関ヶ原の戦い全ドキュメントhideyosi.gif (1743 バイト)


章: 豊臣秀吉没す

章: 会津征伐

章: 戦雲せまる

章: 関ヶ原合戦

章: 戦後処理

関ヶ原合戦年表


 

第一章: 豊臣秀吉没す

1598(慶長三年)8月9日、百姓の身分から身を起こし、ついに天下統一の偉業を成し遂げた豊臣秀吉が63歳で没した。秀吉の死後、政治は秀吉が生前に設けた五大老の徳川家康前田利家毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家と五奉行の石田三成増田長盛長束正家前田玄以浅野長政の手に委ねられた。だが、豊臣大名の殆どがかつての織田家の同僚もしくは外様大名で、利に釣られたり武力の前に屈服舌に過ぎない。秀吉個人の権威に服しても、豊臣家に対する忠誠などなきに等しいと言えた。自分の身を守るためならば豊臣家を捨て、力のある者の下に走ることは目にみえていたのである。さらに秀吉が育ててきた家臣達のなかでも、石田三成をはじめとする文治派と、加藤清正らの武断派の対立が表面化していった。それでも、五大老で家康に次ぐ実力者で秀吉の古くからの盟友、前田利家が存命中は小康状態が保たれていたが、その利家も1599(慶長四年)3月3日に没してしまう。利家が死んで間もなく、黒田長政加藤清正福島正則浅野幸長藤堂高虎細川忠興蜂須賀家政の武断派七将が三成を襲撃するという事件が起こった。三成は事前に計画を察知し、常陸水戸城主にして三成と懇意である佐竹義宣に護られて伏見へ逃れ、伏見城内にある三成の屋敷に立て篭もった。加藤ら七将は伏見に兵を集め伏見場内の三成と睨み合いの状態となったが、家康の仲裁によって事無きを得た。(この事件の時三成が家康の屋敷に逃げ込んだという説が主流になっているが、近年の研究では誤りとされている)しかし三成はその責任を問われ、奉行職を失い、居城の佐和山城への蟄居を余儀なくされた。これにより、他の五大老が国許へ帰って行ったこともあって、政務の中心は伏見城西の丸に入った家康へと移った。

第二章: 会津征伐

翌年の1600(慶長五年)、家康は会津の上杉景勝に対し「国許へ帰ったまま再三の上洛要請に応じず、しかも領内の城を整備し武器弾薬を集めているのは謀反の疑いあり」として、豊臣秀頼の名の元に諸将を動員し会津征伐の軍を起こした。この年の6月16日、家康は手勢を率いて大坂城を出発、伏見城に入り、伏見城を任せる鳥居元忠と別れの宴を張った。18日、伏見城を出発して他の豊臣恩顧の武将達と共に東海道を下り、7月2日には江戸城へ到着した。一方三成は7月2日に佐和山城で親友の大谷吉継と密議を行い、毛利輝元を総大将に迎え家康を討つ軍を挙げることを決意した。二人の依頼を請けて増田長盛長束正家前田玄以安国寺恵瓊らがその工作にあたった。その説得工作が功を奏し、輝元は7月15日に広島を出発、16日には大阪へ到着した。そして17日輝元が大坂城に入り、さらに増田、長束、前田の三奉行の連署で「内府ちかひの条々」を諸大名に送り、反家康の檄を飛ばした。この「内府ちかひの条々」は13か条からなる家康の弾劾状で、これが事実上の宣戦布告となった。江戸城にいた家康はこの知らせを聞き、25日、諸将を集めて軍評定を開いた。俗に言う「小山評定」である。この評定の中で家康は状況を説明した後、三成につくも自分につくも各自の自由であると言ったが、誰一人として袂を分かつ者はなく三成を討つことで合意した。家康は福島正則らを先鋒隊として美濃へ急がせ、上杉の抑えとして次男の結城秀康を残し、三男の徳川秀忠を大将とする3万8千の大軍を東山道に向けて出発させた。三成ら西軍が伏見城の攻撃を開始したのは7月19日だったが城はなかなか落ちず、29日には三成自ら出馬し猛攻撃を加え、ついに8月1日、鳥居元忠をはじめ、本丸にいた城兵がことごとく討ち死にして落城した。

第三章: 戦雲せまる

東軍先鋒を命じられた福島正則池田輝政黒田長政浅野幸長らは8月14日清洲城に入城した。この先鋒隊は23日から織田秀信のこもる岐阜城の攻撃を開始、猛攻を加え、その日のうちに落城させてしまった。同じ頃、西軍の毛利秀元鍋島勝茂らは伊勢の安濃津城を攻め、7日には秀元と吉川広家が関ヶ原の南宮山に布陣した。家康も9月1日ついに江戸を出発し、14日には関ヶ原に到着、岡山の頂上に陣を敷いた。家康の到着により動揺した西軍をみて三成の家臣、島左近は東軍への先制攻撃を提案し、同じく三成の家臣蒲毛郷舎、宇喜多家の家臣明石全登らと共に東軍の中村一氏、有馬豊氏隊を攻撃し、かなりの打撃を与えた。三成はその後家康が佐和山城を抜いて一気に大阪を攻めるという情報を聞き、東軍を食い止めるために関ヶ原へ移動した。

