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崇神朝の謎
[an error occurred while processing this directive]「ヤマトタケル神話と出雲神話のかかわりについて。」

〜プロローグ〜

ヤマトタケルの実在を云々する前に、欠史八代を述べるべきなのだろうがここでは深く追求はしないでおこうと思う。欠史八代はそれより以前の事と推察される「神代」のことでさえ詳述されているのに対し、系譜を淡々と述べるに留まっている。そして異様な長寿、これらにより実在が疑われているのである。


簡単に私の考えをいうと以下の通りである。
「欠史八代の天皇=大王は存在はしたが崇神朝までは大王と呼べるほどの力も実績もなかったのではないかと考えています。奈良盆地周辺の一地方の首長であった崇神天皇の時代に四道将軍の活躍に反映される軍事活動によりヤマトの大王と呼べるほどの地位を手に入れたのではないかという事です。」
このように、欠史八代は崇神の先祖とだけ理解するのが妥当なような気がしているのである。


さて、崇神天皇の時代といえば卑弥呼、トヨの時代と重なると見られている。つまりは3世紀後半から4世紀初めである。この時期には古墳祭祀が本格的に始まるのが注目点である。さて、この墳丘墓祭祀が前方後円墳という巨大な古墳に発達した背景には吉備・播磨の平野が統一され穀倉地帯となったことがあるのではなかろうか?


播磨風土記を見ると、地元の国津神伊和大神についての記述を除くと神功皇后と応神天皇の巡行がとくに目をひくが、その前にも天皇の巡行がある。それはヤマトタケルの父、景行天皇の巡行である。景行天皇も各地に自ら征討軍を率いて乗り込んだ記述が記紀や九州の風土記を中心に多数残されている。また景行自身もあまりにも超人的な天皇なので実在を疑われている。記紀神話の熊襲討伐のみならず先ほど挙げた播磨風土記、そして常陸風土記にもその足跡を刻んでいる。


系譜としては崇神朝(三輪王朝)に属するのだが、あまりにも熊襲討伐の印象が強く九州王朝という見方さえできそうだ。その後に続く成務の時に武内宿禰が大臣となり、更にその後の仲哀も九州で命を落とすあたり九州とこの王朝の縁は深いような気がする。書紀の武内宿禰と成務天皇は同日生まれという記述も何やら怪しげなものを感じさせる。がこれについては後述することにしよう。


酒宴の警備を二人して買って出て、酒宴に参加しなかったりもする。ひょっとして武内宿禰と成務は同一人物ではなかろうか?この二人の時、天に二日ができたのかもしれない。書紀、古事記ともに成務の事跡が少ないのが気に掛かる。全国の境を決めるということは、国家の基本でもある。それを成し遂げたはずの成務朝の記述はどうして少ないのだろう???この時期、境界線を決めるにあたって、もっとも活躍した人物は誰であろうか?そう、武内宿禰とは、蘇我氏の祖であるのだ。


もしそうなら、成務は大和、武内は九州なのか?逆かもしれない。いろいろと考えられる可能性はあるがこれについては後述することにしよう。しかしである。九州に王朝があったとしても、大和にあったにしても崇神から仲哀までの崇神朝全体での各地への討伐説話は凄まじいものがある。南九州から関東まで軍の移場所が王朝のような雰囲気である。どちらか一箇所ということでは単純に納得することはできない。この王朝の動きと性格は後世の「幕府」そのものといった感じである。もしかして、崇神朝は大物主朝廷の幕府であったのかもしれない。いやいやこれは妄想の行きすぎか。


話は変わるが九州王朝といえば、伊都都彦なる人物がいて天之日矛の渡来時に、自分が倭国の王だ他に国王などいないと日矛に言い放ち、自分の側にいる事を命じ、さらに国内をうろつくなと命じたらしい。この時の天皇とされる人物は崇神の息子垂仁であり、彼は四道将軍の北陸方面担当の大彦の娘を皇后とし、この二人の子がヤマトタケルの父である景行天皇である。 九州はかくも独立心が強い。というか大和の政権に対し臣従しているという意識が無かったのかもしれない。戦いを選択できない時だけ従属の姿勢をみせたのかもしれない。このあたり、戦国期の室町幕府と九州の大名との関係に近いのかもしれない。というより、大和の王権を大事な交易相手としてしか認識してなかったのかもしれない。だから、交易の相手としては下にも置かぬが、交易の利益は九州が得るという感じだったのかもしれない。


いずれにしても、垂仁は九州に舐められた存在であったのだろう。突然やってきた日矛に対しても、毅然とした態度とは言い難い態度をとっている。むしろ伊都都彦のほうが大王らしくさえ感じる。日矛は垂仁を気にいったらしいが・・・・・。好きな土地に移って自由にしていいと言われれば当然といえば当然である。日矛は新羅方面との関係を匂わせている存在なので、新羅と崇神朝、九州地域と南韓、という経済圏があり双方が対立していたのかもしれない。


伊都という文字を見ればといえば伊都国がまず思い浮かぶ。魏志倭人伝のアレである。大陸、半島との窓口になったあの国だ。戸数が少ないのにも関わらずこの国の王は偉そうだ。農耕や漁業による利益を当てにした産業経済でないのは明かなような気がする。現代でいうと、株か先物取引といった事業で儲けていたのか?大陸からの珍品・貴品を高値で日本列島で売りさばき、日本列島でしかとれない珍味・珍品を大陸半島に高値で売っていたのか?いずれにせよ、九州王権は地元以外では「地に足のついた支配体制」ではなかったのだろう。


また記紀神話で伊都といえばイザナギの佩いていた剣の名前である。イザナギノミコトとは伊都の武装集団のことか?とにかく伊都国に比定されている三雲遺跡の副葬品の豪華さと幅広さは、2世紀ではダントツに凄いものらしい。成金の墓のようにも感じる。魏の使節が常駐する地域であるとされている伊都国には普通の「クニ」とはまったく違ったニュアンスがある。


最初は魏の後ろ盾を得てつまりは、東アジアにおいて正当とされた倭国と九州と倭人の作った王権である出雲のあいだで列島の覇権が争われ、後に出雲の地位を受け継いだ大和と九州の戦いによって、倭国の覇権は大和朝廷に移ったのか?となると崇神朝というのは、本当の意味での「倭国統一前夜」という位置付けでいいような気がする。続く応神朝で本当の西国統一が成し遂げられたのか?


世界最大の規模を誇る巨大古墳は、九州の富、出雲の富そして瀬戸内海沿岸や関東地方の富まで集約したのが河内王朝と呼ばれる応神朝であったのか?前方後円墳であるあたり思想的には崇神幕府に通じ、経済的には九州王朝に通じているのかもしれない。古代日本を彩る九州の富の権利は応神以後河内に移ってきたのかもしれない。


さて、各地を転戦した崇神幕府の戦費、兵糧はどうやって賄ったのか?騎馬軍団なら、現地調達と言う名の略奪、移動先が本拠地となるかもしれないが、そういう可能性(騎馬軍団渡来説?)も低そうだ。となると通常通りに兵糧を手配してからの移動と考えたほうがいいだろう。その場合、やはり船が重要な輸送手段になるだろう。しかし三輪王朝は成立当初船を持たなかったとされている。船をもたない王が日本列島各地を支配していたとは到底思えない。やはり三輪の崇神王朝は本来、全国政権などではなく三輪地区周辺の王統であったのではないだろうか?



崇神朝の謎 第一章 「四道将軍の謎」

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ここから、「記紀の崇神朝の記述は真実であるという立場」にたって、崇神朝とヤマトタケルの人生をトンデモ解釈を交えながらみていこうと思う。


三輪山は崇神朝が成立するよりもっと前からの倭国の聖地であった。崇神は三輪山の大物主的人物の配下であり、実権のある王ではなかった。当初の王はやはり大物主に連なるものであったのではなかろうか?崇神はその大物主的人物から権力を簒奪した。


倭国大乱を経て、各地の豪族の勢力離合集散は各地に強大な地方国家を生むことになり、それは従来の大物主的支配では押えきれなくなってきていたのかもしれない。その簒奪は、四道から豪族を集め大物主的人物に叛旗を翻させることによって成功した。その主力となったのが三輪山に最も近い吉備播磨の平野を支配していた豪族吉備津彦に相当する勢力と九州以外で半島との直接交易ができる北陸方面を支配していた大彦に相当する勢力であったのではないだろうか?


崇神期の古墳とされる箸墓などからは吉備系土器が大量に発掘されている。これは吉備の人間が大挙して三輪山周辺にやって来たことを示しているのではないだろうか?つまり、吉備はじめ四道に攻め込んだのではなく、四道から大和大物主の本拠三輪山に攻め込んできた。ということではないだろうか?崇神紀11年夏四月二十八日の条には 「四道将軍は、地方の敵を平らげた様子を報告した。この年異俗の人たち(四道将軍?)が大勢やってきて、国内(大和)は安らかとなった」と、記されているのである。もちろん上記書紀からの引用につけた( )内は筆者の推測である。


箸墓に代表される前方後円墳は吉備発だという意見も良く聞く。この形式の古墳を造るため吉備から大勢の工人がやってきたということかもしれない。箸墓と相似型の墓も吉備にはあるらしい。もちろん厳密にはどちらが先かわかりはしないが、箸墓に吉備系土器が大量にあるということは、吉備が先と判断しても良い気がする。


三輪山侵攻への見かえりとして、大彦勢力と吉備津彦勢力は崇神朝に皇后を送り込むことになった。つまり「四道将軍」とは崇神朝各大王の外戚(母体)だったのだ。崇神朝時代も母系社会の妻問婚形式であったのなら次期大王は吉備津彦や大彦ら外戚の養育をうけることになる。これはそれぞれの地方豪族にとって魅力的なことではなかったか?酷く不自然にも感じられる「国譲り」は崇神と四道将軍らが共謀した「(大物・大国)主殺し」を隠すためかもしれない。「主殺し」などをして成立した政権であるなら、「主」となったとき、今度は殺されるという前例を作らないためにも・・・・・・・・・。


高天原から降臨してきた天孫族などというが、いくら最新の武器を持ってこようと、突然他地域からやっとてきた降って湧いたような勢力が政権を握るなど考えられない現象ではないだろうか?文化・文明の遅れた(これさえも定かではない。倭の方が韓半島南部より遅れていたとは限らない)先住民を蹂躙して地元へ帰るのが関の山ではないか?天孫と自称した氏族は南九州にルーツを持ちながら、前政権である出雲王権の流れを汲む大和の大物主政権内部に婚姻により入り込み、やがて大物主政権で重きを成した氏族・集団であったのではないだろうか?という具合に草創期の王権である崇神朝も他の例に漏れずれっきとした武力政権である。


大物主を祭祀した開祖崇神、天照を伊勢に祀った垂仁など信仰に厚い安定した王朝のような気もするが、西へ東へと大変な忙しさである。ここまで戦いつづけなくてはいけないというところに、崇神朝が、正当な手続きを踏んで(外から前政権である出雲系大和王権=大物主王権を武力で倒して)王権を手に入れたのではないことが忍ばれるではないか。


崇神の頃の出雲はというと、振根と飯入根の兄弟が出雲の神宝を管理しているところからみて、この兄弟が実質的支配者か宗教的統率者であったのだろう。兄の振根は神宝を崇神朝に差出すつもりがなかったようなので、大国主的信仰=旧時代的権威の上では崇神朝よりも出雲兄弟の方が上位に位置していたのかもしれない。つまりは、この二人は崇神朝に任命もしくは委任されて出雲大神を祭祀していたわけではないのだろう。こういった関係の中、吉備津彦らによる出雲討伐が行われる。


ナラ盆地から出雲へと出陣したわけではないだろう。出雲と戦うにあたって後背にあたる大和を婚姻によって動けなくした吉備津彦の吉備勢力が出雲を攻めたと見るべきではないだろうか?吉備津彦が出雲を攻めた理由は鉄の争奪戦というところが本当のところではないかと思っている。吉備と出雲は中国山脈という鉄資源の眠る山の表裏に位置している。そして同じく鉄の代名詞といっても良い土地がらである。この両勢力の争いに鉄が絡まないわけはないのだ。


さて、出雲と吉備というと、産鉄地という以外にもう一つの共通点が見出せる。そう四隅突出型墳丘墓である。 吉備の西側の山中に現れる四隅突出型墳丘墓は徐々に吉備西部の山中>出雲と吉備の境>出雲東部>出雲西部>北陸(丹波、但馬、丹後あたりの三丹地域を外しているのも興味深い。まだ見つかってないだけかもしれないが・・・。)という具合に築造地域を広げていっている。これはそのまま後に吉備族と呼ばれる製鉄部族の動きではなかろうか?製鉄関連祭祀という独特な祭祀集団の動きなのかもしれない。


四隅突出型墳丘墓は出雲平野周辺で最盛期を迎える。「倭国大乱」の頃と推定されている。しかし、その反面吉備王国の中心地となるべき吉備平野に四隅突出型墳丘墓は見当たらない。代わりに吉備平野では前方後円墳が発生したのかもしれない。どちらも墳丘墓祭祀という観点からみれば同様のものにも思える。


もうひとつ、傍証となるかどうかわからないが、一つの伝承を紹介しよう。「天目一箇神」である。この神は一つ目で「あよあよ」と鳴く妖怪である(爆)いや、片目が開かなくなるほど熱心に鞴の火を見つめて鍛冶にせいを出した鍛冶神である。もう一つの名を「金屋子神」という。この神は播磨から出雲へと移動した神である。播磨・吉備の境にもともといたという伝承が残されている。この神は死穢を拒まない神であり、死生観という側面からみれば死を穢としてしか見れない後世に人格を植え付けられた神よりも、原始的な神の姿をより残しているのかもしれない。


播磨にはこの神を祀る「天目一神社」があり、それは出雲型墳墓とされる方墳が集中している鴨(現在の加西・加東)の土地にある。加茂である。加茂といえば出雲の加茂、葛城の加茂、そして山城の賀茂である。いずれも出雲系とされる神を祀る土地である。混乱させるかも知れないが、一つ目の神というのは洋の東西を問わず鍛冶を生業とする部族の神だそうだ。興味深い伝承として、「片目のクシイナダヒメ」という伝承が武蔵の国あたりには残されている。これをもってイナダヒメも製鉄神だと言いきることはできないがスサノオ伝説と共に語られるこの神話は、古代関東では「製鉄交易は出雲から」という認識があった事を指しているかもしれない。武蔵の国に多い氷川神社の祭神はスサノオとイナダヒメそして大国主である。そして加茂と同じく出雲系とされている。


出雲>吉備>播磨と流れてきた青銅器とは違い、製鉄民の移動を表すかもしれない金屋子神=天目一箇神は播磨>吉備>出雲と動いている。文化が変質しながらも循環しているのだ。これは吉備・播磨・出雲という土地が葦原中津国という大国主の支配した一つの「クニ」であったことを示しているのではないだろうか?つまりもともと、出雲・吉備・播磨・因幡・三丹などの中国山脈を擁する西国は全部が出雲であり、時代によっては全部が吉備であった。という事ではないだろうか?


1・青銅器祭祀の出雲(紀元前頃?)を攻撃したのは、九州勢力。>青銅器族のヤマト東遷の原因で、「国譲り神話」の原型となった?

2・出雲に上陸した九州勢力と出雲の地に残った青銅器出雲族(2世紀頃?)を攻撃したのは、吉備系製鉄祭祀族(四隅突出型墳丘墓族)この征伐は天之日矛対アシハラシコオの対決によって表現されている?

3・吉備系製鉄祭祀族(四隅突出型墳丘墓族)を攻撃したのはヤマトタケルに象徴される後期崇神朝としての吉備系農耕祭祀族(吉備・播磨王朝)で、この征伐が「ヤマタノオロチ退治」の原型なのかも?

4・出雲を支配した吉備・播磨王朝を出雲から駆逐したのが、神功皇后=応神仁徳朝(九州と大和の王統を統一した河内王朝)で、この征伐が「国譲り」でのアマテラスの動きに投影されているのかもしれない。


日本海を中心とした交易の基地としての出雲、銅産地としての出雲、鉄産地としての出雲、それぞれの時代出雲地方はいろんな顔を持っている。この顔の既得権益者は常に新しく登場してきた王権勢力と戦っていた。そして出雲地方には、常に新羅方面の影がちらついている。これが出雲が何度も征伐された理由ではないだろうか?


中央と呼ばれる新王朝が誕生するたびに出雲は旧体制の既得権益者の拠り所になっていったのかもしれない。それほど出雲地方は古代においては、勢力の保持に恵まれた立地条件を擁していたのかもしれない。


これを書いていてふと思ったのだが、出雲国風土記にヤマタノオロチ退治が記載されていないのは、出雲の南方が吉備の国とされたからかもしれない。オロチ退治の時点では出雲であった斐伊川の上流のまだ奥(南)にあったオロチの居場所は風土記編纂時点で備後あたりに編入されていたからではないのか?何しろ境界線がハッキリしない古代の話である。しかも備後山中にはオロチを切ったという剣(アメノハハキリの剣)が収められているとされる神社もあるのだ。備中(備後)神楽も出雲神楽・石見神楽とほぼ同じでありメインの演目はヤマタノオロチ退治であるのだ。つまり、オロチがいたとされる地域は現在でいうところの出雲でなく備中にあった。備中(備後)国風土記の全文が残されていれば、そこにオロチのことが書かれていたのかもしれない。


おっと!知らない間に妄想世界に入った上に、崇神朝から大きく話がずれてしまった・・・・・。話を戻そう。 吉備津彦の討伐により、ほぼ完全に出雲は吉備の傘下にはいった。それは四隅とそこからの吉備系土器の出土によって推測してもいいのではないだろうか?出雲優位であった吉備・出雲・大和の関係が激変した瞬間ではないだろうか?ついでといってはなんだが、古代の出雲という「土地」がどんな勢力支配をうけていたのかその変遷を整理してみよう。


T青銅器出雲族=大国主のモデル?。紀元頃まで

U四隅突出型墳丘墓勢力、三世紀ころまで

V北九州の古墳勢力(方墳)四世紀ころまで

W吉備王権(前方後方墳)五世紀ころまで

X畿内河内王朝、(前方後円墳)5世紀以降


播磨に残されている伝承も、平野部から徐々に伊和大神の伝承から吉備系氏族の伝承の方が色濃くなっていく。伊和大神の支配は一端瀬戸内、姫路平野まで広がるが、最終的に伊和大神を祀る伊和族は播磨の北西部に追いこめられるのだ。追い込めたのは大和ではなく出雲と同様に吉備であろう。そして、吉備の勢いは仲哀の死後一気に減っていき、播磨にも5世紀から河内王朝の象徴ともいうべき前方後円墳が登場してくるのである。


話を崇神朝に戻そう。 そしていよいよ、歴史上唯一の吉備播磨系皇后を娶る景行天皇が登場する。景行天皇の母は四道将軍外戚説に違わず、四道将軍のひとり丹波道主王を父とする日葉洲媛命である。日葉洲媛命といえば、埴輪の登場が思い起こされる。垂仁の側近で相撲の元祖とされる出雲人野見宿禰が埴輪を作ったのはこの姫の葬儀が最初である。野見宿禰本人の墓が大和でも出雲でもなく播磨にあるのが不思議な感じがするが、彼は吉備津彦により征服された出雲から吉備・播磨の土地に連れてこられた出雲王族の一人だったのかもしれない。力自慢が鳴り響いていたのも、吉備津彦の率いる軍に対し彼が強く抵抗していたことの裏返しなのかもしれない。


大彦は北陸道へ派遣されたことになっている。ということは垂仁は近江方面の勢力を背景にしていたのか?垂仁は前に述べたように日矛に甘い態度で接している。これは北陸道王国(東山道?)の総意ではなかったか?北陸越の国といえば思い起こされるのが、大国主の御子で越の大王タケミナカタであるが、タケミナカタの本拠地は近江・越前あたりではなく越後・諏訪方面である。このタケミナカタ王権が半島交易で栄えた出雲王権の一部であり、これとは別に、またこのタケミナカタ勢力と敵対する形で近江・越前・能登あたりに上陸し勢力を広げた半島東北部系(新羅方面)の交易民勢力と近しいのが大彦に代表される北陸道王国(仮称)ではなかったかと思っている。


大彦もまた、もともとは出雲系ではあったのだろうが、半島勢力と独自交易をはじめることにより、早い段階で大物主・大国主勢力と袂をわかったのであろう。つまり九州>瀬戸内経由ではなく、 新羅>北陸道王国(近江・越前・東山道)>崇神王朝という直接交易ルートの利益代表者の立場にたったのが垂仁であるということだ。九州王の伊都都彦が日矛の動きを制約しようとしたのは南韓・大陸との直接交易ルートを九州の王権が握っており、新羅方面との交易をも山陰北陸を玄関口としていた崇神朝から奪おうしようとしたのでなかろうか?そう考えれば、垂仁が日矛に甘い理由も頷けるのではなかろうか?九州王の伊都都彦が新羅系(????)の日矛の動きを制約しようとしたのは南韓と大陸の交渉のみならず、新羅方面との交易をも大陸や南韓の後押しをうけ手にいれようとした事をさしているのかもしれない。


上の推測があたっているなら、景行の場合は丹波道主王つまりは彦坐王(ひこいますおう)の地元であり出雲と北陸の中間に位置する丹後・丹波・但馬地方の勢力を背景にしていたのか?丹後・丹波・但馬地方といえば京都の北部から因幡あたりまでの山陰地方を指し、日矛の落ちつき先でもある出石を含む地域である。またもや日矛である。崇神朝2代の王にわたって日矛は何の影響を与えたのか?新羅から交易を求めてやってきた渡来人というだけなら、そうも珍しいことではあるまい。しかし名前どころか素性まではっきりしている。これは怪しい・・・・・。しかもである。彼の子孫は後に応神朝の祖といってもいい神功皇后を輩出するのである。さらにつけくわえれば、神功皇后の母系の祖は日矛であるが、父系の祖は彦坐王なのである。いずれも父母の系統がどちらも丹後・丹波・但馬を根拠地とする勢力である。


