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出雲大社と出雲を中心とした年表です
古代から、昭和まで・・・・・。

[古代出雲王国の謎へ]


出雲地方の弥生遺跡といえば、中期(紀元前後)とされている荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡そして田和山遺跡の三つが象徴的な遺跡であろうと思われる。荒神谷遺跡からは言わずと知れた多量の銅剣が出土しており、加茂岩倉遺跡からは銅鐸が大量出土している。また田和山遺跡は珍しい三重環濠で囲まれており、鉄器なども出土している。が出雲大社の一帯もこの頃から灯台代わりにもなる「海洋神殿」としてスタートしていたのかもしれない。
注・BC100年頃・倭人百余国に分立

注・BC57年・師升が後漢の光武帝に朝貢。印綬を受ける。

注・107年・後漢の安帝に生口を献上。倭面土(ヤマト?)国王。

注・以後後漢書に言う倭国大乱が始まる

○弥生時代紀元二世紀頃 臼玉などを用いた祭祀が行われる。高床式神殿祭祀の始まり。臼玉は三輪山の禁足地からも出土している。(管玉のように紐を通してネックレス状にするものです) 【出雲大社境内遺跡】
注・146年から189年、桓靈の間(桓帝(146〜67)、靈帝(167〜89))「倭國大亂」(倭国大乱の記述あり)【後漢書】

注・189年頃に卑弥呼が擁立され大乱が収束に向かう。

注・239年 卑弥呼が帯方郡に遣使し魏(明帝)に朝貢する。

注・266年 イヨ(トヨ)が晋に遣使。朝貢。

○垂仁紀 出雲大神を天皇の宮と同じように祀る。 【日本書紀】
上古「景行天皇の時代」 この頃三十二丈の高層神殿があったとされる。 【鰐淵寺旧記】←資料の作成は1391年
○古墳時代七世紀まで 神殿の高層化が既に始まっている。鳥取稲吉遺跡出土の絵画土器には、高層神殿らしき絵が画かれている。この絵画土器の絵は大林組による十六丈の出雲大社復元予想図に酷似している 【稲吉遺跡より出土】
注・372年 七支刀が百済王より送られる

注・391年 倭と高句麗が朝鮮半島において交戦する。

注・413年の倭の讃王の朝貢以降、倭の五王の中国の南朝への朝貢が478年の武王の朝貢まで断続的に行われる。詳しくは崇神朝の謎をご覧下さい

注・594年(推古天皇二年)鰐淵寺(がくえんじ・平田市)の開基?智春上人が浮浪の滝で、天皇の眼病平癒を祈ったことから鰐淵寺の歴史が始まるとされている。寺号は智春上人が滝壷に落とし仏器を鰐(わに)が加えて浮かびあがってきたという伝説による。この寺は後に出雲大社と「国中第一の霊神(杵築大社)」「国中第一の伽藍(鰐淵寺)」と並び称される寺となる。本尊は「蔵王権現」であり、スサノオは蔵王権現の化身と理解されている。つまり両者は同じ神(仏)をそれぞれ「スサノオ=杵築大社」「蔵王権現=鰐淵寺」として祀っているということである。現在は天台宗の寺院であり出雲国および出雲大社の歴史を探るための文書が多数残されている。 ちなみに、蔵王権現といえば、かの「役小角」の守護神でもあり修験道の本尊でもある
○659年(斉明天皇五年) 出雲国造を通じて出雲厳神之宮を修復する。 【日本書紀】
注・正史において信用できる最初の出雲大社の記述と理解されているが、国造の常駐していた熊野神社(大社)の事であるという説もあります。下記の注を参照してください。尚、令義解(833年)には、出雲国造の斎く神としては大国主命ではなくスサノオが上げられており、このころの出雲大社の祭神はスサノオであった可能性が高い。十世紀の旧事本紀も出雲大社の祭神がスサノオであるとの記述があり、それを踏まえた上で国造本紀が書かれている可能性が指摘されている。江戸期の造営において大国主つまりアメノシタツクラシシ大神に祭神が変更しなおされるまでの、約700年間はスサノオが主祭神であった可能性が高い。といっても大国主が主祭神でなかっただけで大国主への信仰や祭祀は継続されていたであろうと思われるし、実際各地への出雲巫女などの信仰拡大の動きの中では大国主への信仰を集める動きもある。

