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関ヶ原の戦いの戦火は関ヶ原周辺だけでなく日本全国に及び、各地でも東西にわかれた争乱を引き起こした。そんな日本各地の「関ヶ原」を解説します。


東北の関ヶ原 長谷堂城の戦い
上杉景勝(西軍) vs 最上義光(東軍) 山形県山形市長谷堂楯山
当初山形城の最上義光は会津の上杉景勝と結んでいたが、家康の会津征伐を機に景勝と手を切り、東軍陣営に入った。それを怒って景勝が直江兼続に命じて最上氏を攻めさせたのがこの東北版関ヶ原、長谷堂城の戦いである。関ヶ原の戦いと同じ9月15日、兼続は大軍をもって山形城の支城であり、志村伊豆守光安の守る長谷堂城を囲んだが容易には落せず、10月1日になって関ヶ原における西軍敗北の報を聞き撤退した。かぶき者で有名な前田慶次もこの戦いに上杉軍のひとりとして参戦しており、兼続の撤退時には義光の本陣までもを切り崩す勇戦をしたと伝えられている。

 

北陸の関ヶ原 浅井なわての戦い
丹羽長重(西軍) vs 前田利長(東軍) 石川県小松市浅井町
北陸では金沢の前田利長が西軍の山口宗永の守る大聖寺城をせめ(大聖寺城の戦い)宗永を自刃させたが、敦賀の大谷吉継が海から加賀へ攻め入るという情報がはいったため急遽加賀へ戻ることになった。その途中小松の丹羽長重の兵が待ちうけ、8月9日浅井なわてで戦闘となった。具体的な勝敗はつかなかったが、前田軍は長連龍(ちょうつらたつ)隊に相当の犠牲者を出した。この後の9月12日に利長は関ヶ原に向けて出発したが、関ヶ原の戦いには間に合わなかった。

 

志摩の関ヶ原? 鳥羽城の戦い
九鬼嘉隆・堀内氏善(西軍) vs 九鬼守隆(東軍) 三重県鳥羽市鳥羽
海軍で知られる九鬼氏は、親の嘉隆は西軍、子の守隆は東軍に属し、親子で分かれて戦った。しかし本気で一族同志で戦いたい者などいる筈も無く、この戦いにおいても鉄砲は空砲で撃ち、矢はワザとはずす等の合戦芝居があったといわれ、存続のための策謀だったのではないかとも思われる。いずれにせよ「関ヶ原」というほどの合戦ではなかったと思われるが、参考までに書いた。

 

九州の関ヶ原 石垣原の戦い
黒田如水(東軍) vs 大友義統(西軍) 大分県別府市北石垣
九州では、関ヶ原の戦いのために各領国の主力が関ヶ原や大阪へ行ってしまったため手薄であった。そこを狙って旧豊前の主、大友義統(よしむね)が旧領回復を企み、細川忠興の杵築城を攻めた。(杵築城の戦い)それを知った中津城の黒田如水がその救援に向かい、9月13日、石垣原での戦いとなった。如水も主力は子の長政につけて関ヶ原へやっていたため寄せ集めの軍勢ではあったが、大友軍を制圧することに成功した。如水はこの勢いで九州を平らげようとしたが、関ヶ原での東軍勝利の報を聞いて矛を収めた。

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