文鳥問題.

《飼育タイプ@》

 ひとくちに文鳥を飼うといっても、その目的はさまざまです。目的が違えば飼育に対する基本的な考え方も違うものになります。考え方が違えば、飼育方法も異なってきます。つまり飼育タイプはさまざまで、単純ではないのです。同じ動物を飼っているから、自分と同じような考え方だと錯覚すると、大きな誤解、失望を招くことになります。自分と違うので腹を立てたり嘲笑したりする前に、まずは多様な存在を認識すべきでしょう。【2003年8月】  飼育タイプA(「文鳥様にお仕えする」「文鳥中心主義」)


 もし、文鳥飼育について「あなたはプロかアマチュアか?」と訊かれたら、私は100%アマチュアです。
 飼鳥の世界に限らず、動物飼育の世界でのプロとは繁殖家
(ブリーダー)をさします。このブリーダーとは、自分の飼っている動物を繁殖させ、生まれた子供を譲る(売る)目的をもっている人たちのことです。そして模範的なブリーダーと言えば、より良い子供が生み出されるように努力する人たちで、その品種の良い点を多く引き出し、たくさんの人たちに分かち与えることを志しているはずです。私の場合は、自分の家で手乗りにして一緒に遊びたいだけなので、何世代も継続繁殖していても、完全無欠のアマチュアなのです。
 しかし、飼育に関してプロは優れアマチュアは劣る、とは全く考えません。なぜなら、根本的に違った目的で飼育している以上、両者はもともと同一平面上にいないからです。例えば同じ野菜について、上手に栽培する人と上手に料理出来る人は違うように、アマチュアが経験を重ね、段々プロになっていくといった関係にはありません。

 さて、文鳥の飼育に関してどのような目的、つまり、飼育タイプの相違があるのか、いろいろな分け方が考えられますが、私は大まかに次の4種類に分けて考えています。

禽舎での多数飼育 おもに収入を目的とする(採算の追求)。=生産者・プロ @
趣味的要素を重視する(採算を考えない〜採算を考える)。=繁殖家・(セミ)プロ A
室内でのカゴ飼育 手乗り化を重視する=一般的な飼鳥者・アマチュア B
外見・繁殖を重視する=一般的な飼鳥者・コレクター  C

 それぞれの飼育の特徴などを整理しておきます。

 @は愛知県弥富の生産農家などです。この方々にとって、文鳥の飼育は純粋に暮らしの手段なので、採算がとれるように文鳥を「生産」し「出荷」しなければなりません。
 禽舎といっても、その中は区々としたカゴ
(ニワコ)でのツガイ飼育で、これは確実に運動不足を招くでしょうが、しっかりとした血統管理が可能な飼育方法といえます。従って、近親交配などの発生を防ぐことが容易で、丈夫な文鳥が「生産」されることになるわけです。
 当然、@の人々の飼育努力とは生産効率の向上と品質保持の研究ということになります。

 Aは千差万別です。集団で行動する文鳥を観察する目的で広い禽舎で飼っている人もいれば、繁殖飼育を目的とする人もいます。欧米的な小鳥の飼育スタイルでもあり、ブリーダーにはこの禽舎での多数飼育が多いのではないかと思いますが、広く飛べる空間があった方が健康的なので、その点個々の文鳥の健康にも利点となります。
 広い禽舎で運動十分の健康な文鳥が、採算をあまり考えずに十分な栄養を与えられて育つのなら、素晴らしいことでしょう。そこで生まれ育った文鳥は、非常に優れているように思います。ところが、広いところで複数いたのでは血統管理の面はルーズにならざるを得ません。文鳥は夫婦仲の良い小鳥ですが、浮気の常習者も多い小鳥なのです。その点を考慮して、繁殖期にツガイごとにカゴ
(ニワコ)に分けるなどの努力をすると、集団行動を見るという目的は薄らぎ繁殖に特化した存在になっていきます。
 繁殖を品種の創出といった趣味、もしくは商売と結びついている場合もあるでしょう。その点で、もし全く責任感を伴わない場合は、失敗作としての「余剰」を市場に送り出す迷惑な存在ともなり得ます。何しろ@と比較して責任が不明瞭な面があるのです
(生産者団体などない)趣味人の側面と生産者の側面を持つことが多いので、生産者としての比重が増した場合、責任を強烈に自覚する必要があると言えそうです。
 Aの人々はさまざまなので、飼育努力のあり方もさまざまなものになります。より良い飼育環境を優先させる人、繁殖飼育を優先させる人、色変わりなどの創出を優先させる人、それぞれ力点は異なることになるでしょう。ただ、合理的に多数羽を飼育する努力、という点では共通するものがあると思います。

 Bは文鳥をペット、もしくはコンパニオンアニマル(伴侶動物)と考えている人々です。手乗り化が容易な文鳥の場合、このタイプが数的には主流だと思います。欧米では小鳥がこういった存在になることはまずないと思われるので(一般家庭の室内で手乗りの小鳥が飛びまわることはない)、日本独特のものだと私は考えます。
 自分に親しむ家族の一員として文鳥を扱うので、多少の羽毛色の好き嫌いを別とすれば、外見にはこだわらなくなり
(アバタもエクボになる)、病気になれば費用負担も厭いません。ただ、愛するあまり、人間とペット動物との区分けが出来なくなり、問題を起こすのもこのタイプでしょう。現在、どのペット動物についても一般化している飼い主のタイプともいえます。
 パートナーは文鳥に限らなくとも良いと考えれば、他の鳥類やペット動物と一緒に飼育する、もしくは、飼育したくなる人が多いのも特徴といえるでしょう。文鳥というより、動物好きと見なせる人が多く含まれているわけです。
 当然、Bの人々の飼育努力は、「我が子」といかに快適に生活できるかに向かいます。それが第三者から見て適当かどうかは別として、とにかく一所懸命自分の文鳥のために試行錯誤します。

