西軍諸将

所属・・・関ヶ原合戦直前の所属 (西軍・東軍・中立)
行動・・・関ヶ原合戦時の行動 (西軍・東軍・内応・傍観)
領土・・・関ヶ原合戦直前の領土 (陪臣の場合主家)


 明石全登 (???〜???)
所属: 西軍 行動: 西軍 領土: 宇喜多家
  生没年未詳。慶長十五年の時点で五十歳前後であったと思われる。宇喜多家家老。通称、掃部頭。名は別に守重(もりしげ)とも。全登は「てるずみ」と読むのが一般だが、「たけのり」、「なりとよ」とも読み、また号として「ぜんとう」も可。ジョアニーの洗礼名を持つ熱烈なキリシタン。
 備前和気郡の産。先祖は播州明石の豪族であるという。戦国期、備前で一大勢力を築いた宇喜多直家の配下に加わり、重臣に列せられた。全登の父の代である。宇喜多家中にはキリシタンが多いため、全登は早くからキリスト教に親しんでいたと思われる。
 全登自身は直家の子、秀家に仕えて重きをなした。秀家の養父でもある豊臣秀吉から直々に十万石(一説に四万石)の扶持を与えられ、直参同様の扱いを受けている。このことから明石氏が宇喜多家でかなりの勢力を持っていたこと、また全登自身もそれを率いるに足る才能の持ち主であったことが推察されるが、格別の逸話もないのは不思議である。
 関ヶ原直前、彼は一躍、筆頭家老に任じられた。いわゆる「宇喜多騒動」によって譜代の重臣の多くが退去したためである。このときから全登の活躍が始まる。
 慶長五年、関ヶ原。東西両軍が関ヶ原に布陣したとき、西軍の先陣は宇喜多秀家、その前衛隊長が明石全登その人であった。
 東軍の井伊直政・松平忠吉の抜け駆けにまず気付いたのが全登であった。彼はとっさにそれがただの斥候隊でないことを見抜き、即座に一隊を派遣した。直政はこれに鉄砲で攻撃、明石隊は待ってましたとばかりに反撃を仕掛けた・・・
 これが、関ヶ原の戦いの最初の一幕であった。抜け駆けに怒った東軍の先鋒、福島正則は可児才蔵を先頭に猛進を開始。藤堂、京極らの加勢も得て西軍に迫った。全登はこれを一歩も退かずに防ぎ、しかも数で劣りながら着実に押し返していった。
 だが、小早川の裏切りに後ろを衝かれた西軍は惨敗。全登は主・秀家を落とすと、彼自身も身一つで関ヶ原を逃げ出す羽目になる。彼が自害しなかったのはキリスト教が自殺を禁じているためであったろう。
 戦後数年、彼はキリシタン仲間の黒田氏に匿われていたらしい。そのまま一キリシタンとして一生を終えるかに見えた彼が再びその手に槍を取ったのは、十五年後、大坂の陣においてであった。彼は幕府によるキリシタン弾圧に耐えかね、豊臣家による布教の許可を得るべく、再び戦場に勇姿を現したのだった。
 入城早々、彼は後藤又兵衛らと共に牢人武将の代表に選ばれる。両陣みごとな働きを示し、特に夏の陣では真田幸村とともに徳川本陣を挟撃する(戦略的には予備軍であったとも言う)。結果として本陣入りを果たしたのは幸村であったが、全登もまた、剽悍で鳴る越前兵を壊滅させ、徳川家最大の『問題児』水野勝成相手に善戦した。
 彼はここで戦死したとも、再びキリスト教の教えに従って脱出し、高山右近の如く、海外へ逃れたのだとも伝えられるが、詳しくは不明である。 
                   (文章:曽呂利殿 )

 

