甲骨文に「于方伯」(実際の字は于のしたに皿がある)という邦がありますが。「方夷」を逆さにしたら甲骨文の邦「夷方」すなわち「人方」ですね。「陽夷」は?太陽?殷の湯王?

私としては、「于夷」という実在の東夷種族があり、これが「iua」→「ua」wa倭となったとこじつけたいのですが。「陽夷」については何も考えがありませんが、こじつけついでに、「陽」と「羊」の発音がもし同じなら(チェックしていません)m「朝鮮」の「鮮」を「陽夷」が魚を捕るからだといいたいところですが、では「ヒツジ」はどうしたと突っ込まれそうなので・・・。

> HLAハプロタイプは初めて聞く言葉なのですが、現代人の遺伝情報ですよね。現代人の「北方系」とはどこまでの地域を指すのでしょうか?

基本的には、朝鮮半島や黄河流域以北で満洲・シベリア・蒙古高原一帯だと思います。

投稿時間:04/01/06(Tue) 05:09
投稿者名:巫俊
Eメール:brownie@e-net.or.jp
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タイトル:陽夷と明夷
> 白川静氏(先生と敬称したいところですが、私のようなトンデモ説を唱えるような無縁の者に先生と奉られるとかえってご迷惑かと思い、「白川静氏」で通しています)の本(東洋文庫の「甲骨文の世界」「金文の世界」)

先生と呼ぶのは恥ずかしい、呼び捨てにはしたくない(^^;甲骨文の世界は昭和47年刊行ですから、最新の研究成果をお読みになったのですね。私はまだ生まれてなくて、90年代の終わりに宮城谷昌光の小説を読んで白川氏を知って、最初に読んだのはやはり甲骨文の世界でした。

>しかし最近の免疫学や分枝遺伝学の急速な進歩の中で、HLAハプロタイプのデータが出始め・・・データ?を統合して、私なりのストーリーを組み立てる試みを始めたところです。・・・少数例や、根拠がやや薄弱でも、大単位踏み込みます

HLAハプロタイプの分岐、系統樹が解明されればいいのですが、相当時間がかかるのですね。白川静が宗教・呪術に発想を得て解釈を進めたように、医学データに発想を得るという訳ですね。

> 巫俊(ひょっとして商=殷の最高神「帝俊」からのHNでしょうか?)様

はい、ご明察です。ハンドルネームは現代日本人風かつ殷人風にと思い、色々捜した結果、俊だと。整合性をつけるなら殷末に日本に逃れた殷帝の司祭の苗裔? ってところでしょうか(笑)

> @西戎のケン(田犬)戎とは別に、山東から、淮河流域にかけて、ケン(田犬)夷が存在した・・・Aケン(田犬)戎の一部が東進して「ケン(田犬)夷」となった・・・後代、春秋時代の燕国の西北(北狄の東に「山戎」を考える(孤竹国の北)

考古学では、陝西北部の寺窪文化がケンイン(犬戎)です。寺窪文化は明確に甘粛系の古文化であり、時期は殷〜周代です。hn2602さんの「東夷」の範囲内の地域にケンイン系文化の遺跡がもし見つかったなら、それが{田犬}夷だということになります。

http://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edo2/edo.cgi/_2zuwS5eBTJPovwflH2bTdw.html

↑平勢氏の外族観考察をご覧になってください。
えーと『東夷・南蛮・北狄・西戎が漢民族の天下の外の四方にいる』という認識があるかと思いますが、これは実は随分あとになってから、前漢末の王モウのときの観念です。

戦国時代は国ごとに外族観が違い、自国を中国と呼び、他の国家を(中原であっても)夷狄や戎と呼んで蔑んでいました。山戎や北狄という言葉は戦国文献の記載です。戦国時代の人の恣意が入っています。山戎は戎系、北狄は狄系と理解して、単純に二系統の民族の差異を求める訳にはいかないという問題があります。

> そもそも、甲骨文の四方風神の中に、「西方を夷といふ」の一文もあり、私は、これを「山海経大荒西経」の「人有り。名を石夷といふ。來風をイ(偉から「イ」を除いた字)といふ。西北隅に処(本来は旧字体)りて、以って日月の長短を司る」とあわせて、「夷」系諸族が、商民族や狄系諸族とともに、4千年〜5千年前に「西北」砂割、黄河河源地方やその北方を通って、東進してきたことの伝承ではないかと考えています。

「西方を夷といふ」これはどの本を参照なさいました?これは京五二0(整理番号)の甲骨片ですが、これは普通に読めば夷とは読めないんです。

白川静氏の『漢字の世界』『甲骨文の世界』『回思九十年』を確認しましたが、すべて「西方を偉(イを除く)といふ」と釈字されています。この字は木に横線をみっつ足したような字ですが、甲骨文の夷は人が膝をまげている形です。

ただ山海経に石夷、尚書堯典に夷とあることから、おそらく戦国時代の編纂段階で夷とされた可能性はあり、ではこの字は夷か?というと新たに発見された殷綴二六一+乙六五三三(整理番号)四方風神の甲骨片は、西の方神と風神が入れ替わっていて、しかも「南に帝して長といい、風は夷」とあるのです。

なお四方風神について、伊藤道治氏は四方の方国の神名ではないかと解釈しています。

> 「陽夷」については何も考えがありませんが、こじつけついでに、「陽」と「羊」の発音がもし同じなら(チェックしていません)「朝鮮」の「鮮」を「陽夷」が魚を捕るからだといいたいところですが、では「ヒツジ」はどうしたと突っ込まれそうなので・・・。

『易経』に箕子伝承とされる謎めいた言葉があります。
明夷、于(ゆ)き飛びて、その翼を垂(た)る、君子于き行く、三日食せず、往くところあれば、主人言うことあり。

明夷は族名かもしれません。ただ甲骨文の明は太陽と月ではなく、窓と月です。

> 基本的には、朝鮮半島や黄河流域以北で満洲・シベリア・蒙古高原一帯だと思います。

東洋史で異民族侵入の激しいところですね。

投稿時間:04/01/07(Wed) 00:01
投稿者名:hn2602
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タイトル:Re: 陽夷と明夷

> 先生と呼ぶのは恥ずかしい、呼び捨てにはしたくない(^^;甲骨文の世界は昭和47年刊行ですから、最新の研究成果をお読みになったのですね。私はまだ生まれてなくて、90年代の終わりに宮城谷昌光の小説を読んで白川氏を知って、最初に読んだのはやはり甲骨文の世界でした。

先ほど、「甲骨文の世界」を見ると、昭和48年8月31日の初版第三刷発行、「金文の世界」は、昭和48年7月1日の初版第五刷となっていました。当時、書評で評判になっていたのを見て、購入し、旬日を措かず読み終えた覚えがありますので、昭和48年末頃に読んだ野であろうと思います。
最近、宮城谷昌光氏や酒見賢一氏の小説も読み、確かに面白く、これで殷周などの興味を持つ人が増えればよいなと感じました。もっとも、金庸の「武侠」小説も全部愛読していますが(勿論翻訳で)。

> >しかし最近の免疫学や分枝遺伝学の急速な進歩の中で、HLAハプロタイプのデータが出始め・・・データ?を統合して、私なりのストーリーを組み立てる試みを始めたところです。・・・少数例や、根拠がやや薄弱でも、大単位踏み込みます

「分枝」は「分子」の誤りで、元論「分子遺伝学」の誤変換です。最近パソコンを始め、メールと掲示板書き込みしかできません(といっても一年経過しましたが)が、年に免じてご容赦のほどお願いします。

> HLAハプロタイプの分岐、系統樹が解明されればいいのですが、相当時間がかかるのですね。白川静が宗教・呪術に発想を得て解釈を進めたように、医学データに発想を得るという訳ですね。

学位(医学博士、例の「足の裏の米粒」とか「Schamhaare」とかいうやつです)が、細胞性免疫の研究ということになっていますので。この頃はHLAが日本に入って盛んに疾病感受性との関係が論じられていた時代でしたので、親近感があるのです。

> > @西戎のケン(田犬)戎とは別に、山東から、淮河流域にかけて、ケン(田犬)夷が存在した・・・Aケン(田犬)戎の一部が東進して「ケン(田犬)夷」となった・・・後代、春秋時代の燕国の西北(北狄の東に「山戎」を考える(孤竹国の北)
>
> 考古学では、陝西北部の寺窪文化がケンイン(犬戎)です。寺窪文化は明確に甘粛系の古文化であり、時期は殷〜周代です。hn2602さんの「東夷」の範囲内の地域にケンイン系文化の遺跡がもし見つかったなら、それが{田犬}夷だということになります。

どうも中国の考古学の大勢や年代観をどう考えて良いものたら、また、現在の定説〜通説がどういうものやらもよくわからないのです。日本語で書かれた良い総説があれば是非ご教示おねがいします。尚、ご紹介戴いた「ひらせ ホームページ」は早速「お気に入り」に登録し、4編ばかり目を通しました。
ただ、中国の考古学も旧石器時代あたりは、アフリカ対何時起源説に否定的だったように思われ、そのあたりは、信用できるかどうか・・・。

> http://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edo2/edo.cgi/_2zuwS5eBTJPovwflH2bTdw.html
>
> ↑平勢氏の外族観考察をご覧になってください。

読みました。これまで、あまり注意していなかった点に着つかされました。

> えーと『東夷・南蛮・北狄・西戎が漢民族の天下の外の四方にいる』という認識があるかと思いますが、これは実は随分あとになってから、前漢末の王モウのときの観念です。
>
> 戦国時代は国ごとに外族観が違い、自国を中国と呼び、他の国家を(中原であっても)夷狄や戎と呼んで蔑んでいました。山戎や北狄という言葉は戦国文献の記載です。戦国時代の人の恣意が入っています。山戎は戎系、北狄は狄系と理解して、単純に二系統の民族の差異を求める訳にはいかないという問題があります。

良くわかりますが、もう1つ、「音」の問題です。「テキ(狄)」という音自体は、現在のトルコ系諸民族、即ち,チュルクTURKの種族/民族名うつしたものと考えられ、後代の「丁零」「鉄勒」「突厥」にもつながると思われますから、「狄」が、北方以外に現れても、私はやはり「チュルク系」ないしそれに近いアルタl系の民族/種族に属すると解釈したいのです。同様に「夷」の名が現れれば、「殷」「衣」「委」などの「音」の近さから、「商」=「殷」と誓いいわゆる「東夷諸族」=九夷?に類縁のものと考えたいのです。同様に「戎」はおそらくチベット?ビルマ語族系の、「蛮」は、苗・ヤオ系?(南島語族とかも考えるべきかも)の種族が主ではにかとまず考えることにしています。もっとも、「東夷」の主神「俊」を奉じる「商」が、「有シュウ(女戎)氏」の娘「簡狄」の子孫というのを考えると、商民族もかなり混成された集団のように思えますが。


> > そもそも、甲骨文の四方風神の中に、「西方を夷といふ」の一文もあり、私は、これを「山海経大荒西経」の「人有り。名を石夷といふ。來風をイ(偉から「イ」を除いた字)といふ。西北隅に処(本来は旧字体)りて、以って日月の長短を司る」とあわせて、「夷」系諸族が、商民族や狄系諸族とともに、4千年〜5千年前に「西北」砂割、黄河河源地方やその北方を通って、東進してきたことの伝承ではないかと考えています。
>
> 「西方を夷といふ」これはどの本を参照なさいました?これは京五二0(整理番号)の甲骨片ですが、これは普通に読めば夷とは読めないんです。
>
> 白川静氏の『漢字の世界』『甲骨文の世界』『回思九十年』を確認しましたが、すべて「西方を偉(イを除く)といふ」と釈字されています。この字は木に横線をみっつ足したような字ですが、甲骨文の夷は人が膝をまげている形です。

私の持つ白川氏の「甲骨文の世界」p49です。ただ「南方をキョウといふ。」の「キョウ(來に似た字)」や「委」にはいちおうそれに近い字をあてた、との文がありますので、第二版以降で解釈が変ったのかもしれません。

> ただ山海経に石夷、尚書堯典に夷とあることから、おそらく戦国時代の編纂段階で夷とされた可能性はあり、ではこの字は夷か?というと新たに発見された殷綴二六一+乙六五三三(整理番号)四方風神の甲骨片は、西の方神と風神が入れ替わっていて、しかも「南に帝して長といい、風は夷」とあるのです。
>
> なお四方風神について、伊藤道治氏は四方の方国の神名ではないかと解釈しています。

伊藤道治しの「古代殷王朝のなぞ」(角川新書、昭和42年7月10日)が本棚にあります。それにしても最近出版の本といえば、「漢時の世界1,2」(平凡社ライブラリー)くらいとは、ちょっと反省。

> > 「陽夷」については何も考えがありませんが、こじつけついでに、「陽」と「羊」の発音がもし同じなら(チェックしていません)「朝鮮」の「鮮」を「陽夷」が魚を捕るからだといいたいところですが、では「ヒツジ」はどうしたと突っ込まれそうなので・・・。
>
> 『易経』に箕子伝承とされる謎めいた言葉があります。
> 明夷、于(ゆ)き飛びて、その翼を垂(た)る、君子于き行く、三日食せず、往くところあれば、主人言うことあり。
>
> 明夷は族名かもしれません。ただ甲骨文の明は太陽と月ではなく、窓と月です。

ご教示ありがとうございます。もっとも「陽夷」は殷の遺民を率いた箕子に従って「古朝鮮」を建国したが、これに従わなかった于遺河、何時かして「倭人」になったというのが私の当初の考えでした。その後、箕子集団の到着前に九夷の南下運動があり、これが商の滅亡の延引となったとの考えに至ったため、今はあまり陽夷については考えていないもので。

> > 基本的には、朝鮮半島や黄河流域以北で満洲・シベリア・蒙古高原一帯だと思います。
>
> 東洋史で異民族侵入の激しいところですね。

そうです。したがって、「後漢書鮮卑伝」の「倭人国」、ずっと後代の史書ですが、朝鮮の史書「三国史記高句麗本紀」の「倭山田猟」記事から、「倭」が遼河流域にいたとかんがえています。勿論倭人/天孫族の妻子が、「東夷」の「古俗」を伝えていると解釈できることもその根拠ですが。

投稿時間:04/01/11(Sun) 04:49
投稿者名:巫俊
Eメール:brownie@e-net.or.jp
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タイトル:九夷と南下と倭
> 最近、宮城谷昌光氏や酒見賢一氏の小説も読み、確かに面白く、これで殷周などの興味を持つ人が増えればよいなと感じました。

私もそのひとりです(^^)

> 「分枝」は「分子」の誤りで(中略)この頃はHLAが日本に入って盛んに疾病感受性との関係が論じられていた時代でしたので、親近感があるのです。

日本人の北方系HLAは10%でしたっけ?ということは他のタイプのHLAが日本人中に十何種類かそれ以上あって、北方系が最大規模と思っていいのでしょうか?

> どうも中国の考古学の大勢や年代観をどう考えて良いものたら、また、現在の定説〜通説がどういうものやらもよくわからないのです。日本語で書かれた良い総説があれば是非ご教示おねがいします。

最近は興味の向いた論文を読むくらいで、分厚い総説は知らないのですが、
「世界歴史大系 中国史1」山川出版社 2003年8月
は近年の成果を吸収して適切に概説してるんじゃないでしょうか。先史から後漢まで、要所を押さえて新たな歴史観を提示してるようです。なお春秋戦国時代を平勢氏が担当してます。

> 良くわかりますが、もう1つ、「音」の問題です。「テキ(狄)」という音自体は、現在のトルコ系諸民族、即ち,チュルクTURKの種族/民族名うつしたものと考えられ、後代の「丁零」「鉄勒」「突厥」にもつながると思われますから、「狄」が、北方以外に現れても、私はやはり「チュルク系」ないしそれに近いアルタl系の民族/種族に属すると解釈したいのです。同様に「夷」の名が現れれば、「殷」「衣」「委」などの「音」の近さから、「商」=「殷」と誓いいわゆる「東夷諸族」=九夷?に類縁のものと考えたいのです。同様に「戎」はおそらくチベット?ビルマ語族系の、「蛮」は、苗・ヤオ系?(南島語族とかも考えるべきかも)の種族が主ではにかとまず考えることにしています。もっとも、「東夷」の主神「俊」を奉じる「商」が、「有シュウ(女戎)氏」の娘「簡狄」の子孫というのを考えると、商民族もかなり混成された集団のように思えますが。

まず、「狄」「戎」は出土資料【殷虚甲骨文5万文字、周原甲骨文数百文字、殷金文若干数、西周金文2万文字】に存在しません。(軍事の意味の戎はあります)「蛮」は殷代には見えず、周代になって漠然とした外族呼称として使われます。

西周時代の南方の外族は淮夷、南夷、楚荊、苗族など多数あり、淮夷は九夷の後とも言われる夷系、楚は安キ省あたりの祝融系で殷に服属した後に湖南に侵攻、苗族は伏キ・女カ系、と出身も違い、「蛮」は言うなれば近代列強時代の「ヨーロッパ」に対する「アジア」の如く、まとまりに欠ける言葉です。

「戎」の初見は春秋時代のヒュウ羌鍾で、銘文に「戎の璧(きみ、玉を抜いた字)なる韓宗のレキを作る」とあって、ヒュウ羌という族が山西の大国晋の執政韓氏(姫姓)をわれら戎(晋に仕える多民族集団の名前)の君主と認めているのが初見です。「狄」は春秋時代の出土資料にも見えません。資料にないから存在しないという訳ではありませんが、このように蛮・夷・戎・狄は時代も地域も違い、また外族はこの四つ以外にも多数いて、上古に蛮・夷・戎・狄の四大民族がいたという訳ではないということです。

外族称謂の語源が、ある民族名に由来することはもちろん、あり得ると思います。狄・チュルク音通説に注目したい所です。その説の論文・本やまたチュルク系民族の歴史を概説した本があれば、教えてくださいm(__)m

殷の湯王の婦は夏王朝の一族という伝承もあり、有乃氏の簡狄も進出する殷族の通婚関係をいうのでしょうか。

> 私の持つ白川氏の「甲骨文の世界」p49です。ただ「南方をキョウといふ。」の「キョウ(來に似た字)」や「夷」にはいちおうそれに近い字をあてた、との文がありますので、第二版以降で解釈が変ったのかもしれません。

失礼しました。「甲骨文の世界」は著作集再録のものでした。西の方神「偉(人をのぞく)」西の風神「イ(イ族のイ)」の解釈は字統に詳しく、風神のイが夷と音通するようですね。

> もっとも「陽夷」は殷の遺民を率いた箕子に従って「古朝鮮」を建国したが、これに従わなかった于夷が、何時かして「倭人」になったというのが私の当初の考えでした。その後、箕子集団の到着前に九夷の南下運動があり、これが商の滅亡の遠因となったとの考えに至ったため、今はあまり陽夷については考えていないもので。

明夷の明に十(草)をふたつ付ければ朝鮮の朝ですが、テン文や説問解字ははっきり窓の形なんですよね。易経は漢代に今の形にまとめられたそうです。
九夷の南下運動ですか。殷の夷方征伐と関係するのでしょうか?南下とは朝鮮半島から南下したと言う意味ですか?九夷の南下運動のひとつに于夷の列島への渡海があるということですね。例えば宮城谷昌光は九夷を山東半島の東岸一帯と解釈していますが、hn2602さんはどこに?

> そうです。したがって、「後漢書鮮卑伝」の「倭人国」、ずっと後代の史書ですが、朝鮮の史書「三国史記高句麗本紀」の「倭山田猟」記事から、「倭」が遼河流域にいたとかんがえています。勿論倭人/天孫族の妻子が、「東夷」の「古俗」を伝えていると解釈できることもその根拠ですが。

河南の羌族が岳神を信仰するのは、夏、草を求めて山に登り、冬、草を求めて平野に降りる遊牧民の生活に「山」は生命線だったから、とも聞きますが、倭人の「やまと」と邦の名前にするほど「山」へこだわったのは何故でしょう?

投稿時間:04/01/12(Mon) 03:03
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
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タイトル:Re: 九夷と南下と倭
書き込みが長くなりましたので、分けました。

> 九夷の南下運動ですか。殷の夷方征伐と関係するのでしょうか?南下とは朝鮮半島から南下したと言う意味ですか?九夷の南下運動のひとつに于夷の列島への渡海があるということですね。例えば宮城谷昌光は九夷を山東半島の東岸一帯と解釈していますが、hn2602さんはどこに?

「九夷」の南下運動は、実はユーラシアの大民族移動は、基本的に大陸全体に影響しているという私のそもそもの発想に基付いています。即ち、ユーラシア大陸の民族大移動が、(最近の安田喜憲氏RAの説くように)ユーラシア大陸の気候変動が主要因となっているならば、ユーラシア大陸の西方(ヨーロッパ)や、南方(オリエント)で同時に起こっている民族移動は、当然(多少の時差=数百年くらいはあるとしても)必ず、東アジアでも起こっているはずだと考えたことにあります。
ヨーロッパやオリエント、インドで起こった印欧語族の大移動の必ず東アジアでも民族大移動をおこしたはずであり、前20世紀頃の「印欧語族の(第一次9民族大移動は、東アジアでは、黄河中流域への「夏民族」の移住と遅れてその3〜400年後の商民族の移動・建国を、もたらしたが、この前20世紀の民族移動と考えたのです。つまり、後の東夷諸民族は、内蒙古、満洲、河北省(黄河下流域)に入り、この一部か、あるいは東夷諸集団の西方(大行山脈以北・以西)に移住した後の北狄集団の前身の一部から、「商民族」が「中原」に入ったのが「商=殷」の建国だと家庭したわけです。商民族が、山西方面から中原に入ったか、黄河下流(河北省)方面から入ったかは、成案がありません。
この考え方だと、おそらく建国時「商」に同盟したか、なんらかの協力をした「東夷」の一部は、黄河下流域に、商の建国時には、すでに入っており、山東方面にもすでに一部は入っていたと思われます。これら、東夷諸集団、河北・山東・内蒙古・遼河周辺を含む満州西部/南部に拡がった多くの蒙古。ツングース・韓・倭系やその他後裔民族集団を持たない消失した集団をも含む、諸族が「九夷」と呼ばれたと考えています。、あと、これらは周初には、「東夷、東南夷、南夷」や「東北夷」あるいは更に「徐夷」「淮夷」などと呼ばれた集団を含んでいたと思われます。
ですが、ここでいう「九夷の南下運動」は、ヨーロッパ史でいう「印欧語族の第二次民族大移動(イリュリア人の移動)」、インドでのインド。アーリア人ノガンジス川流域への移動(これらの移動は大体前13世紀頃と昔は習いましたが最近は前15・14世紀まで溯る可能性もあるようですが)に相当する東アジアの民族大移動を想定し、前13世紀頃より、東夷が、内蒙古・満洲河北方面より、南下し、その結果、九夷の代表ともいうべき「夷方」「人方」「徐夷」「風夷」(これらの異同関係ははっきりしませんが、何らかの関係があったものと思われます)が、商と紛争を生じ、これを「商」が「東征」する間に、西方から隙を突かれ、「殷周革命」が前12世紀に生じた、というのが私の考えたストーリーです。この九夷の南下運動は当然遼河流域から、半島方面にも行われ、その集団の一つが「倭人」の祖であったというのが、私の、倭人北方起源説です。尚、弥生時代の開始は列島へのこの「倭人」の「民族移動」によって開始されたとかんがえていましたので、「弥生時代の開始」が、前3世紀〜前5世紀とされていたときには、倭人(の前身の于夷?)の一派は、山東方面になんかし、殷周革命後、半島西岸を南下する同族に合流したが、この時、山東方面に移動した集団は、後の「徐」の「エン王」が九夷を率いて周初に叛乱したのに参加したとか、山東〜淮水流域で「水稲耕作」を取り入れたとかいろいろ考えましたが、どうも整合的ではなく、殷周革命後の周勢力、特に「燕」の河北周辺への進出で、玉突き式に遼が流域の倭人にも影響し、前10世紀(可能であれば前12世紀)に遼河流域から半島西岸部を南下し、T〜2世紀半島南岸に主力がとどまり、遅くとも前7世紀(可能であれば全10世紀)には列島に進入するという展開でした。

従って、「九夷」主力の「風夷」(後の徐夷→徐国の前身?)は山東半島にいたとおもいますが、広く他の諸民族は、河北や内蒙古、遼が流域に広がっており、満洲の東部や北部では、古アジア(古シベリア)語族系の諸族のアルタイ化(ツングース化かも?)を起こしていたと考えています。「九夷」のうち、「陽夷」と「于夷」の比定地にかんしては、杉本憲司氏は、「日本の古代1倭人の登場」(中央公論社、昭和60年11月10日)p66で、「伝説では古朝鮮族の地」としています。


> 河南の羌族が岳神を信仰するのは、夏、草を求めて山に登り、冬、草を求めて平野に降りる遊牧民の生活に「山」は生命線だったから、とも聞きますが、倭人の「やまと」と邦の名前にするほど「山」へこだわったのは何故でしょう?

