佐藤の主張・佐藤の技術・・・その2 『マネージャーの陥り易い錯覚』


本題の前に、

先月から新しく「佐藤の技術・主張」のコーナーを設けました。エッセイも佐藤の主張でありますが、このコーナーは佐藤の持つ技術や、企業を取り巻く環境から社会情勢まで、Value Engineerとしてまたコンサルタントとしての主張を述べてゆきます。再開したエッセイもこのコーナーも毎月更新するお約束をせず、思いつくまま、そして少し大胆に書き綴って行きたいと思います。

   特にこのコーナーではマネージメントや技術に力点を置いて主張し、どちらかというと、経営者、管理者、そして技術を極めたい方に向けたコーナーにしようと思っている。

   そして、読者の方々のご意見をいただき、匿名でご照会しながら、私の意見をそこに加えて、この画面で議論もしてゆきたい、こんなコラムにしてゆこうと思っている。

今回はマネージメントの考え方−その2を述べてみます。


では、本題に           08年2月

 最近管理者達の管理能力や技術力が低下しているのを憂いるのは、私だけだろうか・・・前回のこのコラムで、管理者の三現主義について提唱したが、今回は管理者のマネージメントについて提唱してみたい。


1.管理していると思う錯覚


ITの発達で、多くの管理者(だけでなく事務所にいる人全て)がパソコンの画面に首引き。外で何が起きているか脇目も振らず、ひたすら画面とにらめっこ。

管理者が抱えるプロジェクトに対して、データが送られてきたとしよう。多くの人に同時に同じデータを配る事が出来るので報告者にとっては便利な道具だ。本人は一区切りつけたと思っている。しかし被報告者、即ち報告を聞くものにはそれぞれ異なった思惑が交錯している。この交錯した思いは報告者には届かない、返信する人は一部、一方通行であると言う事だ。そのメールを開かない人もいることを忘れてはならない。その人には何も伝わっていないことだ。そして古い未開放のメールをまとめてソートして捨てる。送った人にも伝わったと信ずる錯覚がある。

もっと恐ろしいことは、被報告者は、管理すべきいくつかのテーマの優先順位(Priority)を誤ってしまうこと。もっと重要な管理テーマが(報告されないと)ついおざなりになる。報告を受けたさほど高くないPriorityが、重要な項目を忘れて、さしあたって解決しなければならないと思い込んでしまう。この錯覚が恐ろしい。そしてその管理者殿は、自分は管理をしっかり怠っていない錯覚に陥ることである。

パソコンとにらめっこをしている部下の管理も錯覚に陥る。PCとのにらめっこが、管理者殿もしかりで仕事のフリにはうってつけのスタイルだ。その時間の半分以上はメールの処理だ。重要な案件をメールで議論しているならまだ許せるが、多くは、ばら撒かれた多くの情報案件を片付ける作業屋除く作業に忙殺されて「業務遂行」に寄与する時間が極めて乏しい。そして、もしそれが重要案件なら何故直に電話で話をしてしまわないのか。確かにメールは同時に複数の人に自分の意思を伝える事が出来るので便利ではある。しかし電話ならすぐ結論に至るはずだが、メールでは記録が残る利点もあるが、発信者は言いたい事を言い「俺は言った」となる。意見の調整機能が無いため、堂々巡りしてなかなか結論が出ない。結論の先送りも多い。肉声を聞くと実は大脳が刺激されて思考が変わるものなのだ。その思考の変化も無い。

メールについて、見直しの時期が来ていると警鐘を鳴らしたい。


2.管理という言葉の錯覚

管理というと、多くは状況説明(報告者側)と、それを聞いて状況を掴む(被報告者=報告者の上級管理者)ことが大半を占めて、それがその時点で正常か・異常かの判断がなされない、異常である事がわかっても対処の結論(対策)を出さない事がしばしば見受けられる。管理とは状況を知ることではなく、対処する事が管理なのだ。

もう一つは前回も触れた三現主義、現場現物に事実があり、答えもある。PCの画面は現物ではなく作ったものに過ぎず、仮に写真が表示されても、陰に隠れた部分は見えない。

現場現物・・・世界遺産全集を見て感動する人が多くいらっしゃる、私も眺めてはいつも感動する・・・しかし、グランドキャニオンのマザーポイントに立った感動−世界の大きさを知りこれを壊してはならないという意欲が湧いてくる。格段の差が。デモ写真では素晴らしいと思うがあの感動はない。