 安国寺恵瓊 (?〜1600)
所属: 西軍
行動: 西軍
領土: 伊予国和気郡六万石
安芸国の守護、武田信重の遺児。幼名竹若丸。
 安芸武田氏が毛利氏によって滅ぼされたため、安芸国安国寺に入り、毛利氏の外交僧である恵心の弟子となった。恵瓊も外交僧となり、天正元年(1573)将軍足利義昭と織田信長の不和の調停や、羽柴秀吉の備中高松城攻めにおける毛利氏との講和成立などで活躍した。この高松城での講和で秀吉の天下取りを助けた功により、天正十一年ごろからは秀吉の直臣として働くようになった。四国征伐後は伊予で二万三千石の知行を与えられ、後に加増され六万石を領した。慶長五年(1600)関ヶ原合戦では懇意である石田三成とともに西軍首魁として動き、毛利輝元を総大将として担ぎ出すことに成功した。この時、恵瓊と並び毛利家で重きをなしていた吉川広家は毛利一族の西軍加担に強く反対したため、恵瓊と対立した。関ヶ原本戦では南宮山後方に布陣したが、家康に内通していた広家に牽制され、戦闘に参加することなく伊吹山中に逃走した。恵瓊は伊勢路から転々として京に入ったが、九月二十三日に捕らえられ、十月一日には石田三成、小西行長と共に洛中引き回しのうえ六条河原で斬首された。
 禅僧としては永禄十二年(1569)安芸安国寺住持となり、のち備後国鞆の安国寺住持を兼ねた。晩年には東福寺二百二十世住持となり、さらに南禅寺住持となるなど僧侶としても位を極めた。
 また、本能寺の変以前に 「信長の代、五年三年は持たるべく候。明年あたりは公家などに成らるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」 と信長の横死と秀吉の天下を予言したことでも有名。彼が時局を見る能力に長けていたことを示しているといえよう。
       (文章:烏丸武虎)   

 

 上杉景勝 (1555〜1623)
所属: 西軍
行動: 西軍(地方)
領土: 陸奥会津百二十万石
越後坂戸城主、長尾政景の次男。母は上杉謙信の姉綾子(後の仙洞院)。卯松、喜平次、顕景と称した。寡黙で笑顔をみせることが少なかったという。
 永禄七年(1564)に父政景が没すると、叔父謙信の庇護を受けて養子となり、天正三年(1575)に景勝と名を改めた。天正六年三月に謙信が急逝すると、景勝は謙信の遺言と称して春日山城本丸に入るが、もう一人の謙信の養子、上杉景虎(北条氏康の七男)と家督を巡って争うこととなった。国内を二分した御館の乱である。景勝は景虎を援護するとして侵攻してきた武田勝頼とその妹於菊を娶ることで和睦し、景虎の籠る御館を攻めこれを落とすと、鮫尾城で景虎を自刃させた。謙信の遺領を受け継いだ景勝は直江兼続を執政として国内の支配体制を固めるが、天正十四年六月、景勝は将士四千人を率いて上洛し、大阪城で豊臣秀吉に臣従の礼をとった。天正十六年には従三位、参議、中将に任じられ、秀吉から豊臣と羽柴の姓を賜った。小田原の陣と文禄・慶長の役を経て慶長三年(1598)に会津百二十万石に転封となり、秀吉の死後は五大老の一人として秀頼を補佐した。
 慶長四年、景勝は帰国すると突然、居城を始めとする領国内の諸城の普請や道路の整備をし、さらに全国から浪人を召し抱え軍備の拡張を行った。これらの動きは越後春日山城主・堀秀治や出羽角館城主・戸沢政盛によって徳川家康に通報された。家康はすぐさま会津に使者を派遣し景勝に上洛を求めるが、景勝はこれを拒否したため家康は景勝に翻意ありとして会津征伐を決行した。家康は下野国小山まで進軍したが、上方での石田三成挙兵の報を受けると江戸へ引き返した。直江兼続は家康を追撃することを提言したが、景勝は「家康が引くのであれば自分もまた退く。武門の意地は貫いた。敵の弱みに付け込むのは上杉の作法ではない」として会津に引き上げてしまった。
 その後景勝は兼続に隣国出羽の最上攻めを命じ、兼続軍は破竹の勢いで進撃したが、関ヶ原での西軍敗退の報を受け撤兵。翌六年に結城秀康を頼って上洛し、家康に謁見して謝罪を申し入れたが、出羽米沢三十万石に削封された。
 徳川政権下で小藩となった上杉氏は多数の家臣を抱え貧困に苦しんだが、やがて上杉鷹山の時代に藩政の改革が行われ持ちこたえた。その後戊辰戦争では新政府に対抗したため削封されるが、明治十七年には伯爵を授与された。
     (文章:長宗我部信親)

 