宗教上の問題、即ち、始祖(民族もしくは、支配者集団の)が、「聖なる山」に降臨した「天神」と「地神/山神」(地母神)の間に生まれたという伝承/神話に基付いて、支配者(氏族)が、民族/部族/氏族の始祖を祭祀するからでしょう。
遊牧民の神話というよりも、もと北方の狩猟民の習俗ではなかったかと思います。岩波古語辞典では、「山」は、「古く、神聖なものとされ、神が降下し、また神が領有するとされた。」と注記しています。ぉの「やま」に相当する語形は、韓国語やツングース語も含め、日本近隣の諸言語に類似の語形が見当たらないようです。(蒙古語?でしたか「峠」を意味する語彙が、確かdavaかなにかで、これと同源という説を見た覚えがありますが)

投稿時間:04/01/18(Sun) 22:45
投稿者名:巫俊
Eメール:brownie@e-net.or.jp
URL :
タイトル:Re^2: 九夷と南下と倭
> 「九夷」の南下運動は、実はユーラシアの大民族移動は、基本的に大陸全体に影響しているという私のそもそもの発想に基付いています。(中略)従って、「九夷」主力の「風夷」(後の徐夷→徐国の前身?)は山東半島にいたとおもいますが、広く他の諸民族は、河北や内蒙古、遼が流域に広がっており、満洲の東部や北部では、古アジア(古シベリア)語族系の諸族のアルタイ化(ツングース化かも?)を起こしていたと考えています。「九夷」のうち、「陽夷」と「于夷」の比定地にかんしては、杉本憲司氏は、「日本の古代1倭人の登場」(中央公論社、昭和60年11月10日)p66で、「伝説では古朝鮮族の地」としています。

ユーラシアの大移動ですか。壮大な(^^)大きな流れの中に理解するという訳ですね。殷は戦車技術など西方との関連が考えられてるようですが、殷族の発生がどこからなのか?ふと思いましたが、殷代、殷の大地は森林・湿原におおわれ、殷虚(墓地)も東南アジアの仏教遺跡の如く密林の中にあったと想像でき、この森の民が西方の砂漠を越えてくるのは違和感がないでもないですが、天山山脈のあたりも昔は緑があったとも聞きます。

風夷は、風姓の任・宿・センユといった系統とするのが自然でしょうか。徐は、梁山(水滸伝の梁山泊)から出土した殷の金文に、小臣{舟余}の名前が見え、左伝に、周初封建された魯公に殷民の徐氏が賜与されたとか、記録の比較的多い族ですが、徐福は徐の裔なんでしょうね。昨年の弥生五百年遡上の際は、徐と列島の関わりを想像したものです。

> 宗教上の問題、即ち、始祖(民族もしくは、支配者集団の)が、「聖なる山」に降臨した「天神」と「地神/山神」(地母神)の間に生まれたという伝承/神話に基付いて、支配者(氏族)が、民族/部族/氏族の始祖を祭祀するからでしょう。
> 遊牧民の神話というよりも、もと北方の狩猟民の習俗ではなかったかと思います。

狩猟民、もののけ姫のように、ですね。

投稿時間:04/01/19(Mon) 01:44
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^3: 九夷と南下と倭

> ユーラシアの大移動ですか。壮大な(^^)大きな流れの中に理解するという訳ですね。殷は戦車技術など西方との関連が考えられてるようですが、殷族の発生がどこからなのか?ふと思いましたが、殷代、殷の大地は森林・湿原におおわれ、殷虚(墓地)も東南アジアの仏教遺跡の如く密林の中にあったと想像でき、この森の民が西方の砂漠を越えてくるのは違和感がないでもないですが、天山山脈のあたりも昔は緑があったとも聞きます。

実はウラル語族の起源地を、サヤン山脈の北方のシベリアに、そしてアルタイ語族のそれを大興安嶺の周辺に求める説もあるのですが。
殷をウラル語族とする説はまだみたことはないのですが。


> 風夷は、風姓の任・宿・センユといった系統とするのが自然でしょうか。徐は、梁山(水滸伝の梁山泊)から出土した殷の金文に、小臣{舟余}の名前が見え、左伝に、周初封建された魯公に殷民の徐氏が賜与されたとか、記録の比較的多い族ですが、徐福は徐の裔なんでしょうね。昨年の弥生五百年遡上の際は、徐と列島の関わりを想像したものです。

私も「徐」の「エン王」に率いられて周に叛乱した「九夷」のなかに倭人」がいたと考えたこともありますが、それよりも、むしろ殷の命取りになった東夷の南下を考えた方が、収まりがよかったので、、、、。
「姓」については、「嬴姓」の部族など、どう考えていいか、わかりません。「風姓」や「子姓」の諸族を含めて、考える必要がありそうですが。


> > 宗教上の問題、即ち、始祖(民族もしくは、支配者集団の)が、「聖なる山」に降臨した「天神」と「地神/山神」(地母神)の間に生まれたという伝承/神話に基付いて、支配者(氏族)が、民族/部族/氏族の始祖を祭祀するからでしょう。
> > 遊牧民の神話というよりも、もと北方の狩猟民の習俗ではなかったかと思います。
>
> 狩猟民、もののけ姫のように、ですね。

もののけ姫はまだ見ておりません。一度見ておいたほうが良さそうです。

投稿時間:04/01/14(Wed) 01:24
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:天孫族は「やま」を独占した?
相変わらず誤変換が多く、申し訳ありません。
「やま」について、少し考察を加えましたので、ご批判お願いします。

> > 河南の羌族が岳神を信仰するのは、夏、草を求めて山に登り、冬、草を求めて平野に降りる遊牧民の生活に「山」は生命線だったから、とも聞きますが、倭人の「やまと」と邦の名前にするほど「山」へこだわったのは何故でしょう?
>
> 宗教上の問題、即ち、始祖(民族もしくは、支配者集団の)が、「聖なる山」に降臨した「天神」と「地神/山神」(地母神)の間に生まれたという伝承/神話に基付いて、支配者(氏族)が、民族/部族/氏族の始祖を祭祀するからでしょう。
> 遊牧民の神話というよりも、もと北方の狩猟民の習俗ではなかったかと思います。岩波古語辞典では、「山」は、「古く、神聖なものとされ、神が降下し、また神が領有するとされた。」と注記しています。ぉの「やま」に相当する語形は、韓国語やツングース語も含め、日本近隣の諸言語に類似の語形が見当たらないようです。(蒙古語?でしたか「峠」を意味する語彙が、確かdavaかなにかで、これと同源という説を見た覚えがありますが)

村山七郎・国分直一両氏の対談「原始日本語と民族文化」(三一書房、1979年2月28日)に、日本語「やま」yamaに対応する語彙として、モンゴル語、満洲・ツングース語の下記の語彙を挙げていました(p207)。

 モンゴル語  dabaー「山を越える」
        dabagan「山の峠」
 満州語    dabaー「越える」
 ツングース語
   エヴェンキ  davan 峠
   オロチェ   dava  峠
   オルチャ   daba  峠

ところで、日本語 jamaやま(山)  
     琉球語与那国島方言 dama

     日本語 jamaiやまい(病)
     琉球語与那国島方言 dami

     日本語 joruよる(夜)
     琉球語与那国島」方言 duru

     日本語 jaや(家)
     琉球語与那国島方言 da:

     日本語 juゆ(湯)
     琉球語与那国島方言 du:

     日本語 jomeよめ(嫁)
     琉球語与那国島方言 dumi

 という日本語内の対応例を挙げ、日本語/琉球語のこのj/d対応はおそらく日本語内の二次的な変化で、アルヤイ祖語の古い「d」を保存しているのではないだろうとしながらも、蒙古語、満洲・ツングース語の上記d/yの対応は疑っていません。
私は、日本語の本来の「山」を意味する語彙は、@「高し」「岳」「丈(たけ、背丈のたけ)」といった「高い」ことを本来の語義とする「たけ(岳)」、A「盛る」の転と考えられる「もり」(盛り→森)、古語の「ムレ」琉球語の「ムイ」(岡/丘)と同系の語彙があり、これは、本来の「丘、小高い所」の原義が日本では「林」と同義にG変化したと思われる、Bヲカ(丘/岡)、などがありますが、満州語muleムレ(山)、アイヌ語moriモリ(岡)、ヤクート語mulonムロン(山)、古代韓国語にもmoroなる形がある(徐廷範氏「日本語の源流をさかのぼる」、徳間書店、1989年)ことから、おそらく日本語がアルタイ祖語から(分岐したとすれば)本来相続した「山」を意味する語彙は、「ムレ」/「モリ」系統だったように思われます。(或いは、「ヲカ」が満州語や女真語のアリン「山」と関連付けられるかも知れませんが。)

ここで、日本語の「やま」yama(山)が、前述のモンゴル語dabaーや、満州語・ツングース語のdava/daba{峠)と同源だという村山説が、正しいとすれば、実は倭人語の「やま」yamaの本来の原義は、モンゴル語の「越える」や「峠」、満洲・ツングース語系の「峠」、更にはモンゴル語から借用されたウズベグ語方言の「峠」「山頂」の名、などから、本来、「峠」に近い意味を持ち、或いは(山のこちら側の人界と向こう側の「神の領域」との「境界」を意味し、その神聖な領域を超えられる(即ち「やま」を通じて神の領域と倭人一般の「仲介」を成す)のは、祭祀にかかわる氏族=天孫氏族の独占的な職となります。
倭人語が、「峠」「越える」という意味のdaba/davaを、「やま」yamaという「神の領域たる申請な高地」という言葉を作った時点で、巫祝を出していた氏族(その長が「きみ」(君)で、おそらく金文などの「君」「里君」=巫祝長と同源か、それを古く借用したものでしょう)おそらく後の天皇氏、天孫族を称する血縁集団の倭人内の支配権が神話的・宗教的に確立したと考えられます。

投稿時間:04/01/18(Sun) 21:54
投稿者名:巫俊
Eメール:brownie@e-net.or.jp
URL :
タイトル:Re: 天孫族は「やま」を独占した?
なるほど、勉強になります。やま、やまいといえば、邪馬一国(邪馬台国)は「病国」と読めますね。山と病の関係、呪儀?が気になるところです。

投稿時間:04/01/19(Mon) 00:28
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^2: 天孫族は「やま」を独占した?
> なるほど、勉強になります。やま、やまいといえば、邪馬一国(邪馬台国)は「病国」と読めますね。山と病の関係、呪儀?が気になるところです。

「やまひ」yamafiですので、「邪馬一」国の「一(壹)」の音と考えられる「ゐ」wiとは、無関係だと思います。もともと、上代日本語の特徴(おそらく魏志倭人伝の倭人語/倭国語も)として、「母音の連接〜重なり」を嫌います(たとえば、現代語の「葵」あおい、は上代日本語では、おほひafofi<apopi?です)ので、「やまゐ」国はともかく、「やまい」国はなかったと思います。
岩波古語辞典では、動詞は終止形でなく連用形で持っていますが、「やまひ」は「やみ(病み)」(四段活用動詞)と同源としています。「闇」yamiとは語末の母音の甲乙が異なる(即ち別語)ようです。(止みとは同形)

ところで、ご紹介の「世界歴史体系」の「中国史1」を購入しました。最近ちょっと時間がないので読了するまで時間がかかりそうですが、楽しみです。ご紹介有難うございました。

投稿時間:04/01/12(Mon) 01:25
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re: 九夷と南下と倭
前回の私の書き込みを読み直して、誤変換だらけなのに気付き、汗顔の至りです。ご容赦の程、お願い申し上げます。

> 日本人の北方系HLAは10%でしたっけ?ということは他のタイプのHLAが日本人中に十何種類かそれ以上あって、北方系が最大規模と思っていいのでしょうか?

HLAハプロタイプは、ヒト白血球抗原(HLA)の、セットです。クラスT,U,Vのサブセットに分かれ、更にクラスTには、HLAーA,B,Cなどの遺伝子座があり、各遺伝子座には、多くの対立遺伝子(例えば1993年版の「東京化学同人」出版の「免疫学辞典第二版」では、175種類がAに、344種類がBに、90種類がCに認められている)があります。クラスUには、同じくHLAーDR,DQ.DPなどがあり、これも多くの対立遺伝子(同じくDRA1が2種類、DRB1が246種類、DRB2が1、DRB3が28、DRB4が9、DRB5が14、DRB6が3、DRB7が2、drb8が1、DRB9が1種類と記載)があります。クラスVは補体遺伝子を含みます。これらの一連の遺伝子群が、第六染色体短腕上にあり、「組み換え」が起こらない限り、1セット(これをハプロタイプという)で親から、子に遺伝します。HLAは、疾病感受性と深い関係があり、従って集団内では、どちらかというと「多様性」を保持する方向に働くと考えられ、且つHLAハプロタイプが全く同一の配偶者間では、子が出来にくいとの報告もあるようです。従って、同一のHLAハプロタイプが100%などという(ある程度以上の大きさの)集団は存在しないと考えられます。あるHLAハプロタイプを共有する人同士は、必ず共通の先祖を(ソノハプロタイプ分岐時に溯り)持つと断言できます。この点が、単一遺伝子座などのデータ(偶然、突然変異によって同じ遺伝子を共有した可能性を除外できない)に比し、同一先祖の子孫が、遠隔地に別れていた場合の、手がかりを探す手段として、極めて有効な理由です。ただし、「時間」を保証しませんので、あくまでも「手がかり」としてしか使用できません。(将来、古人骨や古い軟部組織から、DNAを復元できれば「時間」についても有用な存在となるでしょう。)
HLAハプロタイプの分布と頻度は、従って、そのタイプを高頻度に持った集団が移住して来たか。あるいは繁殖に成功したか、またその移動経路がどうだったかの、推理の手がかりでしかありませんが、文献や考古資料の欠落を補う手段として、極めて有効性が高いとo見ます。
日本人のHLAハプロタイプの種類はおそらく100種類は越えると考えられ、その中での最多ハプロが10%であり、その分布が、日本国内では、北九州、瀬戸内沿岸、近畿などでは更に高い、ということであり、2位以下の頻度のハプロタイプも半島や満洲などに同型が見られるものが多い(中国南部や東南アジアと共通のものも勿論あります)ということで、「北方起源」と考えられるHLAハプロの頻度は、南方出自と考えられるものよりはるかに多いと考えられています。


> 最近は興味の向いた論文を読むくらいで、分厚い総説は知らないのですが、
> 「世界歴史大系 中国史1」山川出版社 2003年8月
> は近年の成果を吸収して適切に概説してるんじゃないでしょうか。先史から後漢まで、要所を押さえて新たな歴史観を提示してるようです。なお春秋戦国時代を平勢氏が担当してます。

ご紹介有難うございます。早速14日に書店に行き、購入します。

> まず、「狄」「戎」は出土資料【殷虚甲骨文5万文字、周原甲骨文数百文字、殷金文若干数、西周金文2万文字】に存在しません。(軍事の意味の戎はあります)「蛮」は殷代には見えず、周代になって漠然とした外族呼称として使われます。

確かに「蛮」ではなく、「南」が甲骨文では使用されていましたね。「南」と「蛮」もn/m/bの「鼻音」同士で相互に通用しそうな気もしますが、、、、。ただ、同名(同音)の外族が、殷代に存在しなかったというわけではないと思いますので、周初に「字」もしくは「音」通する文字が用いられていれば、当面の仮説は維持できそうですが・・・。

> 西周時代の南方の外族は淮夷、南夷、楚荊、苗族など多数あり、淮夷は九夷の後とも言われる夷系、楚は安キ省あたりの祝融系で殷に服属した後に湖南に侵攻、苗族は伏キ・女カ系、と出身も違い、「蛮」は言うなれば近代列強時代の「ヨーロッパ」に対する「アジア」の如く、まとまりに欠ける言葉です。

中国南方には、勿論、南島語族、タイ系、苗・ヤオ語群、モン・クメール語族、ヴェト・ムオン系や、チベット・ビルマ語族もあり、これら全てを「蛮」というべきではないと思いますが、殷末の「南人」が後の「蛮」の原型でしょう。私も「蛮」よりはむしろ「越」系という表現をとり、チベット・ビルマ語族以外の諸集団のどれかについては、決定困難ですが、日本に入った集団については、もう少しデータが揃えば、絞り込めるだろうと希望しています。

> 「戎」の初見は春秋時代のヒュウ羌鍾で、銘文に「戎の璧(きみ、玉を抜いた字)なる韓宗のレキを作る」とあって、ヒュウ羌という族が山西の大国晋の執政韓氏(姫姓)をわれら戎(晋に仕える多民族集団の名前)の君主と認めているのが初見です。「狄」は春秋時代の出土資料にも見えません。資料にないから存在しないという訳ではありませんが、このように蛮・夷・戎・狄は時代も地域も違い、また外族はこの四つ以外にも多数いて、上古に蛮・夷・戎・狄の四大民族がいたという訳ではないということです。

「戎」についても「羌」と同じ民族系統を指すと考えてよいように思います。商=殷代の異族名称としては、「夷」「南」(→蛮?)「羌」(→戎)の三大系統を区分し、「夷」が殷と近いアルタイ系諸民族(狄/胡→後のチュルク系・蒙古系?、夷→後のツングース系・韓系・倭系?)を表わし、周により、その生業の形態や地理的分布によって、「狄」(純然たる遊牧民)と「夷」(農耕民、半遊牧を含む)に二分されたという解釈は成立しなおでしょうか?

> 外族称謂の語源が、ある民族名に由来することはもちろん、あり得ると思います。狄・チュルク音通説に注目したい所です。その説の論文・本やまたチュルク系民族の歴史を概説した本があれば、教えてくださいm(__)m

これは、確かに先人の説にあったのですが、現在私の手元にその典拠となる論文・資料がありません。また、トルコ民族史についても近代の「オスマン・トルコ史論」(三橋冨士男、吉川弘文館、昭和41年12月25日)しかありません。実は、阪神淡路大震災の時、本棚が崩れ、その後の一部引越し等で、本の在り処がわからなくなってしまい、まだ未整理状態です。出てくれば、ご連絡いたしますが。まことに申し訳ありません。(続く)

> 殷の湯王の婦は夏王朝の一族という伝承もあり、有乃氏の簡狄も進出する殷族の通婚関係をいうのでしょうか。

「夏」王朝の実在性については、一応実在説に傾いているのですが、その前代の「后ゲイ」も含めて、王朝だったのか、中原(黄河中流域)にいた先住民族の一つ程度に考えるべきか、迷っています。
(続く)

投稿時間:04/01/18(Sun) 21:50
投稿者名:巫俊
Eメール:brownie@e-net.or.jp
URL :
タイトル:Re^2: 九夷と南下と倭
返信がおくれてすいません。

> 前回の私の書き込みを読み直して、誤変換だらけなのに気付き、汗顔の至りです。ご容赦の程、お願い申し上げます。

音通で読めます(^^)

> > 日本人の北方系HLAは10%でしたっけ?ということは他のタイプのHLAが日本人中に十何種類かそれ以上あって、北方系が最大規模と思っていいのでしょうか?
>
> HLAハプロタイプは、ヒト白血球抗原(HLA)の、セットです。(中略)日本人のHLAハプロタイプの種類はおそらく100種類は越えると考えられ、その中での最多ハプロが10%であり、その分布が、日本国内では、北九州、瀬戸内沿岸、近畿などでは更に高い、ということであり、2位以下の頻度のハプロタイプも半島や満洲などに同型が見られるものが多い(中国南部や東南アジアと共通のものも勿論あります)ということで、「北方起源」と考えられるHLAハプロの頻度は、南方出自と考えられるものよりはるかに多いと考えられています。

詳細な説明ありがとうございます。西日本に多いのですね。ところで四方を海に囲まれた沖縄は古い宗教祭祀を残していて(宮古島のパーントゥとか)、古代人の行き着いた所でもあるようですが、沖縄のHLAはどこかに類似していますか?祭祀は殷に似てるようにも南方系のようにも見えるようで。

> 確かに「蛮」ではなく、「南」が甲骨文では使用されていましたね。「南」と「蛮」もn/m/bの「鼻音」同士で相互に通用しそうな気もしますが、、、、。ただ、同名(同音)の外族が、殷代に存在しなかったというわけではないと思いますので、周初に「字」もしくは「音」通する文字が用いられていれば、当面の仮説は維持できそうですが・・・。

訂正ですm(ーー)m【西周金文2万文字】→【1万2千文字】
それと直接確認してないですが、西周金文に「淮戎」なる文字列が読めるそうです。

> 「戎」についても「羌」と同じ民族系統を指すと考えてよいように思います。商=殷代の異族名称としては、「夷」「南」(→蛮?)「羌」(→戎)の三大系統を区分し、「夷」が殷と近いアルタイ系諸民族(狄/胡→後のチュルク系・蒙古系?、夷→後のツングース系・韓系・倭系?)を表わし、周により、その生業の形態や地理的分布によって、「狄」(純然たる遊牧民)と「夷」(農耕民、半遊牧を含む)に二分されたという解釈は成立しなおでしょうか?

羌は多く周に服しているにもかかわらず、金文に戎と書かれることはなく、春秋時代の戎(主に山西、河南、河北)は羌以外の族を多くふくみ、殷と通婚したらしい有戎氏を羌とすると、殷と羌の関係解釈が変わってしまいそうです。

春秋時代の戎狄は山林叢沢の民とされ、純粋な遊牧民ではないようです。木材をはじめとする山林叢沢の動植物資源は漢代においても皇室収入の大部分を占め、戎狄はこれを伐採狩猟して、農耕民と取引することで、諸侯と対等な勢力を築いていました。戎狄はあるいは山に、あるいは水居の民と文献に書かれるように水辺にいて、遊牧をする族もいたでしょうが、騎馬の風習が無いとも言われ、狄=純粋な遊牧民と区別されてはいないと思います。春秋の夷は主に斉の東にいて、同じく山林叢沢の民の形跡が見えるようです。

実は、阪神淡路大震災の時、本棚が崩れ、その後の一部引越し等で、本の在り処がわからなくなってしまい、まだ未整理状態です。出てくれば、ご連絡いたしますが。まことに申し訳ありません。(続く)

あの震災で・・・私のほうは震度4くらいで済みましたが、ご愁傷様です。

> 「夏」王朝の実在性については、一応実在説に傾いているのですが、その前代の「后ゲイ」も含めて、王朝だったのか、中原(黄河中流域)にいた先住民族の一つ程度に考えるべきか、迷っています。

王朝といっても殷程度かそれ以下の規模でしょうが、考古学がいう夏代の山西と河南の文化は接点が見られるそうです。のちの羌や鬼方を服属させる勢力だったとも。后ゲイは左伝に帝夷ゲイと見え、白川静氏は夷系とみているようですね。

投稿時間:04/01/19(Mon) 01:32
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^3: 九夷と南下と倭

> 詳細な説明ありがとうございます。西日本に多いのですね。ところで四方を海に囲まれた沖縄は古い宗教祭祀を残していて(宮古島のパーントゥとか)、古代人の行き着いた所でもあるようですが、沖縄のHLAはどこかに類似していますか?祭祀は殷に似てるようにも南方系のようにも見えるようで。

古いデータですが、「、オmゴロイドの地球B」(東京大学出版会、1995,7,15)所収の徳永勝士氏の論文では、日本人の頻度四位(3,7%)のハピロタイプHLAーA24−B54−DR4(DRB1*0405)は、沖縄の最多ハプロタイプであり(5,7%)、南九州、南四国や東海地方、神奈川でも比較的多くかんさつされたが、本州中央部や東北地方では頻度が福井傾向」があった、と記載されています。国外では、韓国、中国南部で4,4%、中国北部や南方のタイ人やヴェトバヌ人でもまれとされています。
尚、「日本列島の人類学的多様性」(勉誠出版、2003年4月10日)の徳永氏の論文では、A24−B52−DRB1*1502は、本土日本人の頻度8,6%、沖縄人1,5%、アイヌ人1,0%、韓国人1,4%、中国朝鮮族2,2%、
2位のA33−B44−DRB1*1302は本土日本人4,8%、韓国人5,1%、中国朝鮮族3,5%、北部漢族2,0%(沖縄人、アイヌ人欄は空白)となっています。尚、前記「モンゴロイドの地球B」では、このハプロは中国北部漢族ではみられず、先の日本人で咲いた頻度のハプロが、モンゴル族で最多、中国北部漢族で2%前後と記載されており、誤記の可能性もあります。
3番目の頻度のA24−B7−DRB1*0101は、本土日本人
4,0%、沖縄人1,8%、アイヌ人1,05、韓国人3,2%、中国朝鮮族1,7%です。
問題の4番目のA24−B54−DRB1*0405は、本土日本人3,1%、沖縄人6,1%、韓国人1,2%、中国北部朝鮮族0,9%、中国満族1,25、シベリア・ブリアート人1,3%となっています。

私は、本土日本人の最多ハプロタイプを「倭人」、2番目の頻度(韓国朝鮮人で最多?)を「韓族」、3番目を。韓半島原住民のギリヤーク族類似?(金芳漢氏は、韓国語は、ギリヤーク語類似の古アジア語系の未知の言語を基層として、上層にアルタイ系の言語が被覆して形成されたと考えた)の古アジア語族系の「韓半島原住民」、4番目を長江出自の「越系海洋民?」のそれぞれの集団の移動を表わす「指標」と考えたのですが、この4番目の頻度のハプロタイプが、満族ヤブリヤート族に見出されるので、迷っています。勿論モンゴル族も満族も征服王朝を造っていますので、その時に中国南部でこのハプロの所有者と混血したという考えや、あるいは古くこのハプロタイプが、バイカル湖畔から、中国南部に拡散したといj解釈も成り立ちそうですが。

> 訂正ですm(ーー)m【西周金文2万文字】→【1万2千文字】
> それと直接確認してないですが、西周金文に「淮戎」なる文字列が読めるそうです。

ということは、「戎」=「夷」でもあったと?

