震災の日を振り返り、そして思う。
3月11日金曜日、東日本大震災の日。
自分は、いつものように横浜市内の職場にいました。
職場は海から50mの場所です。
そして、3時前のその時間、今まで経験したことのない大きな揺れが来ます。
細かい縦揺れのあと、大きな横揺れ。床は波打ち、立っていることさえ困難に。
(潰れるかもしれない。)その時、思ったことです。
長い時間の揺れがおさまり、職場に怪我人がいないこと、被害が無いことを確認し、ネットから情報をとります。
横浜は震度5。
三陸沖で巨大地震発生。東北地方で震度7を超える地震の情報。
大変なことが起きたことは、情報から分かりました。
そのあと気象庁のHPに入ろうとしましたが、アクセスできません。
親会社に電話をするも、電話が通じません。
また、携帯電話も全く通じません。
ただ不思議だったのは、携帯からツイッターがアクセスできたこと。
これが自分には当日大きな情報源になりました。刻々と変化する情報を、得られたのもこのおかげです。
りょうま、じい・ばあとの連絡はこの段階では当然つきません。
ラジオからは大津波警報が発令されます。
職場の社長は、車の中のTVで情報を収集しています。
TVには震源地に近い、海辺の街の様子が定点カメラで映し出され、やがて、津波が押し寄せ、一気に高さ数メートルまで建物や自動車や船まで流されてゆくのが見えます。
これが現実なのか?
私はそれを見た時に、“これは、仕事どころではないぞ。皆を避難させないと。”正直そう思いました。
会社の社長に相談しましたが、避難に関しては了解を得られず、代案として最低限の人員にを残し、津波による感電も考慮したうえで、高圧受電設備の電源を落とし、職場自体を停電状態にしました。
その間の情報は、車中のTV、ラジオ、携帯のツイッターです。
東京湾の地震直後の状況(横須賀方面) 潮位が下がる海
地震から1時間もしないうちに、上から出た命令は、「そろそろ職場を運転再開しよう」でした。
その言葉に耳を疑いました。
目の前のTVでの津波の状況を見ながら、大津波警報が発令中での海辺から50mの場所での仕事の再開命令。
いくら情報が少ないとはいえ、人命を無視した、危険な職場命令です。
しかしながら、自分は一会社員に過ぎません。
職場の長ではありますが、会社から出た指令は従わなければなりません。
そして、夕方5時半前。会社のトップは、我々を残して帰宅します。
私に「お前もここに居たってしょうがないから帰れ」と言い残して・・・。
いくら24時間稼働の会社とはいえ、自分は安全な場所に行き、従業員だけを危険な職場に残すわけにはいきません。
当然ながら、自分の行動は一つのみでした。
これが、その夜のツイートです。↓
まだ会社にいます。海岸まで50mほどの距離のため、大津波警報が解除されるまでいる予定です。兆候が出たら作業員を全員20m近くある高さの屋根の上に誘導します。津波が来ないことをただ祈るのみ。今日はこのまま会社で一晩過ごします。 |
夜中じゅう、寝ることができませんでした。
そして、翌朝、電話をようやく何度かチャレンジ後、親会社に電話をするも、コールのみ。
誰もいないというのは、一体どうなっているのでしょう?
大津波警報の中、周りの企業もほとんど退避した周辺が真っ暗な環境の中、
海辺の職場で働く従業員の不安な気持ちが分かりますか。
これが従業員の命を守る企業としての姿勢なのだろうか。
危険の中に会社命令で身をさらした、従業員は全く救われない現実。
刻々と映し出される東北での津波の映像を見て、
あの時、たまたまこの場所に大きな津波が押し寄せなかったから助かったものの、
もし来ていたら、間違いなく我々は逃げる時間もなく死んでいたことでしょう。
その事の重大さに、未だ気付かない会社。
今回、よく分かりました。
今回ある意味、緊急事態だからこそ見えてきたものが、たくさんありました。
こういう事態になった時の人の動きは人の持つ資質であり、緊急時は何を一番と考えているかの動きです。
八甲田山で生死を分けたのは、リーダーの考えそのものだった事を思い出します。
経営者が緊急時に、何を第一に考えているか、
この国のリーダーが何を考えているか、何も考えていないのか。
そして、マスコミの報道、著名人の発言、その他諸々。
これらは、これからも忘れてはならないし、忘れません。
今は何を言おうと、
被災地の方のことを考え、
また、命がけで原発内で作業をして頂いている、自衛隊や消防隊の事を考え、
そのことを胸に、行動します。
この裏画面での発言を、お許し頂けますと幸いです。
2011.3.20深夜
りょうまの父