 大谷吉継 (1559〜1600)
所属: 西軍
行動: 西軍
領土: 越前敦賀五万七千石
幼名を紀之介、慶松(桂松)といい後に兵馬、紀之介と名乗る。一説に豊後臼杵城城主大友宗麟の家臣大谷盛治の子と伝えられ、そして石田三成を頼って姫路城へいき在陣中の羽柴秀吉に仕官したと伝えられている。一説に近江小谷(おおたに)出身説があり、大谷吉房が八幡大神に子宝を祈ったところ神託があり生まれた子が慶松のちの大谷吉継だという。とにかく出自については諸説があってわからないことが多い。また吉継はある不治の病を患っていた。当事で言う天刑病(ハンセン氏病、らい病)である。この病になると皮膚では斑点や結節紅斑が生じ、知覚が鈍くなる手や足の変化も起こりやすい。吉継も顔や手足が醜く崩れ日常、顔面を布で覆い、手足に包帯を巻いていた。また喉頭、気管も冒され声もかすれがちだったという。
1583年天正11年、賎ケ岳の戦いで兵糧の調達などで石田三成らとともに賎ケ岳の七本槍に次ぐ戦功を挙げた。1585年天正13年、秀吉の関白就任に伴い刑部少輔に就任この時から大谷刑部と呼ばれる。1989年天正17年、敦賀城主のお家断絶に伴い敦賀城城主の後任となり五万七千石の出世。その後小田原征伐では出羽奥州での検地で才能をいかんなく発揮、朝鮮出兵においては石田三成、増田長盛とともに船舶の調達、武器、食糧の輸送にあたった。
1600年慶長5年、会津征伐に向かう途中、親交の深かった三成から挙兵を知らされ三日三晩説得したあと、三成の決意が固いのを知り負け戦と感じつつも三成に荷担。吉継は嫡男吉勝、同じく息子(甥?)の木下頼継とともに関ヶ原に参戦。北陸では前田兄弟を翻弄、合戦当日にはかねてより不穏の動きのあった小早川を牽制するため松尾山の北藤川台に陣を構えた。寝返り、裏切り、内応が相次ぐ西軍諸将の中、大谷隊の働きはめざましく吉継はもうほとんど見えなくなった目で指揮をとり奮戦するも小早川の裏切りにより自刀。自分の醜い首を的に晒すのを嫌い、首を刎ねさせ家臣湯浅五助に埋めさせた。湯浅五助は首を埋めるところを東軍の将、藤堂仁右衛門に見られたが自分の首と引き換えに口止めを懇願。それから吉継の首が見つかる事はなかった。その後も吉継は親友三成に殉じた仁義の武将として後世に伝えられている。関ヶ原から三年後、小早川秀秋は狂死するが当時吉継の呪いだと噂された。大谷吉勝は関ヶ原で果てようとするが家臣の説得により戦線を離脱、頼継は帰国後病死し吉勝はその後各地を放浪した後大坂の陣、天王寺口の戦いで戦死している。
吉継は「吉継汎く衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず、世人称して賢人と言ひしとぞ」と高く評価されている。
           (文章:大谷吉継殿)

 

 織田秀信 (1580〜1605)
所属: 西軍 行動: 西軍(地方) 領土: 岐阜十三万石
 織田信忠の嫡子で、織田信長の孫にあたる。天正八年(1580)岐阜城に生まれ、幼名を三法師といった。父・信忠は、1582年の本能寺の変の際二条御所で自害したが、その直前、前田玄以に秀信を美濃に送り届けるよう託し、その命に従った玄以は無事に秀信を清州城に移した。
清洲会議では、秀吉に推された秀信がわずか三歳で織田家の後継者に決められ、安土城に移ることになった。しかし、織田信孝がこれに反対し清洲城に留めたため、同十年(1582)秀吉は岐阜城を攻めて秀信を引き取り、安土城に移し織田信雄を後見とした。同十八年岐阜城に入り、秀吉から一字を与えられ秀信と名乗り、従四位下侍従に叙任された。文禄元年(1592)岐阜城主となり十三万石を領し、慶長元年(1596)には従三位権中納言に叙任された。
慶長五年、関ヶ原の戦いでは石田三成の誘いに応じて西軍に属し岐阜城を守った。しかし八月二十三日、東軍先鋒の福島正則、池田輝政の猛攻を受けあっけなく落城した。秀信は自ら命を絶とうとしたが、正則に止められている。
戦後、一命は許され加納の円徳寺に入って剃髪、その後高野山に幽居したが、同十五年五月八日、二十六歳の若さで病死した。
 秀信は滅びたが、信長の次男・信雄は大阪の陣の後、元和元年(1615)に大和と上野で五万石、のち国持家格を奪われ出羽国へ移った。その子孫は明治に子爵を授与されている。
        (文章:長宗我部信親)