注・平安中期から江戸期までの約七百年間(金輪造営・寄木造営ももちろん含みます)本殿に祀られていたのは、出雲国造や朝廷などの本殿造営に関する積極的な動きからみて国津神・大国主ではなく天津神・天照皇大神の弟神としてのスサノオノミコトではなかったか?と私は思っています。

注・692年(持統天皇六年)鰐淵寺の「銅造観音菩薩立像」が造立される。いわゆる白鳳仏である。出雲国内にはこの他にも二体、白鳳時代の金銅仏がある。出雲市の法王寺の「観音菩薩立像」と伝・大社町出土の「誕生釈迦仏立像」がそれである。
○721年(養老五年) 出雲臣廣嶋が第二十六代出雲国造を継承。【国造系図】
○724年(神亀元年正月) 出雲臣廣嶋が上京して、『出雲神賀詞』を奏上。【日本続紀】
注・この頃、出雲国造は熊野から意宇平野の国庁に移る。出雲神賀詞の奏上は服属儀礼の一種であり、国造の代替わりごとに行われていた可能性が高い。現存する出雲神賀詞の内容は延喜式収録のもの。奏上は任命・召集された各国国造を代表し出雲国造と紀伊国造により行われた。この二国の国造だけに与えられた名誉であると同時に、国造の代替わりを上京して行うという経済負担は相当なものだったであろう。『日本続紀』によると、奏上のときに廣嶋が剣・鏡・白馬・鵠を献上し位階を進められていることからも、税とは別の経済負担であったことが推測できる。出雲と紀伊が選ばれたのには国津神への信仰が特に厚い地域であったからかもしれない。 注・また、この前後に平城京への遷都(710年)古事記(712年)・日本書紀(720年)や風土記(716年播磨・718年常陸)が編纂され、狭義の神道の原型が完成し、その影響により出雲(杵築)大社の祭祀や位置付けが大きく変質していった可能性が高いと思われます。

注・その影響下で733年に『出雲国風土記』が成立するのは更に興味深い。記紀では大活躍する武甕槌が出雲風土記の国譲りに登場しないのは、出雲臣の中臣氏・藤原氏への対抗意識かもしれない。武甕槌が登場したりしなかったりするということは、「国譲り神話」もしくは「タケミナカタとタケミナカタの戦い」は、記紀編纂時のアトヅケ神話であり、事実の反映はなかったのか?とも思わせる。 《ちなみに、伊勢国風土記にも独自の国譲り神話が残されている。譲る側は伊勢津彦命またの名を出雲建子命といい、相手は天日別命(天日鷲命?)である。伊勢津彦は国譲りの後、東の諏訪へ風となって飛んでいったともいう。伊勢津彦はタケミナカタではないか?との説もある。》

注・出雲大社では、代表者は伊勢神道をはじめとする神道各流派とは違い、神職、神主などの宗教としての神道の役職名を名乗らず古代より続く「国造(こくそう)」を名乗る。これは国家神道時代を除いて現在も続いており、島根県の元旦の新聞には出雲県知事と並び出雲国造の新年によせる言葉が載せられる。出雲の人々、島根県民にとって現実的な面はともかく、精神的な世界では、県知事の言葉より国造の言葉の方が大事なのかも??

注・794年平安遷都以後御霊信仰(個人霊の怨霊化)が大流行する。

注・927年 延喜式成立。この時点での杵築大社の祭神は大国主である

注・900年代に入り、将門の乱や純友の乱が勃発。

注・旧事本紀もこの頃成立か?? 出雲国造が熊野大社から杵築大社への移住もこの頃である可能性が高い。 この国造の移動に伴い杵築大社の本殿に大国主に代えてスサノオが祀られる事となる。