> > 「戎」についても「羌」と同じ民族系統を指すと考えてよいように思います。商=殷代の異族名称としては、「夷」「南」(→蛮?)「羌」(→戎)の三大系統を区分し、「夷」が殷と近いアルタイ系諸民族(狄/胡→後のチュルク系・蒙古系?、夷→後のツングース系・韓系・倭系?)を表わし、周により、その生業の形態や地理的分布によって、「狄」(純然たる遊牧民)と「夷」(農耕民、半遊牧を含む)に二分されたという解釈は成立しなおでしょうか?
>
> 羌は多く周に服しているにもかかわらず、金文に戎と書かれることはなく、春秋時代の戎(主に山西、河南、河北)は羌以外の族を多くふくみ、殷と通婚したらしい有戎氏を羌とすると、殷と羌の関係解釈が変わってしまいそうです。

う〜ん、いっそのこと、殷/商代の「戎」は、ツングース系カモンゴル系、「夷」は、倭人にもっと近いアルタイ系の諸集団で、現在その後裔言語は、「日本語」以外に記録を残さずに「滅亡」したという大風呂敷でも拡げましょうか?でも、これは完全なトンデモ説ということになりそうです。

> 春秋時代の戎狄は山林叢沢の民とされ、純粋な遊牧民ではないようです。木材をはじめとする山林叢沢の動植物資源は漢代においても皇室収入の大部分を占め、戎狄はこれを伐採狩猟して、農耕民と取引することで、諸侯と対等な勢力を築いていました。戎狄はあるいは山に、あるいは水居の民と文献に書かれるように水辺にいて、遊牧をする族もいたでしょうが、騎馬の風習が無いとも言われ、狄=純粋な遊牧民と区別されてはいないと思います。春秋の夷は主に斉の東にいて、同じく山林叢沢の民の形跡が見えるようです。

ご教示戴いた「中国史T」の本を読み、人類学的データの揃うのを待ち、また整合性のある仮説を考えたいと思います。

> > 「夏」王朝の実在性については、一応実在説に傾いているのですが、その前代の「后ゲイ」も含めて、王朝だったのか、中原(黄河中流域)にいた先住民族の一つ程度に考えるべきか、迷っています。
>
> 王朝といっても殷程度かそれ以下の規模でしょうが、考古学がいう夏代の山西と河南の文化は接点が見られるそうです。のちの羌や鬼方を服属させる勢力だったとも。后ゲイは左伝に帝夷ゲイと見え、白川静氏は夷系とみているようですね。

確かに「射日神話」はひろく、北方系民族にも分布していますね。でも、「后ゲイ」まで正直なところ、手が回りかねます。

投稿時間:03/11/14(Fri) 20:31
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:ニギハヤヒは原大和の主
> こちらのスレッドに質問や反論はこちらのスレッドにお願いします。

最近、考え直した事があるのですが、

ニギハヤヒ−物部氏=大和土着の豪族ということは変わらないのですが、

天火明−尾張氏=原大和土着の豪族という自説に疑問を感じてます。

原大和の支配者であったなら、記紀神話においてもう少し活躍の場を与えられてもいいのではないでしょうか?

それと最近の話題での「火」これは大部分は九州系の神につけられてた語のようにも感じられます。

尾張氏は神武東征前後のいずれかに付足従属的に九州から東遷された部族だったのではないでしょうか。

神武東征前の大和の主は天火明−尾張系ではなく、ニギハヤヒ−物部系だったのかな。
今度もhn2602さんと割れてしまいました。

投稿時間:03/11/15(Sat) 00:35
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re: ニギハヤヒは原大和の主

> 最近、考え直した事があるのですが、
>
> ニギハヤヒ−物部氏=大和土着の豪族ということは変わらないのですが、

土着度は、ナガスネヒコ(トミヒコ)の一族の方が強く、ニギハヤヒは、トミヒコ一族と婚姻して、大和の王に推戴・擁立された天孫氏族の一分枝だと思います(後の穂積氏・物部氏の祖)。

> 天火明−尾張氏=原大和土着の豪族という自説に疑問を感じてます。

これも天孫氏族の別派でしょう。しかもおそらく「物部氏・穂積氏」系とは別系統の。

> 原大和の支配者であったなら、記紀神話においてもう少し活躍の場を与えられてもいいのではないでしょうか?

そう思います。記紀にいう「熊野の高倉下(タカクラジ)」の子孫でしょう。「熊野」即ち後に、ジンム東征軍を二分した、タギシミミ派(熊襲・隼人派)の「狗奴国」側(南朝)に味方した「負け組」だったので、伊勢湾を渡って尾張から更に「久能山」周辺に移住した狗奴国派という私の例の「欠史八代南北朝説」での解釈は如何でしょうか?


> それと最近の話題での「火」これは大部分は九州系の神につけられてた語のようにも感じられます。

これは、北方の狩猟採集民や後の遊牧民の、組織形態の三方(左翼、王庭、右翼)や五部(左右前後中、東西南北中)と同様の組織形態で記紀の「五つの伴の緒」〜五部神と同断でしょう。陰陽五行説の流行とともに、「木火土金水」でも表わされます。半島南部で、「朱(赤)」「青」「白」の三色は倭人諸部族で存在したと思うのですが。新羅の前身「シロ国」の白、「大加羅」=高霊伽耶=弥烏邪馬国の始祖王「伊珍阿鼓」(イザナギ?)=内珍「朱」智の「朱」(赤)、金官加羅国の始祖「首露王」=内珍「青」裔の「青」といった色が認められます。

> 尾張氏は神武東征前後のいずれかに付足従属的に九州から東遷された部族だったのではないでしょうか。

大和方面に渡来前は、勿論北九州にいたと思いますが、もし海部氏と同族だとすると、半島東南部(慶尚北道)あたりから、ヒホコと同様の経路で日本海側から大和に入った可能性もありますが。

> 神武東征前の大和の主は天火明−尾張系ではなく、ニギハヤヒ−物部系だったのかな。

だったと思います。

> 今度もhn2602さんと割れてしまいました。

お互い楽しみましょう。その上で、どちらが説得力があるか、、、。(どうもトンデモ度を競っているような気もしますが)

投稿時間:03/11/15(Sat) 15:34
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:尾張は負組
> 原大和の支配者であったなら、記紀神話においてもう少し活躍の場を与えられてもいいのではないでしょうか?
>
> そう思います。記紀にいう「熊野の高倉下(タカクラジ)」の子孫でしょう。「熊野」即ち後に、ジンム東征軍を二分した、タギシミミ派(熊襲・隼人派)の「狗奴国」側(南朝)に味方した「負け組」だったので、伊勢湾を渡って尾張から更に「久能山」周辺に移住した狗奴国派という私の例の「欠史八代南北朝説」での解釈は如何でしょうか?

タギシミミ・高倉下・天香語山・天火明・尾張連
先代旧事本紀の記述ではつながってますよね。
このタギシミミに注目すれば、尾張連は負組だったのかもしれませんね。

尚、「火」で思い出しましたが。
日向神話での火の中から生まれた山幸彦在位580年。
八丈もの鰐の子ウガヤフキアエズ尊。
これらの史実を事実とすることに無理挫折を感じましたので、
二二ギ尊と神武の間に挿入されたなんらかの伝承神と考え直しました。

> お互い楽しみましょう。その上で、どちらが説得力があるか、、、。(どうもトンデモ度を競っているような気もしますが)

皆にそう思われてたりして。(爆)
大まじめに論じてました(爆)

投稿時間:03/11/16(Sun) 11:24
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re: 尾張は負組

> タギシミミ・高倉下・天香語山・天火明・尾張連
> 先代旧事本紀の記述ではつながってますよね。
> このタギシミミに注目すれば、尾張連は負組だったのかもしれませんね。

勿論尾張氏は大族ですから、氏族(というよりむしろ部族)内では、「北朝」即ち「邪馬台国」側についた一派もいたでしょう。しかし、尾張地方や、久能山あたりに移住した集団(久怒?)などは「負け組」の可能性があるのではないでしょうか?

> 尚、「火」で思い出しましたが。
> 日向神話での火の中から生まれた山幸彦在位580年。
> 八丈もの鰐の子ウガヤフキアエズ尊。
> これらの史実を事実とすることに無理挫折を感じましたので、
> 二二ギ尊と神武の間に挿入されたなんらかの伝承神と考え直しました。

「事実」ではないでしょうが、「世代数」や「その名前を持った祖先」がいた可能性を全く否定すると、それはそれで古代の組み立てが困難になるので何とか生かしたいのですが。まあそれが「トンデモへの道」につながるのでしょうが。

> > お互い楽しみましょう。その上で、どちらが説得力があるか、、、。(どうもトンデモ度を競っているような気もしますが)
>
> 皆にそう思われてたりして。(爆)
> 大まじめに論じてました(爆)

いや、私も「真面目」なのですが、ただ「確実な」資料に基付いているわけではなく、他に「資料/史料」がないのに、「空白」を置くのに耐えられず、何か考えて見ようとしているので、客観的には明らかに「無理筋」です。ですから、何か他の資料が見つかれば、すぐに訂正するつもりで、考えています。「上代日本語」の方言や、後世の現代日本語の方言や、「語彙」の解釈など無関係に見える(実際に無関係かも)ものを時々折り込んでいるのは、そのためです。(悪あがきですが)

投稿時間:03/11/04(Tue) 10:05
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:Re:新羅侵攻国は何処
> こちらのスレッドに質問や反論はこちらのスレッドにお願いします。

うる覚えですが新羅本記によれば、
AD75に倭人が新羅を襲ったと記されています。
新羅はなんとか撃退したそうですが。

馬韓方面から筑紫に移動してきた部族がいた反面、九州以東(出雲・古志・大和のいずれなのか?)から新羅に攻め込む大きな勢力もあったという可能性もあるのではないでしょうか。

投稿時間:03/11/04(Tue) 23:24
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
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タイトル:Re^2:新羅侵攻国は何処

> うる覚えですが新羅本記によれば、
> AD75に倭人が新羅を襲ったと記されています。
> 新羅はなんとか撃退したそうですが。

三国史記新羅本紀では、新羅の王家は、朴氏三代→昔(積)氏→金氏→朴氏と交替(正確には脱解の後朴氏の王が記載されていますが)していますが、前述したように、歴史時代の新羅王家は、金氏であり、末期に至って、朴氏の王が立つことから、朴氏が金氏から王位を簒奪したのを正当化するために、金氏以前の初代王が朴氏だとしたものと考えられます。また、第四代の脱解尼師今は、倭国の東北千里の多婆那国の生まれですが、「倭人」の大官「コ(ひさご)公」の宅が吉祥の地であることから、これを奪って自分の家とし、新羅王の女婿となり、遂に王位につきます。脱解は、「カカ(花廈)国」の出身だとか、あるいはその母は倭国/女王国の王女との伝承もあり、この倭国を女王国=邪馬台国と考えれば、その東北1千里は、邪馬台国近畿説では、「加賀国」、九州説では出雲国加賀郷ということになります。

この脱解尼師今の17年(AD73年)倭人は侵入して木出島で角干羽烏を戦死させています。この前後、百済・伽耶とも戦い、撃退しています 。尚、倭人の侵入は、新羅初代の王朴赫居世の八年(前50年)早くもその意図があった旨、三国史記には記載されています。新羅本紀の記事では、建国前の新羅六村(後の六部)の民が「朝鮮」(おそらく箕氏朝鮮)から移住してきたとの記事に次いではじめての外国人/外国記事であり、ついで十九年(前39年)弁韓の服属、二十一年(前37年)高句麗の東明王の即位記事という順です。(国内関係の記事略)

> 馬韓方面から筑紫に移動してきた部族がいた反面、九州以東(出雲・古志・大和のいずれなのか?)から新羅に攻め込む大きな勢力もあったという可能性もあるのではないでしょうか。

可能性は有り得たと思います。新羅建国当初は、馬韓、弁韓、伽耶、倭人が外交関係を持ち、倭人は新羅王に仕えたり、脱解のように王に推戴されたり、あるいは侵入したり、新羅と深い関係を建国当初から持っています。新羅第二代南解次次雄の11年(AD14年)倭人が兵船100余艘で来襲しています。この南解は、長女を脱解に与えています。また「次次雄」の音から、彼を「スサノヲ」に比定する説があることは、御存じだと思います。私は、脱解こそアメノヒホコの祖ではないかと妄想していますが。

投稿時間:03/11/05(Wed) 09:14
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:国交使の交換
> > 可能性は有り得たと思います。新羅建国当初は、馬韓、弁韓、伽耶、倭人が外交関係を持ち、倭人は新羅王に仕えたり、脱解のように王に推戴されたり、あるいは侵入したり、新羅と深い関係を建国当初から持っています。新羅第二代南解次次雄の11年(AD14年)倭人が兵船100余艘で来襲しています。この南解は、長女を脱解に与えています。また「次次雄」の音から、彼を「スサノヲ」に比定する説があることは、御存じだと思います。私は、脱解こそアメノヒホコの祖ではないかと妄想していますが。


新羅王家惣明期は婿入り話が目立ますが、母系社会だったのでしょうか。

4世紀初頭、新羅と倭国との間で国交使の交換が行なわれていますよね。

4世紀その後、新羅は倭国の激しい攻勢をうけ全て撃退しています。
新羅が倭国の攻勢を全て撃退しているといった所は神功の新羅征伐とは違ってますし、おまけに任那日本府なんて出てこないです。

この辺は国史編纂にあたっての両国の面子が出ているのかと思いますが、
史実がうやむやです。
ですが、4世紀、新羅と倭国との間で国交使の交換(天日矛の来日ではないか)が行なわれてから新羅と倭国の攻防という流れは両国の国史間でうまく重なっているように思われます。

投稿時間:03/11/05(Wed) 22:19
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re: 国交使の交換

> 新羅王家惣明期は婿入り話が目立ますが、母系社会だったのでしょうか。

北方系諸民族は、基本的に父系制氏族社会であったと思われますので、新羅を含む韓族も同様であったと思われます。系譜上の王位の女婿への相続は、現実に存在した、現王朝が王位を獲得した際の摩擦回避や権威の相続を目的とした前王家との婚姻を、反映したものと考えて良いのではないでしょうか?新羅の後の高麗王朝も新羅王女を皇后としたように記憶しています。


> 4世紀初頭、新羅と倭国との間で国交使の交換が行なわれていますよね。

第15代基臨尼師今の3年(AD300)春正月の倭国と国使の交換をしたとの記事でしょうか?その前の第八代阿達羅尼師今の20年(AD173年)夏5月倭の女王卑弥呼が、遣使したという記事もありますが。

> 4世紀その後、新羅は倭国の激しい攻勢をうけ全て撃退しています。

第三代の王と同名の第14代儒礼尼師今(在位284〜298)の時に、百済と同盟して「一時、海上に出て」倭人を攻撃しようと考えたが、臣下の反対にあって中止しています。「倭国」ではなく、「倭人」と表現されている場合、これを「倭国」と考えて良いのか、種族的なもので、伽耶などの倭人を含むのか、解釈が困難です。
また、同じ時期に「伽耶国」「倭人」「金官国」が登場しています。

> 新羅が倭国の攻勢を全て撃退しているといった所は神功の新羅征伐とは違ってますし、おまけに任那日本府なんて出てこないです。
>
> この辺は国史編纂にあたっての両国の面子が出ているのかと思いますが、
> 史実がうやむやです。
> ですが、4世紀、新羅と倭国との間で国交使の交換(天日矛の来日ではないか)が行なわれてから新羅と倭国の攻防という流れは両国の国史間でうまく重なっているように思われます。

私は、三国史記新羅本紀を読んでもっとも違和感があったのは、「神代」の記載がないということでした。なるほど建国の二聖(朴氏の始祖王赫居世とその妻)の降臨・卵生説話などはありますが、朝鮮からの移住民が六村に分かれて慶州市の狭い地域内に居住していたという記事以外に、日本神話の「国生み」「国譲り」などに相当する説話はありません。要するに新羅六部が、「王」を共立したところから、歴史が始まっています。勿論他の記録などで、六部の村長それぞれの降臨などの「氏族」の伝承はあるのでしょうが、それはいわば日本でいえば後代の神社の縁起などの「古史古伝」類似のもので、一体何時頃には完成されていたものか、怪しいものばかりです。三国史記を読む限り、「朝鮮」(半東北部から遼河流域以北でしょう)から移住して来た六氏族が「朴氏」の王を共立して、新羅を建国したが、初代王の重臣に「倭人」の「コ(ひさご)公」がおり、馬韓王からの朝貢要求を拒否したこと、即ち馬韓からの自立〜独立に大きな役割を果たしたことが記載されています。素直に三国史記を読むと、新羅の建国に際し、倭人の援助が必要だったか、倭人が六部の韓族以外に、新羅の構成要員であったと解釈できます。私は、従って倭人が「しろ(白)」国(斯盧)を建国し、後に韓族の国家に変わったと考えたのですが。

投稿時間:03/11/05(Wed) 00:38
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:訂正・追加

> この脱解尼師今の17年(AD73年)倭人は侵入して木出島で角干羽烏を戦死させています。この前後、百済・伽耶とも戦い、撃退しています 。

百済・伽耶と戦ったのは、「新羅」です。

>新羅第二代南解次次雄の11年(AD14年)倭人が兵船100余艘で来襲しています。この南解は、長女を脱解に与えています。また「次次雄」の音から、彼を「スサノヲ」に比定する説があることは、御存じだと思います。私は、脱解こそアメノヒホコの祖ではないかと妄想していますが。

「次次雄」の音から、比定される倭の重要人物として、倭国王「帥升」と仁徳天皇「オホサザキ」を挙げる説も見たことがあります。

投稿時間:03/11/04(Tue) 10:37
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:Re^2:訂正
> > 馬韓方面から筑紫に移動してきた部族がいた反面、

間違えました。
半島南部から筑紫に移動してきた部族がいた反面、
です。

投稿時間:03/09/28(Sun) 12:40
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:Re: 亡命
> こちらのスレッドに質問や反論はこちらのスレッドにお願いします。

天孫降臨という言葉は素晴らしいと思いますが
実の所、ニニギ尊は、大和での物部との争いに敗れてしまった。

その結果、本州から九州に追い出され
日向の奥地に亡命したという設定はどうでしょう。

神武東征の大冒険を史実にするには、歴史が繋がるような、それなりの理由が必要なんですよね。(苦)

投稿時間:03/12/03(Wed) 13:46
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:ウガヤフキアエズに
> > こちらのスレッドに質問や反論はこちらのスレッドにお願いします。
>
> 天孫降臨という言葉は素晴らしいと思いますが
> 実の所、ニニギ尊は、大和での物部との争いに敗れてしまった。
>
> その結果、本州から九州に追い出され
> 日向の奥地に亡命したという設定はどうでしょう。
>
> 神武東征の大冒険を史実にするには、歴史が繋がるような、それなりの理由が必要なんですよね。(苦)


いや、やはり。
九州では火山信仰が深かったと考えたならば、
「火ノニニギ尊・ヒコ火火デミ尊」を大和系の神とするのはおかしいような。

秀真伝の記述通り、ホノニニギ尊ではなく、
ウガヤフキアエズ尊が、大和でのナガスネヒコ等の横暴またはなんらかの理由により、九州日向まで行幸したと考えたほうがいいようの思えてきました。

自分のアイデアは不自然な所が目立つので、
日向での天孫降臨は九州風土記等に見られる伝承神話。
それに秀真伝に見られるウガヤフキアエズ尊の九州への行幸記録をつなげて説を組み立ててみます。

神武が大和奪回に向かったという姿勢には変化ありませんが。

投稿時間:03/12/03(Wed) 22:49
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re: ウガヤフキアエズに

> > 神武東征の大冒険を史実にするには、歴史が繋がるような、それなりの理由が必要なんですよね。(苦)
>
>
> いや、やはり。
> 九州では火山信仰が深かったと考えたならば、
> 「火ノニニギ尊・ヒコ火火デミ尊」を大和系の神とするのはおかしいような。

「火山信仰」なるものが、本当にあったのか否か、また有力な信仰だったのか、などの検証がきちんとなされずに、いわば星野之宣の漫画「ヤマタイカ」などのようにa prioriに「火山信仰」が存在するとされているように思います。

私は倭人を含む北方諸民族の「山岳信仰」として、天上より聖なる存在(倭人などでは、天神)が降臨し、山神〜地神(地母神の後身でしょう)もしくはその変形であると思われる聖獣との間に、民族の始祖が誕生するというものがあったと思いますし、多くの例を挙げることが出来ます。

また、「火神」と言う神格も早くから存在し、重要な存在であったことも確かですが、「火山信仰」というものは、少なくとも北方系の民族では本来存在しなかったのではないかと思います。勿論、火山に神社があり、神が祭られていることはわかりますが、三輪山のように「神体」=山そのものといった形で火山が本当に祭祀されていたのでしょうか?南方系の民族の場合はともかくとして、北方系諸民族の流れとして倭人を捉えた場合、「火山」は少なくとも「火神」の歓迎すべき側面ではなく(荒魂として統合された一部分でしょうが)、排除または祓邪の対象だったように思われます。

倭人南方起源説を採れば、また違ったストーリーが描けると思いますが、北方説を前提にすると、火山信仰は主流とは思えません。
>
> 秀真伝の記述通り、ホノニニギ尊ではなく、
> ウガヤフキアエズ尊が、大和でのナガスネヒコ等の横暴またはなんらかの理由により、九州日向まで行幸したと考えたほうがいいようの思えてきました。

「秀真伝」などの「古史古伝」や神社の縁起などについては、平安時代か鎌倉時代初期に記録されたことが確証されたものは、考慮の対象にしたいと思いつつ、まだそこまで手を出すゆとりがありません。

>
> 自分のアイデアは不自然な所が目立つので、
> 日向での天孫降臨は九州風土記等に見られる伝承神話。
> それに秀真伝に見られるウガヤフキアエズ尊の九州への行幸記録をつなげて説を組み立ててみます。
>
> 神武が大和奪回に向かったという姿勢には変化ありませんが。

弥生時代以降の倭人諸部族(その中心の天孫族を含めて)の移住の方向は古墳時代前期くらいまで、西→東、北→南が主だと思っています。勿論、国家形成・統一のためには、その逆の動きも必要であり、四道将軍のような例もあったでしょうが。

投稿時間:03/12/04(Thu) 18:18
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:大和王権の古さの可能性
これまた、hn2602さんやあきんどさんと逆の発想になってしまいますが、

上記によれば、ウガヤフキアエズ朝は九州高千穂朝のように見受けられますが、
(自分がひねくれているだけだかも知れませんが)
これは先行されて存在していた、記紀神話における九州日向神話に惑わされて編纂されたものだと思える訳です。

実をいうと、九州伝承は、ホノニニギ、ヒコホホデミ等の神に関係するものしか残されては居なくて、

上記でいうウガヤフキアエズ朝なるものは、神武の前につながる畿内大和世襲王権なように思えるのです。(神武の父が大和から九州に下野したとして)

竹内文献、九鬼文献等の記述は、歴代王の活躍が世界にまたがるので創作は明らかですし、上記の九州の関した記述もどうか?といったところ。

畿内大和に残存していたウガヤフキアエズ朝(73代1500年程度で存在したと思ってます)に関する口伝が、
それぞれの神社ゆかりのものが、世界・日本各地の活躍としてばらまいて創作したのが、古史古伝のように思えるのです。

記紀神話では九州で生まれた神武を神の子孫とするために、
九州系ホノニニギ尊・ヒコホホデミ神に大和系ウガヤフキアエズ一代をつなげた史実にされたのかな。。。

秀真伝のナガスネヒコ伝承にもとずく意見ではありますが、偽書と言われてしまえば説得力ないので、トンデモ話題として受け止めて頂ければ良いかと思います。

投稿時間:03/12/05(Fri) 23:45
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:Re^2: 圧縮になるのかな
> > > 畿内大和に残存していたウガヤフキアエズ朝(73代1500年程度で存在したと思ってます)に関する口伝が、
> > それぞれの神社ゆかりのものが、世界・日本各地の活躍としてばらまいて創作したのが、古史古伝のように思えるのです。
>
> ウガヤ朝の系譜を検証されましたでしょうか?
> 少なくとも、真剣に系譜を検証すれば
> そのような見解は出来ないと思いますが


私の持ってる竹内文書資料では、
天皇名・在位年数・事跡等しか記載されていないので、
在位年数をそのまま足してもなんら手がかりはつかめず、
取りあえず1代20年親子継承で考えた訳なんですが、
夫婦継承・兄弟継承が見られ、だいぶ圧縮されるということなのでしょうか?

投稿時間:03/12/05(Fri) 23:14
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:Re^2: 大和王権の古さの可能性
> > 竹内文献、九鬼文献等の記述は、歴代王の活躍が世界にまたがるので創作は明らかですし、上記の九州の関した記述もどうか?といったところ。
>
> お願いがあります。
> 創作は明らかと思われる。
> その明らかなる論拠を教えていただけないでしょうか


補足しますが、王統系譜に関して否定してるわけではなくて、
世界各地での叙事詩について否定してるわけです。
キリスト、モーゼが来朝したりするあたりの事もあります。
王統系譜を否定していない所は、恐らくあきんどさんと温度差がないと思います。


> > 秀真伝のナガスネヒコ伝承にもとずく意見ではありますが、偽書と言われてしまえば説得力ないので、トンデモ話題として受け止めて頂ければ良いかと思います。
>
> 秀真伝について現在調査中です。
> できましたら
> そのナガスネヒコ伝承なるもの教えて頂けませんか?


断片的な、ナガスネヒコの横暴ですが、
三笠山の社に秘蔵してあった重要な「世継文」を密かに書写してしまった。
ところが、ナガスネヒコの上司であるニギハヤヒは、それを正さなかった。
ゆえにニギハヤヒの側近としての横暴がはじまる。

上記でも見られますので、あきんどさんもご存知のことかと思いますが、シラヒト国と手を組み反乱を起こし日本をシラヒト国の属国としようと企んだ。

九州・神武が一方的に大和に攻め込んだのではなく、大和を正すという理由・大義名文があって、
私見を申せば大和内紛に乗じたのが東征という結果になったという考えに傾きつつあります。

思うに九州はウガヤフキアエズ尊の本拠に近い治所だったのでしょうか?
確か秀真伝では代官みたいのものを九州に派遣してたと記述されてた思いましたが。

これだけ、九州・神武が大和の秩序に拘るのも不可解です???


>日高見の国・陸奥・多賀ではなく近江・多賀。


流れがすごく自然。

投稿時間:03/12/07(Sun) 01:03
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:Re: 私見について
> > ここまでは大筋、正しいですね
>
> しかし
>
> > 九州・神武が一方的に大和に攻め込んだのではなく、大和を正すという理由・大義名文があって、
> > 私見を申せば大和内紛に乗じたのが東征という結果になったという考えに傾きつつあります。
> >
> > 思うに九州はウガヤフキアエズ尊の本拠に近い治所だったのでしょうか?
> > 確か秀真伝では代官みたいのものを九州に派遣してたと記述されてた思いましたが。
> >
>
> これは全く事実と違います。
> 秀真伝では、そのような記述になっていません。
> 訳文をキチンと読んで見てください。
> これらを読めば、このあたりの事情は全て記述されています。
> 菊池さんの疑問点は全て無くなります。

一応書籍名を挙げておきます。
読み解き異端古代史書
田中勝也著 108p

この方の史観としては、クシミカタマとその妻サシクニワカはウガヤフキアエズ尊の代官として 九州に赴いたと考えているようです。
(念のため、私のうそ八百ではありませんことを記しておきます)

もちろん、あきんどさんの見解を尊重していますけど、
田中さんの見解が私の考えに都合良かったから一時的に私見を申した次第です。

私の現時点では、ぶっちゃけた話、九州日向でのニニギ尊、ヒコホホデミ尊の実在は否定しています 。半年前は実在させていましたが。(苦笑)

まぁ。私の見解はおいといて、
重要なテーマとして
九州日向勢力に畿内大和に一方的に侵略・攻め込む優越性を認めるか、認めないか?
ということが挙げられます。

私としては、神武が九州日向の在地豪族ではなく、畿内大和の皇位継承権を財産とした貴種で、日本各地の豪族から崇拝をされていたという考えにとらわれてしまいます。

九州高千穂王朝の先進性に素直に頷けないというか、
九州日向勢力の畿内征服戦争はなんかの間違いのように思いたくなります。

あきんどさんは九州王朝のような大きな勢力が存在し、
神武は畿内に攻め込んだものと思われてますでしょうか?

投稿時間:03/12/07(Sun) 10:51
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:Re^3: 私見について
> > 九州高千穂の王権を志向されるなら上記の方が良いでしょうが
> 現在の菊池さん仮説では
> 秀真伝が良いかもしれませんね

年末時間がとれる内は
あきんどさんの所のhpを見て、研究したいと思います。
まだまだ、考えを固めず、妄想(いや失礼史実・歴史)を楽しみたいので、
時折相談相手になって下さい。
宜しくお願いします。

投稿時間:03/09/28(Sun) 16:46
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^2: 亡命

> 天孫降臨という言葉は素晴らしいと思いますが

私は、「高天原」もしくは、「アマ(アメ)国」を、実在の、列島以外の倭人の居住した地域の伝承と考えていますので、当然これを半島南部(一部は遼河流域近辺)に求めることとなります。従って、「天孫降臨」とは、半島南部から、列島に渡来した倭人の移動を、倭人、特にその支配氏族〜部族だった所謂天孫氏族の列島移住を指す言葉(倭人側の用語)だと解釈しています。従って、半島方面より、筑紫に移住した「ニニギ」の一族、出雲に降臨してオオクニヌシを祭ることになった「アメノホヒ」、河内→大和に入った「ニギハヤヒ」以下の物部・穂積氏集団、これとの関係が不明な「アメノホアカリーカグヤマ」の尾張氏集団、などのほか、記紀などにカムアタツヒメの父が天神と記載されていることなどにより、新撰姓氏録の神別の天神・天孫の他、「地祇」に分類されている氏族中にも地母神・山神・海神の配偶神である降臨した天神の子孫がいるのではないかと考えています。「オオヤマツミ」「オオワタツミ」「ツクヨミ」「イサナミ(イザナミ)」など、語尾に「ミ」の付く神名は、もと皆女神ではなかっやかと疑っています。

> 実の所、ニニギ尊は、大和での物部との争いに敗れてしまった。

記紀や旧事記などからは、大和側の実権は、トミヒコに握られており、甥の「ウマシマチ」は傀儡であったと考えられます。旧事記では、「ニギハヤヒ」はその子「ウマシマミ」の生まれる前に死んでいますが、あるいはトミヒコに暗殺されたのかもしれません。仮にニギハヤヒの一派が、筑紫から東遷したとすれば、ニギハヤヒの弟の子たちは、謀殺のうわさを聞いて、倭人諸国を説いて東征軍を組織したのであり、ホアカリの子孫でニギハヤヒの遠征に従軍した天孫族尾張連の祖「高倉下」らが、神武に呼応したのも説明可能です。また紀の一書など、神武の東征を聞いてニギハヤヒが参戦した(神武側に)との記録もあり、ただ単に、神武東征に対し、ニギハヤヒはトミヒコに擁立されて対抗していたという所伝のみではないことにも注意が必要だと思います。
ご承知の通り、私は先代旧事本紀は購入したものの、まだほとんど読んでいませんので、このあたりについては、まだ「トンデモ説」を暖める暇がないものですから、もう少し時間を戴いてから議論したいと思います。

> その結果、本州から九州に追い出され
> 日向の奥地に亡命したという設定はどうでしょう。

倭人=天孫民族と考える私の立場からは、たとえば、「出雲」や「丹波」に降臨後、筑紫や古志、大和に移動したという話はわかりやすいのですが・・・。筑紫内の天孫氏族の主導権争いに敗れ、南下して、日向に入った可能性はあり得ると思いますが。

> 神武東征の大冒険を史実にするには、歴史が繋がるような、それなりの理由が必要なんですよね。(苦)

倭人の列島制覇の中で、各部族が次々と東遷・東征し、列島内の主導権を握るのに都合の良い地理的条件を備えた「近畿大和」に最終的に王権を確立したのが、「天皇氏」であると素直に解釈して特に問題はないように思います。

投稿時間:03/09/29(Mon) 04:28
投稿者名:あきんど
Eメール:cpadf207@hct.ne.jp
URL :
タイトル:Re^3: 亡命
> 私は、「高天原」もしくは、「アマ(アメ)国」を、実在の、列島以外の倭人の居住した地域の伝承と考えていますので、当然これを半島南部(一部は遼河流域近辺)に求めることとなります。

え〜と
倭人の故地と天の国を同一視する必要はないのでは無いでしょうか?

個人的には
菊池山哉氏の研究にある
近江の方が天の国としては適地では無いかと思えるのですが
ホムツタエも近江と言ってますし

天を海と読み替えると高海原となり
高い大地の海原と琵琶湖そのものですし

それに
当時の畿内で近江だけでしょう。大人口を養える可能性があるのは
大和が人口を養えるようになるのは
もっと後の時代です。

あと
物部氏や和邇氏の本拠も元々は近江であったと思える節もあり

更に、菊池山哉氏は被差別部落の伝承から導き出したようですから
支配、被支配の関係を考えますと面白いと思うのです。

hn2603さんの主張されているところの
北方系倭人の集団に列島土着の天の国が倒されたと考えれば
成立すると思うのですが

難点とすれば菊池山哉氏は
七世紀まで天の国が存在したとしているところですか
これだと、
hn2603さんの北方系倭人の列島移動の時期と適合しませんから
ただ、天の国を欠史8代ぐらいとして
これを倒したのが、北方系倭人達とすれば適合するのではないでしょうか?

投稿時間:03/09/29(Mon) 22:02
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^4: 亡命

> hn2603さんの主張されているところの
> 北方系倭人の集団に列島土着の天の国が倒されたと考えれば
> 成立すると思うのですが

肝腎の天孫族が、「高天原」ないし「アマ国」から、降臨(移住・移動)したという主張をしていますので。

> 難点とすれば菊池山哉氏は
> 七世紀まで天の国が存在したとしているところですか
> これだと、
> hn2603さんの北方系倭人の列島移動の時期と適合しませんから
> ただ、天の国を欠史8代ぐらいとして
> これを倒したのが、北方系倭人達とすれば適合するのではないでしょうか?

そうすると、言語の面で、倭人語=日本語祖語という主張を変更する必要がでてきそうです。その場合、縄文語を日本語祖語と考え、倭人の到来は北方系の語彙を少し加えたという説明になり、私の基本的な考えである「もっとも繁殖に成功した集団」が倭人であり、その集団の言語が、日本語の祖語(日本語形成の主力)であり、その集団こそが政治的権力の確立に成功した(国家形成の主力となった)という根本的な仮定と矛盾しますので、、、。

投稿時間:03/09/30(Tue) 00:05
投稿者名:あきんど
Eメール:cpadf207@hct.ne.jp
URL :
タイトル:Re^5: 亡命
> 肝腎の天孫族が、「高天原」ないし「アマ国」から、降臨(移住・移動)したという主張をしていますので。

すると、hn2603さんは万世一系を支持されるので?

投稿時間:03/09/30(Tue) 22:34
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^6: 亡命
> > 肝腎の天孫族が、「高天原」ないし「アマ国」から、降臨(移住・移動)したという主張をしていますので。
>
> すると、hn2603さんは万世一系を支持されるので?

私は、できるだけ日本の古代の文献(記紀など)を尊重して、考えたいと思うのですが、どうもそうすると天皇家側の文献しかほとんど古いものがないという状態で、それをそのまま受け入れると、万世一系を支持することになるので、若干引っかかるのですが、当面は特に矛盾がなく、大枠で説明できれば、終点まで行って見ようかと思っています。

尚、私のHNは、hn2602で、2603ではないのですが・・・。

投稿時間:03/10/01(Wed) 02:28
投稿者名:あきんど
Eメール:cpadf207@hct.ne.jp
URL :
タイトル:申し訳ありません
> 尚、私のHNは、hn2602で、2603ではないのですが・・・。

申し訳ありません。

投稿時間:03/09/29(Mon) 21:41
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^4: 亡命
あきんどさん、コメント有難うございます。私も先代旧事本紀は、7月末に購入したのですが、まだほとんど読んでいません。1週間前に安本美典氏の「古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎」を購入して、この本の方を先に読み出していますが、まだ第2章の途中です。オオクニヌシや物部氏についての考えを固めるためには、「物部氏の主張」即ち旧事本紀は読んでおく必要があると思っていますが、なかなか進みません。必然的に、ロトさんの掲示板での書き込みも天孫降臨後の、倭人〜天孫族の東方移動についての骨格が決まらないため。遅れています。出雲神話あたりの扱いになると皆さんの反応も、激しくなりそうな予感がします。

> 倭人の故地と天の国を同一視する必要はないのでは無いでしょうか?

完全に同一視するわけでは勿論ありませんが、@倭山を中心に倭人が結集し、半島南部に南下(民族移動)を開始する(この時点で倭人の宗教的・政治的・軍事的指導者を出す氏族〜部族が固定する)のが前13〜12世紀頃、A半島南部、現在の忠清南北道南部から、全羅南北道・慶尚南北道一帯に、倭人諸部族(及び同盟した他民族系の部族も)が部族国家(多数の)を形成する、Bその内前10世紀には倭人諸部族の海峡渡海により北九州に倭人の部族国家群が成立し、弥生時代が始まる。Cついで筑紫から、南九州・瀬戸内海沿岸への東遷が始まる。同じ頃、半島の東南部(慶尚北道)から直接出雲や古志、あるいは丹波への移住も始まる(倭人が主で後に韓族も?)、この年代は前7〜5世紀くらいで、近畿へは少し遅れて同じように移住が始まる
。と大雑把なシミュレーションをしているのですが、勿論近畿や吉備の最古級の弥生遺物の年代が、AMS法などで決まるまでの暫定的な考えです。
「天孫降臨」については、倭人の支配的氏族のいわば「イデオロギー」だと考えていますので、宗教的には「天上」ですが、歴史的には「半島南部」(及び更に北方)と考えたいのです。
天孫族は、かれらの主神〜始祖神から、「葦原中つ国」即ち列島の支配権を与えられたという信仰・使命感を強烈に持ち、行動した集団だと思いますので、そのような集団が列島内の地域間移動の前住地を「アマ国」と考えるというのは、どうも受け入れがたいのですが。

>
> 個人的には
> 菊池山哉氏の研究にある
> 近江の方が天の国としては適地では無いかと思えるのですが
> ホムツタエも近江と言ってますし

菊池山哉氏は全く知らない方です。ホツマツタエのような古史古伝には今のところ、全く知識がありませんので、、、。

> 天を海と読み替えると高海原となり
> 高い大地の海原と琵琶湖そのものですし

アマが天と海の両義含んでいることは勿論認めますが、具体的に「アマ国」を考えるとなると、「海原のかなた」で列島外に求めるべきだと思います。

> それに
> 当時の畿内で近江だけでしょう。大人口を養える可能性があるのは
> 大和が人口を養えるようになるのは
> もっと後の時代です。

これについては、近江が大人口を養い得たかに対する疑問も含め、当時の地形などの検討が必要で、どちらかというと大和や河内は、むしろ「政治権力」の成立〜「成長・成熟」によって、開拓・開発が進展して、大人口が養い得るようになったのではないかと、私も思っています。少なくとも、河内は「潟」ないし「内海」だった時代が長かったようですし、大和も盆地部分のかなりは「湖沼」で有った可能性をかんがえなければならないでしょう。

> あと
> 物部氏や和邇氏の本拠も元々は近江であったと思える節もあり

初耳です。ところであきんどさんのHPは、掲示板からアクセスできるところ以外に、どこかにあるのでしょうか?

> 更に、菊池山哉氏は被差別部落の伝承から導き出したようですから
> 支配、被支配の関係を考えますと面白いと思うのです。

あまりに時代が下がり過ぎるデータの扱い方は、私には到底出来ません。(HLAハプロタイプも現代のものですが、少なくとも遺伝子は古代にも存在していますから)
> hn2603さんの主張されているところの
> 北方系倭人の集団に列島土着の天の国が倒されたと考えれば
> 成立すると思うのですが
>
> 難点とすれば菊池山哉氏は
> 七世紀まで天の国が存在したとしているところですか
> これだと、
> hn2603さんの北方系倭人の列島移動の時期と適合しませんから
> ただ、天の国を欠史8代ぐらいとして
> これを倒したのが、北方系倭人達とすれば適合するのではないでしょうか?

投稿時間:03/09/30(Tue) 00:43
投稿者名:あきんど
Eメール:cpadf207@hct.ne.jp
URL :
タイトル:Re^5: 亡命
> あきんどさん、コメント有難うございます。

kitunoさんのところの聖徳太子関連で頭がウニってますから(笑)
本来の自分のジャンルの
古代史の話をしたいなと思ったので来ました。

>私も先代旧事本紀は、7月末に購入したのですが、まだほとんど読んでいません。1週間前に安本美典氏の「古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎」を購入して、この本の方を先に読み出していますが、まだ第2章の途中です。オオクニヌシや物部氏についての考えを固めるためには、「物部氏の主張」即ち旧事本紀は読んでおく必要があると思っていますが、なかなか進みません。必然的に、ロトさんの掲示板での書き込みも天孫降臨後の、倭人〜天孫族の東方移動についての骨格が決まらないため。遅れています。出雲神話あたりの扱いになると皆さんの反応も、激しくなりそうな予感がします。

一般に先代旧事本紀は、物部氏のモノと言われますが
自分は、物部ではなく、尾張が書いたものと思っています。

> 完全に同一視するわけでは勿論ありませんが、@倭山を中心に倭人が結集し、半島南部に南下(民族移動)を開始する(この時点で倭人の宗教的・政治的・軍事的指導者を出す氏族〜部族が固定する)のが前13〜12世紀頃、A半島南部、現在の忠清南北道南部から、全羅南北道・慶尚南北道一帯に、倭人諸部族(及び同盟した他民族系の部族も)が部族国家(多数の)を形成する、Bその内前10世紀には倭人諸部族の海峡渡海により北九州に倭人の部族国家群が成立し、弥生時代が始まる。Cついで筑紫から、南九州・瀬戸内海沿岸への東遷が始まる。同じ頃、半島の東南部(慶尚北道)から直接出雲や古志、あるいは丹波への移住も始まる(倭人が主で後に韓族も?)、この年代は前7〜5世紀くらいで、近畿へは少し遅れて同じように移住が始まる

この説を見る限り
倭人は五月雨的に各地に列島へ移動したんですよね?
としますと
大和王権を成立された部族より以前に畿内へ侵入していた部族が居ても
良い訳ですよね
だったら、別に単一形態を想定しなくても良いと思いますよ

> 初耳です。ところであきんどさんのHPは、掲示板からアクセスできるところ以外に、どこかにあるのでしょうか?

ふと、気がついたこと
もしかして
説と節を取り違えてませんか?

別に、説でも良いですが
それらしきことは物部氏研究をしている人達の幾人かが唱えています。
まあ、本拠とまでは言ってませんが
近江に物部氏の大きな拠点があったことは推測されています。
大和・河内を本拠とする物部を内物部と呼び
その他の物部、つまり、外物部の本拠があった地を近江としています。

その他に
近江の豪族の展開状況
初期物部氏の名乗りは近江関連の名が多いこと
近江の神社の伝承や郷土伝承などですか

> > 更に、菊池山哉氏は被差別部落の伝承から導き出したようですから
> > 支配、被支配の関係を考えますと面白いと思うのです。
> あまりに時代が下がり過ぎるデータの扱い方は、私には到底出来ません。(HLAハプロタイプも現代のものですが、少なくとも遺伝子は古代にも存在していますから)

時代は下がってませんが?
もしかして、これも被差別部落ということで
後の時代と思われてませんか?

ささら者というか、くぐつというか、サンカでも
呼び方は何でも良いですが
下層の人達のことを指しているだけですよ

投稿時間:03/09/30(Tue) 23:20
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^6: 亡命

> 一般に先代旧事本紀は、物部氏のモノと言われますが
> 自分は、物部ではなく、尾張が書いたものと思っています。

まだ先代旧事本紀を呼んでいないので、何も言えないのですが、ニギハヤヒ=ホアカリというのは、先代旧事本紀のみの主張だとすれば、どうも、尾張氏と物部氏・穂積氏は本当に同族だったのか、早速疑問が生じた所です。もともと私は、「物部」という氏族名は、「大部」(おおとも)同様、伴造諸氏族の宰領を任された氏族の名称だと思っていましたので、物部氏は、少なくとも天皇氏の配下になった後に、天皇氏から与えられた氏族名であり、天皇氏に従った尾張氏から出た后妃に随従して出仕した尾張氏(あるいは穂積氏?)の族人が、天皇氏に用いられて、物部氏に成長したという考えを持っていたのですが、少なくとも尾張氏との関係はそのようなものではなさそうだと今は考えています。

> この説を見る限り
> 倭人は五月雨的に各地に列島へ移動したんですよね?

倭人の移住は、基本的に民族移動で、ボート・ピープル型移住ではないと考えていますので、おそらく九夷のなかの「于夷」を中心に遼河〜鴨緑江流域(河口・下流域)の諸部族が、結集して「祭祀同盟」を形成した時点で、「倭人」が成立し(その祭祀の行われるのが「倭山」でしょう)、祭祀を主宰した氏族が、「天孫氏」「阿毎氏」「倭氏」とでもいうべき後の天皇氏やおそらく物部・尾張氏などの祖先となる存在だったと考えています。従って、前12世紀前後の半島南部への移動は、部族連合体=倭人のほとんど全ての部族の移動だと考えています。しかし、そこから列島への渡海については、倭人諸部族の総意ではあったでしょうが、基本的に部族単位(といっても数個の部族・氏族の連合で、その指導者にはいわゆる天孫氏族の者が選ばれたと思います)で、渡ったと思います。渡海移住が成功すると、そのうわさを聞き、また機会を求めて後続の部族・氏族や移住者の同族の残存者が、来住するのは、民族移動期に良く見られる現象です。

> としますと
> 大和王権を成立された部族より以前に畿内へ侵入していた部族が居ても
> 良い訳ですよね

当然いたはずで、少なくともニニギの部族より先に、ニギハヤヒやホアカリの部族が、大和に入ったと考えています。ただ、彼らの前におそらくもう一波先発した倭人があったのか、あるいはなかったのかがオホクニヌシや出雲神話との関連で、判らないのです。

> ふと、気がついたこと
> もしかして
> 説と節を取り違えてませんか?
>
> 別に、説でも良いですが
> それらしきことは物部氏研究をしている人達の幾人かが唱えています。
> まあ、本拠とまでは言ってませんが
> 近江に物部氏の大きな拠点があったことは推測されています。
> 大和・河内を本拠とする物部を内物部と呼び
> その他の物部、つまり、外物部の本拠があった地を近江としています。
>
> その他に
> 近江の豪族の展開状況
> 初期物部氏の名乗りは近江関連の名が多いこと
> 近江の神社の伝承や郷土伝承などですか

メールでお知らせ戴いたHPを早速お気に入りに登録しました(掲示板は登録済みでしたが、どうやってもそれらしきデータに辿り着けませんでした)。膨大なデータがあるようですので、じっくり拝見させていただきます。


> 時代は下がってませんが?
> もしかして、これも被差別部落ということで
> 後の時代と思われてませんか?
>
> ささら者というか、くぐつというか、サンカでも
> 呼び方は何でも良いですが
> 下層の人達のことを指しているだけですよ

乞胸、門付け、新内流し、非人などについては、江戸時代のものについては、昔読んだことがあります。サンカは三角寛氏のものを読んだ覚えがありますが、半信半疑でした。木地師やくぐつの話も読んだことはありますが、体系だったものはありません。興味はありますが、どうもそこまで手を出す時間がなさそうです。

投稿時間:03/10/01(Wed) 03:22
投稿者名:あきんど
Eメール:cpadf207@hct.ne.jp
URL :
タイトル:Re^7: 亡命
>ニギハヤヒ=ホアカリというのは、先代旧事本紀のみの主張

これに関しては調べてはいるんですが
よくわかりません

かなりの系譜や伝承が先代旧事本紀をもとにしているらしいのですが
現存の先代旧事本紀は再編纂されたものという認識である自分としては
これは問題が無いのですが
仮に、その成立が新しいとすると問題が発生すると思います。

海部氏勘注系図でもニギハヤヒ=ホアカリとなっていますが
先代旧事本紀のどちらが古いのかわかりません。

また
但馬故事記では、両者は同一人物説と異人説の併記のようです。

その他に
火明尊を祖と称する氏族とニギハヤヒを祖とする氏族の系譜を調べる限り
同一人物というのも、異人というのも両方が正しいようです。
ある時は同一人物で、ある時は別人

これらのことから

2つの仮説を考えてます。

1つの目の仮説としては

物部氏と尾張氏の融合です。

火明尊とニギハヤヒ尊という名称は、どうやら世襲名か職名であり
一時期に双方の名称を襲名した人物が存在し
この人物の存在により、これを同一人物としたと考えています。

更に、歴代の火明・ニギハヤヒ達を単独の人物とみなしたのが
あの長ったらしい名前の人物と見ています。

もう1つの仮説は

尾張氏の持つ、2つの系譜をもとにしています。

尾張氏は海人系と天孫系の2系統が存在するようであり
そのため二面性を持っています。
二面性を持ち、恐らく別系の氏族が融合し
単独の氏族になったようです。
但し、どうやら天孫系の尾張が支配層であり
海人系が従属層のようです。

これらを分類しますと

天孫系の尾張氏は、陸の尾張、内尾張
海人系の尾張氏は、海の尾張、外尾張

陸の尾張は、天皇家の近くで仕え
海の尾張は、尾張や丹後のように各地に点在しています。

ただ、海の尾張は後まで姿が見えますが
陸の尾張の姿は途中で確認できません。

更に
陸の尾張氏は、ある期間の天皇家では無いかと考えており
皇統が入れ替わったときに
それ以前の天皇家であった陸の尾張氏は
和邇氏に変化したのではと考えています。

そして
2つの尾張氏の祖を見ますと
陸の尾張はニギハヤヒであり
海の尾張は火明であることから
この両者を同一人物とすることで融合を図り
ニギハヤヒと火明の同一人物化がされたと推測しています。

この仮説は
物部氏と尾張氏の融合ではありません。

物部氏は、陸の尾張の分かれであり
陸の尾張と並列する形で
もう1つの皇統を形成したいたと想定しています。

投稿時間:03/10/02(Thu) 00:52
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^8: 亡命

> 2つの仮説を考えてます。
>
> 1つの目の仮説としては
>
> 物部氏と尾張氏の融合です。

現在の私の考えもその方向に傾きつつあります。

> 火明尊とニギハヤヒ尊という名称は、どうやら世襲名か職名であり
> 一時期に双方の名称を襲名した人物が存在し
> この人物の存在により、これを同一人物としたと考えています。

記紀の葛城王などの同名の諸王の存在から、すぐにその考えは出てくるのですが、ただこれを採用すると、系譜が伸縮自在となり、「何でもあり」の世界になってしまうので、何らかの客観的基準を設けない限り「禁じ手」だと思います。とはいうものの例の景行天皇が自分の玄孫と結婚したという話などは、たまたま同族内の同名の皇族が混同されたのだと考えたくもなりますが。


> 更に、歴代の火明・ニギハヤヒ達を単独の人物とみなしたのが
> あの長ったらしい名前の人物と見ています。

「歴代」か否かは別として、複数の人名か神名を統合したとしか考えようがありませんね。


> もう1つの仮説は
>
> 尾張氏の持つ、2つの系譜をもとにしています。
>
> 尾張氏は海人系と天孫系の2系統が存在するようであり
> そのため二面性を持っています。
> 二面性を持ち、恐らく別系の氏族が融合し
> 単独の氏族になったようです。
> 但し、どうやら天孫系の尾張が支配層であり
> 海人系が従属層のようです。

これは、「尾張氏」と「海部氏」のことでしょうか?私も以前からそう考えてはいるのですが、あまり「複数氏族の合成」を言うのも気が引けますので、せいぜい「物部・穂積氏」と「尾張(・海部)氏」の二氏のみに限って考えることにしています。

> これらを分類しますと
>
> 天孫系の尾張氏は、陸の尾張、内尾張
> 海人系の尾張氏は、海の尾張、外尾張
>
> 陸の尾張は、天皇家の近くで仕え
> 海の尾張は、尾張や丹後のように各地に点在しています。
>
> ただ、海の尾張は後まで姿が見えますが
> 陸の尾張の姿は途中で確認できません。
>
> 更に
> 陸の尾張氏は、ある期間の天皇家では無いかと考えており
> 皇統が入れ替わったときに
> それ以前の天皇家であった陸の尾張氏は
> 和邇氏に変化したのではと考えています。

「陸の尾張氏の天皇説」は、「物部王朝説」の変形のような気がしますが、「欠史八代」が「尾張王朝」ということですか?

> そして
> 2つの尾張氏の祖を見ますと
> 陸の尾張はニギハヤヒであり
> 海の尾張は火明であることから
> この両者を同一人物とすることで融合を図り
> ニギハヤヒと火明の同一人物化がされたと推測しています。
>
> この仮説は
> 物部氏と尾張氏の融合ではありません。
>
> 物部氏は、陸の尾張の分かれであり
> 陸の尾張と並列する形で
> もう1つの皇統を形成したいたと想定しています。

う〜ん、私の「物部氏の尾張氏起源説」と似ている感じの部分もありますが、ニギハヤヒとホアカリの解釈は、私は記紀に従って一応無関係であろうと考えたいのですが。「先代旧事本紀」のニギハヤヒに従って降臨した諸神のうち、ニニギに従って降臨した五つの伴の緒については、どうお考えですか?この五神をどう考えるかで、ニニギ、ニギハヤヒ、ホアカリの位置付けが決まってくるように思いますが。

投稿時間:03/09/29(Mon) 04:03
投稿者名:あきんど
Eメール:cpadf207@hct.ne.jp
URL :
タイトル:Re^3: 亡命
> 倭人の列島制覇の中で、各部族が次々と東遷・東征し、列島内の主導権を握るのに都合の良い地理的条件を備えた「近畿大和」に最終的に王権を確立したのが、「天皇氏」であると素直に解釈して特に問題はないように思います。

疑問点が1つ
畿内大和は当時の人達にとって
都合の良い地理的条件を備えているのでしょうか
列島の地形はわからないはずです。
畿内大和が列島支配をするのに都合がよいのでしょうか
もしかすると、端っこかもしれません。
列島の奥行きはわからないはず
だとすると、個人的には、
瀬戸内の中央部である吉備の方が地理的条件に適していると思いますが?
或いは、対岸の讃岐あたりの方が良いのでは?

宇佐家の古伝によると
西日本を支配していた兎狭族の本拠は
かつては吉備の地と言ってますし

投稿時間:03/09/29(Mon) 21:51
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^4: 亡命

> 疑問点が1つ
> 畿内大和は当時の人達にとって
> 都合の良い地理的条件を備えているのでしょうか

おそらく、筑紫が西に偏していることは、天皇氏にもわかっており、東征開始時は、同族の支配する大和への移住を考えたか、あるいはニギハヤヒ一族からの情報があり、大和の東方にはまだ広大な土地があるくらいの情報は持っていたと思います。

> 列島の地形はわからないはずです。
> 畿内大和が列島支配をするのに都合がよいのでしょうか
> もしかすると、端っこかもしれません。
> 列島の奥行きはわからないはず
> だとすると、個人的には、
> 瀬戸内の中央部である吉備の方が地理的条件に適していると思いますが?
> 或いは、対岸の讃岐あたりの方が良いのでは?

先住の倭人〜天孫族が、占拠しており、更に先(東方)への移住を余儀なくされたのではないでしょうか?

> 宇佐家の古伝によると
> 西日本を支配していた兎狭族の本拠は
> かつては吉備の地と言ってますし

兎狭族などについては、何もしりませんので、コメントできませんが、民族移動期に日本での動きの主流は、やはり西から東へ、だったと思います。

投稿時間:03/09/28(Sun) 18:26
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:Re^3: 畿内の力
> > > 倭人の列島制覇の中で、各部族が次々と東遷・東征し、列島内の主導権を握るのに都合の良い地理的条件を備えた「近畿大和」に最終的に王権を確立したのが、「天皇氏」であると素直に解釈して特に問題はないように思います。

筑紫は半島からの玄関口であり、軍事、産業あらゆる面において、大きな勢力を有していた可能性もあると思われますので、
hn2602さんの組み立てておられる、各部族が次々と東遷、東征して列島の主導権を握ったとする説もわかります。

ですが、私としては、逆に考えております。
農耕の起源は紀元前10世紀辺りと考え
紀元前後においては、広大な畿内の10の力に対し、筑紫の力は5という比率って言うところでしょうか。

列島支配に都合のいい地理的条件というのは、
列島の中心的位置にあるからというお考えなのでしょうか。
だとしたら、hn2602さんのおっしゃってることは理にかなってると思います。

畿内大和、河内が農耕に適した地だから攻めたのだとだしたら、
攻め込む以前に、当然、畿内大和の力は強大であり、筑紫から攻め込むのは容易ではないからです。

終わりに関係ないことですが、minstrelさんの掲示板でご存知かと思いますが、私は邪馬台国畿内説に転向してしまいました。
付足として女王国北部九州説、邪馬台国・女王国別種論的立場で今後は対談させて頂きたいと思います。

おっと、トビずれしてきました。この辺で。

投稿時間:03/09/28(Sun) 22:03
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^4: 畿内の力

> 農耕の起源は紀元前10世紀辺りと考え
> 紀元前後においては、広大な畿内の10の力に対し、筑紫の力は5という比率って言うところでしょうか。

この農耕の起源と言う言葉は水稲耕作を、意味していると思われますが、弥生時代の開始は、北九州で、倭人の到来とともに紀元前10世紀に開始されたとして、縄文人の世界への浸透は、従来の弥生時代の開始紀元前5世紀頃説よりも、ゆっくりだったと考えられますので、畿内地方の弥生時代化は、北九州より300〜500年くらい遅かったとして、前7世紀から前5世紀くらいでしょう。この頃は勿論、河内地方の大半は内海(河内潟)であるいは大和盆地も湖沼地帯であった可能性があり、このあたりの検討がなされなければ、近畿の生産力が、筑紫より高いとは言えないと思います。特に河内地方の生産力が上がるのは、古墳時代に入って体と思います。
水稲耕作よりも、粟作・麦作・おかぼ(陸稲)を中心とした畑作が弥生時代前期の主たる生業であり、倭人の人口増と部族国家の権力強化によって、初めて沼沢地の開拓や、灌漑の整備などが可能となり、水稲耕作も併用されるようになって、増加した人口のはけ口や、半島南部からの新来の移住民(先発の倭人の同族)の移住先として、東征・東遷する部族が編成されたと思います。

> 列島支配に都合のいい地理的条件というのは、
> 列島の中心的位置にあるからというお考えなのでしょうか。

そうです。それと労働力の投入により、生産力(国力)の増大が図れるという利点もあったと考えています。(河内地方の干拓など)

> だとしたら、hn2602さんのおっしゃってることは理にかなってると思います。

> 畿内大和、河内が農耕に適した地だから攻めたのだとだしたら、
> 攻め込む以前に、当然、畿内大和の力は強大であり、筑紫から攻め込むのは容易ではないからです。

私はむしろ、筑紫から渡来した勢力が弱小だった大和を強大化させ、それが新たな筑紫からの移住民を招いたと思っています。
先発の集団が、穂積臣・物部氏の祖先集団であり、先住のトモヒコ羅の部族と融合し、これに新たな移住民(尾張氏)が入り、更に天皇氏集団が筑紫から、進出して来て、大和勢力は天孫族=倭人グループと、先住民(縄文人、倭人化しつつあったでしょうが)系の両者が受け入れを巡って分裂し、天皇氏集団が最終的に勝利者となったのではないかというのが、現在の考えです。ただ、物部・穂積集団の移住を倭人の近畿移住の最初の集団と考えるのか、第二波〜第三波と考えるべきかは、まだ決めかねています。

> 終わりに関係ないことですが、minstrelさんの掲示板でご存知かと思いますが、私は邪馬台国畿内説に転向してしまいました。
> 付足として女王国北部九州説、邪馬台国・女王国別種論的立場で今後は対談させて頂きたいと思います。

存じております。近畿説の同志が増えて嬉しいです。付足部分については同意しかねますので、また転向していただくよう頑張ります。

投稿時間:03/09/29(Mon) 22:36
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:Re^5: シオツチ神
> > > 列島支配に都合のいい地理的条件というのは、
> > 列島の中心的位置にあるからというお考えなのでしょうか。
>
> そうです。それと労働力の投入により、生産力(国力)の増大が図れるという利点もあったと考えています。(河内地方の干拓など)

シオツチの神様と同じ意見ですね。
魅力を感じました。

投稿時間:03/09/04(Thu) 14:09
投稿者名:南 弥生
Eメール:tomoko_koreeda@yahoo.co.jp
URL :http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/wforum/index.html
タイトル:Re: (閑話)半島南部の倭人と「やま」
>日本語の「ヤマ(山)」に相当する語形は、韓国朝鮮語にはなく、「タカ(高)」から来たと思われる「タケ(岳、背丈の丈も同源)」に相当する「タル」talがいわゆる高句麗地名にあります。(中略)

>これが「邪馬台国」の「邪馬臺(やまと)」の語義であると考えます。

>No873への返信

 たけ─────やま────────ぬぷり──のぷ <のぼる>
 うみ─────わた───────→あとぅい─ぱた <わたる>
 弥生人────南方系縄文人───→北方系縄文人
 日本─────熊襲────────アイヌ──朝鮮
 ビルマ語系──インドネシア語系──アルタイ語系

投稿時間:03/09/04(Thu) 22:28
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^2: (閑話)半島南部の倭人と「やま」

>
>  たけ─────やま────────ぬぷり──のぷ <のぼる>
>  うみ─────わた───────→あとぅい─ぱた <わたる>
>  弥生人────南方系縄文人───→北方系縄文人
>  日本─────熊襲────────アイヌ──朝鮮
>  ビルマ語系──インドネシア語系──アルタイ語系

南 弥生さん、コメント有難うございます。
ところで、弥生人南方起源説を採っていらっしゃるようですが、その根拠は如何なるものでしょうか?
安本美典氏の、「日本語江南系ビルマ語起源説」とほぼ同様のものでしょうか?
尚、チベット・ビルマ語族の「山」「海」を表わす言葉について、ご教示願えれば幸いです。

投稿時間:03/09/06(Sat) 00:15
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^4: (閑話)半島南部の倭人と「やま」
> 「やま」と「わた」をセットとして考えてみますと、
> 大山津見と大綿津見が思い浮かびます。
> 大山津見は、国つ神ですから、大綿津見も同様と思われます。
> 勿論、これらの神が弥生人なのか、縄文人なのかは分かりませんが、
> 大陸系の人(北方系)と思われるアイヌや韓人は、
> 海洋系の人(南方系)と思われる縄文人から、
> 「わた」等の海洋に関する語句を借用しているのでは、と考えています。

縄文人が、南方系か北方系かは、一概に言えませんが、自然人類学的(遺伝学的)データからは、北方系優位のように思われます。縄文時代に先行する無土器時代には、シベリアに起源を有すると考えられる「細石刃文化」が明らかに列島に入っています。
また、東北日本の縄文土器に対し、西南日本では、桜島や鬼界カルデラの大噴火で滅亡した?「貝(殻)文土器」が分布し、前者が北方系であるのに対し、後者は南方系と考えられます。ただ、「わた」は韓国語の「海]pataと同源であることは多くの学者が認めているので、南方の諸言語の中に、同系の語彙を認めない限り、「わた」の南方起源説は肯定し難いと思われます。

> (部分的に?、弁韓人や古アイヌが南方系[海洋系]である可能性。)
>
> 「わた」のwが脱落した「あた」と「あとぅい」は似ています。
> 「わた」と「ぱた」の関係は、よく言われる例です。
>
> 「やま」と「うみ」
> 「たけ」と「わた」
> という組み合わせも、当然、考えられますが、
> ────────────────────────────────────────
>
> 大綿津見(宗像企救) わた=うみ-うま.し 宇美(筑前)[可怜小汀] うま.る _村(室・諸)
> 大山津見(肥後北部) やま=たけ-たけ.し 竺紫(筑後)[高千穂峯] たけ.る 田心(建・武)
>
> このように図式化した関係から、
> 「たけ」と「うみ」のセットを、弥生語と<想像>しています。
> 私は、「やま」は南から来た、と考えていますし、
> 「やま」が本来「山」の意味であったのかを疑っています。目印(海から目立つもの)?

「やま」に関しては、私も本来山岳を意味したかは、疑問に思っています。なにか「霊的なもの」か「神の領分」の意義を含んでいるように思われ、むしろ、「海」と対比すべきでないと思います。「うみ」については、「あま」(天、海)の母音交替形の可能性が高いように思いますが、わかりません。ただ、「あま(天、海)」「あめ(天、雨)」と「うみ(海)」には、何か「水」の語義がはいっているように思え、少なくとも同系(同じ言語の話者)だと思われ、「あめ、あま」「うみ」「みづ、み(水)」は同一言語即ち、「倭人語」だと私は考えたいのですが。「うみ」が古くは、「大きな池〜湖(みづうみ)」をも指し(「しほうみ」が「海」を指した)、また「み」一語で「うみ」と同義にも用いられたこともありますので。


> たけ─────やま────────ぬぷり──のぷ <のぼる>
> うみ─────わた───────→あとぅい─ぱた <わたる>
> 弥生人────南方系縄文人───→北方系縄文人
> 日本─────熊襲────────アイヌ──朝鮮
> ビルマ語系──インドネシア語系──アルタイ語系

あと、「もり」(森)、「をか」(丘、岡)と言う言葉もあり、「たけ」が本来「高」と同源とされているのに対し、「もり」は「盛る」からの言葉と考えられています。朝鮮語の「山」は、これと同源と思われるmori(もり)があり、琉球語のmui(丘)とも考え合わせて、日本語の「もり」の意味(森)は、列島に入ってきて意味の変化を来たしたものであることが、ほぼ認められているように思います。また、「盛る」(や「守る(もる)」)などから考えて基礎的な語彙の可能性も強いようです。尚、満州語muleむれ(山)、ヤクート語mulonむろん(山)、アイヌ語mori(岡)などがあり、この「もり」系こそ北方系の本来の「山」を意味する語彙だったのではないでしょうか?(アイム語の「もり」moriは日本語からの借用語でしょうが。)


> 最後に、ついでに書きますが、
> 「やまと」は「やま・と」ではなく、「や・まと」ではないか、と考えています。

魏志韓伝(弁辰伝)の「弥烏邪馬」国や、倭人伝の「邪馬」国や「邪馬台」国を一連の国名として考えると、「や・まと」とは考えられません。特に倭の一国「邪馬」国の存在が、「やま」が一語であることを担保しているように思います。

> 倭面土国と三根郡米多郷の関係について注目したのが、A.スラヴィクです。

全く聞いたことのない人です。現在入手可能でしたら、著書などご教示お願い申し上げます。

投稿時間:03/09/09(Tue) 00:54
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re: 最後です(倭語の三重構造)

> > 「うみ」については、「あま」(天、海)の母音交替形の可能性が高いように思いますが、わかりません。
> > ただ、「あま(天、海)」「あめ(天、雨)」と「うみ(海)」には、何か「水」の語義がはいっているように思え、
> > 少なくとも同系(同じ言語の話者)だと思われ、
> > 「あめ、あま」「うみ」「みづ、み(水)」は同一言語即ち、「倭人語」だと私は考えたいのですが。
> 高天とか高御の例や、
> 高木神と天照大御神、高御座と天皇、などからも、
> 「たけ・うみ」をセットで考えてもよいのでは。

「あめ」(天、雨)と同源の「あま」(天、海人、海)、「うみ」(海)の構造からすると、海洋での水平線で、「天」と「海」が合しているように見えることから、「あま」が、天・海の両義を持つようになったかも知れないと考えています。そうすると「うみ」も含めて、この系統の言葉は、「山海」の対比から外して考えるべきかと思い、悩んでいます。「雨、海」は「水」と関係ありそうですし、「海」が古くは「みづうみ(湖、水+海)や池も意味し、「しほ(塩)うみ」が現在の海を意味したことを考えると、あるいは「なみ(波)」などが本来の「海」の意味かもしれませんが、「たけ」には「わた」が良いように思われます。ただ、「もり」「をか」と「わた」の組み合わせも考える必要があります。

>
> 私の書き込みからの引用ですが、
> > 伊予国風土記逸文に、
> > 仁徳御宇に、百済より大山積の神、一名、和多志大神が渡り来た、とあります。
> > この山は、特別な意味を持つ「やま」でしょうか?