 

 佐竹義宣 (1570〜1633)
所属: 西軍
行動: 西軍
領土: 常陸水戸五十四万石
 幼名を徳寿丸。次郎・右京太夫と称した。父は「鬼義重」の異名を持つ勇将、佐竹義重で、母は伊達晴宗の娘。天正十七年(1589)、二十歳で家督を継いだ。
 この時期、伊達政宗は会津黒川城の芦名氏を破り、佐竹氏の配下にある大名を味方に引き込み、さらに小田原の北条氏と結び佐竹氏を四面楚歌の窮地に陥れたが、義宣は石田三成を介して豊臣秀吉に誼を通じることにより、苦境脱出に成功した。翌十八年の小田原の陣では、三成と共に武蔵鉢形城・忍城攻撃に参加し、後に秀吉から奥州征伐の先達を命じられた。その後義宣は秀吉の承諾を得た上で、長年抗争を続けてきた領国内の敵対勢力の鎮圧に乗り出した。まず天正十八年(1590)、水戸城の江戸重通を急襲して追い、次に府中城の大掾清幹を攻め自害させ、翌十九年には、鹿島・行方郡の「南方三十三館主」と呼ばれた大掾系の武将十五名を太田城に招き入れて皆殺しにしてしまったという。同年三月、義宣は水戸城に入り、領国支配の拠点とした。文禄四年(1595)には秀吉から父義重の領地や与力知行地、太閤蔵入地などを含めて、五十四万五千石の大封を受けた。父・義重の妹の子で、義宣には従兄弟にあたる宇都宮国綱が所領の申請の不正や養子をめぐる問題で改易されたおりに義宣も連座する危機にあったが、三成の尽力で事なきを得た。この件を通じて義宣は三成と懇意になったようで、慶長四年(1599)、福島正則ら武断派七将による三成襲撃事件の際、義宣は兵を伴って大坂へ急行し三成の危地脱出を援助したと言われている。
 こうした三成との友好から、慶長五年(1600)関ヶ原合戦で義宣は三成・上杉景勝と通じ西軍につこうとしたが、家中では未だに強い発言力を持つ父・義重や重臣に反対され中立の立場を保った。このため、戦後の同七年、出羽秋田二十万五千石に改易となった。
 同年秋に秋田氏の居城、湊城に移るがのち久保田へ本拠地を移し、近世における秋田藩の基礎を作った。寛永十年(1633)十月二十五日、江戸で病没した。
       (文章: 所長・烏山武虎)

 

 戸田重政 (?〜1600)
所属: 西軍 行動: 西軍 領土: 越前安居二万石
 勝成・勝重とも称した。初め丹羽長秀・長重父子に仕えていたが、丹羽家内紛の折に豊臣秀吉の家臣となり、越前国足羽郡安居城主として一万石を領した。九州征伐、小田原征伐に従軍し、文禄の役では肥前名護屋に駐屯。同三年(1594)には伏見城の普請を担当し、のちに一万石を加増された。
慶長五年(1600)関ヶ原合戦では西軍に属し、北国口を守備したが、東軍が迫ると美濃へ向かった。関ヶ原本戦では大谷吉継隊に属して奮戦したが、小早川秀秋に続く脇坂安治・朽木元綱・赤座吉家・小川裕忠ら四隊の寝返りにあって敗れ、織田有楽の家臣に討ち取られた。
重政は諸大名との親交が広く、彼の死を悼んで東軍の知己ある者は、皆涙を催したといわれている。

 