第四章: 関ヶ原合戦

15日の合戦当日、午前四時ごろ西軍は関ヶ原への布陣を完了させ、それから2時間後の午前六時ごろには東軍も布陣を完了させた。この時点で西軍は8万4千、東軍は7万4千といわれ、数の上では西軍の方が有利であったが、結局小早川秀秋らの裏切りや長宗我部盛親や毛利家の戦闘不参加などにより、西軍3万5千、東軍10万4千の大差になった。この9月15日、関ヶ原は早朝から霧に覆われていたため両軍とも動きがとれずにいたが午前8時ごろ、井伊直政松平忠吉が福島隊の横をすり抜け、西軍の宇喜多秀家隊に向かって鉄砲を撃ち始めた。これが開戦の合図となり、両軍入り乱れての激戦が始められた。宇喜多隊は福島隊と渡り合い、黒田、細川、加藤らの諸隊は石田隊に攻めかかった。石田隊はこれを善く応戦し先陣の島左近は黒田隊に相当な犠牲を出させたが、長政が側面に配置した鉄砲隊の銃撃にあって負傷してしまった。この左近の負傷により午前9時ごろ、石田隊の第一陣が崩れた。しかし三成自身が自ら先頭に立って指揮を取ったため大きく崩れることはなかった。また三成はこのとき大阪城から持ってきた大筒を使用したらしく、その効果もあったのだろう。このまま午前十時を過ぎても両軍は一進一退の激戦を繰り広げ、戦いの帰趨は全く見えなかった。家康もこの戦況が気がかりだったらしく、桃配山から陣場野に陣を移した。午前11時ごろ、石田隊が黒田、細川らの猛攻を受け危なくなってきた。三成は家臣の八十島助左衛門を使者として隣に布陣する島津義弘に救援を求めたが、義弘はこれを拒否。そこで三成は狼煙をあげさせ、かねてからの約束通り松尾山の小早川秀秋に東軍の側面を突く様要請した。しかし秀秋には家康からの誘いもあり、その去就に最後まで悩み続け、動く気配が無い。同じく南宮山の毛利秀元もこの狼煙を見て攻撃の準備にかかったが、秀元の前に布陣する叔父の吉川広家が東軍に内通していたため動きが取れない。そのため毛利勢の背後に布陣していた長束正家長宗我部盛親安国寺恵瓊も動くことが出来なかった。こうして決戦の帰趨は松尾山の小早川秀秋に委ねられた。だが、三成、家康両者の期待に反して、秀秋は一向に動こうとしない。三成は相次いで秀秋に急使を送り出撃を促した。正午を過ぎた時、焦りの絶頂に達した家康は決断を下した。秀秋のいる松尾山への発砲を命じたのである。この家康の威しに驚いた秀秋は、とっさに西軍の大谷吉継に対する突撃命令を下した。小早川隊は雪崩のように大谷隊に襲いかかったが、吉継は秀秋の裏切りを想定して精鋭600あまりを温存していた。大谷隊は小早川隊に猛攻を加え後退させたが、この時さらなる裏切りが発生した。それまで吉継揮下にあった脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らの諸隊が一斉に大谷隊に襲い掛かったのである。立て直した小早川隊も攻撃に加わり、さらに藤堂隊らが大谷隊に殺到し、吉継は自刃して果てた。かくして大谷隊が潰滅すると、それまで福島隊相手に善戦を続けていた宇喜多隊も側面を突かれて崩れ、さらに小西隊も崩れ出した。小早川隊の裏切りからわずか一時間足らずで、戦局は激変した。勝ちに乗じた東軍は石田隊に対して怒涛の如く攻め寄せた。家康も三万の精鋭を繰り出し、総攻撃の構えを取った。小西隊はすでに後方の伊吹山に逃げ、宇喜多隊も退却、石田隊は孤立するなか、最後まで戦い続けた。だが島左近はすでになく、奮戦する蒲生郷舎が討死すると石田隊も潰滅、三成は北国街道沿いに落ち延びていった。午後2時、勝敗の決した戦場に島津隊だけが取り残された。島津義弘は三成の出陣要請を断り中立的な立場をとってきたが、戦線離脱の機会を失った島津隊は東軍の集中攻撃をうけることになってしまったのである。義弘は薩摩隼人の意地を見せるため、敵中突破の決断を下した。島津隊は一丸となって東軍を突破。意表を突いたこの作戦は島津豊久や阿多盛淳ら多くの犠牲者を出しながらも見事成功。義弘は戦場を脱出、無事薩摩へ帰りついた。

 

戦いの経過  9月15日日誌                         

1時

2時

3時

4時

5時

6時 

8時

9時

11時

12時

13時

 西軍主力、関ヶ原に到着

 家康、出陣を命ずる

 家康、出陣する

 西軍、関ヶ原に布陣完了

 東軍先鋒、関ヶ原に到着

 東軍、関ヶ原に布陣完了

 戦闘開始される

 三成隊、崩れる

 三成、狼煙をあげる

 小早川隊、大谷隊を攻撃

 西軍、敗走開始

第五章: 戦後処理

関ヶ原の戦いの後、西軍諸将の捜索は厳重を極めた。9月19日、小西行長は伊吹山中で捕縛、21日、石田三成は近江古橋の岩窟に潜んでいるところを捕らえられた。安国事恵けいも京都に潜んでいたが、23日に捕らえられた。10月1日、三人は洛中を引きまわされた後、六条河原で処刑された。島津義弘はわずかに残った部下と共に薩摩へ帰還、宇喜多秀家は島津にかくまわれていたが1602年に自首、八丈島へ流された。各大名の論功行賞に関しては、当ページの「関ヶ原の戦い論功行賞」をご覧頂きたい。