関ヶ原の戦いとは

関ヶ原の戦いについて、起きた理由から合戦までの流れを初心者向けに解説します。詳細は当研究所の他項をご参照下さい。



関ヶ原の戦いとは、1600年(慶長五年)に美濃関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)で20万もの大軍が繰り広げられた合戦のことをいいます。一般的に豊臣vs徳川の「天下分け目の合戦」として知られていますが、厳密には石田三成(西軍)vs徳川家康(東軍)の豊臣家内での戦いでした。この合戦以降徳川家康が事実上天下の実権を豊臣家にかわってにぎるようになったため、豊臣vs徳川のイメージがあるのでしょう。 ではなぜ石田三成と徳川家康は合戦を行ったのでしょうか。

 1598年(慶長三年)、天下を統一の大偉業をなしとげた豊臣秀吉が死去しました。豊臣政権は豊臣秀吉が織田信長に仕え、百姓の身から出世しながら集めたり降伏させた敵から抜擢した家臣が殆どで、他の戦国大名の家臣団のように何代にもわたって仕えてきた家臣達によって構成されたものではありませんでした。そのため、秀吉という纏め役がいなくなれば崩壊してしまうかもしれない脆さををもっていました。その脆さをついて秀吉の生前から政権を奪おうと企んでいたのが徳川家康です。家康は本能寺の変のあと、秀吉が明智光秀や柴田勝家を破り天下を手にいれていくのをわき目に独自に両国を広げていましたが1584年、小牧・長久手の戦いで秀吉と戦い、その後秀吉の傘下にはいりました。豊臣政権に入ってからも家康はその実力でナンバー2の座を維持しつづけ、秀吉の末期には家臣団最高の地位五大老(呼び方には色々説がありますが)の筆頭として重きをなしていました。秀吉没後の政治はその五大老と、石田三成を筆頭とする五奉行の手にゆだねられていましたが、次第に双方第一の実力者、徳川家康と石田三成の対立が表面化するようになりました。それでもまだ五大老で家康に次ぐ実力者であり秀吉の昔からの親友、前田利家の存命中は小康状態が保たれていましたが1599(慶長四年)に利家が没し、いよいよ双方の対立は険悪なものとなってしまったのです。その後三成に反感を持つ黒田長政、加藤清正、福島正則らが三成を襲うという事件(武断派七将三成襲撃事件)が起こり、家康の仲裁により助かりましたが、三成は自分の居城佐和山城に蟄居させられ、他の五大老達もそれぞれの領地に帰って行ったこともあり、政務の中心は家康になったのです。

その翌年の1600(慶長五年)、家康は五大老の一人上杉景勝が領国帰ったままで、しかも領内の城を固めるなど戦備を整えているという情報を聞き景勝に上洛を命じました。ところが景勝がその要求を拒否したため、家康は景勝が謀反を企てているという理由で上杉征伐、俗に言う会津征伐をする決断をしました。もちろん家康は豊臣政権のために働く考えより、自分が大阪を留守にすることにより三成が挙兵するだろうという読みがあったであろうことは否定できません。つまり家康は三成に挙兵させる機会をつくるためにこの会津征伐を利用したのです。

その年の6月16日、家康は軍勢をひきいて大阪城を出発しました。この征伐は家康個人としてのものではなく、あくまで五大老の一人としてのものだったため、他の豊臣家の武将の多くもこの征伐に従軍していました。一方三成は家康が会津征伐に行って畿内から家康の軍勢がいなくなったこの時を絶好のチャンスと考え、親友の大谷吉継と相談し五大老の毛利輝元を総大将に迎え、諸大名に家康の弾劾文を送って味方を集めました。(西軍)この三成の動きを知った家康は軍評定を開き三成を討つことを決め、大阪に引き返す先鋒隊を向かわせました。(東軍)同じ頃三成らは家康の家臣、鳥居元忠のこもる伏見城を攻めこれを落し、美濃の関ヶ原に近い大垣城に入っていました。

9月にはいりついに家康は江戸を発ち、9月14日関ヶ原に到着、諸将を集め軍議をひらき、佐和山城を抜き一気に大阪へ攻め入るという形でまとめられました。それを聞いた三成は、関ヶ原で家康を食い止めようと大軍を関ヶ原へいどうさせました。しかしこれは野戦(城にこもらず行う合戦)を得意とする家康がわざと流させた情報だったのです。(この家康の陽動作戦ともいうべき戦略は両軍が関ヶ原で対峙した理由として広く知られていますが、事実であるという有力な証拠はなく、いまだ論議が交わされています。)これにより両軍は関ヶ原に陣を敷き、対峙する形となったのです。

そして翌日15日、この関ヶ原で東西両軍が戦った合戦が、関ヶ原の戦い、もしくは関ヶ原合戦と呼ばれるものです。

 


  織田信長


  豊臣秀吉


  徳川家康


  石田三成


  上杉景勝


  大谷吉継