丹後・丹波・但馬とは景行、そして後の応神の大きなスポンサーだったのではなかろうか?スポンサーになるためには、何らかの利益が必要だ。その利益とは・・・・・・。言うまでもないだろう。キーワードは北九州である。丹後・丹波・但馬の勢力が中央王権の影にちらつくとき、それは「九州攻め」があるときなのである。丹後・丹波・但馬は、出雲や北九州、そして越の国を差し置いて半島交易権の独占を狙っていたのではないだろうか?その動きは、半島内部での丹後・丹波・但馬と縁のある新羅方面と北九州と縁のある南韓方面の勢力の対決をもあらわしているのではなかろうか?仲哀紀に登場し、筑前の伊都にて熊襲征伐にやってきた仲哀・神功一行を八尺瓊の勾玉と白銅(ますみ)の鏡と十掬剣でもって出迎えた五十跡手も日矛の子孫だと名乗っている。これなども神功皇后と同じ祖を持つという点をアピールしたかったのであろう。


さらに推測を挟めば、五十跡手は仲哀一行の先陣として筑紫に乗り込んでいたのではなかろうか?敵地にいきなり王と皇后が自ら乗り込むはずはない。強力な配下で、しかも裏切る心配のない者を先んじて敵地に送るのが当然の戦略のように思える。つまり五十跡手は先遣隊の大将であり、熊襲および九州王への押さえとして伊都を先攻していたと考えるべきではなかろうか?後に神功と武内宿禰が応神を擁して大和へと攻め上るときも見送りをしている。そしてその功績により子孫が伊都の県主の座につくのである。


神功皇后の三韓征伐も、三韓との交易の全てを日矛の末裔たる神功とその代理人ともいうべき五十跡手に委ねたということを指しているのかもしれない。交易の窓口の一本化である。これによって得られる利益は、出雲、北陸、三丹と窓口が分裂していた頃に比べると莫大なものであったのではないかと思う。これらの交易による利益は全て、来るべき河内王朝の誕生に当てられたと見るべきではないだろうか?


話がまたまた飛んでしまった・・・・・・・。四道将軍とは崇神朝の外戚であり、その勢力基盤の四道の王を指しているのだ。この四道の地域は、彼らの目の上のたんこぶである大和大物主と共通の敵九州王権という旧勢力があってこそ結びついたのであり、それがなくなることは、同時に四道が連携する意味も半減させるのである。いずれにしても四道将軍は新しい時代の扉を開いたのである。


崇神朝の謎 第二章 「景行天皇の謎」

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さて、今回の本題は景行天皇である。 まず播磨風土記の景行天皇の巡幸についての説話を掻い摘んで紹介しようと思う。以下【】内。


【景行天皇が摂津播磨のあたりに狩りに出たとき、美しい女性と出会い一目ぼれしてしまいました。妻問い(プロポーズ)をするために『三種の神器』を身にまとって正装し、『仲人の息長命』とともに都を旅立ちました。道中、摂津の高瀬の川の渡し場で渡し守の小玉に船を出すように命じると、「私は天皇の召使ではない」 と言われ断られてしまいます。「そこをなんとかお頼みします」 と景行天皇は下手に出て、渡し賃として豪華な髪飾りを小玉に与えました。すると、小玉は納得し、景行天皇一行はやっとのことで川を渡ることができました。


その美しい女性の名は播磨稲日大郎姫。 吉備津彦の娘ともキビヒメと和邇氏の間の子とも伝えられています。景行天皇一行が播磨稲日大郎姫の暮らす加古川の東岸(現在の稲美町)にやって来ると、それを知った播磨稲日大郎姫は「私のようなものが、天皇の妻になるなんて恐れ多い」と、播磨灘に浮かぶ小島『南毘都麻(なびつま)』というところ隠れてしまいます。


天皇が播磨稲日大郎姫を探して賀古の松原というところに辿りつくと、一匹の白い犬が南毘都麻の方角をむいて吼えていました。近くに居た者に 「この犬は誰の飼い犬か?」と天皇が聞くと播磨稲日大郎姫の飼い犬だということが解りました。それを聞いた天皇は播磨稲日大郎姫が南毘都麻の小島に隠れていることを知り、「この島に隠し(なびし)愛しい人よ」 と呼びかけ船を出して南毘都麻の小島に播磨稲日大郎姫を迎えにいくと、今度は景行天皇の妻問いを受け入れたのか、播磨稲日大郎姫と景行天皇は仲良く二艘の船を並べ一緒に陸に戻り、賀古の六継の里(加古川流域の里)というところでめでたく結ばれることになりました。


その後、二人は同じく加古川流域の高宮というところを新居に選び、酒蔵や倉庫を築いて暮らしますが、しばらくして城宮(きのみや)というところに移り無事正式な婚儀を結ぶことになります。】


以上の説話は播磨国風土記の賀古の郡に記されているものを略したものである。まず、この説話で注意しなくてはいけない点は、播磨稲日大郎姫と景行天皇の婚姻が妻問い婚の形式で行われていることだ。どういうことかというと、系譜の上では嫁取りであるが、『三種の神器を持参』した上、仲人まで立てたということは、実勢は婿入りであるということと実は同じなのである。しかも通常の近場の通い婚とも違って、二人は酒蔵を作るくらい(新しい酒を醸すには1年はかかりますよね?)なので少なくとも数年間加古川近辺で暮らしているということが分かる。つまりは一時的とはいえ都は播磨にあったといえるのではないかと思われてくるのだ?


そして仲人の息長命といえば、北陸道の入り口近江をバッグにつけた神功皇后の出身氏族でもある息長氏を連想させられる。丹後・丹波・但馬の影響下にあったと思われる景行天皇に北陸道の近江一帯に勢力を持った息長氏の関係者(?)が同行して婚姻を結ぶということは、吉備氏出身の播磨稲日大郎姫と景行の結婚は吉備・播磨勢力と、大和・丹後・丹波・但馬・北陸道勢力の実質的結合をあらわしているのではないか?


もしそうなら、ここで吉備津彦によって開かれた地方勢力であった吉備・播磨王権は実質的に全国王権になったとも考えられると思う。


景行天皇一行が摂津で渡し守ごとき(とはいっても川は国境線の代わりでもあり、渡し守とは後世の関所の代表者のような者、つまり国境警備隊のようなものだったのかもしれませんが)に無礼な態度を取られているところを見ると、この渡し守は大和の王権所属の者ではなかったことが伺えられる。摂津の渡し守が吉備・播磨王権側の人間だったのだとすると大和にとって喉元にあたる摂津まで吉備の影響下にあったということなのかも知れない。しかも渡し守のとった態度は、大和の大王を大した事がないと思ってないような振るまいである。


大和と吉備の王権を比べた場合、景行の即位時点では吉備の方が強大な勢力を誇っていたのかも知れないと思っている。それは、配下である(?)息長命の前で、渡し守にこれだけ無礼な態度(古代においてこれが無礼かどうかは疑問の残ることですが)を取られても尚、播磨稲日大郎姫を必要としたのは、吉備王権の政治的取り込みが景行天皇にとって何より必要なことであったことを表していると思われるからである。


吉備播磨王権と同化した景行天皇時代の崇神朝は、北陸道と後に畿内と呼ばれるほぼ全域に中国地方ほぼ全域を加えた巨大王権へと成長していくことになる。この巨大な王権の経済力と軍事力を背景として初めて、当時の崇神朝にとって目の上のたんこぶであった北九州への本格的侵攻と、出雲>大和を追われてもなお崇神朝に抵抗を続ける銅鐸祭祀出雲族の末裔たちの移動先であった東海以東の諸国への侵略が可能になったのではないだろうか?そのため「塞ノ神」として天照大神を伊勢の地に置いたのではないか?


垂仁時代に、天照の御魂が倭姫とともに伊勢に遷されている。これは、伊勢は大和を追われ東海地方に移住した銅鐸出雲族と崇神朝の境界線を示しているのではないかと思っている。


「三遠式銅鐸」という一般に「見る銅鐸」として有名な巨大化・美麗化した銅鐸がある。この巨大化と美麗化も崇神朝によって迫害された出雲族の故地への思いが込められてのことかも知れないと思っている。この銅鐸がその名の示すとおり三州や遠州でよく見られる形式の銅鐸であるのも、伊勢・尾張の辺りが畿内王権と東海以東勢力の境であり、伊勢湾が重要な交易基地であったことを表しているような気もするのだ(かなりいい加減な感傷です)。


「神風の伊勢」という言葉がある。(kituno_iさんありがとう!すっかり「ど忘れ」していました。神風は伊勢に掛かる枕詞です)伊勢の国名の由来は「伊勢津彦」という神の名によるものなのだ。この神は大国主の御子として、その名を伊勢国風土記と播磨国風土記に止めている(Yahooの大国主トピック参照してくださいnunakawahimeさんよりの情報です)。同じく大国主の御子として有名なタケミナカタの鎮座する信濃の国では風の神として今尚神事が連綿と続いている神である。(一部ではタケミナカタの異名とも???)そして、伊勢といえば、ヤマトタケルの東国征伐の出発地でもあり到着地でもある。


これらのことから、伊勢は銅鐸出雲族と崇神朝の国境地帯であったこと、そしてそこには天照に象徴される崇神朝の軍隊が配置されていたことを推測してもいいのではないだろうか?


景行天皇は、播磨稲日大郎姫との間に二人の男子を得る。双子である。兄の名はオオウスといい、後美濃に入ることになる。弟の名はコウス、長じての名をヤマトオグナ、後にヤマトタケル(日本武尊)と名乗ることになる古代史上最大にして最強の英雄である。彼は播磨で生を受けたのである。


播磨風土記によれば、播磨稲日大郎姫はのちに播磨の城宮の地で生涯を終えている。「年を経て」とあるので長生きはしたようだ。とすると熊襲征伐など出征続きの景行天皇のもとで養育されたとは考え難い。母である播磨稲日大郎姫のもとで青年期を迎えたと考えたほうがいいのではないだろうか?吉備氏と崇神朝の血を引き播磨で育ったということは、ヤマトタケルの背後には必ず吉備王権の存在があったと考えていいだろう。四道将軍の中でも抜群の働きをした吉備津彦の後裔でもある。


北陸道、近江越前あたりを本拠とした大彦をバックにした垂仁天皇、丹波、丹後、但馬を本拠とした丹波道主王ちぬをバックとした景行天皇、吉備・播磨を本拠とした吉備氏をバックにしたヤマトタケル。このように見てみると四道将軍とは崇神朝の代ごとの外戚勢力であるといえるのではないだろうか?


