文鳥問題.

《飼育タイプA》

           「文鳥様にお仕えする」     「文鳥中心主義」     【2004年5月】


「文鳥様にお仕えする」

 マンガの影響のようですが「文鳥様にお仕えする」という表現を、かなり頻繁に耳にします。

 確かに飼い主である人間は、特に代価を求めるでもなく、せっせと文鳥の世話をし、文鳥のほうは三食昼寝付きで、気に入らなければ飼い主の指くらい平気で噛みますから、勝手気ままな王様と下僕の関係によほど近いです(本当の王様の日常は楽でもないようだが ・・・)
 なるほど「文鳥様にお仕えする」は、実に良く出来た比喩なのです。しかし、それは当然ながら、主観的現実であっても客観的事実ではありません。つまらない客観的な事実では、文鳥はペット動物に過ぎず、飼 い主である人間の手に運命を握られる小さくはかない存在でしかないのです。
 このはかない存在のペット動物を、下僕ならぬ保護者である飼い主が一所懸命世話をするのは当たり前で、「お仕えする」などとわざわざ嗜虐的に言うほどのことではないでしょう。と、文鳥やペット動物に関心の無い第三者に言われたら・・・、私は、「まったくそのとおりですね!」と答えるしかないです。人間であれば、未成年の子供の世話をするのは親の責任ですが、ペット動物の世話をするのは飼 い主の責任なのです。現実として、親が子供にお仕えしているような家もありますが、「私は自分の子供にお仕えする奴隷です!」と他人に吹聴して喜ぶ親はい ないのではないでしょうか?
 そのような常識なり、第三者の目を理解し「飼い主」である認識を常に持ちながら、それでも「お仕えする」以外ではない実態に、苦笑まじりのため息をしながら出る言葉、それこそが「文鳥様にお仕えする」ではない かと思います。

 ところが、飼育をはじめて間の無い人が、「文鳥様にお仕えする」という表現を使用する時、そこに苦笑やため息があるかは 大いに疑問です。どうも、その言葉の前提が不明瞭なまま一人歩きして、それ自体が自己目的化している印象を受ける時があるのです。
 「下僕である私めは、ご主人様のために何が何でもいろいろして差し上げなければならぬ」
 「下僕である人間は、文鳥様のために自分の生活のすべてをささげつくすべきで、それが出来なければお仕えしてはならぬ」 

 覚悟の程は賞賛に値しますが、このように思いつめた人は、次のような問いかけにどのように答えるのでしょう。
 「あなたは、お仕えしたいから飼っているのですか?」
 もし「お仕えする」ことによる自己陶酔と自己満足のために飼育しているのなら、血の通ったものよりも、お人形を相手にしたほうが楽かもしれません。例えば、血の通った人間の友人や恋人との付き合い方を考えたいところです。こちらが一所懸命尽くせば尽くすほど、かえって相手は迷惑するのが世の常ではないでしょうか?
 「あなたは私のことが好きというより、私のことが好きな自分が好きなんでしょ!」
 などと、核心をつかれるのが関の山かもしれません。
 本来、誰でも鳥との楽しい生活を送るために、飼育をはじめたはずなのです。そして「お仕えする」ようになったとしても、それは結果であって目的では無いは ずです。そのことを忘れてしまうか気づかないで、ただひたすら「お仕えする」を繰り返し、本当は当たり前のはずの日常の世話に対して自己陶酔や自己満足をしていくと、飼育している動物の責任管理者、つまり「飼 い主」として不可欠な自覚を置き忘れる恐れもあるように思います。
 「お仕えしている」下僕であるはずの飼い主が、ご主君であるはずの「文鳥様」を檻であるカゴに放り込むでしょうか?さらに「お仕えする」あまりに、下僕の人間が与えたい
(何しろそれが健康に良いはずだと下僕が判断したから)ものを押し付けたり(この下僕は主君が他の食べ物を選択する権利さえ奪う!)、ご主君の意向など無視して、小さな入れ物に押し込み病院にお連れするのはどうでしょう(何しろそれが一番良いと下僕が信じているから)?その行動は、自分では「お仕えする」つもりでも、飼 い主の専権を振り回しているようにしか、他人からは見られないものなのです。

 「お仕えする」は現実の比喩表現にすぎず、その言葉に呪縛されて、どうやって「お仕えする」べきか、目を血眼にして狂奔し、自分を追い込む必要などありません。言葉に踊らされてはいけないのです。どうやって楽しく生活できるのか、これが重要なことだと思います。

 ※徹底的な管理主義で飼育すること自体を否定するつもりはありません。ただ、それは一般的に見れば、「文鳥様にお仕えする」という表現とは矛盾していることも理解したほうが、気が楽になると考えます。