○970年(天徳元)頃 出雲大社の高層神殿が日本一の建物として認識される。 【源為憲(みなもとのためのり)作とされる『口遊』に雲太・和二・京三の記述】
注・この直前の967年に関白となる藤原実頼以後摂関が常置機関となるのも興味深い。
○1031年(長元四年八月) 杵築大社神殿が倒壊する。 【百錬抄】
○1031年(長元四年十月) 藤原経任より無風顛倒の報告がある。 【左経記】
○1032年(長元五年六月) 橘俊孝(出雲守)が出雲国の税を四年の間免除して、杵築大社を造立する事を申請する。 【左経記】
○1032年(長元五年十月) 杵築大社の顛倒事件に関する申請が虚偽とされ、橘俊孝が佐渡へ流される。 【日本紀略】【百錬抄】【扶桑略記】
注・1053年に平等院鳳凰堂が建立される。
○1061年(康平四年十一月) 杵築大社社殿顛倒 【百錬抄】
○1062年(康平五年四月) 仮殿に遷宮する。 【千家古文書】
注・現在、出雲大社では、今までの社殿の形式の変遷を表すとき、それぞれの大きさに合わせて「仮殿」「仮殿式」、「正殿」「正殿式」と呼びます。斉明天皇時代(七世紀中頃)に今日のような高さ八丈(約二十四メートル)、方六間(約十一メートル)四面の宮となったという考えにたち、これ以上の規模の社殿を「正殿」「正殿式」、これに満たないものを、「仮殿」「仮殿式」と呼びます。あくまで、社殿の高さや大きさの前例は天皇家に縁のあるものとする、天皇家由来とする、という前提にたった考え方を見て取ることができます。以後の頻繁な遷宮や造営なども「天皇の臣下」というだけでなく、他者をしのぐ血統、つまり天皇家と同じく、アマテラスの御子神の末裔として「天皇家に準じる存在」としての出雲国造をアピールするのも目的だったのかもしれません。出雲神賀詞(いずもかんよごと)にもその気概が強く現れているように思います。

大国主の神座の向きについての考察はこちら

注・ 同年前九年の役が終結し安倍氏が滅亡する。

○1067年(治暦三年二月) 正殿を造営し遷宮。 【千家古文書】
○1095年(嘉保二年八月) 杵築大社が鳴動する。 【中右記】
注・中央では摂関政にかわり院政が始まり、1095年に院の守護「北面の武士」が設置される。
○1109年(天仁二年二月) 社殿が傾いて顛倒しそうになる。 【千家古文書】【北島家文書】
○1109年(天仁二年十一月) 仮殿に遷宮する。 【北島家文書】
○1110年(天仁三年七月) 大量の巨木が稲佐の浜に漂着する。 【北島家文書】
○1114年(永久二年七月) 正殿に遷宮する。 【千家古文書】
○1115年(永久三年六月) 社殿に傾きがあり、補修する。 【千家古文書】
注・この造営を「寄木の造営」ともいいます。1114年と1115年の二説があります。

注・このころ「大鏡」編纂?

○1145年(久安元年十一月) 正殿に遷宮する。 【千家古文書】
注・この頃jまでに成立したとされる『奥義抄』に出雲地方において神在祭が行われていた事が記されている

注・1156年 保元の乱 注・1159年 平治の乱 注・1167年 平清盛が太政大臣になり平氏が全盛を迎える

○1172年(承安二年十月) 社殿が顛倒する。 【千家古文書】
○1175年(安元元年十一月) 仮殿に遷宮する。 【千家古文書】
注・1185年 平氏滅亡
○1190年(建久元年六月) 正殿に遷宮する。 【千家古文書】
注・寂蓮法師の大社詣でもこのころである。金輪造営(現在出雲大社境内遺跡にて発掘中の三本の巨木を金輪で繋いだ大柱)はおおよそこのころのまでの社殿に用いられた建築技法と解釈されいます。金輪造営図は近世になって本居宣長による「玉勝間」に収録されたものです。 あくまで、私の主観でしかないのだが、金輪の造営図に残された本殿の図面をみると、客座五神の神座を設定できるほどの余裕はなさそうな感じがする。