播磨稲日大郎姫は崇神朝においては景行天皇の皇后、吉備王権にとっては時代の吉備王となるはずのヤマトタケルの母だったのである。その播磨稲日大郎姫を差し置いて、景行天皇は美濃から新たに皇后を迎える。今度は播磨稲日大郎姫の時のような妻問いではない。新皇后の名がそれを如実にあらわしている。八坂「入」姫その人である。


西日本の大部分に影響を及ぼすこととなった崇神朝にとって美濃は恐れる対象でなかったことを、この婚姻は表している。そしてこの婚姻に大きく働いたのは四道将軍最後の一人で東海道に派遣されたことになっている武渟川別その人である。彼について注意したいのは彼は出雲征伐にも吉備津彦とともに参戦していることである。東海に派遣されたのにも関わらずそれがどうして可能だったか?それは彼が他の三将軍よりも比較的自由な立場にたっていたからだ。つまり彼だけ大彦らと違い各地の現役の「王」ではなかったということである。彼は大彦の息子であり、崇神の皇后であるミマキ姫の兄弟である。


武渟川別とミマキ姫、大彦、大物主、崇神、出雲族の関係をトンデモ説で解釈してみよう。以下


大彦の一族はおそらく大物主・大国主に連なる出雲族系の一族だったと思っている。なぜなら崇神は大彦の娘に婿入りして大和の大王になっているからだ。ミマキ姫が血統的に三輪山の大物主祭祀を受け継いでも不自然ではない立場にあったからではないだろうか?つまり大物主の傍流である娘と大物主王権下で頭角をあらわしてきた九州系で実力のあったミマキイリヒコであったからこそ、周囲も大和王権の簒奪を黙認せざるを得なかったのではないかと思っている。大彦とその息子・武渟川別が出雲系だったからこそ東海地方へ移動した青銅器出雲族との対応および出雲族の故地出雲への侵攻を担当したのではないだろうか?さらにトンデモを飛躍させてみよう。


崇神天皇時点の出雲は、北九州王権による支配を受けていた可能性が高いと思っている。その北九州王への朝貢のための振根の筑紫入りであり、武渟川別の出陣は出雲に残っている同胞を九州王の支配から取り戻すための行動でもあったのではないのか?おそらく武渟川別と崇神の支配地域である大和や東海への移住促進も行ったのではないか?それが三遠式銅鐸の登場に作用したのかもしれない。


崇神が都とした纒向遺跡から吉備系の土器と共に尾張系の土器が発見されるのは、尾張系の土器とはもともと大和にいた出雲族が使っていた土器で、同じ土器を東海地方へ移動した後も作製使用したということではないだろうか?うん、それだと吉備と尾張が逆の場合も在りうるか・・・。???????


さて、そろそろトンデモ世界から戻ろう。 景行天皇と八坂入媛の間には数多くの御子ができる。そして彼・彼女たちは各地の豪族と婚姻を結び、崇神朝そしてそれに続く河内王朝の王権下で各地方に階層を形作っていくのである。しかしそれらの婚姻は崇神朝の武威が知れ渡ってはじめて相手が受け入れるという類のものである。そのためか景行天皇は熊襲征伐を主として各地を転戦する。景行天皇自ら熊襲征伐のため九州に赴いたときのことである。神夏磯媛をはじめとする九州各地の熊襲部族を従えたり、討ち果たしたりした後、三毛の国で倒れたクヌギ巨木、それも九百七十丈もの長さの巨木を発見することになる。


倒れた巨木は何を意味するのか? 巨木は北九州のそれまでの王権の境界線を象徴しているのではないだろうか?以前スサノオの御子神のイソタケルが木を植えて全国を旅したことを国境を定めてまわったのではないかと推測したことがある。巨木はそれだけ大きな勢力同士の境を指し示すものではないだろうか?景行天皇による熊襲征伐によって北部九州を従えたということを象徴する挿話のような気がする。


これは丹後・丹波・但馬の王権や北陸道の王権の悲願であった北九州の王権の既得権益である大陸および南韓との交易権の奪取に他ならないのではないだろうか?崇神朝が西日本各地の王権を統合し結成された最大の目標が達成された瞬間なのである。ということは、崇神朝の初期の役目は、この時点でほぼ完了したのである。


ここから先は残党の掃討と、崇神朝内での勢力争いとその粛清が主になる。その中で最も早く次ぎの動きを起こしたのは武内宿禰であった。彼は北陸道を巡察するという名目を得て、北陸道および丹後・丹波・但馬地域そして関東へ繋ぎを取り、崇神朝の皇統(この時点ではヤマトタケルを輩出している吉備・播磨王権である)の弱体化を狙って動きだしたのである。


次期大王になるはずのヤマトタケルは彼と彼の策謀にのったものたちの動きにより、崇神朝内の自分に刃向かう恐れのある勢力の粛清をすすめられなくなったのだ。一見大躍進にも見えるヤマトタケルの各地への出兵は吉備・播磨王権の経済的な弱体化を推し進めることになるのである。


ヤマトタケルは、播磨の地で生まれた。相当な難産だったと、地元の日岡神社の伝承は語っている。あまりの難産に、播磨稲日大郎姫や景行のお付きの者たちは、日岡の神に子供が無事誕生することを願い、物忌み(○○断ち)をして願をかけたということだ。飲食を最小限にし、穢れを避けるため出歩くのを極力控えたりしたそうだ。この物忌みの風習は長く日岡に残っていたということだ。例えば出歩くときに物音を立てないように戸口に藁をかませて、外にでたことを日岡の神に気付かれないようにしてみたり、調理に使う刃物を使わないようにしまったりして物忌みに勤めたらしい。


通常、御正月などにそういった物忌み(火をつかわないなど)をする場合が多いが、日岡ではタケルの誕生に因むことだと伝えられていたらしい。しかし「ヤマトタケル(コウス・オグナも)」という名は「播磨国風土記」にはない。ただ景行天皇の御子をこの地で産み落とした、とだけ記されているのだ。もちろんその子がどうなったかは風土記は語らない。なんとも歯切れの悪い顛末である。


蛇足になるかもしれないが、播磨稲日大郎姫の最後の場面を紹介しよう。


【年を経て、播磨稲日大郎姫は城宮にて崩御された。墳墓を日岡に造成し、そこへご遺体を迎えようと、遺体を運ぶ一行が加古川を渡ろうとしたとき、「大きなつむじ風」が遺体を川の中へと吹き飛ばしてしまった。遺体はいくら探しても見つからない。僅かに彼女が使っていた領布と櫛箱が見つかっただけであった。仕方がないので、日岡の墓には領布と櫛箱を収めるた。だから播磨稲日大郎姫の墓は別名「ヒレ墓」という。播磨稲日大郎姫の死を大変悲しんだ景行天皇は、遺体が消えた加古川で取れた魚をたべないと宣言された。】


大きなつむじ風に遺体が飛ばされて消えてしまったというところに風葬に繋がるようなニュアンスも感じられる。


景行天皇は播磨稲日大郎姫の遺体を食べてしまったであろう加古川の魚を食べないと宣言しているのだ。二人の恋愛の深さは政略を越えていたのかもしれない。その深い愛の結晶がヤマトタケル兄弟なのだ。後にオオウスが美濃入りしたとき父である景行天皇の見初めた女性を横取りしたという話もあるが、天皇は罰を与えるのを避けている。播磨稲日大郎姫の息子だったからかもしれない。


伝ヒレ墓は現在も日岡の地に残っているらしい。ちなみに前方後円墳だそうだがホントかどうかは謎である。日岡一帯は古墳密集地であり、漢代式青銅鏡である「三角縁三神ニ獣鏡」(魏代以降の三角縁神獣鏡ではない)もこの一帯から出土している。相当大きな勢力があったらしく、中規模古墳遺跡がかなりあったらしいが、第二次世界大戦での空爆にあい、ほとんどが破壊されてしまったらしい。


播磨は、古代において吉備地方・山陰地方・四国瀬戸内と畿内王権の狭間にあり、交通の要衝であり、畿内王権の経済基盤でもあった。第二次世界大戦の空爆がなければもっと面白いものが発掘されていたかもしれないと思うと、少し残念である。もちろん歴史上、山陽道という列島の動脈の一つの入り口にあたる播磨地方は何度も港の造成など大規模土木工事が施されているため、古代の姿が見え難いのも実情である。中世以降の工事による地形変化は解っているだけでも結構広く大きな範囲で行われている。


さて、ヤマトタケルの話に入ろう。まずは古事記から探ってみよう。古事記に記されたヤマトタケルの人生を一文字で言い表すなら「哀」ではないだろうか?双子の兄を殺してしまうことにより、父である景行天皇に恐れられ西国征伐に狩り出されることとなる。兄を殺すことになった事件は景行がタケルに兄を呼びに行かせたことに起因している。有名な話ではあるが簡単に記してみよう。


【朝夕の食膳にでてこないオオウスに怒った景行天皇は、弟のタケルに兄であるオオウスを呼びに行かせ、食膳にでてくるように教え諭しなさいと命じた。その日から五日たってもオオウスが食膳にでてこないのを怪しんだ景行天皇は、タケルに対してまだ言いつけを実行していないのではないか?と不審に思い、タケルにそれを問いただした。タケルは兄を待ち伏せして捕まえ体を引き千切って捨ててしまったことを告白した。その話を聞いた景行天皇はタケルの荒っぽい性格を恐れて西国征伐に向かわせることにした】


といった記述が、古事記では繰り広げられている。なんと哀しい家族の話だろうか?母である播磨稲日大郎姫を失ったためか景行一家は家族の様相を全く呈していない。肉親への愛情など全く感じさせない所業である。タケルだけに言えることではない。景行は自らオオウスに教え諭すことを放棄しているし、オオウスが食膳に出てこないことは現代風にいえば部屋への引きこもりといった感じがする。そしてとどめはタケルの残酷きわまりない対応であり、それにたいして景行はまたもや教え諭すことをせずにタケルを西国に追いやっているのだ。


何故だろう。大王の一家を説明する記述にしてはむごすぎる内容なのだ。ひとつ注意したい場面がこの説話には含まれている。「食膳を共にしない」という場面である。 食膳を共にすることは、外交的・政治的には、服属儀礼の一環なのである。大国主が国譲りをしたときも、天津神一行を鱸の料理でもてなしている。いわゆる天の饗(あまのまぐない)である。もちろん景行一家が本当に家族なら食膳饗応=服属儀礼という当て込みはできない。


しかしである。今まで見てきたように、タケル兄弟と景行はお互いが家族ではあってもそれぞれ違う勢力の代表者であると考えてみればどうだろう?タケル兄弟は吉備王権の代表者であり、景行天皇は、崇神朝(丹後・丹波・但馬・北陸道・大和盆地)の代表者であるということだ。双子の兄弟の一方(オオウス)は、景行に服属しないという意味で食膳に参加しなかったのであり、タケルは代表権・決定権のない吉備・播磨王権からの客であるとみれば、この家族の関係が説明できるのではないだろうか?タケルだけが参加したということで、吉備・播磨王権が崇神朝に敵対しない旨を表現し、一方で兄の不参加は崇神朝に服属したわけではなく、あくまで同等の同盟関係であることを主張しているのではないだろうか?