そう思います。「やま」が本来「海」を意味するものでないからこそ、海人族も大山積の神を祭ったのでしょう。「わたし」は「渡来」を意味するもので、馬韓諸国〜百済の南下に圧されて、栄山江流域に倭人諸部族が、列島に渡来してきた時に奉祀した天神でしょう。

> > 何故、後の海人たちに受け入れられたのでしょう。
> > 大綿積の神と同じように、海の神の性格をもともと持っていたのでしょうか。

判りませんが、書紀にコノハナサクヤ姫が、「天神と大山積の神の子」とされています。大伽耶山の山神同様、どこかの(栄山江流域の?)地母神〜山神で、降臨した天神との間に、姫神を儲けたのかもしれませんね。

> > 綿積の神ではありませんが、肥前風土記に、
> > 「此島(値嘉島)白水郎、容貌似隼人、恒好騎射、其言語異俗人也」
> > とあります。
> 「やま・わた」をセットで考えてもよいのでは。
> ────────────────────────────────────────
>
> ────────────────┌ぬぷり──のぷ <登る>
> たけ─────やま───────┴もり───もり <盛る>
> うみ─────わた───────→あとぅい─ぱた <渡る>
> 弥生人────南方系縄文人───→北方系縄文人
> 日本─────九州────────アイヌ──朝鮮
> ビルマ語系──インドネシア語系──アルタイ語系
>
> ────────────────────────────────────────
>
> 大綿津見(宗像企救) わた=うみ-うま.し 宇美(筑前)[可怜小汀] うま.る _村(室・諸)
> 大山津見(肥後北部) やま=たけ-たけ.し 竺紫(筑後)[高千穂峯] たけ.る 田心(建・武)
>
このあたりは、まだ考えていないところです。「むす」(ムスビの神のムスビ、ムス=うむ、と併せて気になっていますが。

投稿時間:03/09/09(Tue) 23:33
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^3: 最後です(倭語の三重構造)

> >「なみ(波)」などが本来の「海」の意味かもしれませんが、
> 確か、高句麗語が「なみ」ではありませんでしたか?
> アイヌや朝鮮語とは大分違います。!南方系「わた」です。
> と自説に引っぱってしまいました。無視して下さい。
> 高句麗語の山は「たる」ですから、
> 「なみ」と「たる→たらし」をセットにしたいですね。
> その先は、思いつきませんが...
> 波と等高線!
> でも、「なみ」と「たる」の組み合わせが、一番、あなたの説にふさわしいように思えますが。

いわゆる高句麗地名から再構された「高句麗語」なるものについては、前にも述べていますが、約80語の「高句麗語」の語彙の3分の一が日本語に、同じく3分の一が韓国朝鮮語に、そして15語ほどが満洲・ツングース語系に類似するなどという都合の良い言語の存在は疑わしいと私は思っています。高句麗や扶余が、南方ツングース語系の言語であるならば、日本語や韓国朝鮮語の半数程度の語彙しか類似していないというのは、疑問です。高句麗の支配階級の五部の名称が、ツングース語に属することは、まず間違い無さそうですから、そうすると、この高句麗地名より再構された「いわゆる高句麗語」の語彙の内、日本語類似の語彙は日本語、韓国朝鮮語類似の語彙は韓国朝鮮語、満洲・ツングース語系類似の語彙は、本来の扶余系高句麗語と素直に考え、日本語の祖語の所有者(=倭人)が、このあたりにky重していた証拠の一つと解釈した方がすっきりします。
従って、高句麗語?の「達」(talではなくtatとよむべきでしょう)が満洲ツングース系言語に同形の同義語が発見されない場合、これは日本語の「たけ」を写した残存地名と考えるべきかもしれません。「達」がtatで表わされるべきだとすれば、あるいは日本語「立つ」との関係があるかとも迷い、「わた」との対応は当面なしとしたのですが。(尚、「三」の意味の「密」も我々からはmitだと思うのですが、韓国系の学者はmirと表記している人が多いようです。)

> > 「もり」「をか」と「わた」の組み合わせも考える必要があります。
> 「もり」と「わた」の組み合わせは、少し書き改めた私の図式にありますので、
> ここでは、「をか」について、漠然と思っていることを、ちょっと。
> 「をか」と「かた」の関係です。
> 「岡」と「方」です。
> 何かありそう?とは思いませんか。
> 枚方、片岡...
> 「を_」で、峰、丘。
> 「をか」で、岳、岡。
>
> 岡田宮と崗水門。
> 眼前に平地・海・川が開けて見える山の頂き、
> 川の片岸や海に接した山、断崖、
> のイメージ、ありませんか?
> 素人考えはここで、終わり。

参考になります。私も言語は全く素人ですので、学者の定説と、日本語のnative speakerとしての感覚に従って、トンチンカンなことを言っているだけですから。

> > このあたりは、まだ考えていないところです。
> その下の、「うみ」と「うな」の部分は、除外されていますね。
> 私としては、ちょっと気に入っているところなんですが、
> 問題外ですか、やっぱり。(寂)

「単語家族」の考えは、採り入れるべきとおもっていますが、不勉強なもので、まだ当否を曲がりなりにも判断するところには、到達していないもので。

> そろそろ、この掲示板への書き込みは終わりにしたいので、
> 差し支えなければ、今後はメールがいいのですが...

了解いたしました。お名残りおしいですが・・・。

投稿時間:03/09/07(Sun) 11:20
投稿者名:aysk535
Eメール:hirmasa@hotmeil.com
URL :http://www9.ocn.ne.jp/aysk535/
タイトル:Re^6: (閑話)半島南部の倭人と「やま」
> 「わた」は韓国語の「海]pataと同源であることは多くの学者が認めているので、
> > 南方の諸言語の中に、同系の語彙を認めない限り、「わた」の南方起源説は肯定し難いと思われます。
> ということは、
> > 北方の諸言語の中に、同系の語彙を認めない限り、「わた」の北方起源説は肯定し難いと思われます。
> ということですね。
>
> 邪馬と邪馬台があった時、邪・馬台という分け方はNGですか?


邪馬台国と邪馬国があるととの考え方はあっていますよ。現在誰も判りえない邪馬台国は知る者にしか判るはずがございませんね。
ホームページwww9.ocn.ne.jp/~aysk535/へどうぞ
邪馬台国は色々な工房が広くにわたり存在しておりました、ええそれは国々に工房が存在する事の確認がされてこそ云えますよね。  
しかり、夜須町には工房の特徴が確認され、邪馬台国の王がそれを定着させて、今日の今の生活と密着しております。
窯工房は鳥巣窯、 木工房は惣利遺跡、鍛冶工房はヒルハタ遺跡、祭祀司は奏言遺跡、という役割分担が邪馬台国の特徴です。奈良や他の地方にも見えないのはそのためです、ないから見えないのですね。
当たり前の成り行きですねこれは。ホームでは写真で公開の予定を
準備しておりますのでお楽しみに。ああほんとの事いっちゃった。
> 邪馬台の台が宮殿の意味なら、分かりますが、
> 邪馬台の「と」が人の意味だと、ちょっと奇異ですね。
> 邪馬国だって、邪馬の人の国ですよね。
> 私が建国者だったら、例えば、大邪馬国とか、差別化した国名を付けます。
>
> アレクサンダー・スラヴィクの著書について。
> 米多・邪馬台・吉野ヶ里-吉野ヶ里から邪馬台国が見えるか-:該当論考ですが、所収書名は不明です。
> 邪馬台国考:『無限大』75号
> 日本文化の古層:未来社

投稿時間:03/09/07(Sun) 11:46
投稿者名:勇者ロト
Eメール:sakura-komichi@cam.hi-ho.ne.jp
URL :http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/wforum/index.html
タイトル:aysk535さんへ
メールアドレス、およびホームページアドレスが不正なまま(間違ってます。修正してください)投稿されています。間違いを訂正し、無駄な引用部分を削除してから投稿してください。

これが成されない場合、過去に遡ってaysk535さんの投稿全部を削除いたします。

投稿時間:03/09/14(Sun) 08:42
投稿者名:aysk535
Eメール:hirmasa@hotmeil.com
URL :http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/
タイトル:Re: aysk535さんへ
> メールアドレス、およびホームページアドレスが不正なまま(間違ってます。修正してください)投稿されています。間違いを訂正し、無駄な引用部分を削除してから投稿してください。
>
> これが成されない場合、過去に遡ってaysk535さんの投稿全部を削除いたします。

ホームページのアドレスがチルダーがついておりませんでした、今日見て気がつきました、ご指摘のとおりでした。メールアドレスはそのままです。ホームページ作りにきがいってしまい、ご迷惑をおかけしました。

投稿時間:03/09/14(Sun) 09:00
投稿者名:勇者ロト
Eメール:sakura-komichi@cam.hi-ho.ne.jp
URL :http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/wforum/index.html
タイトル:Re^2: aysk535さんへ
>メールアドレスはそのままです。ホームページ作りにきがいってしまい、ご迷惑をおかけしました。

メールアドレスも間違えていますよ。@の後ろが

>hotmeil.com

ではなく

hotmail.com

のはずだと思います。

投稿時間:03/09/06(Sat) 22:17
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^6: (閑話)半島南部の倭人と「やま」

> > 北方の諸言語の中に、同系の語彙を認めない限り、「わた」の北方起源説は肯定し難いと思われます。
> ということですね。

その通りですが、「韓国朝鮮語」を、北方系言語の一つとして数えていますので。勿論、倭人南方起源説を採る論者の場合、この「わた」「ぱた」系の語彙が、北方に見当たらない時には、「倭人語」から「韓国朝鮮語」に入ったと考えても良いわけです。南島語族の言語のなかに「わた」と同源の語彙を求める論者もあったと思いますが、日韓両語以外の言語に同系の語彙が見つからない場合は、「韓国朝鮮語」に認められる語彙は、私は一応北方系と判断しています。

> 邪馬と邪馬台があった時、邪・馬台という分け方はNGですか?

もう一つ、馬韓54ヶ国の「弥烏邪馬」国があり、これが「意富加羅」国、即ち任那の中心国家「大加羅」国であり、そこに「大伽耶山」の山神正見母主と天神イヒカの間に、大伽耶=高霊伽耶国の始祖王「伊珍阿鼓」王が生まれたとの伝承があり、伊珍阿鼓=イザナギとも解釈でき、この「弥烏邪馬」国も倭人諸国家の一つと考えられるからです。この「弥烏邪馬」「邪馬」「邪馬台」を、「倭人語」として解釈する場合、「邪馬」は「やま(山)」と統一的に解釈した方が、自然だと思うのですが。あと「邪馬台」を、「やまと」の音訳と考えた場合、この「台」はト乙類で、「ひと」fitoの「と」も同じト乙類です(「山門」の「門」のトはト甲類)。尚、「的」の意味の「まと」のトはト甲類です(岩波古語辞典による)。
「はやひと」→「はやと」(隼人)の例があるので、「やまひと」→「やまと」も考えられないことはないと思っています。(無理筋かとも思うのですが、甲乙類との矛盾もなさそうなので、とりあえず叩き台として出したところです)

> 邪馬台の台が宮殿の意味なら、分かりますが、

「倭人語」として「台」が宮殿を意味するとは考え難いです。

> 邪馬台の「と」が人の意味だと、ちょっと奇異ですね。
> 邪馬国だって、邪馬の人の国ですよね。
> 私が建国者だったら、例えば、大邪馬国とか、差別化した国名を付けます。

おそらく、自称は「おほやまと」だったでしょう。

> アレクサンダー・スラヴィクの著書について。
> 米多・邪馬台・吉野ヶ里-吉野ヶ里から邪馬台国が見えるか-:該当論考ですが、所収書名は不明です。
> 邪馬台国考:『無限大』75号
> 日本文化の古層:未来社

有難うございます。入手できるようでしたら、必ず読みます。

投稿時間:03/09/07(Sun) 23:33
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:申し訳ありません
> 馬韓の「邪馬国」から弁韓の狗邪国=加羅国へ、の関係がよくわかりません。

馬韓には「邪馬」の付く国名はありません。弁辰12ヶ国の「弥烏邪馬国」以外、魏志の馬韓54ヶ国、辰韓12ヶ国、弁辰(弁韓)12ヶ国の国名はありません。弁辰=任那加羅のつもりで、弁辰伝の「弥烏邪馬国」を「馬韓」と誤記しました。申し訳ありませんでした。

> > 「弥烏邪馬」国があり、これが「意富加羅」国、即ち任那の中心国家「大加羅」国
> 弁韓には「〜邪馬国」はありませんね、あっても良さそうなのに。

というわけで、「弁韓」にのみ、「〜邪馬国」があります。

> 「やま」を只の山の意味ではないとしている国の名が「くや・から」ですか?
> 「やま」より「くや・から」の方が意味上のランクが上だったのでしょう。

ですので、「やま」の意味は、加羅・伽耶地方に住んでいた「倭人」の言葉だったと思います。

> そこの人たち(イザナギ)が建てた日本の国が「邪馬〜国」ですか?
> ランクが下がった!邪馬台国?
> 「邪馬国」→「加羅国」→「邪馬国」
> 子供におじいちゃんの名前を付けるようなものかしら?
>
> ちょっと厭ったらしい書き方で、すみません。
> 倭人を韓人に置き換えれば、
> 結局、随分前に流行った?「古代伽耶史観」に<収束>されてしまいますね、
> この辺りのことは余り気にしないのかなぁ、と思ったもので...
> 「Aから、朝鮮半島南部を経て北九州へ」は、
> 「Aから、ある集団は朝鮮半島南部へ、ある集団は北九州へ」
> ではいけませんか?
> 因みに、私は
> 「Bから、ある集団はAへ、ある集団は朝鮮半島南部へ、ある集団は北九州へ」
> と思っていますが...
>
> 私は、「やま」と「わた」をセットで考えていますが、
> 山と海を対比させようという訳ではありません。
> 伊予国風土記逸文に、
> 仁徳御宇に、百済より大山積の神、一名、和多志大神が渡り来た、とあります。
> この山は、特別な意味を持つ「やま」でしょうか?
> 何故、後の海人たちに受け入れられたのでしょう。
> 大綿積の神と同じように、海の神の性格をもともと持っていたのでしょうか。
> 綿積の神ではありませんが、肥前風土記に、
> 「此島(値嘉島)白水郎、容貌似隼人、恒好騎射、其言語異俗人也」
> とあります。
> 「やま・わた」と「たけ・うみ」の対比には、誰も関心なさそうですね。
> この件は、これで終わりにします。
> ありがとうございました。

私の誤記でご迷惑をお掛けしました。まことに申し訳ありませんでしたが、意富加羅=大加羅=高霊伽耶=弥烏邪馬国は、ほぼ定説です。
私は古代伽耶史観ではなく、倭人北方起源説論者で、北方(遼河流域近辺)から、南下の途中で、当然半島南部に倭人の部族国家群が存在した時期があったと考えており、倭人を韓族の一派と考えてはいません。

投稿時間:03/09/09(Tue) 00:19
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^2: 申し訳ありません

> > 意富加羅=大加羅=高霊伽耶=弥烏邪馬国
>
> 加羅=伽耶=狗邪ですよね。

加羅=伽耶ですが、伽耶、加羅(任那といった方が良いかもしれません)の一国が、金官伽耶国であり、これが弁辰狗邪国=狗邪韓国です。伽耶諸国は、五伽耶或いは六伽耶といわれ、併せて七ヶ国あり、そのうち、大加羅(高霊伽耶)、金官伽耶、阿羅伽耶(安邪国、咸安)の三カ国が有力であったようです。他は、小伽耶、非火伽耶、星山伽耶、古寧伽耶です。

> 狗邪国と弥烏邪馬国が同時に存在していて、
> 後に、弥烏邪馬が中心になってまとまったのに、
> 大邪馬でなく、大加羅ですか。

大加羅(弥烏邪馬国、高霊伽耶)と金官伽耶(狗邪国)は最後まで統一されず、個々に新羅に併呑されます。ただし、金官国の王家「金氏」(大加羅の始祖王伊珍阿鼓の兄弟とされています。その始祖は首露王です)は、新羅で優遇されています。

> それで、次のように書いた訳ですが...
> > 「やま」より「くや・から」の方が意味上のランクが上だったのでしょうか。

「くや」の意味は私にはわかりません。日本語(倭人語の後裔と考えます)で解釈できないとすれば、韓族の言葉=韓国朝鮮語もしくは外来の中国語(漢語)での解釈が必要でしょうが。
「から」については、古くから(岡正雄氏の説くように)満洲、蒙古から列島に至るまで、「から」kala、「はら」xalaを付して、「部族、族」の意味とする組織体系があり、モンゴル系の「ハラチン(カラチン)部」、日本語の「うから」「やから」「はらから(同胞)」「ともがら」(これのおそらく「たから」も入ると思われます。「おおみたから」=国民と同系の「たから」が、契丹の国民を意味する「たから」と同系だからです)の「から」(族の意味?)と、半島南部の「任那加羅」の「加羅」も同音同義の言葉と解釈されます。私は「から」は倭人の、「かや」は韓族の語彙ではないかと思いますが、証明は困難でしょう。

> > そこの人たち(イザナギ)が建てた日本の国が「邪馬〜国」ですか?

「弥烏邪馬国」は、倭人語での国名で、同時に「大(おほ)部族(から)」国とも称したのでしょう。その後、韓族の浸透により、王家の血統は倭人系であるにもかかわらず、韓族国家化されたと考えています。したがって、「弥烏邪馬国」の名は消えて、三国史記の「高霊伽耶」「大加耶」となり、日本側の記録に「おほから」意富加羅の名称が記載されるにとどまったというのが、私の考えです。

> > ランクが下がった!邪馬台国?
> > 「邪馬国」→「加羅国」→「邪馬国」
> > 子供におじいちゃんの名前を付けるようなものかしら?
>
> 伽耶国→イザナギ→伽耶人国(存在しませんが)
> 邪馬国─────→邪馬人国
> なら、すっきりしますが、
> なぜ、「かや〜国・から〜国」でなく、「やま〜国」なのでしょう。
> というより、イザナギを持ち出す必要はない、と思うのですが...
> ということです。

以上の私の考えでおわかりかと思います。滅亡した「高霊加耶」国の記録に「伊珍阿鼓」の名が出て、金官加耶国(金海)の伝承と異なっているのが、注目点です。

> 色々な掲示板の、色々なハンドルネームでの、あなたの説は、ず〜っと拝聴させて頂いてきました。

有難うございます。ただ、私のHNは、実際のところ2つしかありませんが。

> この度は、(閑話)ということで、気軽に(図々しくも)書き込みをさせて頂いている訳ですが、
> イザナギ云々と結び付けると、
> > 倭人を韓人に置き換えれば、
> と<前置き>した上で、「古代伽耶史観」に<収束>されてしまいます、
> と申し上げたまでです。
> <収束>の先はどこかは、わざわざ言うまでもないと思いますが...

私は、韓国系の人に多い「日本のことは、全て、人も物も文化も
朝鮮から来たのだ」と言う説にうなずけず、それなら何故現在の日本語と韓国朝鮮語がこれだけ異なった言語なのか?という疑問に対する回答を求めた結果、「確かに日本人の中核を形成することなった倭人は、半島を経由して列島に渡来したが、後の韓国朝鮮人の中核を形成することになる韓族とは、歴史に現れた最初期から異なった民族であった、というのが正しい結論であると信ずるに至ったのです。「収束」の先については?ですが、現在韓国の学者にしても日本語を直接韓国朝鮮語と同祖とは説けず(トンデモ説の方々は別として)、「高句麗語」とか「扶余語」を媒介にせざるを得ない状況だとおもいます。

投稿時間:03/09/09(Tue) 23:00
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re: 最後です

> 私が言いたいのは、一点、
> 「伊珍阿鼓=イザナギ」か、それに縁りの集団が、日本から渡った、でいいのでは?

倭人集団の一部が、半島へ(再)移住したことは、勿論あったと考えています。また、国生みを終えたイザナギが何処に行ったかは、謎であり、アマテラスが「高天原」または「あめくに」を治めていることから、国生み即ち日本移住を行った倭人のあるものが、また「高天原」=加羅に戻って支配者となった後、再度「天孫降臨」=列島への移住をした、という考えも成立します。ただ、これについては、「イザナギ」がいわゆる天孫(ニニギとニギハヤヒ)以外の倭人諸部族の始祖と見做されたとすれば、倭国からの半島への再移住については、「新羅」の「昔(積)氏」が、「花廈国」(出雲国加賀郷?加賀国?)から新羅に渡来したという三国史記新羅本紀の伝承を除いては、再移住は考え難いように思います。

> これを受け入れても(受け入れなくても)、
> あなたの専門的(医学的)なデータに基づいた説には影響ないと思います。

HLAハプロタイプのデータからは、列島から半島へ、この集団が移動したとは説明しがたいのです。

> 繰り返しになりますが、
> イザナギ云々を持ち出すと、
> 説自体が、ト説扱いされてしまいます。
> このことを心配しているのです。
> 確かに、イザナギ云々は、あなたの説からは、飛びつきたいほど、魅力がありますが。
> (私は、あなたの倭人北方起源説には否定的なサイドにいますが。)
> まっ、余計なお世話ですね。

今でもト説扱いされているようにも思いますが、、ああ形質人類学的・遺伝学的部分については、データの集積により、決着のつく問題ですので、「例数が少なくて、統計学的にまだ扱うのには(例数の集積後にすべきで)まだ早すぎる・言いすぎだ」という批判については、時間が解決してくれるものと考えています(例数が少ないとの批判そのものは、全く正しいのですが、十分な「例数の集積」が得られるまで、待てないもので、大略正しいと私が判断できた時点で、仮説を提示したわけですが)。

> 最後に。
> あなた御自身のサイトを持たれたら、如何がですか?

それを夢としていますが、現状では、私のパソコン能力の限界です。なにしろまだプリンタも接続できていませんので、この掲示板の管理人勇者ロトさんのご好意に甘えて、ながながと書き込みさせて頂いている状態です。

投稿時間:03/08/13(Wed) 15:32
投稿者名:aysk535
Eメール:hirmasa@hotmeil.com
URL :
タイトル:Re:倭人の南方への民族移動の開始A
>「大賀氏」のような「大君長」の氏族が成立していた可能性が高いと思われます。

私は自然愛好者で、お頭の回転はあなた方のようには出来ませんが、
ものを考える時自然を大切にしております。
一言言わせて下さい、殷王朝の後日本に渡来しだした事はあると思いますが、弥生時期ではなく縄文時期でしょう。箕氏朝鮮統治は周時代
の事で、弥生時代の開始は稲作と関わり、この時期の稲作は赤米で、
焼畑耕作で水稲では無かったとします、其根拠は東北地方を中央にし
ても、食べる食器が見えていないので生で食べるかしていたとしても
全体に普及していないと思います。水稲は煮炊き用具と関わり、弥生
中期前500年を開始時期と見て、北部九州の独特の水稲稲作と思います。水稲は越国の特徴だと云う事を思いおこして下さい。
東南アジアからの風習とともに、200年頃から始まったと思っています
卑弥呼がすなわち渡来して持ち込み、今の日本が形成されたのでしょう。東南アジアからすべてが、倭国の人にも伝わったとされましょう

投稿時間:03/08/14(Thu) 19:56
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^2:倭人の南方への民族移動の開始A

> 一言言わせて下さい、殷王朝の後日本に渡来しだした事はあると思いますが、弥生時期ではなく縄文時期でしょう。

私は形質人類学上、「現在の」日本人の形質上(HLAハプロタイプを指標としてですが)、最大の集団を「倭人」ととらえ、その集団の「渡来」が弥生時代を列島に於いて「開始」させたと考えていますので、東夷の一派于夷→ウ(水于)人(汚人)=倭人の移住の開始時期を、BC1300〜1200頃と考えたのです。勿論、最初は遼河流域から鴨緑江下流域(平安道)に拡がり、この地で韓族と混交も一部で始まったと思います。この頃の倭人は、「水居の民」でしたが、狩猟・漁撈・麦作〜畑作を生業としていたと思われます。焼畑陸稲耕作もしっていたかも知れません。
私は日本人単一起源論者ではありませんが、日本人の形成に参加した複数の種族〜民族の中で、最大の繁殖を果たしたものが、言語・民族・国家の形成上、最大の貢献を果たしたものであるとの仮説に立っています。
縄文人も雑穀栽培や、陸稲を含む雑穀栽培を知っていたことは、明らかであり、根栽培や陸稲の焼畑栽培は南方から由来したことは明らかです。水稲は長江流域から、淮河流域に拡がり、あそらく温暖期には山東半島に達していたと考えられますが、倭人が山東半島を経由したかは、今後の同地域のHLAのデータ待ちです。(当面は経由していないとして判断します。)
倭人が半島南岸に達した時には、半島南部では稲作が行われていましたが、前10世紀の時点で、水稲耕作は半島南部ども行われていましたが、陸稲よりお生産性で有利だたかは不明です。むしろ水田の開墾には、人員の動員が必要で、そのためには政治権力の成熟が必要だったと思われます。
水稲耕作自体は、長江流域からの百越(タイ系?南島語族系?)や、淮河流域からの淮夷や徐夷などの渡来により海峡両岸にもたらされたものと思います。

>箕氏朝鮮統治は周時代 の事で、弥生時代の開始は稲作と関わり、この時期の稲作は赤米で、 焼畑耕作で水稲では無かったとします、其根拠は東北地方を中央にし ても、食べる食器が見えていないので生で食べるかしていたとしても 全体に普及していないと思います。水稲は煮炊き用具と関わり、弥生 中期前500年を開始時期と見て、北部九州の独特の水稲稲作と思います。水稲は越国の特徴だと云う事を思いおこして下さい。

長江流域で水稲耕作が行われていれば、半島南部や列島でも、知っていたと思われます。ただ私も、水田開発には、治水・開墾など政治権力の成熟を絶対条件としていますので、実際に水稲耕作が拡がったのは北九州でも前5世紀くらいだと思います。ただし、水稲耕作そのものの伝達は、前10世紀でしょう。