注・1192源頼朝が征夷大将軍となる

○1227年(嘉禄三年六月) 仮殿に遷宮する。 【千家古文書】
注・このころから、杵築大社の国造以下の神官と鰐淵寺の僧侶による『正月行事(大般若経の転読)』『三月会』などの共同神事が毎年行われるようになる。特に、『三月会』は「山陰無双の節会」とも呼ばれる大きな神事であり仏事でもあった。このことから『杵築と鰐淵二にして二ならず、仏道、神道暫しも相離るる事なし』といわれるようになるほど両者は一体化していくこととなる。この一体化は江戸期の遷宮まで続くこととなる。 杵築大社と鰐淵寺は「弥山」という山を挟んで東西に位置している。
注・1232年貞永式目発布
○1235年(嘉禎元年十一月) 社殿が顛倒する。ご神体を仮殿に移す。 【千家古文書】
○1248年(宝治二年十月) 正殿に遷宮する。中世最後の正殿式の宮への遷宮となる。 【千家古文書】
注・鎌倉時代の宝治二年(1248年)の遷宮造営までは、主として「正殿式」造営が行われていましたがその後江戸時代まで約四百年間は、「仮殿式」で祀られています。頻繁な遷宮記録のため式年遷宮の意思が存在した可能性も指摘されていますが顛倒や火災、劣化に対する補修・再建のための遷宮や造営と歴然とした判別がつかず不明です。 私の妄想ですが、この江戸時代の遷宮の頃に、本殿に大国主が祀られるようになったのでは?と思っています。「大国主と天海僧正」も合わせて読んでいただけたら幸いです。
○1261年(弘長元年七月) 出雲の国杵築大社が鳴動する。 【帝王編年記】
○1270年(文永七年一月) 杵築大社が火災にあうが、ご神体・神宝ともに無事。 【帝王編年記】
注・蒙古襲来がこの二年後1272年(文永の役)。
○1276年(建治元年) 仮殿を造営し遷宮すめる。 【鎌倉幕府関係文書その他】
注・これ以降、幕府や院から大社の造営についての指示が頻繁にでるようになる。呪術的側面から考えると蒙古襲来の影響か?とも考えることもできるかもしれません。造営命令は院や幕府からでていますが、この命令を出すように出雲・出雲国造側から働きかけがあったのではないでしょうか?橘俊孝の例のように、税の減免を狙った働きかけのような気もします。

注・1281年二度目の蒙古襲来(弘安の役)。また社殿が小規模化したため倒壊の記録がなくなる

○1282年(弘安五年) 仮殿造営 【北島家文書】
注・1321年院政を廃止し、後醍醐天皇による天皇親政はじまる
○1323年頃(元亨年間) 仮殿に遷宮する 【出雲大社文書】
注・1324年 正中の変 後醍醐天皇の倒幕計画の挫折
注・1330年頃に成立した吉田兼好の『徒然草』では、伊勢神宮にも八百万の神々の参集があったことが書かれている。この時期は神が集まる、または去っていくという概念は出雲と各地域の間だけの概念ではなかったことが伺われる。
注・1331年 元広の変 後醍醐天皇によるクーデター。後醍醐は翌年隠岐に流される。 注・1333年 二月二十四日 後醍醐天皇が隠岐から脱出する。
○1333年(元弘三年三月) 「後醍醐天皇宸翰宝剣代綸旨」「王道再興綸旨」の二通の書が杵築大社に後醍醐天皇から送られてくる。 【出雲大社文書】
注・「後醍醐天皇宸翰宝剣代綸旨」とは、後醍醐が出雲大社に祀られている二振りの神剣の内いずれかを三種の神器の天叢雲剣の代わりに差し出すように命じたものです。 「王道再興綸旨」には後醍醐の不退転の決意が述べられており武力をもって天下を平定するという意思表示であると同時に、出雲国内を後醍醐側に組み入れようとする目的があった。隠岐脱出直後に書かれたものにも関わらず後醍醐が目標とする王権の姿が描きだされているらしい。 この綸旨に従い出雲国守護の塩冶高貞をはじめ出雲国一帯が後醍醐の下につく。塩冶氏は出雲大社の神官家とも縁戚を結んでおり出雲大社も後醍醐に見方することとなる。「仮名手本忠臣蔵」の塩冶判官とは出雲の塩冶氏から取った。