現場で見た現実は、自分が何とかしなければならないという意欲が湧いてくるはずだ。

英語にある日本語の管理にふさわしい英語の言葉を訳すと、

Administration :管理、経営、・・・施行、執行、投薬

Control:管理、統制、抑制、操縦   と出てくる。いずれにもアクションが伴っている。日本の管理に行動はあるだろうか。

3.万能者になったと思う錯覚

 若くして早く昇格する人を最近は良く見かける。しかしまだまだ、年功や、前職位などが元になって階級(良くある何級とか)が上がり、そして役職(課長とか、部長とか)に着く。その役職者は同列に並べたライバル達の中では確かに優秀だ。しかし、部長(課長)に就任する人は本当にその部(課)に関連する技術や知識を持ち備えているか、また部長(課長)として関連する組織に意見を言えるだけの素養を備えているか・・・よく陥る錯覚がここにある。この項に該当する身近な部長と課長の顔を思い浮かべるだろうから、あえて工場長、事業部長、カンパニー社長、所長・・・色々書いておこう、これって実は言語信号といって大脳を刺激する大事な信号なのです。

私も管理者を長くやり昇格人事にも何度と無く立ち会ったが、その際に起きる会話、「A君はB君、C君に較べて一枚上だと思うよ」「そう比較するならD君が最も優れていないか」喧々諤々、こんな会話の結果、D君が抜擢される。次に控える別の地位の審議があったりするとそれを意識してまずは譲ったりする。こうして決まる課長さん、議論の中で色々な評価因子を分析したり等はまず行わない。制度があって、試験などを行う会社もあるが形骸化し、なお筆記試験の点数だけが優秀な人が勝つ・・・。

時に社長のお坊ちゃんが上位者になって君臨、誰もが知るパーちゃんでも誰も何も言えない。

でも、こうして選ばれた課長さんや部長さんは、あたかも全ての技術や知識を知り尽くしたかのような顔をする。上位者だから文句も言えない。間違って「アホ!」等と言ったら、江本孟紀になってしまう(監督批判して阪神を退団・・古い話だネ)。さあ、管理者クン、あなたはどうかね、技術は、知識は充分かね。間違って錯覚に陥ってはいないだろうか。万能な人などいないし、充分でなくとも良い。ここで知らないものは知らないといえる、謙虚に学ぶ気を持つと、判断の出来る、指示の誤らない管理者になるのだが・・。

4.組織が与える錯覚・・・階層と縦割りの罠

中間管理者が余りすぎて、最近見る組織に長の下に副や次の長がいる組織が増えている。長は次長に委譲したつもり、でも次長は、責任は上にありと呑気に構える。此処で曖昧が発生する。次長が考えているのは難なく過ごせば “次は俺”、何かをして波風立てれば水の泡になる恐れあり・・・。組織も部長にしたい人ができたりすると分けたりして部が増える。縦割りをしすぎると責任が分からなくなる。一例だが「品質保証部」「品質管理部」どっちも火中の栗は拾わないし、おいしいところはやりたがる。これらが日本の企業組織をだめにしてきている要素になっている。更に任期を決めたりする会社はもう目も当てられない。会社の改革など3年4年では到底出来ない。よっぽど強力な指導者がいない限り、5年10年は当たり前だ。3殻年で変わる組織に明日はないと言い切っておこう。

私のいた頃のいすゞ自動車の藤沢工場(従業員数は昼夜で、14000人=派遣や期間工を含め)には工場長は一人、副工場長はいなかった。すぐ下に部長、次長はいなかった。それで管理が充分出来た。長が自分で判断しないと事が進まないからどんどん決める。責任感も高まる。次が見えていないから、人事異動が発令されるまで(それも直前まで読めない)一生懸命。

組織の活性化は役職構造や組織構造で変わるものだ。これがトップの管理者が采配を振るう反中なのだが、「前任者の意向に沿って」などとあいさつする後任者はいらんね。


                   (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE