『嵯峨野明月記』(辻邦生)を語る

これはかなり有名な作品なので、私がわざわざ語るほどのことはないのかもし れません。『安土往還記』『天草の雅歌』とともに3部作として語られること の多い一作です。これは17世紀の日本を舞台にした小説で、本阿弥光悦、尾形光琳、 角倉素庵の三人を主人公として彼らの独白という形で語られています。私、こ ういう独白体の小説って実は結構好きなんですよね。もっとも、小説中では彼 らの独白は全て「一の声」「二の声」「三の声」として表記されているため、 どの声が誰の声なのかというのは、最初は明かにされていません。まぁすぐ分 かるんですけどね。

ただ私は嵯峨本についての知識がなかったため、「三の声」が誰なのかがなか なか分かりませんでした。きっと歴史的に有名な人だろうなぁとは思っていた のですが、途中で自分の父親が角倉了以であると語ったあたりで、ようやくに して「ああ角倉素庵だったのか」と気がついた次第です。

まぁそういった歴史的知識がなくとも、この小説は十分楽しめます。それはこ の物語の主眼が、出来事を語るよりもむしろ、彼等三人の内面を語ることに置 かれているせいであると思います。こういうものを書くのにはやはり独白体と いうのは最適ですね。『西行花伝』もそうでしたが、辻邦生の独白体で書かれ る歴史小説というものには、歴史という背景を借りて人間の内面を描いたもの が多くあるように思います。だからこそ歴史を知らずとも楽しめるのです。

さて、このような蘊蓄はともかく、私が辻氏の作品を愛してやまない理由がい くつかあります。ひとつはその日本語の美しさ。二つ目には詩を具現化したよ うな物語。これらふたつが相俟って彼の作品はどれも幽玄の美というものに溢 れているのです。うまく言葉では言いあらわすことができませんが。実は私が 彼の作品を好む三つめにして最大の理由があります。それは、彼の描く女性が あまりにも魅力的であることです。『樹の声海の声』の主人公咲耶さんに始ま り、『背教者ユリアヌス』のバシリナ。そして『西行花伝』の女院等。彼の作 品には必ずといっていいほど魅力的すぎるくらいに魅力的な女性が登場します。 2次元の女性に恋をするというのはよく聞く話ですが(そうなのか?)、私の場 合は辻邦生という作家の描く1次元の女性に心魅かれるものを感じてしまいま す。さて、『嵯峨野明月記』ですが、ここにもやはり私が強く魅かれる女性が 登場します。それは本阿弥光悦の妻です。彼女はこの長い物語のうちにわずか 数ページにしか登場しません。けれども、私はこの物語に登場する他のどのよ うな人物よりも、この光悦の妻に強く魅かれてしまうのです。うまく言い表せ ませんが、彼女は非常に聰明な女性として描かれています。そのうえ、どこか 可愛いげともいうべきものが全身に漂っているのです。蔦の料紙に光悦が書い た書を見て病床で喜ぶ彼女の姿は私にとって、このうえなくいとおしいものに 思えるのです。

なにやらまとまりなくなってしまい、どうオチをつけていいのやら分かりませ んが、3つの声によって語られるこの物語は、美と詩を内包した歴史小説の奇 跡ともいうべき小説であると私は思います。やはり辻邦生の書く作品は美しく、 どこか儚く、そして何よりも面白いです。


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