注・この年の五月、後醍醐は伯耆船上山を後にして帰京する。同月鎌倉幕府が滅亡する。

○1334年(建武元年七月) 後醍醐天皇より杵築大社造営命令が下るが、命令に従ったかどうかは不明。 【出雲大社文書】
注・1334年 建武の新政はじまる
○1336年(建武三年) 出雲国造・出雲教時(いずものりとき)の日記に「杵築大社と熊野大社の祭神はスサノオ」との記述あり。 【佐草家文書】
注・1336年 湊川の戦いで足利尊氏が勝利し、北朝を擁立し南北朝時代始まる 注・1338年 室町幕府成立
○1344年(康永三年六月) 出雲国造が千家家と北島家に分立する。 【千家家文書】
注・南北朝時代に出雲国造もが分裂するのはなんとなく気になるところです。「北島家文書」に南朝からの命令が残されているところだけから推測すれば、相手によって窓口を変えていたのかも??と思わせます。後の戦国大名の分裂、分家とは違って出雲国造家の生き残りというよりは、「出雲大社の祭祀存続のための措置」のようにも感じます。
○1357年(正平十二年六月) 後村上天皇より造営命令。従ったかどうか不明。 【北島家文書】
○1365年(貞治四年) 国造・北島資教(すけのり)による国申状案(くにもうしじょうあん)には「出雲大社の祭神はスサノオ」と記されている。 【出雲大社文書】
注・1366年には、佐太大社で神在祭が行われているとの記述があります。「詞林采葉抄」(しりんさいようしょう)の記述ですが、これがいつのまにか出雲(杵築)大社でも行われるようになります。特別に最初の記述がないのはもっと古い時代から出雲国内の神事としてあちこちの大社・神社で行われていた可能性も???
○1368年(応安元年九月) 室町将軍より仮殿造営を出雲国内の段米(特別税)で賄うように命令あり。 【出雲大社文書】
○1391年(明徳二年) 出雲大社の高さについて、「上古三十二丈」の資料上の初見。「景行天皇時に三十二丈」の記述がある。 【鰐淵寺旧記】
注・1392年 足利義満により南北朝合一
注・1397 足利義満が金閣寺を建立する。

○1405年(応永十二年十月) 杵築大社造営命令が幕府から出される。守護京極氏から両国造家に命令あり。【出雲大社文書】
○1412年(応永十九年四月) 仮殿に遷宮 【北島家文書】
注・日御碕社(主祭神にスサノオ、摂社にアマテラスが祀られている)がこの頃から杵築大社から分離独立の動きをはじめる。
○1467年(応仁元年十月) 仮殿に遷宮 【北島家文書】
注・応仁の乱の勃発。出雲では京極家の家臣で守護代の尼子清定が出雲国内鎮圧戦を行い東軍の一角として勢力を広げる。
○1481年(文明十三年十月) 出雲(杵築)大社で神在祭が行われたという。資料の上ではこの記述が杵築大社で行われたものの初見です。 【日本紀神代抄】
注・1483年・足利義政によって銀閣寺が完成する。
○1486年(文明十八年九月) 出雲大社が焼失する。ご神体の消息記述は不明。 【長興宿禰記】【親長卿記】
注・この頃から尼子経久が実質的な出雲国の支配者となる。
○1508年から1519年まで(永正年間) 尼子経久が出雲大社の造営命令を出し、尼子氏主導による遷宮が行われる。 【千家家文書】
○1523年から(大永二年)から1530年(享録三年)まで 出雲大社の境内で法華経三万部の読誦が3回に渡り行われ、大社境内に仏教寺院や仏教建築物が建立される。
○1539年(天文八年) 仮殿に遷宮する。 【千家家文書】
注・この頃から、灰吹法導入により石見銀山の銀の採掘量が急速に増大し発展する。その経済力を背景に尼子氏が全盛期を迎える。最盛期は播磨の国までも勢力下に置き、聖徳太子縁の太子町の斑鳩寺を攻め落とし壊滅させる。この播磨侵攻により、聖徳太子時代の遺物は殆どが失われた。

注・1541年 尼子経久死去

注・1543年 鉄砲伝来 注・1549年 キリスト教伝来

○1550年(天文十九年九月) 尼子晴久による遷宮が行われる。この遷宮を機に出雲大社内に「本願」と呼ばれる仏僧が常駐するようになり、出雲大社の管理・運営の権利が国造から本願へと移行する。このことはスサノオが仏教神と深く習合していた弊害でもあり、この経験は国造自身の大国主への信仰心を厚くさせる遠因となったというのは、私の考えすぎであろうか?この状態は1662年まで続く。 【千家家文書】【佐草家文書】
注・佐草家も出雲国造家の縁戚である。

注・1550年代に入り安芸の毛利元就が勢力を伸ばしてくる。毛利氏は主筋である山口の大内氏の滅亡を機に、中国地方各地に勢力を伸ばしてきたため、石見銀山の争奪戦を中心とした毛利氏と尼子氏との直接衝突が繰り返される。結果として1566年に尼子氏は滅亡する。以後出雲は毛利氏の版図に組み込まれる。

