三輪山の謎 2002/6/1
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三輪山は纒向にあるのにどうして三輪山なんだろう?
という疑問が湧いたので適当に考えてみたいと思います。

三輪山を分解すると三と輪と山である。

三(ミ)を「御」つまり接頭語とするとで大した意味はない。

「巳」つまり「蛇」とするとどうだろう?
三輪山の神大物主は蛇神とされており、なんとなくぴったりくるような気がする。今でも大物主のことを「巳(ミ)ィさん」ともいうらしい。蛇は古来、脱皮することにより死と再生を体現する神である。これは沈んで昇る太陽が神格化されたのと同じ構図である。

つまり死生観という範疇にだけ注目すれば、蛇神と太陽神は同質のものとなるのではなかろうか?

神話において、死んでから再生するので最も有名なのは何を隠そう大国主である。兄神とされる八十神の迫害をうけ死んでしまうが、母神の献身により再び生を受けている。

またその御子神とされるアジスキタカヒコネノミコトと娘婿神とされるアメノワカヒコの登場する「アジスキ神話」も死と再生を暗示していると言われている。弔問に訪れたアジスキを死んだはずのアメノワカヒコと見間違うという神話である。

これら再生神話は国津神の特権でもある。再生するという事は一度は死ぬということでもある。高天原で生きつづけ、また一端死ぬと蘇ることのできない天津神にはない要素であり、国津神の神話こそ死生を伴う原初信仰の神話化であろう。

話がそれたが、私は三輪山の三を死と再生を表す巳、つまり太陽と解読したい。

さて、三の次ぎは「輪」である。
これは、古代日本を表す「倭」のことではないだろうか?

卑弥呼という女王は、邪馬台国という国の代表者である以上に「倭」の代表者・倭王として魏の国は意識している。そして卑弥呼側もその事をアジアの大国魏に保証してもらおうという意思があっての魏への朝貢であろう。つまりは卑弥呼の時代には日本列島に「倭」という意識が存在していたことの裏返しなのではなかろうか?

そして、自分を指す吾であり、我である。蛇神(太陽神)を信仰する我々、倭国の民という意味が三輪のワには含まれているような気がします。

「大和盆地ひいては倭国で最も神聖な山は我々の信仰する蛇神(太陽神=農耕神ではなく生死を司る神としての太陽神)が坐します山である。」

これが三輪山の名称の意味のような気がしています。
東北の蝦夷が大和朝廷に初めて朝貢したとき、「天皇への拝謁よりも三輪山に参ること」を望んだそうです。「」内は昔読んだ「ムー」に載っていた記事なので鵜呑みにはできないかもしれません。しかし蝦夷の民が大和に朝貢したとき三輪山に参ったことは間違いない事実だそうです。

これは何を意味しているのか?

太陽神であり女神、農耕神でもある皇祖神アマテラスができるよりももっと前から、三輪山の太陽神であり蛇神であり生死を象徴する神が日本列島ほぼ全域に知れ渡っていたということではないでしょうか?

つまり、蝦夷をも含む倭人共通の死生観が存在していた。

死生観の伴わない信仰(伊勢のアマテラス信仰のような貴種の子孫の優越を保証するような信仰?)は古代では広がり難かったのではないでしょうか?また余程強大な力を持った氏族でもない限り、さらにその氏族が長い年月をかけて倭国の主権者であった時を続けて過ごさないかぎり、そういったことまで気を回せなかったのであろうし、他の祖先神を崇める理由はないかと思います。死と生はだれにでも平等にやってくるものなのです。

これに対する意識なくして古代信仰は成立し得ないと思われます。

そして実際的な死生観は天孫神話に欠落している部分でもあります。

そうすると、日本列島の軍事・行政の支配権をもった天皇家=大王家といえども、大王家の祖先神というだけで、日本全国津々浦々しかも遠隔地で同一の神を崇めさせることは不可能であったと言えるかもしれません。

存在が疑われている神武天皇から数えたとしても、数十代の年月を経て初めて成り立つ信仰が万世一系を保証する女神アマテラス信仰なのです。

過去を振り返って初めて成り立つ信仰が、古代倭国に存在したのでしょうか?

ましてやそれが列島の人々のアイデンティティーにはなり得ないと思います。倭人のアイデンティティー(そんな大層なもんか?)は三輪山に代表される死生観を持つ蛇神=太陽神信仰であったのだと思います。そしてその信仰は倭人の住む場所あちらこちらで「ヤマ」に対する信仰として行われていた。そして後に天孫と呼ばれる氏族もその信仰の内に存在していたと考えても無理はないのでないでしょうか?


