光姫(てるひめ) | |||||||
黒田官兵衛初陣、姫路青山合戦(1569年)記念 | |||||||
|
![]() |
||||||
![]() 光姫の由緒は青山の文人、 遠周章先生の御製作です |
|||||||
黒田官兵衛孝高(かんべいよしたか)正室の 銘菓「光姫(てるひめ)」 姫路城主、小寺職隆(もとたか)の嫡男として生まれた黒田官兵衛孝高は、御着城主 小寺政職(まさもと)に仕えた。永禄十年(1567年)に家督を継ぎ、その年政職の媒酌で、志方城主櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘「光姫(てるひめ)」と結婚、官兵衛二十二歳、光姫は十五歳であった。 官兵衛は母方の祖父、明石城主・明石正風(あかしまさかぜ)歌人の血縁をつぎ和歌や連歌の英才教育を浄土宗の僧、円満(えんまん)から受けていた。光姫も和歌の嗜(たしなみ)深く、才知徳行(さいちとっこう)を身につけていた。 英雄を気取ることをひかえ、常に近習を信条としていた官兵衛の才覚は、諸説あるが人間的魅力が常にあふれていた。その官兵衛への内助の功は言うまでもなく光姫である。今は光姫を語る人も伝える史料も無に等しい。 ここ播州姫路青山の「小丸山(こまるやま)」「千石池(せんごくいけ)」あたりでは、黒田官兵衛と姫路城の攻略をめざした龍野城主赤松政秀が率いる三千餘兵と合戦がはじまった。永禄十二年(1569年)官兵衛二十四歳、妻光姫は十七歳のときのこと。 光姫は父職隆と共に留守をするが、夫・官兵衛の初陣の出立(いでた)ちには、どんな思いで戦場の青山に送り出したことか。武運を祈る新妻光姫十七歳の姿が目に浮かぶ。 「どうかご無事で」と。 群雄割拠する戦国の武将たち。その多くは妻妾をもち、子女をもうけ勢力を図っていく手法が常道のようであるが、官兵衛は正室の「光姫」を生涯愛しとおした。 一方光姫も微に入り細に亘り、陰に陽にして官兵衛を支えつくしたに相違ありません。その様な慎ましい「光姫」にささやかではあるが、光をあてて賛美し、初陣を飾った黒田官兵衛孝高と兵たちを賞して由緒とする。 |
|||||||
絵・文・謹書 遠周 | |||||||
戦国の世を照らす美しい夫婦の愛を一条の「光」として和菓子に映しとりました。 口どけのの良いほっこりとしたしぐれ生地は姫の思いによせて・・。 銘菓「光姫」が誕生いたしました。 |
|||||||
創業百年 姫路二階町 杵屋 |
|||||||
★黒田官兵衛孝高(かんべいよしたか)正室の光姫(てるひめ)」はどんな人? 1戦国時代の日本を統一した豊臣秀吉の家臣、黒田官兵衛(如水)のお嫁さんです。 2官兵衛は姫路出身、光姫は姫路のお隣の加古川にあった志方城のお姫様でした。 3官兵衛は現在の青山小校区内であった「青山の合戦」で大将としての初陣を飾りました。 4そのとき光姫は17歳、二人にはすでに子どもが誕生していました。 5「才徳兼備」と言われ、頭がよく優しくて人に好かれる性格の人でした。 6黒田官兵衛はキリシタンでしたので、当時の常識である「側室」を置かず、生涯を夫婦ふたりですごしました。 7今NHKで放送している大河ドラマ「江(ごう)」と同時代の人です。 |