注・1568年 織田信長が足利義昭を奉じて上洛する。

注・1571年 毛利元就死去、輝元が後を継ぐ。 注・1573年 織田信長に将軍足利義昭が追放され、室町幕府が名実ともに滅亡。 注・この後、毛利氏は義昭を受け入れ、織田家と毛利家は緊張状態となる。尼子の遺臣が織田方の羽柴秀吉に応援を求めたりして各地で小競り合いが始まる。

○1580年(天正八年) 毛利氏による遷宮が行われる。この時の毛利家当主は毛利輝元。 【出雲大社文書】
注・1582年 本能寺の変で信長死す。秀吉の中国大返しと山崎の合戦の勝利。

注・1590年 豊臣秀吉による全国統一が成る。 【鰐淵寺旧蔵文書】

注・1600年・関ケ原の合戦に破れた毛利氏に代わって堀尾吉晴が出雲の国主となる。1607年から堀尾氏によって松江城が建設される。

○1609年(慶長十四年) 豊臣秀頼による遷宮が行われる。この遷宮の指揮を執ったのは奉行職の堀尾吉晴である。 【北島家文書】

注・1616年の徳川家康の死の前後から天海は大国主の神格へ接近していく。このことが、出雲大社の祭神変更への動きへと直結していくのである。
○1662年 出雲大社の内部に存在し、実権を握っていた僧侶集団「本願」が追放される。結果として大国主信仰への回帰が飛躍的に進む。この動きは習合していた神仏を分離させるという画期的な変換である。
注・1643年 天海僧正死去

注・1664年・日光東照宮が天海僧正が拘った比叡山の神道、徳川幕府の神道ともいうべき『山王一実神道』の影響の下、完成する。

○1666年(寛文六年) 毛利綱広によって、銅造の鳥居が寄進される。この銅像の銘文にも「祭神はスサノオ」とある。
○1667年(寛文七年) 徳川幕府の援助の下、約四百年ぶりに正殿を造営し遷宮する。奉行は松平直政。 【千家家文書】【北島家文書】その他数の資料あり。
注・鎌倉時代の遷宮以来、実に四百年ぶりの正殿への遷宮である。このときの大社造りの本殿建築形式が現在の出雲大社に直結する形式である。鎌倉期の正殿は不明であるが、客座五神の神座などはこの時期以降の設定のように思われる。正殿への遷宮を機にスサノオから大国主への再度の祭神変更が正式に決定され広められた。

注・長い歴史を共に歩いてきた鰐淵寺と出雲(杵築)大社との共同神事もこの頃で最後となる。露骨なスサノオ外しであり、地域領主としての出雲大社が天津神=朝廷から離れ、江戸幕府へと靡いた証左でもある。

○1774年(延享元年) 正殿の造営および遷宮。この時の建物が現在の本殿である。
注・この後、国学が流行しはじめ本居宣長を代表とする多数の国学者が『古事記伝』など様々な古代史、神道に関わる書を著す。神社の縁起や由来譚などは、この時期以降に古伝から纏められたもの、または捏造・創作されたりしたものが多いので注意が必要である。中央=江戸の国学者の中で最も出雲神道と縁が深いのは、平田篤胤である。彼は顕幽について様々な研究・考察を行い大国主命の神格・意義を高めたが、神代文字の発見など胡散臭い研究も多く、宣長の門徒のなかでは異端の存在であると理解されている。明治時代の国家神道成立と受け入れを巡る『伊勢・出雲論争』いわゆる『祭神論』には彼の考察が深く影響している。このとき出雲国造千家尊福は神道を統制するために造られた神道事務局の祭殿に大国主を祀ることを強硬に主張しました。こういった国造自らの動きの中にも、「天皇家に準じる存在である気概」というものが出雲国造に脈々と受け継がれてきたことをあらわしているようにも思う。
注・明治四年に「神社祭式」が発布される。この祭式は神道のあらゆる儀式・様式(幣や注連縄の向きや方向、拍手や礼の仕方まで)を統一するもので全国的に「二礼二拍手一礼」の参拝様式に統一された。

注・明治十五年・各地の神社が国営・公営の施設となったため、布教の禁止が決められた。出雲国造はこれに対抗する策として「新宗教法人・出雲大社教」を設立する。
出雲大社に残されていた古式参拝様式などは、この法人にコピーされ保存されたため、他の神社のように失われてしまわずに現在に伝えられたのだ。

出雲四拍手についてはこちら

古式参拝や儀礼の省略についての例と死と四についてはこちら


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