さて、最後の「山」=「ヤマ」である。

「今晩がヤマ(もしくは峠)です」と言う。
また「ペナントレースの山場」などともいう。

一般に、最高に盛りあがる時期とかをさして使う言葉でもありますが、「やま」を予測して使うとき、その先には人事の及ばぬことが意識されているようにも思う。

さて、三輪山にもどろう。

何故、通称としてでも「みわさん」と読まないのだろう?阿蘇山も「あそさん」というにも関わらずである。

三輪山だけでなく大和三山や他の神の宿るとされている「お山」にも言えることである。神が宿るされている山は「さん」ではなくヤマなのです。また全国各地の名前のついてる「山」にしても通常「〜〜さん」と呼ぶところでも、神社あったり神事を行ったりする山は音読みより訓読みの方が多いと思う。

また通常音読みで読まれる山でも丁寧にいうときは「阿蘇のお山」などと「お」をつけてしかも「やま」と発音する。富士山などでも「富士のお山」と呼んだりするのは「やま」という発音は日本人にとっては普通名詞であると同時に何かしら特別の意味が附加されているのかもしれない。

トンデモ古代史的に繋げると「やま」は邪馬台国・大和朝廷に通じる音である。つまり「やま」という普通名詞の音には神聖なもの=神=太陽・天を表す意味があったのではなかろうか?

「邪馬台」が「ヤマト」に近い発音だからヤマト朝廷の前身であるという説もあるが、「やま」の音に神聖なものを表す意味があると考えた場合、この説を単純に支持することはできない。

何故か?

日本列島は「やま」だらけなのである。

日本列島に住む人々が、神聖な場所を「ヤマ」と呼び慣わしていたとすれば、九州にも四国にも関東にも北陸・東北、そして当然三輪山のある奈良盆地にも「ヤマ〜〜国」と呼ばれる国や場所が同時に存在してもおかしくはないのである。

邪馬台国や伊都国を国名として捕らえるよりも、もともとあった地名として考えた方が良いような気がします。そして大和もそうです。もし仮に九州から移動してきた民が故地の名前を新しい土地につけたとしても、それは極一部の土地に対する地名にしかならないでしょう。

邪馬台国を国号として意識していたとしても、国号や都の名は新しい土地に移ったのだから変更するのではないでしょうか?
「名」は言霊信仰の最たるものだと思います。九州にあった邪馬台国が東遷して大和朝廷に成長したのだとしても、邪馬台国の名をつなげるために「ヤマト」と名乗ったわけではないと思います。奈良盆地にもともとあった神聖な場所としての「ヤマ」から大和の国と呼んだと考えた方がいいのではないかと思います。

日本列島各地の貴く、強く、素晴らしい王がいるところそれが「やま」であり国であるのだ。そしてその国の中でも一番大きな勢力をもった国を「ヤマ〜〜国」といった。のではなかろうか?

古代人は素晴らしい形=円錐形・ピラミッド形の「やま」に掛かる太陽を見て時をしり、日を知った。そうすると日を知るもの即ち暦を支配するものが聖なる王とそれを神格化した神だということだ。

日本列島には各地に山があり、円錐型の山も珍しくない。中には人工的に円錐型・ピラミッド型に削ったかもしれないと言われている山もある。人工か天然かはともかくとしても、そういう山は「神奈備山(かんなびやま)」として神が坐す山として崇められていた形跡がある。ここでも「さん」でなく「やま」である。

現在でも神社の境内に円錐型の土盛りをしているのは神の降臨場所を神社の中に置こうという意思の現れであろう。

また「やま」の音は「アマ」にも通じるのではなかろうか?

「アマ」は「天」、「雨」でありいずれも天上を意識させる。

また、海人を「アマ」と発音するのも、海人が交易などによって持ってくる珍宝を神の恵みと理解したからではないだろうか?<こじつけすぎ??

高天原に暮らす神以外のヤオロズの神々は山上に坐すのである。

そして山上のまだ上、さらに高いところにいる神の場所として考え出されたのが「高天原(タカアマノハラ・タカマガハラ)」という概念ではなかったろうか?

高天原の概念が誕生し、広められた記紀編纂を境として、ある意味人工のカンナビとも言える古墳祭祀は一気に消滅していく。

何かしら特別の符号を感じるのは私だけだろうか?


[古代出雲王国の謎]
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