文鳥問題. |
《動物の自由》
心優しく思いやりあふれた人は、鳥カゴの文鳥を見てため息をつくかもしれない。「こんな檻の中に閉じ込めてしまうなんて、私は何て罪作りなのかしら…」と。しかし、子供の頃からカゴで文鳥を飼育する私には、そうした罪悪感は欠片も無いと、この際表明しなければならない。これは思いやりの多寡以前に、その発想が現実として否定されねばならないものに過ぎず、はっきり言えば所詮人間の主観的なセンチメンタリズムに基づくメルヘン以外の何物でもないと、すでに結論付けているからだ。以下、どうしてこの一見思いやりのある感慨が否定されねばならないと考えるのか説明したい。【2006年7月】
前近代の人たちの考え方
14世紀の日本に吉田兼好という人がいた。日本三大随筆のひとつ『徒然草』の作者だが、彼は次のように書いている(『徒然草』第121段)。
「養ひ飼ふものには、馬・牛。繋ぎ苦しむるこそいたましけれど、なくてかなはぬものなれば、いかゞはせん。犬は、守り防くつとめ人にもまさりたれば、必ずあるべし。されど、家毎にあるものなれば、殊更に求め飼はずともありなん。
その外の鳥・獣、すべて用なきものなり。走る獣は、檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥は、翅を切り、籠に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁、止む時なし。その思ひ、我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを楽しまんや。生を苦しめて目を喜ばしむるは、桀・紂が心なり。王子猷が鳥を愛せし、林に楽しぶを見て、逍遙の友としき。捕へ苦しめたるにあらず。
」
古典の教師の顔をお思い出したくない人も多いかもしれないので、文法など端から無視して適当に意訳しておこう。
「人間が飼って育てている動物として馬や牛が挙げられる。縄で拘束し苦しめてしまってかわいそうだが、人間の生活に無くてはならないものなので仕方がない。犬も人間の番人よりよほど優れているので、絶対に必要だ。しかし、こうした動物は各家に普通に存在するので、あらためて飼うというほどのものではないだろう。
それ以外の鳥獣は、すべて人間の生活に必要ないものだ。野山を走り回る獣を檻に入れ、鎖で結びつけ、空を飛ぶ鳥の羽を切り、カゴに閉じ込めてしまえば、鳥獣たちが大空に浮かぶ雲を恋しく思い、野山を懐かしく思い、いつまでも囚われの身を嘆き続けるに相違ない。その鳥獣たちの気持ちを、自分の身に置き換えてみればいたたまれないので、心ある人は必要も無い鳥獣を飼って楽しめるものではないのだ。自分の鑑賞の対象とするため、生きているものに苦しみを与えるなど、いにしえの残虐な王たちに通じる心底と言える。詩人の王子猷も鳥を愛したので有名だが、それは林で自然に飛び鳴き交わす姿を、散歩の際に不可欠な友、同伴者として見ていただけで、捕まえて苦しめたわけではない。」
まさに人間の身勝手でカゴに閉じ込められた鳥はかわいそうだと言うわけで、同様の考えを持っている現代人の主張と変わるところが無い。
こうした鑑賞のための飼鳥を全面的に否定する考え方に対し、江戸時代の飼育書『百千鳥』で著者の泉花堂三蝶は次のように反論を試みている(細川博昭『大江戸飼い鳥草子-江戸のペットブーム-』2006年吉川弘文館)。
「野鳥は寒さを逃れることも、雨風を逃れることもできない。餌や水に困ることもあり、鷲や鷹に襲われることもある。羽が抜け変わるトヤの時は、フクロウやミミズクなどにも怯えなくてはならない。だが、籠で飼われる鳥は寒さ暑さを心配することもなく、餌や水の心配もいらないではないか」
私はカゴの鳥を大切に飼育できるように啓蒙しようとする三蝶を立派だと思うし、鳥の生活を慮ったその優しさには感動もする。しかし、この理屈は人間側の身勝手でしかないと断ぜざるを得ない。
確かに、その野鳥が食うに困って半死半生の状態であれば、あるいは人間に保護されるのもその野鳥にとって利があるかもしれない。また、もし自然の恵みの乏しい年であれば、そのまま保護目的で飼い続けるのも止むを得ないかもしれない。しかし、生まれ育った環境で普通に生活していた鳥を、食うに困らないようにしてやるといった理由で捕まえてカゴに放り込むなど、やはりエゴイズムの所産でなくて何であろうか。まして、江戸時代の「鳥キチ」たちがわざわざ野鳥をカゴに放り込み手元に置く目的は、鑑賞という完全な趣味的要素にあるのは疑いようもなく、それを保護目的だけで行っているなどとすれば、空々しい限りの後付けの詭弁であろう。
鑑賞目的の野鳥の捕獲飼育は、それが好きな者がエゴとしてやれば良いことで、そこに一般受けする正義など不必要であり、そんなものを求める必要自体ないと私は思う。飼ったからにはしっかり飼うのみで、三食昼寝つきだからありがたく思えなどと、いちいち人間の傲慢な思い上がりを表明する必要はないのである。