> 東南アジアからの風習とともに、200年頃から始まったと思っています
> 卑弥呼がすなわち渡来して持ち込み、今の日本が形成されたのでしょう。東南アジアからすべてが、倭国の人にも伝わったとされましょう

残念ながら、日本人の遺伝形質が、南方系ではなく、北方系が主流であることが、国家・民族形成史上、南方起源説を否定していると思われます。騎馬民族説が成立困難である以上、日本人のこの北方系の形質の大半が弥生時代にもたらされたと考えざるを得ません。

投稿時間:03/08/08(Fri) 23:57
投稿者名:aysk535
Eメール:hirmasa@hotmeil.com
URL :http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/
タイトル:Re:縄文人は何処からきたか
> この細石刃文化をもたらした北方系モンゴロイドは、「スンダランド」を通過したのではなく、西南アジアのモンゴロイド東進開始後、南方系モンゴロイドと別れて、中央アジアを通りシベリアに達したものと思われます。
>
> 勿論数波に分かれていたことでしょう。

日本人はいったい何処から来たのか、素人ながら考えるときって一番最初に上がるのは、たいてい縄文人でした。ではこの民族は日本の何処に住んでいたかが問題でしょう。日本では北は北海道から南は本州の山口県まであたりが住居と狩猟のセットになった部分ですね。見えるのはこれ位と竪穴式住居の中心に炉があるのが特徴でした。

その人たちはモンゴロイドだったかは私には判りませんが、殷王朝の頃から戦乱を避け渡来し始めたのは判ります。
私はこの人たちを天津人と呼びます、中国の風習をもっているからです。   それと特徴はインターネットで探索すると一目です。
まず目についたのが土器火炎土器の祭り(これは火を囲んで祭る)
それと男女の形をした空を垂直に立っている石組が丁度古代メソポタミアの祭祀と同じである事からして、天津族はその流れかと。
縄文人ってほんとはそんなもんかと、素人ながら感じています。

投稿時間:03/08/09(Sat) 00:00
投稿者名:aysk535
Eメール:hirmasa@hotmeil.com
URL :http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/
タイトル:Re^2:縄文人は何処からきたか
> 縄文人ってほんとはそんなもんかと、素人ながら感じています。

縄文人は何処から来たのかは存じませんけど、江波氏の推測では
モンゴロイドだと書かれていました。しかし私は違うと思います。

北海道から山口県辺りまでの縄文、弥生後期
頃の遺跡で見ますと、ほとんど一定した生活方式が見えます。
簡単に言いますと住居の中央に炉を設け、祭祀の模様も一定した火祭りの状態が見えています。
火祭りの火炎土器はそれを表しており、誰が見てもすぐに判ります。
で、これは古代中国王朝殷時代の風習であり、ここを中心とした人達が渡来したと考えています。
ここにモンゴルの風習が混じりあい、民族も同じように形成されたのではないでしょうか。

投稿時間:03/08/09(Sat) 01:21
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^3:縄文人は何処からきたか

> で、これは古代中国王朝殷時代の風習であり、ここを中心とした人達が渡来したと考えています。
> ここにモンゴルの風習が混じりあい、民族も同じように形成されたのではないでしょうか。

「モンゴロイド」とは、世界三大人種という大分類をした場合の、@ネグロイド(黒色人種、アフリカ人種)、Aコーカソイド(白色人種、ヨーロッパ人種)と並ぶB黄色人種、アジア人種(オーストラリア原住民、パプア=ニューギニア原住民、いわゆるアメリカ・インデアン=アメリンドを含みます)のことを指しますので、ポリネシア人や中国人の大半は勿論モンゴロイドに含まれます。

私は、縄文人は、殷との関係は時代的に考えられず、むしろ私の言う「北方系倭人」は、殷(正式な民族の自称は「商」でしょう)となんらかの関係があった可能性が強いと思われます。ただし、韓族や、満州族などより、殷民族との関係が強かったかはわかりませんが。

倭人が、日本列島の日本人の祖を(少なくとも紀元前後には)、指していたことは間違いありませんが、「倭」の前には「委」の文字が同じ「倭人」を指す言葉として使用された可能性は高く、これら「委」「倭」「夷」「衣(周民族は殷王を指して『衣王』とも呼んだようです)」「殷」などは、音通していた可能性があります。

尚、辛容泰氏は、@古アジア語(原甲骨文語)を仮定し、これから、A夫余語、B古韓語、C殷語(甲骨文)の三言語が分化し、更にA夫余語からAイ原日本語、Aロ高句麗語、Aハ百済支配層語が分かれ、B古韓語からBニ新羅語、Bホ百済被支配層語が分かれ、Aイ原日本語から、日本語と琉球語が生じ、Aロ高句麗語からAハ、Bニ、Bホ、それに駕洛語を加えた五言語から、「統一新羅語」→「中世韓語」が生じたとしています。(ただ引用した原論文「高句麗の地名に残る日本語の数詞」月刊言語別冊1987Vol.16、No.7、大修館書店、の図の線が消えていて駕洛語が夫余語の分かれであるかも知れませんが、私の本からは駕洛語が夫余語の分かれのようには読めません。)尚、C殷語は、シナ・チベット語のシナ語とともに「上古漢語」の祖となります。

投稿時間:03/08/29(Fri) 17:02
投稿者名:aysk535
Eメール:hirmasa@hotmeil.com
URL :http://www9.ocn.ne.jp/aysk535/
タイトル:Re^4:縄文人は何処からきたか
倭人の北日本移住はあなたの指摘に反するものではなく、少し考えの違うところは生活面に於いて、北陸等の遺跡を見れば、火 を生活の家の中央に求めている事が、弥生人と違っています、何故違うのか考えれば出ます。

それは弥生時期は青銅器と勾玉が取り入れられている事に注目されたい。

そこが北陸系民族の違いです、これは北部九州にしか見られない事実が判明しております。北部系民族は火祭りは九州と同じ祀りが見られますが、ちがうのは青銅器と勾玉の途用を表している事です。 

北陸系は火祭りと男女の和合ですね、佐賀周辺とあまり伝承に於いて
変化は見えていません。

弥生初期頃になると倭人が渡来始めています呉の民族で朝鮮の影響は関わりがありません。

更に弥生初期から中期にかけて朝鮮人が渡来しています。卑弥呼の民族で越国系民族が渡来していますね。これが先住民の高御産日と天神族の時代の幕開けとなっています。

この頃の戦乱は関わりがあると考えております。180年〜248年まで卑弥呼は居ました、この後台与、ウガヤは伊都国に居ました、と記録されていますね。

260年には降臨つまり山を下りる事になったと記録されていますね。言語はこの後邪馬台国で思いかねが造りと古事記にあり、文字の始まりかな文字の原型は中国雲南省ミャオ族の象形文字と酷似しています。

日本人の基礎はこの三点に原型が見られると思いますが、貴殿は文献を否定しておられると云う事が私との意見の違うところでしょう。

投稿時間:03/09/01(Mon) 10:49
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:Re^5:縄文人は何処からきたか
> > 更に弥生初期から中期にかけて朝鮮人が渡来しています。卑弥呼の民族で越国系民族が渡来していますね。これが先住民の高御産日と天神族の時代の幕開けとなっています。
>
> この頃の戦乱は関わりがあると考えております。180年〜248年まで卑弥呼は居ました、この後台与、ウガヤは伊都国に居ました、と記録されていますね。
>
> 260年には降臨つまり山を下りる事になったと記録されていますね。言語はこの後邪馬台国で思いかねが造りと古事記にあり、文字の始まりかな文字の原型は中国雲南省ミャオ族の象形文字と酷似しています。
>
> 日本人の基礎はこの三点に原型が見られると思いますが、貴殿は文献を否定しておられると云う事が私との意見の違うところでしょう。


邪馬台国畿内説を採るhn2602さんは、どちらかというと文献は否定してないと思います。
神武東征以後は私の考えとほぼ一致しております。

どちらかというと邪馬台国東遷説の方々の方が文献の記述や考古学を無視したオリジナルの説が目立つような気がしますが。。。

投稿時間:03/09/04(Thu) 07:13
投稿者名:aysk535
Eメール:hirmasa@hotmeil.com
URL :
タイトル:Re^6:縄文人は何処からきたか
文献の否定とは古事記の事なのですよ、ちゃんと記されていますよ。
東遷を神武はしたとありますが。菊池氏の言われる否定が文献の
否定になると言う事です。
では菊池氏とhn02氏の云われる東征がなかったと何に記されていますかね?さらにその根拠は憶測ですか、?

投稿時間:03/09/04(Thu) 10:52
投稿者名:菊池元宏
Eメール:kki856@gaea.ocn.ne.jp
URL :
タイトル:Re^7:縄文人は何処からきたか
> 文献の否定とは古事記の事なのですよ、ちゃんと記されていますよ。
> 東遷を神武はしたとありますが。菊池氏の言われる否定が文献の
> 否定になると言う事です。
> では菊池氏とhn02氏の云われる東征がなかったと何に記されていますかね?さらにその根拠は憶測ですか、?

いろいろと研究なされてることに敬意を表します。

私は、神武東征がなかったとは言ってないです。
ウガヤフキアエズやオモイノカネが3世紀の神とされてることは、記紀神話解釈の通説とはならないといいたかっただけです。

文献上での記紀神話で目立つ皇位親子末子継承を否定しないとすれば、神武東征が紀元前後とされているhn2602さんの邪馬台国畿内説の方が理にかなってると思います。

投稿時間:03/08/29(Fri) 23:40
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^5:縄文人は何処からきたか

> 弥生初期頃になると倭人が渡来始めています呉の民族で朝鮮の影響は関わりがありません。

私は、HLAハプロタイプのデータから、後の日本人の主流を成した民=倭人は、北方出自の集団だと信じています。

> 更に弥生初期から中期にかけて朝鮮人が渡来しています。卑弥呼の民族で越国系民族が渡来していますね。これが先住民の高御産日と天神族の時代の幕開けとなっています。

長江〜淮水(淮河)流域から、越族や、淮夷(これは東夷の一派でしょう)も当然弥生時代開始前後(民族大移動時代の1つでしょう)に移住してきていると思われます。ただ、タカミムスビは私は北方系の神と考えていますが。

> この頃の戦乱は関わりがあると考えております。180年〜248年まで卑弥呼は居ました、この後台与、ウガヤは伊都国に居ました、と記録されていますね。

ウガヤの年代をどのような史料から割り出したのでしょうか?

> 260年には降臨つまり山を下りる事になったと記録されていますね。言語はこの後邪馬台国で思いかねが造りと古事記にあり、文字の始まりかな文字の原型は中国雲南省ミャオ族の象形文字と酷似しています。

初耳です。

> 日本人の基礎はこの三点に原型が見られると思いますが、貴殿は文献を否定しておられると云う事が私との意見の違うところでしょう。

私は文献は基本的には、否定せずにできるだけ採りいれて解釈したいと念じていますが、その文献の来歴が怪しいもの(竹内文書、上記、秀真伝など)は、読んでおりませんし、又、読む気もありません。先代旧事本紀はこの間購入したばかりですが、まだ全然手付かずです。

投稿時間:03/09/04(Thu) 08:11
投稿者名:aysk535
Eメール:hirmasa@hotmeil.com
URL :http://www9.ocn.ne.jp/aysk535/
タイトル:Re^6:縄文人は何処からきたか
>
> > 弥生初期頃になると倭人が渡来始めています呉の民族で朝鮮の影響は関わりがありません。
>
> 私は、HLAハプロタイプのデータから、後の日本人の主流を成した民=倭人は、北方出自の集団だと信じています。
>
> > 更に弥生初期から中期にかけて朝鮮人が渡来しています。卑弥呼の民族で越国系民族が渡来していますね。これが先住民の高御産日と天神族の時代の幕開けとなっています。
>
> 長江〜淮水(淮河)流域から、越族や、淮夷(これは東夷の一派でしょう)も当然弥生時代開始前後(民族大移動時代の1つでしょう)に移住してきていると思われます。ただ、タカミムスビは私は北方系の神と考えていますが。

高御産日神は正確には呉人でいわゆる朝鮮を統治していた紀氏[箕氏」
の事を指しております、紀元前500年朝鮮の没落後倭国を形成しているのが、この集団です。朝鮮から船で渡り北部九州や豊後宇佐付近まで
集団を広めていました。  出雲のオオクニ主の前名は豊葦原の男といいまして、すなはち朝倉郡夜須町大木に拠点をもっていたわけです。ですから祝詞に筑紫の日向[東方」の橘[越国王の風習で忘れない為の基本の意味」のおどとは、祀る意味の事で大木を指しています。
ウガヤの年代は簡単に見えています、梁書の男王とはウガヤを指している事は夜須町松延墳墓から王冠と爵やヤタの鏡も平成九年出ましたが、まだ非公開です。伊都に住むとははっきりとは記憶しませんが、調査のおり確認して上げました。詳しくは邪馬台国掲示板の夜須町を
ご覧下さい。 又www9.ocn.ne.jp/~aysk535/のホームページを開設しましたのでそちらもご覧下さい。貴殿のいわれる文献については
私も同感でして、私は古事記を指していましたのでついそれの事かと
はやとちりしました。
日本の原点を築いたのは邪馬台国から始まりで、昨日ですか奈良の考古学研究所の学芸主査が奈良説を新聞に上げておられましたので、確認中ではっきりそう云われたのか、わかっていませんが、まだ私の
邪馬台国夜須の著作権をご存知ないのではと、ご注意と確認がいそがれ、ますます忙しくなってしまいました。
でも貴殿のように東北から始まったを展開されるのも、日本の歴史の
事実の為には必要と心得ています。まず知ることの興味がなくては
歴史の意味が成り立ちませんね。これからも期待しながら拝見いたし
ます。
>
> > この頃の戦乱は関わりがあると考えております。180年〜248年まで卑弥呼は居ました、この後台与、ウガヤは伊都国に居ました、と記録されていますね。
>
> ウガヤの年代をどのような史料から割り出したのでしょうか?
>
> > 260年には降臨つまり山を下りる事になったと記録されていますね。言語はこの後邪馬台国で思いかねが造りと古事記にあり、文字の始まりかな文字の原型は中国雲南省ミャオ族の象形文字と酷似しています。
>
> 初耳です。
>
> > 日本人の基礎はこの三点に原型が見られると思いますが、貴殿は文献を否定しておられると云う事が私との意見の違うところでしょう。
>
> 私は文献は基本的には、否定せずにできるだけ採りいれて解釈したいと念じていますが、その文献の来歴が怪しいもの(竹内文書、上記、秀真伝など)は、読んでおりませんし、又、読む気もありません。先代旧事本紀はこの間購入したばかりですが、まだ全然手付かずです。

投稿時間:03/09/04(Thu) 10:17
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:sakura-komichi@cam.hi-ho.ne.jp
URL :http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/wforum/index.html
タイトル:aysk535さんへの注意事項
上記URLの注意事項をよくお読みください。

今後、いままでのように意味のない引用、解かりにくい文章、不安定な改行での投稿を繰り返される場合、問答無用で即刻削除いたしますので、注意事項を良く読み、文章をよく推敲してからご投稿なさるよう注意勧告させていただきます。

投稿時間:03/06/10(Tue) 16:43
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:dragon_suplex@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:Re: hn2602さんへの質問2
>この記事を信頼すれば、「倭人」と称される集団が、明らかに、後漢に朝貢した日本列島の倭人諸国の他に、鮮卑の領域に存在したことを示しています。

安帝永初元年倭国王帥升等献生口百六十人願請見。

の時の、生口の子孫が逃げ出して鮮卑地域の東に居たってことはないのですか?

投稿時間:03/06/10(Tue) 22:18
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^2: hn2602さんへの質問2

> 安帝永初元年倭国王帥升等献生口百六十人願請見。
>
> の時の、生口の子孫が逃げ出して鮮卑地域の東に居たってことはないのですか?

生口が逃げ出して、繁殖し、1万人くらいの部族民からなる「倭人国」を満洲あたりに形成したとすれば、大事件ですから史書に特筆大書されたのではないのでしょうか?
あるいは、「倭人国」の起源説話として伝承のかけらくらいは、どこかに残ると思います。王沈は千余家(千余人でなく)を烏侯秦水のほとりに移したと書いており、当然「倭人国」にはそれ以上の人口がいたはずですし、また今(晋代)の時点でも「数百家」が現に居住していると記載しています(宋の時代については不明ですが)。

投稿時間:03/06/11(Wed) 06:59
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:dragon_suplex@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:Re^3: hn2602さんへの質問2
> 生口が逃げ出して、繁殖し、1万人くらいの部族民からなる「倭人国」を満洲あたりに形成したとすれば、大事件ですから史書に特筆大書されたのではないのでしょうか?

生口がの子孫の国でなく、一万人にまで達してなくても鮮卑の領域東部に最低千家以上の「倭人国」が本当にあったのであれば、朝貢している日本列島近辺の倭国と倭人との関係が特筆されてもいいようにも思えますが?

それがないということは、鮮卑領域内東部に列島の倭人と同種、同祖と認識されている倭人がいたことはない。ということも言えるんではないんでしょうか?

すくなくとも、魏人たちはこの二系統の倭人を同種と認識していなかったことは明らかではないでしょうか?

正史のほうには『汗人』としるされてるわけですし、鮮卑にとっては倭人と見えたかもしれませんが、魏人にとってはこれは倭人でなく汗人だった。ということだと思います。

投稿時間:03/06/11(Wed) 19:49
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^4: hn2602さんへの質問2

> 生口がの子孫の国でなく、一万人にまで達してなくても鮮卑の領域東部に最低千家以上の「倭人国」が本当にあったのであれば、朝貢している日本列島近辺の倭国と倭人との関係が特筆されてもいいようにも思えますが?
>
> それがないということは、鮮卑領域内東部に列島の倭人と同種、同祖と認識されている倭人がいたことはない。ということも言えるんではないんでしょうか?
>
> すくなくとも、魏人たちはこの二系統の倭人を同種と認識していなかったことは明らかではないでしょうか?
>
> 正史のほうには『汗人』としるされてるわけですし、鮮卑にとっては倭人と見えたかもしれませんが、魏人にとってはこれは倭人でなく汗人だった。ということだと思います。

正史「後漢書」鮮卑伝を書いた(宋の時代の、つまり例の倭の五王の時代の)范曄は「倭人」と書いています。つまり彼はこの記事について、@(列島の倭人との異同は別にして)この集団が「倭人」と記載していた資料を見たので「倭人」と書いた、A「ウ(水于)」人と書いてあった王沈の「魏書」を読んで、「倭人」と訂正した、B「汗人」をまず「ウ(水于)」人の誤記であると考え、更にこれは「倭人」のことであると勝手に(若しくは何かの別資料があって)改訂して「倭人」とした、の三つの可能性があります。上記のうち、ABは明らかに、烏侯秦水の漁撈民を列島の倭人と同族と解釈していることになります。@の場合は、少なくとも古くから「倭人」と呼ばれた集団が列島外に居住していた明証となります。

尚、王沈の「魏書」は、正史ではなく、「正史」の「三国志」の裴松之(范曄と同時代)の注に引用されたものです。即ち、三国志の鮮卑伝を書いた陳寿のあずかり知らぬ、あるいは彼が記載しなかったことです。おそらく、「後漢」代のことなので陳寿が「三国志」に記載しなかった可能性が大きいと思われますが、王沈、裴松之、范曄ら、晋〜宋代の史家にとっては、有名な情報(現に烏侯秦水のあたりにあの「倭人」がすんでいる!)だったから、記載したのでしょう。

あと、例のHLAハプロタイプの共通性も私は補強材料としたいのですが。

投稿時間:03/06/12(Thu) 18:55
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:dragon_suplex@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:Re^5: 倭人、汗人
>上記のうち、ABは明らかに、烏侯秦水の漁撈民を列島の倭人と同族と解釈していることになります。@の場合は、少なくとも古くから「倭人」と呼ばれた集団が列島外に居住していた明証となります。

えっ?どうして漢書鮮卑伝は烏侯秦水の漁撈民の倭人と列島倭国の倭人を同族と解釈していることになるんですか?このあたりの説明がよく理解できません。

「同族だと思ったり解釈したのなら何で列島の倭人と同種、同族だと書かないのか?」

と私は質問したつもりなのです。

ちなみに誤解させてしまったようですが、「正史」と私が書いたのは「王沈の魏書」に対して「陳寿の魏書(志)」のことで、「正史」とは漢書を年頭に置いたものではありません。

つまり正史の魏志には「汗人」と記載されている。

正史ではない魏書には「倭人」と記載されている。

陳寿は

「魏朝に朝貢してきた列島の倭人と、
先行する王沈の魏書に記されている烏侯秦水の漁撈民の倭人とを
以後の歴史家が混同しないように
倭人を訂正してわざわざ汗人と記した」

のではないか?と私はhn2602さんに質問させていただいたわけです。

また、

>王沈、裴松之、范曄ら、晋〜宋代の史家にとっては、有名な情報(現に烏侯秦水のあたりにあの「倭人」がすんでいる!)だったから、記載したのでしょう。

というのでしたら、「列島の倭人と同種である」という注なり説明なりをどうして書き込まなかったのか?

ということをお聞きしているわけです。

投稿時間:03/06/12(Thu) 21:46
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^6: 倭人、汗人
> >上記のうち、ABは明らかに、烏侯秦水の漁撈民を列島の倭人と同族と解釈していることになります。@の場合は、少なくとも古くから「倭人」と呼ばれた集団が列島外に居住していた明証となります。
>
> えっ?どうして漢書鮮卑伝は烏侯秦水の漁撈民の倭人と列島倭国の倭人を同族と解釈していることになるんですか?このあたりの説明がよく理解できません。

@の場合には、范曄の「見た」何らかの資料・資料に「倭人」と記載されていた、Aの場合は王沈の「魏書」に「ウ(水于)人」とかかれてあったのを范曄が「ウ」は「倭」の誤りであり、これは「倭人」のことと考え、「倭人」に訂正した、Bの場合は王沈の魏書に「汗人」と書かれていたのを、まず「汗」は「ウ(水于)」の誤記であるとして、「ウ」と読み替えた上で、「ウ人」とは「倭人」のことだという彼の知識に基付いて、更に「倭人」と訂正した、という正史「後漢書」の著者范曄の行動を推理したものですが、このA、Bの場合とも彼は「ウ人」とは「倭人」のことであると、知っていたか、あるいはそう信じていなければ、そのような「ウ→倭」の改訂は行わなかったと考えるのが、合理的だと思います。(そして@の場合は「倭人」と書いた資料が現に彼の前に存在した。)

> 「同族だと思ったり解釈したのなら何で列島の倭人と同種、同族だと書かないのか?」
>
> と私は質問したつもりなのです。

中国の史書は、一般に簡略に(必要最小限のことを)記載するものだと私は理解しています。そのために後代「注」が付されて、理解し易いようにされるのでしょう。
范曄や裴松之は、魏、西晋、東晋、宋、斉、梁、陳と続いた時代の「宋」の時代の人であり、彼らの時代に「倭の五王」の倭讃は永初2年(421)宋に朝貢しています。裴松之が陳寿の三国志に「注」を付けたのは元嘉6年(429)、范曄が「後漢書」を完成したのが元嘉9年(432)です。范曄が「倭人」と記載した時、彼とその読者の考える「倭」「倭人」が倭讃の君臨する「倭国」の「倭人」と無関係であれば、その旨注記したでしょう。

> ちなみに誤解させてしまったようですが、「正史」と私が書いたのは「王沈の魏書」に対して「陳寿の魏書(志)」のことで、「正史」とは漢書を年頭に置いたものではありません。
>
> つまり正史の魏志には「汗人」と記載されている。

誤解されているようですが、陳寿の三国志魏書鮮卑伝には、「汗人」記事はありません。先の裴松之が「宋」の時代に付けた「注釈」に「引用」された「王沈」著の「魏書」に記載されていたのです。ただ、陳寿の書いた本文では、鮮卑の檀石槐が「庭」(本拠地)を「弾汗山」(大同の近辺らしい)に置いたとの記載があり、これが唯一の「汗」です。尚、三国志の刊本中には「弾ウ(水于)山」と記載してあるものもあるそうです。
>
> 正史ではない魏書には「倭人」と記載されている。
>
> 陳寿は
>
> 「魏朝に朝貢してきた列島の倭人と、
> 先行する王沈の魏書に記されている烏侯秦水の漁撈民の倭人とを
> 以後の歴史家が混同しないように
> 倭人を訂正してわざわざ汗人と記した」
>
> のではないか?と私はhn2602さんに質問させていただいたわけです。
>
> また、
>
> >王沈、裴松之、范曄ら、晋〜宋代の史家にとっては、有名な情報(現に烏侯秦水のあたりにあの「倭人」がすんでいる!)だったから、記載したのでしょう。
>
> というのでしたら、「列島の倭人と同種である」という注なり説明なりをどうして書き込まなかったのか?
>
> ということをお聞きしているわけです。

投稿時間:03/06/13(Fri) 01:20
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:dragon_suplex@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:Re^7: 倭人、汗人
>Aの場合は王沈の「魏書」に「ウ(水于)人」とかかれてあったのを范曄が「ウ」は「倭」の誤りであり、これは「倭人」のことと考え、「倭人」に訂正した、

重要なことを聞くを忘れていました。王沈のは残ってるのですか?
この范曄の行動の根拠は?