 Cは昔風に言えば好事家です。文鳥という動物を鑑賞目的で飼育します。日本伝統の「鳥キチ」は、いろいろな小鳥を、それぞれカゴ(ニワコ)に入れ、真綿にくるむようにして大切に大切に飼育したものですが、その系譜をついでいる存在とも言えます。ただ、飼育数が増え、また文鳥の運動不足を考えると、Aに変化する場合も多いものと思います。
 より鑑賞にたえる個体を求めるので、自分以外の同好の士との切磋琢磨が前提となり、鑑賞会などを実施することにもなります。手乗りになる文鳥では主流とは言えませんが、飼鳥、特に小鳥の飼育としては、本来一般的なタイプと言えるでしょう。なお、BとCの相違は、例えば愛犬家に例えるとわかりやすいと思います。雑種犬を拾って大切に育てる人と、純血種を大会でチャンピオンにするために努力する人の違いです。似ていて非なるものなわけです。
 必然的に、いろいろと集めてそれを眺めたり育てたり、より良いものを追求することになりますから、コレクターとも言えます
 最近、文鳥飼育でも増えているらしい、色変わりをつくろうと試みる人もこのタイプに分類できます。この色変わりを求めて鳥を飼育すること自体は、小・中型インコ
(セキセイ・ラブバード・オカメなど)ではすでに一般的ですが、そうした同じ趣味の人々同士が横のつながりをもって、色変わりという目的を追求することが前提として必要となります。なぜならそれが不十分だと、この目的では必ず生じる遺伝繁殖上の「失敗」を市場に出し、品種混乱を引き起こすことになるからです。また、遺伝変異を起こすには、飼育数が多いほど有利ですから、この場合A的な要素を強めるのも宿命づけられています。
 
Cの人々の飼育努力は、より良い(と信じる)個体の創造に向かいます。新しい個体の創造には、多くの個体を生み出し選択しなければいけませんから、血統管理を重視した繁殖が中心となります。

 

 さて、個人的にはBアマチュアなので、その視点で他の飼育タイプを眺めざるを得ませんが、別のタイプは異次元に存在しているのを痛感することがたびたびあります。例えば、「何とかのスプリットと何とかを交配したら、クリーム文鳥が生まれますか?」などと訊かれても、そのカップルは仲良くするのだろうか、もし望みの毛色の子が生まれなければ、仲が良くても夫婦は離婚させられてしまうのだろうか、などと私は考えてしまうのです。文鳥に「離婚」などと、擬人化し過ぎていると他のタイプの飼い主に笑われても、Bの人々は『文鳥の気持ち』(それが見方によってさまざまであっても)を考えずにはいられないのです。
 飼育の根本に存在する目的の違いは、それぞれの文鳥に対する見方を大きく隔てる方向に向かっており、それは綺麗事でごまかせる相違ではありません。目的の相違により、文鳥に対する態度は相互に全く違ったものとなっているのが現実なのです。もしその認識もなく、異なったタイプの人同士が、同じ文鳥という生き物について話しても、違和感が生じ、それは容易に不快感に結びつく性質のものとなってしまいます。

 
 文鳥という同じ小鳥を愛するにしても、愛し方はさまざまなのです。もちろん、その違いを考えず、安易に否定するのは愚かです。否定するだけでは、文鳥について自分では気がつかない 、いろいろな美点の存在を再発見する機会を永久に失ってしまいます。
 しかし、安易に「文鳥飼育者はみんな同じだ」と考えるのも、不適当でしょう。目的意識を共有していない以上、共通する話題は少ないのが現実で、「文鳥好き」の結論は同じでも、話はかみ合わず、ストレスばかりを感じることになります。例えば、Aの人々が中心となる団体にBの個人が入り込めば、よほど鈍感でなければ、違和感でいたたまれなくなるものと思います。「何で同じ文鳥を飼っていて、話が通じないのかしら?」と悩むかもしれませんが、同じ文鳥でも視点が異なれば別のものになることに気づくべきです。
 Cのタイプの人が、次から次に新しい文鳥を集め、今まで飼っていた文鳥を他の人に譲っているのを見たら、Bの人々は、なぜ我が子のような文鳥を他人に簡単に渡せるのか、不思議かつ不快に思うことでしょう。しかし、飼育動物を「我が子」と考えるのはBのタイプだけなのです。Cのタイプの飼い主が、不必要になった動物の将来も考慮している限り
(捨てたりするのは論外)、誰も非難出来るものではないですし、何で動物を人間扱いするのか、逆に質問されたらBの人々はどう答えれば良いのでしょうか?

 結局のところ、自分の性格にあった飼育タイプがわかったら、自分とは違うタイプには、基本的に介入しないのが一番良いものと思います。多様にある存在の一つ一つの理解など、凡人には不可能なので、無理に理解者顔をすればくたびれてしまうだけです。無理をせずに、多様性を認めるだけで良いのだと考えます。
 自分とは違う存在を否定せず、それでいて何でも同じと思わず異質を認識した方が、異なった者の対立は起きないでしょう。まず、自分がどのタイプに近い飼育者なのか、ゆっくり胸に手を当てて考えてから行動したり発言する必要があるわけです。
 自分のタイプが分かったら、プロはプロで切磋琢磨し、アマチュアはアマチュアで切磋琢磨し、コレクターはコレクターで切磋琢磨し、互いに安易に干渉せずにとりあえず尊重する、これが誤解を生まない一番の方法だと信じます。

※ 私はブリーダーにしっかり品種管理してもらいたいと思っていますが、これは消費者の生産者への要求で、飼い主が飼い主に要求しているものではありません。念のため。


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