考えてもらいたい。「我が身にあたりて忍び難」いではないか。今現在、地上の楽園を自称する物騒な国が、我が国の一般市民を拉致し、拉致したのを認めながら帰そうともしないが、もし本当にその最貧国が地上の楽園であっても、本人や家族の意思を無視して突然拉致して良いものだろうか? 例えば、未開のジャングルで半裸生活を送る人々を、それはまるで文明的ではないと、偉大なる慈悲の心を持つ先進国の人々が判断し、本人の意思にかかわりなく大都会に強制移住させる。もしくは、ある高邁なる宗教団体が、彼らの考える地獄行きを止めるという完全無欠の菩薩心で、本人の意思にかかわりなく普通の市民を拉致する。このような行為、簡単に言えば主観的な善意に基づく大きなお世話は、個人の自由を信奉する者(もしくは国家体制)にとって、到底容認できるものではあるまい。
確かに、野鳥の生活など死と隣り合わせで、一瞬の隙も許されない過酷なものには相違ない。しかし、大昔より「沢雉は十歩に一啄し、百歩に一飲するも、樊中に畜わるるをもとめず」(古代中国の思想書『荘子』にある言葉。野生のキジは10歩歩いて食べ物や飲み物を探すのに大変だが、だからと言ってカゴの中で人に飼ってもらいたいとは思わないといった意味)であって、三食昼寝付きの生活を「本人」が望んでいるかははなはだ怪しい。いやむしろ、事足りているはずでありながら、野鳥出身の飼鳥の飼育下での繁殖が難しい現実を見れば、その状況が「本人」の望むものではないことは、疑いようもないところではなかろうか。
以上のように、野鳥を捕獲し飼育することについて、私はそれが人間の身勝手以外ではないと明確に結論付けている。それを趣味とする人は、小理屈でその正当化など試みず、それが己の身勝手な趣味であることを自覚し、生態系や他人に迷惑をかけない範囲で、三蝶の願いを肝に銘じ大切に飼育してもらいたいと願うのみだ。
しかしながら、ペット動物である文鳥の飼育をおこなう私は、その点で何の身勝手も論理的齟齬も抱えていない。むしろ、上述のような野鳥に対するのとまったく同じ論理で、飼い主が自虐的な観念にとらわれるとすれば、まるで筋違いで滑稽と考えている。なぜなら、野生動物(野鳥)とペット動物(文鳥)を混同してはならず、まったく違う立場のものに対し、同一の結論など導き出せるはずがないからである。野生のキジは飼われることを欲しないからと言って、アヒルを野山に放り出したらどうなるか、そもそもアヒルはそれを望むだろうか?
現代の吉田兼好たちの多くは、野生動物とペット動物の違いに気づいていないのかもしれない。しかし、吉田兼好はペット動物など知らぬ時代の人間であり、カゴの鳥といえば周囲の野山で捕獲した野鳥以外にはなかったはずで、もともと鳥カゴで育った鳥のことなど知るよしもない御仁だ。
時代は変わりカゴの鳥の中身も変わる。カゴの中はかわいそうだから外に放せば良い、などといった単純な時代は三蝶の時代、江戸時代にはすでに終わっている。
「前にも命じたように、アヒルの類や外国の鳥などのような、カゴの外から出して放すことが、かえって鳥自身のためにならない場合は、そのまま養い育てる事が必要だが、其の外の興味だけのために飼ったりしてはならない」
これは宝永2年(1705)9月28日に出された法令の一節を意訳したものだが(『徳川実記』)、生類を憐れむ将軍徳川綱吉は、日本の野鳥を捕獲して趣味で飼育するのを厳禁する一方で、「唐鳥」として海外から輸入されてた鳥はそのまま飼育するようにとしているのである。なぜ「唐鳥」の飼育は続けねばならないかと言えば、その方が鳥自身のためになるからと判断したに過ぎない。つまり、輸入した鳥は生まれ故郷とは違った日本の自然環境の中で生きることが難しいので、飼い続けた方がベターな選択となるという、実に冷静で合理的な判断をしているのである。
江戸時代の将軍様でさえ、カゴの鳥をすべて同一視せず、無闇に放してしまえばもっとかわいそうなことにもなる点に気づいているわけだが、時は流れ、現代はさらに複雑化している。例えば、18世紀初頭には生息地で捕獲され輸入される「唐鳥」のひとつに過ぎなかった文鳥は、その後人間に飼育され、人工の環境下(単純化すれば鳥カゴの中)で何十世代も繁殖されて今日に至っている。その過程で野生では存在しなかった品種も誕生しており、もはや生まれも育ちも鳥カゴの彼らには、戻るべき野生の環境などなくなっている(ペット動物化)。つまり、たんに輸入した野鳥であれば、生まれ育った地域に戻してやることも可能だが、ペット動物の生まれ育った環境は鳥カゴで、彼ら個々にとっては、先祖の生まれ育った原産国の自然環境さえも「かえって鳥自身のためにならない」環境以外の何物でもなくなっているのである。
鳥は空を飛びたいのか?