 

「文鳥中心主義」

 さて、「文鳥中心主義」という言葉を、以前に使った人がいるかは知りませんが、これから私が使用した場合、いろいろな誤解を受けそうなので、あらかじめ断っておきます。
 当然ながら、文鳥の一生は飼い主の意向に絶対的に左右されるので、放任主義的に文鳥の自由意志に任せるという意味ではありません。たとえば、万一文鳥に人間並みの思考能力を認めたとしても、「甘いものが食べたいチュン!」などと、甘いものの存在も知らない環境で育った文鳥は、考えるわけがないのです。つまり 、飼い主である人間が、その自由意志で選択した環境の中で生きるしかない文鳥には、本当の意味での自由意志などありはしないと言えるでしょう。
 また、私はペット動物と呼ぶにせよ、コンパニオンアニマル
(伴侶動物)と呼ぶにせよ、飼育される動物が、飼い主の不幸せの上に幸せになることは、論理的にあり得ないと見切っているので(家計困難・病気療養・性格破綻などしてしまったら、動物は飼えなくなってしまう)、「文鳥中心主義」と言っても、生活のすべてを文鳥中心にして、それこそ身も心も社会性もボロボロになるまで「お仕えする」ことを意味してはいません。とりあえず文鳥のために帰宅時間を『なるべく』早くするのも「文鳥中心主義」、長い旅行を『可能な限り』控えるのも「文鳥中心主義」と考えています。つまり、人間である飼 い主が行いたいことがあっても、まずは文鳥のことを考えてから行動する態度を意味しているわけです。

 そのように規定してしまえば、私は他人が何と言おうとバリバリの「文鳥中心主義」です。さらに自慢になりませんが、自分の文鳥の幸福=自分の幸福と概念の上では考えているらしいので(意識していない)、「文鳥中心主義」がまるで苦痛にならない特異性を有しています。と言っても、本当はたいそうな話ではありません。外でお酒を飲むよりも、文鳥と遊んだほうが楽しいのですから、苦痛になるわけが無いだけの話です。高原の別荘地のハンモックに揺られるよりも、梅雨の室内で 、文鳥に耳をつつかれる方がのんびり出来るのなら、もはや「文鳥中心主義」が骨の髄までしみてきていると言って良いでしょう。
 ところが、私のように自分の文鳥に不利益になるかならないかで物事を判断していくと、困ったことに人間としての社交性は限定的なものとなってしまいます。酒やタバコをしないとか、旅行をしないとか、そういったことばかりではないのです。例えば、どこかで文鳥の品評会があったとすればどうでしょう。いろいろな文鳥の姿を見るのは楽しいことだろうと思いつつ、「文鳥中心主義」の私はすぐに次のように考えます。
 「私の文鳥にとって、それはメリットのあることだろうか?」
 答えは、残念なのか喜ばしいのか個人的には微妙ですが、ノーです。良いことは何一つありません。

 @ 人も鳥も多い環境は、自分の文鳥にストレスを与える。 
 A 会場に行くストレスや、途中の事故の可能性もある。 
 B 会場で他の鳥から感染症がうつらないとは限らない。

 これだけ自分の文鳥にとって否定的な材料がそろえば、参加させる気にはなりません。また、他人が実行しているのも、あまり良い気分で見れそうも無いので、こっそり観察しに行くことすら避けたくなります。「文鳥中心主義」タイプの一般 的な飼い主なら、考えれば考えるほど、参加できる性質のものではないのです。
 もちろん、品評会そのものは重要なことで必要です。そもそも品評会は、一般家庭の普通な飼い主とは別次元に存在する繁殖家
(ブリーダー)が、その種、文鳥なら文鳥の、より優れた個体を見定め、その子孫を増やしたり、その見本となる個体を各繁殖家が目指すことによって、種全体の安定や向上をはかる目的があります。したがって、これが消滅しては、末端の小売店で文鳥を飼ってきたりする私のような一般 飼い主も困ってしまうのです。