つまりタケルがオオウスを殺したというのは詐術であり、本当はオオウス自体が景行の宮である大和磯城纒向日代宮にやってこなかった事を指しているのではないだろうか?吉備播磨王権にとっての王は兄オオウスであり、タケルは崇神朝に差出された人質だったのかもしれない。その性情が荒く崇神朝ではもてあますことを観越しての吉備播磨王権側の罠だったのかもしれない。崇神朝というひとつの政権に参画することは認めても崇神朝というより景行の出身母体である丹後・丹波・但馬の下風に着くということを吉備・播磨王権側は躊躇していたのかもしれない。


事実、オオウスはタケルの出征後に再び歴史に登場する。美濃の媛を巡り父景行と争っているのだ。古事記では順序的に美濃からの嫁取りの後にオオウス殺しの事件が記されているが熊襲征伐に旅だったタケルの年齢は日本書紀によると景行27年=16歳 であり、双子のオオウスも同年のはずである。とするとそれより以前に行われたはずの美濃の嫁取りの段階ではまだまだ子供とっいてもいい年齢であり、父の嫁になるはずの女性を横取りするなど不可能ではなかったか?書紀の年代によれば、播磨稲日大郎姫を娶ったのが、景行2年、美濃の嫁取り事件は景行4年である。せいぜい2歳か3歳である。また次ぎに記載されている熊襲征伐の年月(景行12年)の直前に美濃事件が起こったとしても、10歳程度である。例え10歳での嫁取りが可能だったとしてもそれがオオウスの意思によって行われたとは思いがたい。吉備王権と崇神朝の政治的対立を美濃の嫁取り事件によって象徴しているだけなのではないだろうか?


タケルは景行が7年掛かった熊襲征伐をたったの1年で完了している。瀬戸内を眼前に控え、作物も豊富に取れる吉備播磨王権の後押しがあって初めて可能な戦争ではなかったか?景行自身による征伐は、播磨稲日大郎姫を娶り、表面的には合併したとはいえ背後に吉備王権という「獅子身中の虫」を意識しての熊襲征伐だった。しかしヤマトタケルはその吉備播磨王権の出身であるが故に吉備王権の反乱を考えなくていいどころか、吉備王権が主体となっての熊襲征伐だったのではないだろうか?だからこそ、たった1年で熊襲を討ちとることができたのではないだろうか?


吉備の軍勢主体にオオウスと縁の深い美濃の弓名人弟彦公とその配下の尾張系氏族の混成軍であったヤマトタケル率いる一軍こそ、吉備津彦以来の吉備播磨王権中の最大最強の軍隊であり、それは崇神朝内部で考えても最強・最大の軍勢だったのではないだろうか?たった1年の強行軍で筑紫の島から取って帰したヤマトタケルが征西と帰朝を急いだ背景には、自分たち最強軍が留守の間に吉備・播磨王権が崇神朝によって壟断され、瓦解するのを恐れたからではないだろうか?


ヤマトタケルに熊襲討伐をさせたのも、吉備播磨の経済力を疲弊させようとの魂胆があってのものではなかったか?タケルの率いた熊襲討伐軍は吉備・播磨に美濃・尾張によって形成されている。農作物の育てやすい広大な平野の経済力を背景にした軍である。強くて当然の軍隊ではなかったか?


九州から7年かけて交易権を奪った景行の崇神朝にとって、倭国統一王朝成立へ向かっての次なる一番の邪魔者は、吉備播磨平野と濃尾平野の経済力を支配する両地方に割拠する王たちであったことは想像に堅くない。崇神朝を磐石にするためには、外敵の掃討は勿論のこと、内部の粛清が大事なのである。偉い王様があちこちにいることは、とても不都合なことであり、その最大派閥が吉備播磨平野と濃尾平野の経済力を擁する王権だったのではないだろうか?まさに、「狡兎(熊襲・土ぐも)死して走狗(ヤマトタケル・吉備播磨王権)煮らるる」である。


荒っぽい性格だったはずのタケルがこうもおとなしく景行天皇の命に従い西へ東へと討伐軍を起こし崇神朝のために尽しした理由は、自らが景行の次ぎの崇神朝の大王になることが当然だと認識していたからに他ならない。話しはそれるが、古事記の中のヤマトタケルは荒っぽく残酷な性格から、何時の間にか英雄になってしまっている。まるでスサノオの如きトリックスターである。スサノオとヤマトタケルの共通点は他にもあるが、それは後述することにしたい。


実際、景行までの崇神朝の大王は各地方王権の王族の女を妻とした崇神朝の前大王の息子が次ぎの大王となっているのである。今度は吉備・播磨の番、つまりヤマトタケルもしくはオオウスいずれかが崇神朝4代目の大王につくはずであったのだ。


古事記に記載されて、書紀には記載されてない記述として「出雲タケル征伐」がある。

【やつめさす いずもたけるが はけるたち つづらさはまき さみなしにあはれ】

この歌は、出雲タケルを哀れんでいるが、実はヤマトタケルの最後を示唆しているのではないかとも思う。まさに哀れである。何故に私がそう思うかというと、この歌そっくりな歌が、書紀では崇神時代に出雲神宝を管理していた振根・飯入根兄弟の戦いとして歌われているのである。以下がそれである。

【やくもたつ いずもたけるが はけるたち つづらさはまき さみなしにあはれ】

どうだろう?全く同じと言ってよい歌ではないだろうか?要は、両方とも「だましうち」なのである。書紀では出雲兄弟が神宝を巡った争いの結果に歌われている歌である。ヤマトタケルにも兄弟がたくさんいる。書紀の記述によれば景行の血を引くヤマトタケルの兄弟はなんと80人である。80人の兄弟といえば、大国主の兄弟も80人である。この人数の符合は何を意味しているのだろうか??  


崇神朝の謎 第三章 「ヤマトタケルの謎」

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八十神(大国主神話)、八十梟帥(神武東征)、八十人兄弟(景行紀)、いずれも王になるための障害になる敵の数である。「八」というのはなんだか嘘っぽいのである。昔から「嘘のさんぱち」といったのは言い得て妙なのである。ここでせっかく話が出たので出雲神話の大国主とヤマトタケルの類似性に言及してみよう。


まず、先にあげた八十神と八十王である。大国主とヤマトタケルにとってはどちらも兄弟にあたり、いわば王権相続のライバルである。大国主八十神を退けることに成功し、出雲の王へとの道を1歩進めることができた。一方タケルも皇太子として意識された3人の「日嗣の皇子」(成務・五百城入彦・ヤマトタケル)のうちに入っているので、勝ち残ったといえるだろう。両者に共通する王権相続での戦いでの最大の難敵はなんといっても「猪(記)・鹿(紀)」であろう。どちらも「シシ」と読む。古事記では両者とも「猪」により生命の危険に陥らされている。大国主には「赤い猪」、ヤマトタケルには「白い猪」である。といっても大国主の場合は焼けた石が赤い猪の正体であって厳密にいうと八十神の手によるものであり、タケルの場合は山の神の化身としての白い猪である。


いやタケルの場合も山ノ神というのは実のところライバルである兄弟達の策謀を指していたのかもしれない。その危機を救ったのは、大国主は母神であり、ヤマトタケルは白い犬である。ここで播磨国風土記を思い出してほしい。タケルの母播磨稲日大郎姫の飼い犬も白い犬であった。ここでいう白い犬とは播磨稲日大郎姫のことではなかったか?つまりは母である播磨稲日大郎姫によって象徴される吉備王権がタケルを危機から救い出したのであり、これは古代王権の政治力・経済力が母系によって保証されることを示しているのではないか?つまり、四道将軍=崇神朝外戚説に通じるのである。


日嗣の皇子であり景行の名代として東征したタケルは東国では崇神朝の大王の座に一番近い位置におり、東征の直前に訪れた伊勢の地でもしかしたら即位していたのかもしれない。ヤマトヒメにより「草薙の剣」を授けられているのだから・・・・・。白い犬はもう一箇所でてくるが、これについては後述したい。そういえば、このヤマトヒメとの場面以降の展開は黄泉ノ国でスサノオと対面した時、大国主を助けたスセリヒメの場面にも通じているような気もする。まぁ、私の思い込みにしかすぎないのだが、もしそうなら王になるための最後の呪術的試練をタケルは受けていたと解釈することもできるのではないか?


皇祖神女神天照大神が持統天皇をモデルに想定された新しい神であるとの立場で考えた上で、タケルの伊勢訪問についてさらなるトンデモ飛躍をさせてもらえば、この時タケルが祈りヤマトヒメが傅いていた神は皇祖神女神天照大神ではない。この時点での伊勢の大神といえば、大国主の御子神「伊勢津彦命」ではなかったか?そう考えれば、出雲に縁(えにし)を持つ草薙の剣に値する伝世の神剣が伊勢にあってもおかしくはない。伊勢にもまた大国主の影響が観られるのであり、伊勢(日昇)〜出雲(日没)ラインという呪術線は何も天皇家によって始められたものではないということだ。天皇神話成立以前から両地区は倭人の太陽祭祀にとって神聖な場所であったにすぎないのである。強大な権力をもつようになった天皇家および朝廷は、古から続く祭祀を天皇祭祀という形体で覆い隠したのではないだろうか?


【実在した景行天皇と吉備播磨王権を繋ぐ皇子コウスを神格化したのが記紀神話におけるヤマトタケル像であり、それを更に神格化したものが俗に出雲神話といわれる記紀のスサノオ・大国主神話なのではないか?二重に神格化されたスサノオ・大国主像だからこそあそこまで巨大な神格にまで成長することができたのではないか?】


と、ふと思うことがある。つまり記紀の出雲神話の原型がヤマトタケル神話に求められるのではないだろうか?ということだ。出雲神話からタケル神話を導き出したのではなく、タケル神話に符合するよう出雲神話を想定せざるを得なかったのではないたろうか?だからこそ、出雲のイメージは巨大化していったのである。古代出雲王国の正体は天皇神話である記紀神話の向うにはなく土俗神話をより多く含む出雲国風土記・播磨国風土記・風土記逸文などの中に残された神話の向こうにあるような気がしてならない。ヤマトタケルの死に方を除けば、景行天皇とヤマトタケル伝承の方が、王朝の初期成立神話としては、天皇家の他に倭国の正当な主権者らしき大国主を想定している「国譲り」よりかは妥当な気がする。何しろ二人の熊襲と蝦夷に対しての征伐話は倭国全体へヤマトの王権が波及していく様をあらわしているように思えてならないのだ。


もちろん私の主観でしかないので、意味のない解釈でしかないのかもしれない。いずれにせよ、天皇家の本当の意味でのエポックメーキングは神武東征神話ではなく、崇神朝から応神朝そして継体朝へとの移り変わりの中に隠されているのではないか?少なくとも、崇神朝において「大神」といえば大国主もしくは出雲系の神であり天孫神ではないような気がする。つまり天孫神・天津神はまだ崇神朝の時点では「神」ではなく天皇家の祖先でしかなかったのだ。


さて、再びタケルの行動を追うことにしよう。出雲梟帥を討ち、熊襲梟帥を討ち(この後、ヤマトタケルと名乗ることとなる)吉備に戻り征西を終了させた。最後にタケルが倒したのは「吉備の穴渡りの神」「難波の柏渡りの神」である。この二柱の悪神は、海や川を渡ることについて関わりのある神であることを示唆している。これを倒すということは、吉備の海・摂津の川によって別けられていた吉備播磨王権とヤマト崇神朝の完全な同化を意味しているのではないだろうか?海上の塞の神のような雰囲気のある吉備穴渡りの神と難波柏渡りの神がいなくなったことは、九州から畿内へと交易品を中継する瀬戸内海人族の権益を取り上げたということなのかもしれない。つまり先に述べたように九州王権の既得権益であったの大陸・半島との交易権を摂津河内に移したことを示しているのではないだろうか?これはつまり畿内に新しい権益が産まれたことを意味するのである。このことが後の河内応神朝成立の経済的根本になるのかもしれない。


さて、いよいよ東征が始まるのだが、内容はともかく東征の時期が古事記と日本書紀では大いに食い違っている。古事記と日本書紀では、そもそも征西の時期からして違うのかもしれないが、古事記に細かい年代が記されてないのではかりようがない。書紀では東征の役目は最初タケルの兄であるオオウスに与えられたがオオウスが、それを恐れて逃げてしまったのでタケルに再度の出陣を命じたことになっている。これは、怪しい。 そんな情けない人物でありながら、オオウスは美濃の国の政事を景行より任じられているのだ。


嫁とりを邪魔された挙句、命に服さないオオウスこそ討伐されるべきであるがそんなことは記紀を通じてどこにも書かれていない。何故か?タケルの東征時期は古事記では、征西からの帰還後すぐであり、書紀では景行40年となっている。書紀では実に12年後である。書紀に従った方が妥当なような気もする。(その場合、タケルの年齢は29歳、壮年である。)これまた怪しいが、答えは簡単である。タケルが戻って12年の間にオオウスは東征に出発していたのだ。だからこそ美濃に居たのではないだろうか?そしてオオウスは、美濃で独自の勢力を広げていったのだ。このオオウスの東征(美濃入り)はおそらく大和崇神朝の都合とは関係なく、吉備王権の都合で美濃に入ったに違いない。だからこそオオウスの家系は美濃にて広がっていったのではないだろうか??


吉備王権の都合とは、タケルの征西に先だって行われた武内宿禰の東国巡察によって崇神朝および西国に報告された「日高見国」の存在が影響しているのではないだろうか?戦国時代風にいえば、「東国切取次第」の状態が演出されたのではないかと思う。吉備王権はまず征西することを余儀なくされている。これは出遅れといってもいい。それを取り戻すためにオオウスは動いていたのではないか?しかし、美濃に留まらざるを得なくなったのかもしれない。何故か? 美濃の後背には飛騨がある。ここは関東以北に想定されている日高見ではなく、もうひとつの日高見であったのではなかろうか?


飛騨には興味深い伝承がのこされている。そう両面宿儺伝承である。両面宿儺は、神武天皇に天皇の位を授けた神である一方、書紀では仁徳紀にあらわれる悪神である。両面宿儺について詳しくは私のページの「私説!古代史」をご覧になっていただきたい。飛騨は鉄資源、銅資源の宝庫でもある。ここを攻略するため、オオウスは美濃に留まっていたのではないかと思う。吉備王権は「真がね吹く」の枕詞が示す通り、製鉄民権力の側面も持っている。この地に眠る鉄資源を吉備は見逃さなかったのではないだろうか?


ヤマトタケル・大伴武日コンビが諏訪大神=タケミナカタ=イヅモタケル=山の神のいる精神的、軍事的本拠地である信濃、吉備武彦がその経済的本拠地である越を攻めることとなり、彼らは甲斐で軍隊を二手にわけた。吉備武彦は吉備から連れてきた吉備王権直属軍を以って越攻めにあたったのは想像に難くない。タケルらの率いた本隊は崇神朝から徴発された大伴軍と関東は甲斐や常陸で徴発したにより編成されたのであろう。関東から信濃への山越の道のりは余所者にはわかりにくかったにちがいない。


東征に従った部下については後述する。草薙の剣の由緒を示す熱田神宮縁起と古事記・日本書紀には、ここに大きな相違点があるのだ。伝承を伝えた主体の都合によって伝承は書き換えられていくものである。とくに神社の伝承は何時誰が創ったのかわからないものもが多いため取り扱いには注意したほうがいいような気がする。戦いの内容は記されていない。山中で山の神の化身である白い鹿を倒したあと道に迷い、白い犬(=おそらく前に見たように吉備武彦の率いる吉備軍)によって救出されるのである。この戦いの次第はおそらく国譲り時の建御雷とタケミナカタの戦いと出雲梟帥征伐に詳述されている。だからこそ山の神といった本当の日本人の精神神話である話が挿入されたのであろう。


諏訪の国譲りには、面白い解釈もある。関東から天竜川まで戻り、川を遡上し諏訪にたどり着いたという解釈だ。天竜川沿いに建御雷を祭る神社が散見されるのもその根拠の一つになっていると同時に、それらの神社縁起にも天竜川遡上説に符号するものも多いらしい。何より天竜川は諏訪湖を水源としているのだ。通常諏訪の国譲りは、出雲から日本海沿岸を北上し、越から糸魚川を遡上し、諏訪にたどり着いたというコースが想定されている。こちらにもそれに準じる神社縁起があるらしい。とかく神社縁起とは記紀神話をもとに作られたものが多いなかで、通常コースはともかく、天竜川コースは逆に興味深いものがある。


三遠式銅鐸の分布も天竜川河口に銅鐸出雲族の進出していたことを想起させる傍証になるかもしれない。ついでといっては何だが、諏訪について少し考えたい。タケミナカタの鎮座する諏訪は、弥生・古墳時代の遺跡よりも豊富な縄文遺跡があることで知られている。伊和大神の眠る播磨西北部もそうだ。これらのことからも出雲勢力を縄文時代からの勢力としてみる向きがある。しかし、古代出雲が最も栄えた(同時期の他地域と比べてという意味)時代は、まぎれもなく弥生時代の中葉なのであり、縄文時代とは数百年の差があり、縄文文化とは一線を画すものである。


何より、出雲から出土した豊富な青銅器は、出雲にあった勢力を弥生期の申し子といって差し支えないだろう。諏訪や播磨にいたとされる出雲族とは、首長同士の婚姻で出雲の勢力とはつながってはいるが、出雲のような純粋な弥生勢力とは違い、縄文から続く勢力(諏訪など)の中に交易民としての出雲勢力が入りこみ、結合したものではないかと最近私は思うようになっている。後世の氏族意識に彩られたような父系をもとにした記紀神話のような系譜主義ではなく、出雲と諏訪や播磨の関係は交易(富を運んでくれるオオナムチスクナヒコナ伝承が客人神信仰に転じた?もしくはその逆?)で結びついた緩やかな関係であったのだろう。


一説に、諏訪明神(タケミナカタ)も蛇体だと言われている。これは大国主も大物主もそうであり、宇佐八幡でさえ蛇体の神なのである。蛇神信仰は古代日本ひいては東アジアにおいて普遍的な信仰であったことの裏返しでもある。また宇佐八幡も蛇体だということは皇室の信仰にも蛇神信仰が深いところで影響しているのではないかと思わせる。それだけに、「スサノオのヤマタノオロチ退治」の神話については慎重に考えたいと思う。この神話については、製鉄王説、水害説をはじめいろいろな解釈が成されてはいるが、単純に「弥生期の記憶(歴史)の投影」などとは今のところ到底思えない。何しろ蛇を信仰していたはずの古代日本人が大蛇を斬り殺す神を英雄として認識するのだから・・・・・。表面的には、蛇と太陽への信仰は大きく違っているように見えるが、どちらも「再生の死生観」を表しているという点においては同じである。また蛇神というと水神を想像される方も多いと思うが、水は鏡に通じる光物である。鏡の信仰にも蛇神が影響しているのかもしれない。


何はともあれ、越と諏訪の征伐を終えたヤマトタケルは、尾張に戻る。尾張氏の尾張国造の女ミヤズヒメと結婚するためだ。だが、これにも疑問がある。 尾張氏のミヤズヒメは穂積氏の弟橘姫同様物部氏の同族である。ミヤズヒメとの婚姻によりヤマトタケルに一番近しいのは尾張氏ひいては物部氏ということをアピールするための説話だったのではないか?という疑問である。二氏族とも継体朝において皇族と婚姻を重ねていくのも何かなまぐさいものを感じさせる。王権継承権の象徴=伝世の神剣草薙の剣を尾張氏のもとにおいて、伊吹山に向かうというところもとても怪しい。記紀の文脈から想像すると、タケルは伊勢以来草薙の剣を放していない。それがどうして近江には持たずに出向いたのか?