 平塚為広 (?〜1600)
所属: 西軍 行動: 西軍 領土: 美濃垂井一万二千石
孫九郎・因幡守とも称した。初めは身分が低く、豊臣秀吉の馬廻り役から出世したという。小牧長久手の陣に従軍、小田原征伐で功を挙げた。文禄の役では肥前名護屋に駐屯し、文禄四年(1595)には五千石を与えられた。慶長三年(1598)の醍醐の花見で秀吉の側室・三の丸殿(織田信長の娘)に随従したといわれる。同五年、美濃国垂井で一万二千石を領した。
慶長五年(1600)関ヶ原合戦では西軍に属した。本線に先がけて、大谷吉継の使者として佐和山城に赴き石田三成を説得するが断念。本戦では大谷吉継と共に奮戦、病に冒された吉継に代わり采配を振る場面もあったという。しかし小早川秀秋を初めとして、脇坂安治・朽木元綱・赤座吉家・小川裕忠ら四隊の寝返りにあって苦戦。討ち取った敵兵の首に 「名のために 捨てる命は惜しからじ ついにとまらぬ浮世と思へば」 の辞世の句を添えて吉継に届けさせた後、群がる敵兵の中に打って出て壮絶な討死を遂げた。
戦後、子の久賀が徳川家康に召し出され、後に御三家紀伊の徳川頼宣に仕え、後に子孫は三百石の旗本となった。

 

 真田昌幸  (1547〜1611)
所属: 西軍
行動: 西軍(地方)
領土: 信州上田十万石
幼名源五郎。父親は世に知られる真田弾正忠二郎三郎幸隆。母親は海野氏の重臣河原丹波守隆正の妹の河原氏。1547年、幸隆の3男として生まれる。
1561年15歳の時、第4次川中島合戦で初陣を飾る。以後甲斐の名族武藤氏の養子となって、武藤喜兵衛と名乗り、武田信玄の足軽大将として活躍。武田信玄から「登り梯子の鎧」を賜り、曽根内匠と共に「我が両眼」と言われる。
信玄の死後、長篠の戦い(1575)で、長兄信綱、次兄昌輝を相次いで失い、三男の昌幸が旧名に復し、真田氏と信州上田城を継ぐ。
1578年、上杉謙信が死去したのを機に北条方が上野国沼田城を攻略。その機を見逃さず、昌幸はその沼田城を謀略、内応を駆使して北条方より奪取。沼田領をも掌握した。
1580年安房守任官。
1582年、長篠の戦いによって急激に衰運をたどりつつある武田勝頼を岩櫃城に招くが、勝頼の近臣に反対され、結局勝頼は小山田信茂の城に退く。しかし、小山田の裏切りにより、遂に真田の主家、武田家は天目山に滅びる。その後、真田家は徳川の配下となる。
1585年、当時徳川配下にあった真田に徳川から沼田城引き渡しを要求される。しかし昌幸は頑として聞き入れず、遂に徳川の討伐軍七千を敵にしての上田城籠城戦となる。この合戦は天下じゅうの人々には当然徳川か勝つと思われた。しかし、昌幸は老獪なゲリラ戦で徳川軍を完膚無きまで叩きつぶす。その徳川軍の惨敗ぶりは「ことごとく腰が抜けて」「下戸に酒を強い足る風」といわれるほど酷かったという。その時、当の昌幸はというと徳川軍の負けを見越して呑気に碁を打っていたと伝えられる。この後、真田の武名は大いに広まる。
徳川軍を破った後、すぐに上杉に接近し1589年、秀吉に出仕する。秀吉からは、沼田領を北条に渡す変わりに伊那郡箕輪領を与えられる。その後、朝鮮出兵を経て、1598年太閤秀吉が死去。
1600年、五奉行筆頭の石田三成と五大老筆頭の徳川家康との対立が激化し、遂に関ヶ原の戦いが起こる。昌幸は石田方の西軍に加わるも、昌幸の長男信之は徳川方の東軍に加わる。(犬伏の別れ)信之と別れた後、徳川秀忠率いる三河軍精鋭三万八千が関ヶ原に参陣するため信州上田城辺りを通過しようとする。昌幸は最初は恭順的な態度を示すが、後に矛を返す。秀忠は怒って信州上田城攻めを実行するが、前回同様昌幸の老獪な作戦に引っかかって惨敗。秀忠軍は関ヶ原に遅参するという恥を天下に知らしめた。しかし、関ヶ原の合戦は西軍の敗北。真田昌幸は本来ならば死罪の所を長男信之の懇願で、紀州九度山へ流罪となった。その後、九度山で隠遁生活を送りながら、自らが考え出した「真田紐」を作り、生計を立てながら余生を送ったという。
1611年6月4日、真田昌幸死去。その後1615年に大坂の陣で大活躍した真田信繁(幸村)の死を境に真田本家の血は滅んだ。しかし、関ヶ原で東軍についた真田信之の沼田真田家は、その後明治の世まで残ったという。これは乱世をしぶとく生きた小大名真田家の最後の生き残り戦略だったといえよう。
                                  (文章 by真田幸村殿)