 ところが、品評会のような本来繁殖家の催しに、積極的に参加する一般飼い主も大勢存在します。そういった人たちは、何か考え違いをしているのでしょうか ?確かにその飼い主たちは、私の規定するところの「文鳥中心主義」ではないかもしれません。しかし 、その飼い主たちが、もし自分の文鳥も品評会に参加させれば、文鳥の自慢が出来るでしょうし、自分の文鳥を参加させずとも、他人の文鳥を見て回るだけでも、知見は広がり、同好の知り合いも出来るかもしれません。これは、デメリットから否定的になり参加しないといった態度からは見出しえないメリットに相違ないのです。
 ただし、この二つの参加理由は、どちらも飼育者の幸福となっても、飼育する文鳥の幸福とは見なせません。自分の姿を他人に見てもらいたいと思う文鳥など通常あり得ませんし、万一隣のカゴのピー子ちゃんと友達になるという幸運を、我がピー太郎が持ったとしても、文鳥は後ほどケータイでデートの約束など出来ないのです。
 つまり、文鳥側の視点だけで考える限り、メリットとは見なませんから、あるいは「文鳥をダシにして、飼い主が楽しみたいだけ」などと、口の悪い人は言うかもしれません。しかし、それも木を見て森を見ない発言なのです。何しろ、飼 い主である人間の幸福は、結局文鳥の幸福になることが多いのが現実だからです。またこの場合、文鳥に実質的な幸福をもたらす可能性も大いにあります。例えば、飼 い主が文鳥を仲立ちとした知己を増やすことで、有効な情報を得ることも出来るはずですし、文鳥の飼育上の助け合い
(里子里親、留守飼育などなど)も期待できるのです。ひとつの側面だけで否定出来はしないのです。
 このように、「文鳥中心主義」に対し、同じように自分の文鳥を愛しながらも、さらにその文鳥という愛するものを基点として、人生を
(ひいては文鳥との付き合いを)豊かにしていこうという志向性をもつタイプの 人たちこそが、それを意識するしないに関わらず、積極的に品評会に参加する一般飼い主なのだと思います。それは「文鳥派生主義」とでも呼ぶべき飼育スタイルで はないでしょうか。
 「文鳥中心主義」と「文鳥派生主義」、同じ一般飼い主の中にも、どちらが正しくどちらが誤っているとは言えない、二つの考え方が存在するわけです。

 さて、以前には、同じ文鳥愛好者でも一般飼い主(アマチュア)と好事家(コレクター)と繁殖家(セミプロ・プロ)などは、相互に異なった観点から文鳥を愛しており、単純に同一に考えないほうが良いと指摘しました。そして、ここではさらに「文鳥中心主義」と「文鳥派生主義」の違いについて指摘したことになります。挙句の果てに、「断然桜文鳥派」などと、昔からうそぶいているくらいですから、まるで「〜主義」とか「〜派」などと細かくレッテルを貼って、同じ愛好者を分断している印象を与えてしまいそうです。
 しかし、私が主張したいのは、ある種の差別化ではありません。そもそも、どのような類型の愛好者が一番優れているか、などといった優劣はあり得ないのです。
 では、なぜ細かく分けたがるかと言えば、「同じ文鳥愛好者」の名のもとで、あまりに相互の無理解が多いことへの危惧を持っているためです。自分の飼育スタイルこそが正しいと固く信じて、他人のスタイルなどお構いなし、相手への配慮も何もなしに一方的な意見を振りまわし、他を全否定したがる人が、案外多いように思うのです。私は、これを思想の相違を伴った飼育スタイルの多様性が理解出来ていないために起こる幼児的行動と見なしていますが、幼児的と言いながら、実際にそうした行動に走るのは、これも案外なことに立派な大人が多いようです。
 十分見識のあるはずの大人が、なぜ幼児的行動に走ってしまうのでしょう?それは、「同好者」=自分と同じ考え方の人、という初歩的な勘違いをした結果の、およそ見当はずれな近親憎悪だと思うのです。
 「なぜ、同じ文鳥愛好者なのに、そんなことをするのか!」
 
はじめから、同好
(文鳥が好き)であっても、違った考え方が存在することを心得ていれば、そのように感情的にはなりにくいはずです。
 「私には理解できないけど、こういった考え方もあるのかな?」
 いろいろなスタイルにはメリット、デメリットがそれぞれに存在しますが、まずは自分や他人のよって立つ飼育スタイルを理解していれば、もし他人の飼育スタイルに疑問点があっても、感情論ではなく冷静になって批判も非難も出来るのではないでしょうか?


 繰り返しとなりますが、考え方の違いに感情的になる前に、自分の考え方、相手との違いを、まずゆっくり整理してみることが重要だと思うのです。
 私はといえば、アマチュアの文鳥愛好者で「文鳥中心主義」複数飼育党の桜文鳥派・・・その他もろもろとなるわけです。





 禽舎での
   多数飼育
プロ・生産者・・・収入目的
セミプロ・繁殖家・・・趣味目的
 室内での
    カゴ飼育
コレクター・・・品種・外見重視
アマチュア・・・手乗り重視

「文鳥派生主義」

「文鳥中心主義」


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