以下いつもの如くトンデモ妄想をしてみよう。タケルは尾張氏に草薙の剣を奪われたのだ。だから近江には持っていけなかったのではないだろうか?物部氏は後世軍事氏族として石上神宮をはじめとした武器祭祀をつかさどる氏族である。タケルの死は、尾張氏ひいては同族の物部氏がタケルに変わって朝廷の武力の象徴となったことを指し示しているのだ。何のためか?吉備王権がそのまま崇神朝になることを阻むためである。ヤマト盆地のもともとの王権であった欠史八代の王朝を実質的に支えていたと見られる物部氏によるタケルによって象徴される吉備・播磨王権の勢力伸張阻止であったのではないだろうか?もしくは、草薙の剣と天叢雲剣は本来別物であって、天叢雲に象徴される出雲系豪族に代わり、草薙に象徴される尾張・物部系豪族に「キングメーカー」としての権力が移動したことを表しているのかもしれない。やっかいな敵である出雲タケル=タケミナカタ=最後の大国主の系統にトドメをさしたはずのタケルを隠し、フツヌシという物部氏が祭祀する神をタケルの変わりに国譲りに登場させたのだ。


藤原氏がタケミカヅチという、自分たちの支配地の神をアピールしたことからもそれは伺えるのではないだろうか?タケミカヅチとはもともと常陸の地方神であったのを「剣の神」=「武神」として祀り直し(とはいっても、記紀の編纂の頃には常陸も名だたる鉄産地であり、地方神としてのタケミカヅチにも剣の神としての神格がもともとからあったのかもしれない。)、朝廷の軍事の守護神とされた神である。この神はある一定の氏族の祖先神ではない。系譜主義が貫かれている記紀神話に登場し、しかも活躍する神としては異例の存在なのだ。


逆から考えると、この神に対する祭祀権をもつもの=朝廷の軍事を牛耳るものなのである。そして、同じく軍神フツヌシを擁して東国支配の尖兵となった物部氏とともに常陸の国に蟠距した中臣氏後の藤原氏こそ、その役目(=軍権支配)を負うものという、実質的開祖不比等の意向が、新たなる軍神建御雷を産み「国譲り神話」に華々しく登場させたのであろう。建御雷とフツヌシの挿入も出雲神話が実像と離れた形で巨大したことの原因の一つでもあろう。なんてことのない辺境の王を倒しても建御雷らに栄光は輝かない。


天津甕星という悪神が東国にいて、これを建御雷が倒したという話もあるそうだが、大きく扱われてはいない。鹿島神宮の縁起だそうだがあまり知られていないのも、そういう事を証明しているのではないだろうか?敵は大きいほうが倒しがいがあるのだ。そして倒した側の栄光はさらに大きなものとなる。「建御雷(タケミカヅチ)」には「武甕槌」というもうひとつの表記がある。天津甕星にも共通する「甕」は神霊の依り代と考えられているが、「甕」に入れるものといえば「水」でありそれは「水鏡」としても使われていたのかもしれない。また、自分の数少ない人生経験の中からの例で申し訳ないのだが、夏、土間に花瓶やバケツといった「甕状」のものを置いていると勝手にはいっている神がいる。それは「蛇(神)」である。もしかすると、各地で祀られている器状のものは「蛇神」を招来するための祭器ではなかったか?とも思えてくる。そして、器状といえば銅鐸もその範疇に入るのかもしれない・・・・。


話が逸れてしまった。元へと戻そう。 武甕槌とは、槌で各地の神(蛇?)の依り代である甕を壊していく役割を担っていたのかもしれない。相手の崇める神を壊すこと、それは戦いを意味しているのではないだろうか?もちろん神話の上での喩え話の解釈にすぎない。また軍神、武神の祭祀権を獲得するということは、朝廷の軍事権の獲得にも通じるのである。建御雷を祀る春日大社の祭祀権が春日氏(大?多?氏)から藤原氏に移動しているのも軍権が移動したことを表しているのではないか?古事記を記したとされる太安万侶の父(または本人?)は蝦夷征伐にも参加していたらしい。さらにこの政治闘争勝者である大伴氏と尾張氏(物部氏)が支える大和の新しい大王により、ヤマトタケルの王朝の始祖的な神格とその系譜は尾張氏の女婿として組み込まれたのではないだろうか?


草薙の剣は熱田神宮に収められている。草薙の剣は出雲から国を継承したという証であり、草薙の剣を王位継承権のレガリアとしていたタケルの崇神朝の崩壊を意味するのではないか?後の世でいえば三種の神器を奪われたのと同じなのだ。タケルの兄オオウスの家系が播磨でも吉備でもなく、尾張と美濃の豪族として後々まで続いていくのも、尾張氏への屈服を意味しているのかもしれない。


熱田神宮の縁起では、記紀には出てこない「武稲種」(ちなみにミヤズヒメの兄である)という尾張氏の祖先がタケルの東国征伐に随行することになっている。逆にこちらには大伴武日の名は出てこない。この大伴氏と尾張氏がでてきたり出てこなかったりするあたり、吉備武彦以外の二人の名は後世に挿入されたという裏返しではないかとも思う。となれば、尾張氏と同族であるミヤズ姫と弟橘姫の挿話さえもアトヅケ伝承に思えてくる。


ヤマトタケルとその直系の子孫に大王たる素質がなくなるという事を草薙の剣をタケルが手放したこと(実際は奪われたのか?)で表現しているのではないだろうか?草薙の剣をもたないタケルの子孫の継承権の否定にもつながっていくのではないだろうか?書紀にはヤマトタケルは「尾張の宮簀媛のところに長く留まった」と記載されているが、近江の伊吹山で病を得た後、長くともに暮らした妻の家に立ち寄らず、尾張からおそらくは海路で伊勢へとわたっている。まるで、逃げ出すように・・・・。尾張氏にとって大事だったのは、タケル本人そして彼との婚姻よりも、タケルの持つ正統性だったのではないだろうか?ヤマトタケルの最後の敵で、タケルに祟りを成した「近江の伊吹山の山の神」とは、「近江の志賀(滋賀?)の高穴穂の宮に天の下をお治めになった天皇」つまり稚足彦(ワカタラシヒコ)こと成務天皇をその人を指すのかもしれない。もしくはそれを操った武内宿禰さらには後の大和朝廷に深く関与する近江の豪族(息長氏など)を指し示しているような気もする。というのは、トンデモであろうか??


いずれにしても、タケルおよび吉備・播磨王権にとって近江方面が敵対勢力のある方向、鬼門であることを示唆しているような気がする。そして近江と連携してタケルを追い詰めたのが尾張といった感じであろうか?尾張からヤマトへ戻る途中、伊勢神宮に立ち寄り、俘囚(帰属した蝦夷で特殊技能を持つものが多かったとされている。太刀作りなど。)を献上し、父・景行には、吉備武彦(タケルにとっは最も信用の置ける部下であり、同族である)に自分の命が最後を迎えたであろうことと、死にたいしての覚悟と父に尽せなくなったことに対しての悔恨を、自らの代わりに奏上させている。やはり最後に頼るのは母方の一族である。


神風の吹きすさぶ伊勢の国能褒野で初期大和朝廷最大の英雄ヤマトタケルは最後を迎えた。陵に葬られた彼の魂は白鳥となって倭つまり奈良盆地の琴弾原まで飛んでいった。さらに白鳥はそこから河内の古市へと向かう。伊勢・河内・奈良の三箇所にタケルの陵は作られた。名を「白鳥陵」という。時に、三十歳という短く、戦いばかりの一生だったと言っていいだろう。その人生で出会った女性たちとヤマトタケルの恋が語られる歌謡は、戦いに明け暮れたタケルの人生に対するせめてもの鎮魂なのかもしれない。



崇神朝の謎 最終章

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常陸国風土記に記された「倭武天皇」。一般的な解釈によれば、「ヤマトタケルのことで、本当に天皇(大王)に即位したという意味ではなく常陸国が天皇と縁のある国だとするために使われた名称。または地方の人は皇太子とか天皇に近しい皇族を、天皇の代理人として天皇本人と同一視していた。」であるらしい。


そんなことが本当に起こり得るのだろうか?


「常陸国風土記」といえば、大和朝廷を実質的に牛耳っていた藤原氏の手によるものとされている。藤原氏ほどの高級官僚が天皇とそうでないものとを、たとえ古老の言い伝えという伝聞形式であったとしても注意書きもせず、同一視したまま本当の天皇のもとへと提出するものであろうか?


そこで、私は「ヤマトタケルは本当に天皇であった」と解釈してみたが、タケル以外にもう一人「倭武天皇」の号にふさわしい人物がいる。


その名は「倭王武(雄略天皇・和風諡号をオオハツセワカタケルノミコト。といっても武=雄略にも諸説あって定かではないので、注意していただきたい)」こそ実在した「ヤマトタケル」のモデルではなかったか?ということについて考えてみたい。


この説は、ヤマトタケルに関して考察されている古代史本(含・トンデモ本)では良く目にする考察でもある。ご存知の方も多いと思う。私の古代史に対する全体像(系譜主義=内容はともかく、系譜自体に大きな改変つまり同族でないものを同族としたりすることはない。)とは食い違ってくるので、十分に消化しきれていない説なのだが、ここで少しこの説について考えてみたいと思う。


「倭王武」とは、俗に言う「倭の五王」の最後にあたる倭国王のことで、五王はそれぞれ中国の皇帝に遣使して国交を結び中国皇帝の臣下として将軍位などを得たものもいる。武は中国の南北朝時代の南朝の王朝である「宋」に上表文を送り、安東大将軍の位を手に入れた大王であり、河内朝の7代目で歴代21代目(この代数自体が後世に振り分けられたもので、当人たちに「私は何代目の大王である」という意識が古代天皇にあったかどうかというと、記紀が編纂される前にはなかったのではないかと思う。またそうでなければ「将軍位」を欲することはないだろう)の天皇雄略天皇に比定されている。以下上表文の内容を簡単に【】内に示してみよう。


【私の藩国は皇帝の居られる中国からは遠い辺境にあり、皇帝の国の外壁となっております。
私の祖先は自ら甲冑を着て山川を乗り越え休む間もなく戦いつづけてきました。
東に毛人の国征服55国を、西に夷の国を66国を、海北の国を95国を平定しました。
王道を広め王の威の届くところを広げています。

私はまだ至らぬものではありますが、先代の倭王の後を継ぎ、宋の皇帝陛下の威光をもって倭国の民を統治させてもらっています。
百済から船を仕立てて皇帝陛下の元に参上したいと思います。
しかし無道の高句麗が半島の各地を併呑し、辺境の倭の領地まで侵略してきました。
このせいで、私から皇帝陛下への贈り物とした珍品などが届かなくなっております。
それでも、どうにか宋朝に参内のしたいと思い使者を送りました。
高句麗のせいで、進路が塞がれているためいつも参内できるかどうかはわからなくなりました。

亡き父済は寇が宋朝への道を塞ぐのに怒り、倭国百万の兵隊をもって皇帝陛下の正義を行う事を励みに思い高句麗に攻め込もうとしたのです。

しかし私の父と兄が死にましたので、すんでのところでうまく事が運びませんでした。
このままにはできないと思いつつ、私は喪に服すため、兵を動かせませんでしたが、今、既に兵を鍛え準備をし、父兄の遺志を実現しようとしております。
たとえ白刃が身にせまろうと、兵たちはゆるぎない正義の心を奮い立て、大功をたてるつもりです。

もし私が敵を倒し、難を除くことができても、それは天下を覆う皇帝陛下の大きな徳のおかげであり、私の功ではありませんがこれまでとおりに父と同じ官位を名乗ることをお許しいただきたいと思います。三司(俗にいう三公)と同等の官位をいただければ、幕府を開き宋朝に対しより一層の忠節を行うつもりです。

秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍 倭王武】

(補足(憶測??)を加えただいたいの訳なので、ちゃんとした訳本を読んでもらったらありがたいです)


あたりまえだが、とてもへりくだった上表文である。官位を皇帝陛下に所望している厚かましさを覆うためか憐憫の情さえ感じる。中国の威が倭を助けているようにも見える(つまり倭の中国の一部であり、倭王は家臣であり、半島諸国の王とは同僚関係のようなも)がごまかされてはいけない。軍事・経済の面では完全にそれぞれが独立しているのだ。