>B正史「後漢書」の著者范曄の行動を推理したものですが、

2も3も想像、推理というだけなのですね?

>そのような「ウ→倭」の改訂は行わなかったと考えるのが、合理的だと思います。

hn2602さんの文章では、かなり複雑な推理が絡み合ってるように読めますので、私には合理的だとは思えませんが?

> そのために後代「注」が付されて、理解し易いようにされるのでしょう。

だから、注に同種、同族とかいているのか?といってるわけです。

> 「倭国」の「倭人」と無関係であれば、その旨注記したでしょう。

これも、hn2602さんのご推測で、何か他の部分でそういう例がある。というわけではないんですね?

正直なところ私の感想としては、関係があるとしたら書くものなんじゃないかな。と思うわけです。で、書いてないとしたら、二つの倭は関係ないってことだと思うのですが?

たとえば明らかに、同種の集団が二箇所に登場していて何ら説明がないって部分を例示していただければ、それだけでかなり説得力が上がると思うのですが。。。

そういう箇所ってないものですか?

> 誤解されているようですが、(中略)先の裴松之が「宋」の時代に付けた「注釈」に「引用」された「王沈」著の「魏書」に記載されていたのです。

誤解させないように、書いてくださいね(^^ゞ
お願いしますm(__)m

私にとって中国史書の記載についての情報源はhn2602さんの書き込みだけなのですから。

まぁ私が勝手に誤解してるのに恐縮なんですが、もっと解りやすい書き込み文をお願いしますm(__)m

hn2602さんの文章は読点で文章を繋ぎすぎてらっしゃるので、主意を取り違えやすいのです。もう少し一文一文を短く切って文章を作っていただければ幸いです。

読解力がないもので、もうしわけないですm(__)m



結局のところ、范曄の漢書(正史)以外ではこの集団を「倭」と記載している資料はない。ということですね?


今度も誤解してますか?

>ただ、陳寿の書いた本文では、鮮卑の檀石槐が「庭」(本拠地)を「弾汗山」(大同の近辺らしい)に置いたとの記載があり、これが唯一の「汗」です。

だったら、弾汗山の東の汗人の国という意味で、列島とか、遠方という意味ではなさそうですね(^^ゞ

>尚、三国志の刊本中には「弾ウ(水于)山」と記載してあるものもあるそうです。

「のもある」ってことは、水于でなくて汗としてる刊本の方が多いわけですね?

投稿時間:03/06/13(Fri) 18:23
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:dragon_suplex@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:Re^8: 倭人、汗人
> > 「倭国」の「倭人」と無関係であれば、その旨注記したでしょう。

「倭」以外の記事の中でも結構なのですが、無関係だという注記している個所はありますか?

これと似たような部分があって、それを例示すれば、hn2602さんの説の説得力が上がるとおもうのですが。。。

投稿時間:03/06/14(Sat) 00:15
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^9: 倭人、汗人
> 「倭」以外の記事の中でも結構なのですが、無関係だという注記している個所はありますか?

私は中国史を専門にしているわけでもありませんので、文献を広範に読んではいませんので、そのような「注記」が記されている文献は知りません。尚、王沈の「魏書」は残っていませんが、現存の裴松之注「三国志」の「汗人」が「水于・人」の誤りだろうというのは、「三国志集解」の説だと平凡社・東洋文庫「騎馬民族史1正史北狄伝」と注釈しており、かなり有力な説だと思います。

> これと似たような部分があって、それを例示すれば、hn2602さんの説の説得力が上がるとおもうのですが。。。

私は中国の史書の日本関係の記事の「解説書」しか、基本的に読んでいませんので(勿論できるだけ漢文の載っているものを読むことにはしていますが)。
結局、これは陳寿の「三国志」が「邪馬台国」と記載してあったのか、あるいは「邪馬壱国」と書いてあったのかという論争の小型版ですね。「台」か「壱」か、「汗」か「水于」か、というわけです。

投稿時間:03/06/14(Sat) 10:40
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:dragon_suplex@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:Re^10: 倭人、汗人
>「台」か「壱」か、「汗」か「水于」か、というわけです。

ということは、これ以上中国史書の観点からは何も得られないということでよろしいでしょうか?

汗人(于)からの変換の可能性もあれば、誤記の可能性もあり、列島倭人と同種の可能性もあるが、『文献の面からの追求』はこれ以上できないということで、結論としては後漢書鮮卑伝の「倭人」は仔細不明。


ということで、HLAの登場でしょうか(^^ゞ

投稿時間:03/06/14(Sat) 23:57
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^11: 倭人、汗人
> >「台」か「壱」か、「汗」か「水于」か、というわけです。
>
> ということは、これ以上中国史書の観点からは何も得られないということでよろしいでしょうか?

はい、その通りであとは、水掛け論でしょう。

> 汗人(于)からの変換の可能性もあれば、誤記の可能性もあり、列島倭人と同種の可能性もあるが、『文献の面からの追求』はこれ以上できないということで、結論としては後漢書鮮卑伝の「倭人」は仔細不明。

勿論「邪馬台国」論者が固く「邪馬壱国」は、後代のミスプリと信じているように、私も「倭人国」であって、「汗人国」はミスプリだと信じ込んでいますが。

> ということで、HLAの登場でしょうか(^^ゞ

ということになります。実は投稿しそこなった書き込み(雲と消え失せてしまいましたが)でちょっと触れたのです。ただ典拠の徳永勝士氏の論文(三編)のデータが異なるので(大勢は不変)、その解釈を少し変更するかどうか迷い、書き込み損なったのも「天の声」かと考え、「李基文説」などから、「倭人語」の問題にコメントする方が先かと・・・。
言語の方は更に理解できないので、「トンデモ説全開」ということになること必定なので、全く触れない方が良いのかとも思い、迷っています。

投稿時間:03/06/15(Sun) 14:08
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:dragon_suplex@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:Re^12: 信仰
> 勿論「邪馬台国」論者が固く「邪馬壱国」は、後代のミスプリと信じているように、私も「倭人国」であって、「汗人国」はミスプリだと信じ込んでいますが。

信仰にしたり、信じ込んじゃだめでしょう。
信じ込まれると、わたしとしては「そうですか」としか言いようがありませんので(^^ゞ

信じ込むと先にある結論に沿った証拠しか見えなくなってしまう可能性が高いです。

まぁhn2602さんの確信犯的な表現だと理解しておきますが(^^ゞ

>「倭人語」の問題にコメントする方が先かと・・・。

いきなり本題に入らず、hn2602さんの「倭人語の定義」の表明からはじめられたほうが良いかと思います。

投稿時間:03/06/22(Sun) 10:44
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^13: 信仰
> > 勿論「邪馬台国」論者が固く「邪馬壱国」は、後代のミスプリと信じているように、私も「倭人国」であって、「汗人国」はミスプリだと信じ込んでいますが。
>
> 信仰にしたり、信じ込んじゃだめでしょう。
> 信じ込まれると、わたしとしては「そうですか」としか言いようがありませんので(^^ゞ

どこかで、決断しないと一歩も前進しないことになりかねませんので、疑問点が残っても、推論の前提に組み入れて、以後の仮説の検証の際、大きな矛盾点がなければ、更に推論を重ねることにしています。この場合「後漢書鮮卑伝の倭人記事」も、遼河流域周辺の倭人居住説の補強証拠として「採用」するということを「信じる」という表現したわけです。

勿論、倭人遼河周辺(多少位置は内蒙古や、満洲の隣接地域にずれこんでいても許容範囲です)居住説は、HLAハプロタイプ、日本語と同源の数詞を持つ、いわゆ高句麗地名から再構成された言語高句麗語?と日本語との共通性の問題、三国史記高句麗本紀の「倭山」記事なども私は補強証拠と考えていますが、個々の資料提示については、「倭人、汗人」問題のような「水賭け論」になってしまう可能性が多いのが現状です。


>
> 信じ込むと先にある結論に沿った証拠しか見えなくなってしまう可能性が高いです。

すでにそうなっている可能性が、強いです。ただ私は、分子遺伝学的、分子人類学的データについては、虚心に判断できる(最終的に)と思っていますので、データと矛盾する仮説は放棄します。文献などは仰る通り、HLAハプロなどから組み立てた仮説に沿って、都合の良いものしか、見えていないかも知れません。

>
> まぁhn2602さんの確信犯的な表現だと理解しておきますが(^^ゞ

そう解釈してくだされば、有りがたいです。
尚、コピーのやり方とか、ウインドウの基礎とかを、本日から勉強しますので、もう少し時間をお願いします。

投稿時間:03/06/14(Sat) 10:46
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:dragon_suplex@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:Re^11: 倭人、汗人
私としては、いろいろなストーリーが考えられるHLAからの追求よりも、鮮卑の領域東部から縄文土器が出てきたとか、銅鐸の原型として推測しうる青銅器がでてきたとか、前方後円墳の原型が出たと、いうほうが正直納得できるのですが。。。。。

投稿時間:03/06/14(Sat) 23:41
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^12: 倭人、汗人
> 私としては、いろいろなストーリーが考えられるHLAからの追求よりも、鮮卑の領域東部から縄文土器が出てきたとか、銅鐸の原型として推測しうる青銅器がでてきたとか、前方後円墳の原型が出たと、いうほうが正直納得できるのですが。。。。。

実のところ、私も同様の夢想(妄想)をもっています。ただ私の倭人北方起源説じからすると「縄文土器」はまずいです。青銅器に金文で「于夷」とか、「委人国」とか、記載してあったり、獣骨に「甲骨文」で「委王」とか、竹簡か木簡で「阿毎」とか出土しないかと・・・。
尚、銅鐸の原型は一応朝鮮式馬鐸ということで解決済みとおもっていましたが。

投稿時間:03/06/15(Sun) 13:53
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:dragon_suplex@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:Re^13: 銅鐸と馬鐸
> 尚、銅鐸の原型は一応朝鮮式馬鐸ということで解決済みとおもっていましたが。

それが、鮮卑領域から出たら。。。ということです。

それに解決したとは決め付けられません。

少なくとも馬鐸は「道具」であって祭祀用品ではないでしょうし、
「馬鐸」は『銅鐸』に変化しただけでなく、
「馬鐸」としても伝わっている例もあるようなので、

銅鐸の造形的な元祖が馬鐸である可能性は高くとも、
私としてはそれで解決ということではないと認識しております。

投稿時間:03/06/15(Sun) 16:44
投稿者名:ペギラ
Eメール:pegira@nifty.com
URL :
タイトル:朝鮮式馬鐸
朝鮮式馬鐸
こんな表現みたことない! (^_^;

小銅鐸のことを言いたかったのでしょうか?

小銅鐸の故地・ルーツというのが通説では遼寧青銅器文化と言われます。

でこの遼寧青銅器文化のなかの鐸に関して言えば、
そのルーツは、編鈴・編鐘の影響を受けた物。
大きなものから、小さなものまで揃って出土するという楽器のスタイル。

さらにその起源といえば、中原以南のものとなる。

遼東以南、半島へと向かうに従って、数は揃わなくなり、
単独出土となっていく。
そうしたものの中に、漢代の馬鐸の影響を受けたと思われるものが出てくる。
しかし、馬鐸の影響は形のみで、無紋の味気ないものなのです。

もし銅鐸に文様が全くなければ、朝鮮半島単独の影響と考えられただろう。
しかし、その文様は、南方系の銅鼓・鈴・鐸に非常に近い!

と知ったかぶりの講釈でした。ちゃんちゃん。m(_ _)m

投稿時間:03/06/15(Sun) 22:59
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re: 朝鮮式馬鐸
> 小銅鐸のことを言いたかったのでしょうか?

そうです。日本の銅鐸のルーツとして朝鮮半島出土の馬鐸が決定的だと書いてあったのを、読んだ覚えがありましたので。

> しかし、その文様は、南方系の銅鼓・鈴・鐸に非常に近い!

> と知ったかぶりの講釈でした。ちゃんちゃん。m(_ _)m

御講義有難うございます。
実は倭人遼河周辺出自説を考えるようになってから、紅山文化や夏家店、西団山文化など、満洲地方の考古学の概説書をさがしているのですが、どうも良さそうなものが探せず、断片的な情報を仕入れると混乱する一方で、最近は一体「紅山文化」の定義も訳がわからなくなり(分布も)、その年代も何時なのかさっぱりつかめない状態です。

考古学に深入りしたくはないのですが、もし「中国東北部」周辺の考古学の最近の成果を収めた良い「総説」があれば、ご紹介お願いします(勿論日本語の)。

「犬の考古学」の紹介有難うございました。何となく腑に落ちないところがあり、私の読解力未熟のためか、あるいは縄文人の起源論に疑問が残るせいか、決めかねています。

投稿時間:03/06/15(Sun) 22:45
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:dragon_suplex@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:Re: 遼寧青銅器文化
> 朝鮮式馬鐸
> こんな表現みたことない! (^_^;>
> 小銅鐸のことを言いたかったのでしょうか?

その通りです小銅鐸と馬鐸を混同していました(>_<)

> 小銅鐸の故地・ルーツというのが通説では遼寧青銅器文化と言われます。

> でこの遼寧青銅器文化のなかの鐸に関して言えば、
> そのルーツは、編鈴・編鐘の影響を受けた物。
> 大きなものから、小さなものまで揃って出土するという楽器のスタイル。

この遼寧青銅器文化の年代は何時頃になるのでしょう?

遼寧。。。。。遼河。うーん??近いですよね?

> さらにその起源といえば、中原以南のものとなる。

つまり、華南から遼寧へ、、ということになるのですね?
「中原以南」の青銅器文化の年代と名前はなんというのでしょうか?

投稿時間:03/06/16(Mon) 13:34
投稿者名:ペギラ
Eメール:pegira@nifty.com
URL :
タイトル:Re^2: 遼寧青銅器文化
遼寧青銅器文化は、紀元前5〜3世紀ごろからという話。

それが南下して小銅鐸を生み出したのが紀元前4〜3世紀、戦国時代中期

参考になりそうなHP
http://inoues.net/yamataikoku/study/japonica5.html

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/shinpo/lee.html

http://www.sanin-chuo.co.jp/news/2001/01/31/04.html

なつかしい荒神谷の話題も。
中原以南の意味も、なんとなくわかってくるでしょう(^_^;

投稿時間:03/06/10(Tue) 16:46
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:dragon_suplex@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:Re^2: 脱線
> 安帝永初元年倭国王帥升等献生口百六十人願請見。

このときの生口の後日譚というか消息って何かあるんでしょうか?

投稿時間:03/06/10(Tue) 22:18
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^3: 脱線
> > 安帝永初元年倭国王帥升等献生口百六十人願請見。
>
> このときの生口の後日譚というか消息って何かあるんでしょうか?

私には、何の資料もありません。

投稿時間:03/06/11(Wed) 07:11
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:dragon_suplex@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:Re^4: 脱線
> 私には、何の資料もありません。

そうですか、残念です。
でもこの生口たち。その後どうなったのか気になります(^^ゞ

投稿時間:03/06/10(Tue) 16:27
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:dragon_suplex@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:Re: hn2602さんへの質問
>東方の「倭人国」を討って

1.鮮卑の領域中の東なのですか?

2.鮮卑の領域から遠く離れた東方という可能性はないのですか?

3.東の沿岸部に倭国の交易のための拠点とかがあったっていう可能性はないのですか?

4.仮に汗人が倭人じゃない仮定すると、どんな集団が候補になるのですか?

投稿時間:03/06/10(Tue) 22:06
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^2: hn2602さんへの質問
> >東方の「倭人国」を討って
>
> 1.鮮卑の領域中の東なのですか?

檀石槐が征討するまでは、明らかに鮮卑の領域ではなかったように、私には読み取れるのですが、同時に檀石槐が拡張した「鮮卑」の支配下にこの「倭人国」は含まれていないように文意が読み取れます。

> 2.鮮卑の領域から遠く離れた東方という可能性はないのですか?

森浩一氏は日本列島から「倭人」を拉致してきたのだと言っていますが、いくらなんでも満洲を縦断して日本海を横断して、「倭人国」を討伐して千余家、つまり四〜五千人をさらうというのは、困難だと思います。

> 3.東の沿岸部に倭国の交易のための拠点とかがあったっていう可能性はないのですか?

これは興味ある仮説ですが、文献、考古学的な証拠がなければ、主張しにくいです。

> 4.仮に汗人が倭人じゃない仮定すると、どんな集団が候補になるのですか?

倭人と種族的に近いか、混交・雑居していた可能性のある、「ワイバク」(穢貊)(ワイはサンズイヘンのほう)系の「ワイ(ヱ)」、あるいは「カン」の音を採って「韓」族が可能性があると思われますが、何れも「網漁」の名声や「水居」の民として有名というわけでもありませんし、これらの民族だと、范曄や王沈、裴松之にも馴染みがあり、あっさり「ワイ」「韓」という表現をしたと思います。あと、江南の越系の海人族の移住者が遼河流域にいれば、当然可能性として考えられますが、江南は「晋」「宋」の領域そのものですから、江南出自の種族であれば、当然「&#38313;越」「山越」とかもっと詳細な種族名を具体的に記載したと考えられます。

投稿時間:03/06/11(Wed) 07:50
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:dragon_suplex@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:Re^3: hn2602さんへの質問

投稿時間:03/06/11(Wed) 07:09
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:dragon_suplex@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:Re^3: hn2602さんへの質問
> 森浩一氏は日本列島から「倭人」を拉致してきたのだと言っていますが、いくらなんでも満洲を縦断して日本海を横断して、「倭人国」を討伐して千余家、つまり四〜五千人をさらうというのは、困難だと思います。

日本列島でなくても、半島東部には列島を本拠とする倭人と同種の倭人は展開していたのでしょう?
ここからなら陸続きですから満州を縦断する困難さえ乗り越えれば、連れ去ることも招くことも可能ではないでしょうか?

ここに日本海を渡るっていうのが加わると、騎馬民族の鮮卑には不可能だと思いますが(^^ゞ

「討って連れ去った」というのは鮮卑の主張を記録してるのですよね?

実は、それは鮮卑の一方的言い分で、魚のとり方研修のため、倭人にお願いしてきてもらったのだったりして(^^ゞ

投稿時間:03/06/11(Wed) 19:18
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^4: hn2602さんへの質問
> 日本列島でなくても、半島東部には列島を本拠とする倭人と同種の倭人は展開していたのでしょう?

半島東部は、後2世紀は北から南にかけて、沃祖、ワイ(例の「穢」のノギヘンの代わりにサンズイです)、辰韓が居住しており、南東端に「倭人」がいた可能性はありますが、鮮卑の東方から南方にかけての「扶余」族の領域が鮮卑との間にあります。

> ここからなら陸続きですから満州を縦断する困難さえ乗り越えれば、連れ去ることも招くことも可能ではないでしょうか?

「扶余」を無視すれば、可能かもしれませんが・・・。

> ここに日本海を渡るっていうのが加わると、騎馬民族の鮮卑には不可能だと思いますが(^^ゞ

平安時代の「刀伊」の入寇の例を挙げて、森氏は可能だと主張されていますが、私の考えでは、「刀伊」は「女真」族つまり満州族であって、チュルク系と考えられる鮮卑ではなく、「扶余」の末裔かその類族でしょう。鮮卑には、渡海はこの時代、不可能だったでしょう。
>
> 「討って連れ去った」というのは鮮卑の主張を記録してるのですよね?
>
> 実は、それは鮮卑の一方的言い分で、魚のとり方研修のため、倭人にお願いしてきてもらったのだったりして(^^ゞ

???なんとも・・・。

投稿時間:03/06/11(Wed) 19:32
投稿者名:勇者ロト(管理人)
Eメール:dragon_suplex@yahoo.co.jp
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タイトル:Re^5: hn2602さんへの質問
> 「扶余」を無視すれば、可能かもしれませんが・・・。

別に無視しなくても、大軍を動かして討伐するのではなく鮮卑が倭人を招いたということで、倭人も同意して鮮卑も連れて行きたいのなら、扶余の領域を通るだけなので、不可能ではないのでは?ということです。

魏人の誰かが見張ってたわけでもないでしょうしね。

「東方の倭人国を討った」というのは鮮卑の強がりだったのでは?

という妄想に過ぎません。

ここまで妄想するのは、hn2602さんは許せませんか?

> ???なんとも・・・。

そんなに変ですか?

投稿時間:03/06/11(Wed) 21:15
投稿者名:hn2602
Eメール:hnanba@muf.biglobe.ne.jp
URL :
タイトル:Re^6: hn2602さんへの質問

> 別に無視しなくても、大軍を動かして討伐するのではなく鮮卑が倭人を招いたということで、倭人も同意して鮮卑も連れて行きたいのなら、扶余の領域を通るだけなので、不可能ではないのでは?ということです。
>
> 魏人の誰かが見張ってたわけでもないでしょうしね。
>
> 「東方の倭人国を討った」というのは鮮卑の強がりだったのでは?
>
> という妄想に過ぎません。
>
> ここまで妄想するのは、hn2602さんは許せませんか?

かわりに私の妄想「倭人遼河流域起源説」も認めていただけるなら、勿論喜んで取引に応じる用意はあります。
ただ晋・宋・斉・梁・陳と続く時代は、史家にとって、「倭人」の情報の多い時代だったのかな、と感ずるところがありました。

投稿時間:03/05/29(Thu) 01:43
投稿者名:hn2602
Eメール:
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タイトル:Re: hn2602さんへの質問・反論用スレッド
> こちらのスレッドに質問や反論はこちらのスレッドにお願いします。

反論どころか全く「反応」がないのですが、実は私の所論は基本的に、形質人類学的、(分子)遺伝学的データ(ほとんど現代人のデータから)を元に、「現在の」民族・国家などの形成過程を、推測しようというものです。しかし現時点では、基礎資料として「技術的に確立されている」「移植などの関係でデータが整備されており、例数の増加によって頻度が変らないと考えられる」「同じ遺伝子〜ハプロタイプを持つ者同士は確実に同祖関係を持つ」という3点を満たすものとして、HLAハプロタイプを選んでその分布・頻度から、日本人の形成の主流を成す集団が遼河周辺から殷周革命前後に列島に渡来したという仮説を立て、ロトさんの掲示板でストーリーを提示する予定だったのですが、5月28日購入した「日本列島の人類学的多様性」(日沼頼夫、崎谷満編、2003年4月10日、勉誠出版)という本によると、父系を一系的に追跡できるY染色体上の遺伝子の分子遺伝学的研究の進展が急速で、、どうやらまた人類学の大きな変化が起こりそうです。といっても大体予想されていた方向ですが、「モンゴロイドの南方アジアと北方アジアの間でのDNA多型性の上での本質的差異を認めない」方向です。即ち従来形態人類学が依拠していた仮説の多くが、分子遺伝学上は支持されない流れが、明瞭になってきました。私のあちこちの掲示板での書き込みをどの程度見ておられるかわかりませんが(おそらくほとんど見ておられないか?)、私は実は「形態」特に「人骨」のデータは全くといってよいほど信頼せず、無視してきましたので、倭人北方起源説の大筋は変えなくて良いと思います。しかしこのY染色体のデータは衝撃的であり、もう少しこのあたりの論文や総説を見て検討してから、また書き込みさせていただきたいのですが。


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