 

 脇坂安治 (1554〜1626)
所属: 西軍 行動: 内応 領土: 淡路洲本三万三千石
幼名甚内。天文23(1554)年、田付孫左衛門の子として生まれるが、母の再婚に従って脇坂安明の嗣子となる。安明は織田信長の手のものであったと云われているが、地方の小豪族であったと思われる。
 永禄12(1569)年、明智光秀の配下として黒居城攻めに従い、武将首を挙げた。同年、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の配下に加わる。翌年、秀吉が本願寺門徒一揆を討つべく大坂へ出陣した際、「年若の者は居城・小谷に残るように」と言う秀吉の命令を無視して大坂へはせつけた。秀吉は安治の属していた組の組頭を叱りとばしたが、安治自身には「弓矢をとる者かくあるべし」と称賛し、鞍付き馬一頭を贈ったという。
 その後も秀吉に従い、馬廻りとして輪違い紋を賜る。また、播州攻めの最中、明智が攻める丹波黒井城の赤井悪右衛門直正のもとに降伏勧告の使者として派遣されている。この時直正は悪性腫瘍に悩まされていたが、降伏を拒否、天正6年3月9日に病死。黒井城は翌年に落ちた。この時、安治は赤井に気に入られたようで、赤井家累代の家宝であった(幸いを呼ぶという)雌雄の貂の皮を譲られている。後に脇坂家のシンボルマークとなった「貂の皮」がこれである。なお、安治自身が赤井を討ち取ってこれを得た、とする小説類が多いが、俗説と思われる。
 安治はその後、三木城攻略などで名をあげている。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに出陣し、いわゆる「七本槍」に選ばれ、三千石を賜る。彼はこの時、七人中最年長の三十歳。続く天正13(1589)年の五月には摂津能勢で一万石、同年十月には淡路洲本三万石を賜り、従五位下中務少輔に叙任。
 だが、織田信雄が秀吉に反旗を翻したとき、信雄の家老・滝川雄利に騙され、預かっていた人質を帰してしまうと言う失態を犯す。この失態に秀吉は激怒し、怖れた安治は手勢二十に付近の野武士どもを含めた五百あまりの兵を率い、大慌てで伊賀上野城を攻めた。守将雄利は先の礼のつもりでもあったか、怖れることもないこの人数に屈し、城を明け渡して逃亡した。これが安治の三つ目の大功である。
 島津攻めでは先鋒を引き受け、小田原攻め、朝鮮出兵にも出陣するが、特別目立った働きはないが、地道に功を立て、豊臣恩顧大名としての地位を確立していく。
 慶長5年(1600)年の関ヶ原では一子・安元と共に当初、西軍に属しているものの、大谷吉継の与力として関ヶ原、松尾山の麓に布陣する前には特に目立つ働きもなく、布陣してからも朽木元綱ら三将と列記されるのみで動かない。というのも早くから徳川に内通していたようで、小早川秀秋の謀反に応じて寝返り、吉継に攻めかかった。この時、朽木、小川、赤座の三将もこれに倣った。
 その後、三成の居城・佐和山攻略では小早川秀秋ら裏切り五人組で先鋒を引き受け、軍功をたてる。戦後、慶長14年に伊予大州五万一千石。朽木ら三将には加増はなく、小早川も程なく狂死する。裏切り五人組の中では安治のみが成功したわけで、戦前の工作が生きた結果であり、戦国を泳ぎ抜いてきた、彼の図太さもよく判る。
 大坂の冬の陣では安元とともに500人を率い、前田利常らと共に南口に布陣し、真田と争うなど手柄を立てている。同じ七本槍の福島正則、平野長泰が江戸留守居を命じられたのとは対照的である。
 慶長20(1615)年隠居、11年後に逝去した。子の安元は歌人、八雪軒として名高い。
 いずれにせよ、荒猛者ばかりと言われ、最後まで家康に踊らされた感のある他の七本槍の面々とは、ひと味違った老巧な人物であった。七本槍の内、最期まで家康に疑われなかったのは安治ただ一人である。脇坂家は幕末まで大名として生き残っている。

              (文章 by曽呂利殿)