この上表の一番の目的は「打倒高句麗」であるのはいうまでもないだろう。高句麗の事を「無道」と訴えたところからみても、百済・新羅に対してよりも明らかに敵対心丸出しである。半島北部の勢力である高句麗を敵対視して南韓の軍事を纏めようとする意思が感じられるということは、百済や新羅といった南韓諸国には各論的な利益対立はあっただろうが、その一方で総論的なシンパシーを感じていたのかもしれない。それは交易を通じて経済基盤を同じくした南韓と倭国の関係を表しているのではないか?経済基盤が同じといってもそれは環日本海市場のようなものがあったということであり、港湾を擁する地域(天然の潟湖などを含む)ごとに支配者がいて軍兵がそれぞれの権益を守るために存在していたはずである。


つまり、半島=倭国が同一国家とか、半島諸国が日本列島に支配地をもっていたとか、倭国が実質的に半島六国の軍事の大権を握っていたなどということはありえないと思う。臨機応変に合従連衡を繰り返し問題(戦乱)の解決にはあたっていたかもしれないし、文化レベルや武力の優劣、経済圏の大小はあれども、それは一方が一方を支配するような関係ではない。


そのために高句麗の南下によってずたずたにされた百済・新羅を含む南韓一帯に指導力を発揮し、日本列島や南韓の倭国権益を防御するための大義名分として宋朝の官位がほしいのであって、本気で宋朝に尽すことが第一義ではないのである。高句麗と激突した場合、戦場は南韓諸国の領土になる可能性が高い。戦闘が激化した場合いちいち日本列島から戦闘員補充をする間はない。南韓諸国の王族が納得する形で南韓の民から戦闘員を徴発するための名目が要ると考えたのかもしれない。もしそうだとすると、相当東アジア内を意識し、それに対応する政治力を倭国王の政府は持っていたことになる。上表文とは倭国側が作成したものである。ということは「謎の四世紀」には漢文に対する知識、中華皇帝に対する外交策、東アジアに対する覇権意識も半島諸国に並ぶほど十二分に持ち合わせていた裏返しでもある。


そんな中で、高句麗は南征を開始するのである。また半島北端ということもあり大陸の動きにも一層敏感であったに違いない。その高句麗を食い止めるには大陸から何かしらの圧力がかかるのが一番手っ取り早いのである。高句麗がいくら強大であろうと一時期に南北両端で戦端を開くわけにはいかないだろう。


この上表の一番の意味は「高句麗牽制」であるが、もう一つ、「半島南部と倭国には手出し無用」ということを宋朝に認識させることもある。宋朝の使節や、軍隊には来てほしくなかったのだ。だからこそ、「六国諸軍事」と「開府」を宋朝への忠誠と同時に報せているのだ。


「これだけの【忠誠心】と【実力】を持った【私=倭王武】に中華の東の辺境である日本列島と半島南部のことはお任せあれ」といった感じを言外に滲ませていると感じるのは私だけであろうか?もちろん高句麗が引っ込んだ後のことだろうが・・・・・。


もしそうであるなら、武はまさに自信満々である。
これだけの自信を持つからには、武の痕跡は日本列島各地に刻まれているはずである。しかも

【昔祖禰躬手環甲冑跋渉山川不遑寧處。東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國】

と本人も言っているのだ。


倭王武を雄略天皇つまりオオハツセワカタケルだとすれば、その痕跡として最も有名なのが埼玉の「稲荷山鉄剣銘」という遺物である。ちなみに、稲荷山古墳の築造年代は土器(須恵器)編年、馬具、造成の土(火山灰など?)などからの科学的分析においても5世紀末頃のものとされている。以下銘文を記しておく。

【辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比危其児多加利足尼其児名弖巳加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比其児名加差披余其児名平獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支歯大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也】

冒頭の辛亥年には471年説以外に531年説があります。後者は大和朝廷の東国支配は6世紀以降であるとの説につながっていきます。


この鉄剣銘は、オワケという人物の系譜(先祖は四道将軍の一人、大彦)と、先祖代代「磯城の朝廷」に杖刀人(武官?)として仕えていたことが記されている。彼本人が仕えているのはワカタケルとなっており、書紀ではオオハツセに都していたとされるワカタケルも「斯鬼(磯城)」に都していたように解釈ができる。(ちなみに磯城もオオハツセもすぐ近くではあるので、同じことかもしれないが)


この時期、東国まで河内王朝のワカタケルの威が及んでいたという明確な考古資料である。


埼玉といえば東国、東国の風土記といえば常陸国風土記。その常陸国風土記には前に述べたように「倭武天皇」という人物の名が記されている。これは偶然「武」という名が一致しただけなのでろうか???


ちなみに、常陸国風土記の倭武天皇は、行方の郡の相鹿の里の記述に、
【倭武天皇の后の大橘比売命が倭から降ってきてこの地でめぐり遇われた。だから安布賀(あふか)の邑といっている。】

とあるように、記紀のいうところの弟橘姫(穂積氏)を妻とするヤマトタケルと同一人物とされているのだ。


倭王武が雄略天皇であり、雄略天皇が倭武天皇だとすれば、ヤマトタケルの正体は倭王武でなくてはいけない。しかしながら、神功皇后紀に登場する七支刀から河内朝の成立(応神即位)の年代を推定すれば370年以降のこととなる。ヤマトタケルは記紀の天皇の代数から見るとそれより以前の人でなくてはいけない。しかし倭王武は470頃の人であり、記紀からのヤマトタケルの推定年代とは百年以上の差があるのである。


したがって、「倭武天皇」は雄略天皇のことではないということになる。すると、風土記・記紀のヤマトタケルが別に存在しなくてはいけない。


さて、ここからさらにトンデモの加速度をあげてみよう。


10でヤマトタケル神話は英雄誕生説話の類型に当てはまると考えてみた。つまり、特定の人間の一生を示したのではなく、部族、民族ごとにもっていたであろう成人儀式を説話化したものであるということだ。この考えにのっとれば、スサノオ・オオクニヌシ・神武天皇の説話も同じく成人儀式の説話であり、それぞれの説話が根本的に似ていてあたりまえなのである。部族ごとに習俗の違いはあるだろうから微妙な差はあるとはいえベースは同じなのである。


誕生>父母世代からの独り立ち>ライバルの淘汰(兄弟間の葛藤から生き残る)>流浪(修行・征伐)>回帰(即位儀式)>帰還・達成(歓迎)>英雄(神・成人・首長)。


この、英雄説話に倭王武つまり雄略天皇による東国支配を重ね合わせたものが「ヤマトタケル神話」ではなかったか?


日本を統一したのは崇神朝であって河内王朝の雄略天皇の功績ではないとしたかったのかもしれない。


出雲神話はヤマトタケル神話につられて巨大化した。ヤマトタケル神話は継体即位の不自然さを隠すために巨大化した。つまり河内王朝の徳のなさを述べるためである。応神を除く河内王朝の歴代の王の中にあまり大きな神格を創ってしまうと雄略の死後から暗躍する継体の即位を正当化できないのである。


そしてヤマトタケルには、他の英雄誕生神話の主人公にはある即位神話がない。


当然である。即位したのはヤマトタケルの実像であるオオハツセワカタケルなのだから・・・・・・。


系譜主義社会の常識では架空のタケルと実像のタケルに分離されたとはいえ二度もタケルを王位につけることはできなかったのではないだろうか?だからタケルは草薙剣を手放したことで王座につけなくなったということを暗示したのだ。


雄略天皇の男系の血筋・皇統は、清寧天皇で途切れる。しかし雄略の娘春日大郎女は播磨朝天皇とも言われる仁賢天皇の后となる。そして仁賢と春日大郎女の産んだとされる悪帝・武烈の非道により、空想の王=ヤマトタケルつまりは河内王朝=倭王武(雄略)の命脈は絶たれ、日本列島の統治権は継体天皇主導による豪族連合体=新大和朝廷に奪われていくのである。


ヤマトタケルが弟橘姫(穂積氏)と宮簀姫(尾張氏)に恋心を持っていたというのも、両姫の出身氏族であり、河内王朝内部にいながら河内王朝を裏切り、滅亡への道を進むのに一役買った物部氏系豪族の尾張氏によって挿入された慰めと、自己満足にすぎないのではないだろうか?尾張氏・穂積氏を含む物部系氏族は継体朝では巨大氏族となり、皇族とも何重にも婚姻を重ね権勢をもつようになるのである。尾張氏出身の目子郎女が継体の后となり、安閑天皇・宣化天皇の二人の天皇の母であることがそれを物語っている。そうして強大化していった物部系氏族が崇神朝と河内朝にまたがる謎の存在・武内宿禰の流れを名乗る蘇我氏に実権を奪われて衰退していくのも興味深い。


さて、長々と、ヤマトタケルについて考えてきたが、トンデモな上に面白くない解釈になってしまった。


以下、私の結論を言うと、崇神朝と応神朝は時間的にかなり重なりあっているのではないかと思う。つまり直線系譜で綴られている記紀の系譜は後世(継体以降)の造作であり、そこに綴られている話もすべては継体即位に向けての前振りではなかったかと思う。崇神朝と応神朝で起こったことを一つにまとめ継体即位の不自然さを隠すために、継体の登場の不自然さを少しでも薄めていくために伝わっていた話を都合のよいように割り振ったのである。


景行天皇のときに武内宿禰が初登場する。死ぬのは仁徳期である。


景行天皇の時代には、崇神朝はすでに分解していたことを不老不死の武内宿禰の存在が微かに匂わせているのではないだろうか?


もしくは、系譜としては正しくとも、内包する説話の組替えが行われていると考えたらよいのだろうか?いずれにしても、ヤマトタケル神話と神功皇后神話の挿入と武内宿禰の異常な寿命は、何かをごまかしているような気がする。


何をごまかしているのかといえば「万世一系」の思想で彩られた記紀にとって重要なのは「系譜」であり、ごまかす必要があるのも系譜しかないのである。これについては、「武内宿禰と河内王朝の謎」として、いずれ別稿で考えてみたいと思う。


タケルと継体即位の周辺事情は記紀を纏めるときに主導的立場にあった藤原氏の立場から見ても何か面白いものが見つかるかもしれない。


継体天皇の即位はそれまでの天皇、またそれ以降の天皇と比べてひどく中華的である。「血筋(系譜)」でなく「徳」(といっても本来は実力主義なのであろうが)が最大限に表現されている。こういった変化は倭の五王の対中国外交によって持ち込まれた変化であり、古代の東アジア情勢の中で隆盛を極めた倭王武(ヤマトタケルの実像)にとっては夢にも思わなかったであろう自らの血筋の滅亡につながったのではなかったか??


天下を纏める特効薬安東大将軍の副作用、といったところだろうか?



以上を以って「崇神朝とヤマトタケルについて」は一応終了とさせていただきます。
自分の持っている基本的な古代史観=「系譜主義」とは整合性も十分にはとれていませんし、まだまだ勉強不足のトンデモなので数日で考えが変わってしまうかもしれません。最初から読んでいただいた皆様ありがとうございました。感想はとても励みになりました。ありがとうございました!!!


古代出雲王国の謎へ

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