野鳥は自然界で生まれ、自然界で生きている。我々の文鳥は人間の飼育下で生まれ、人間に飼育されて生きている。自然界で生まれ育ったものをカゴに放り込めば不自然だが、反対にカゴで生まれ育ったものを自然界に放せば不自然となる。捕獲されカゴに幽閉された野鳥は、自然界に戻りたいと望むかもしれないが、自然界など知らない小鳥は、それに恋焦がれるわけが無い。何しろそのような自然環境の存在を知らないのだから、それに「郷愁」を持つわけが無いのである。これはあまりにも明白な事実ではなかろうか。
しかし、鳥は大空を飛ぶ本能があって、何代どころか何百世代にわたって人間に飼育されていても、自然の空を羽ばたきたいと願っているに相違ないと空想する人もいるかもしれない。おそらくそのように信じられる人は、素っ裸でジャングルなりサバンナなりを駆けずり回りたいと、哺乳類の一種であるご自身の本能とやらに絶えずさいなまれつつ、服を着て現代の生活を送っているに相違あるまい。それには同情申し上げるところだが、そのような先祖の類人猿の誘いなど、露ほども自覚したことがない者には、文鳥にもそういった野生への誘いがあるとロマンチックに思い込むことに賛同など出来るはずもない。
そもそも、鳥は大空を飛ぶのが自然と考えること自体が単純に過ぎ、科学的な事実でもない。例えば、外敵のいない場所に生息する鳥類は、進化して飛べなくなることが多いといった紛れもない事実があり、これを踏まえれば、鳥類全体の種としての志向性もしくはDNAの根源にあるのは、「飛びたくないよ〜」と見なした方が良いとさえ言えるのである。
「あの大空に翼を広げ飛んで行きたいよ〜。悲しみの無い自由な空へ翼はためかせ〜行きたい〜」
こういった歌詞の歌があり、中学校の合唱コンクールなどで散々唄わされたものだが、もちろんこれは比喩であって事実ではない。空を飛びたいと極めて人間的な願望を抱いている鳥など、現実の世の中に存在するはずもないのである。
実につまらない話だが、鳥は生きるために飛んでいるに過ぎず、ムシャクシャするといった手前勝手な理由で、他人の迷惑も考えず自由意志によってバイクをかっ飛ばして風を切る人間の若造とは違う。捕食や移動の手段として飛んでいるだけ、ようするに生活のために飛ばざるを得ないから飛んでいるだけであり、それは人間が地べたの上をテコテコ歩くのと何ら変わりはない。必要があって飛んでいるに過ぎないので、飛ぶ必要のない環境では飛ばなくなるのは当たり前なのである。
大空に翼を広げて飛べれば気分が良いはず、などと二足歩行の悲しきホモサピエンスが、その大きな前頭葉で妄想するのはたやすいだろう。カモメのジョナサンのように、その飛翔する姿に人間的な「飛びたい」という意思を感じるのも人間の勝手に相違ない。しかし、人間の文学的主観として「鳥は飛びたいと願っている」とする結論と、科学的な事実から「鳥は本当は飛びたくない」とする結論が存在する時、本当に鳥の立場でものを考えられる人間であれば、どちらの結論を優先させるべきか、これはあまりにも明白ではなかろうか。手前勝手な人間的な主観(ロマンチックでうぬぼれが強いそれ)だけで物を考えるつもりがなければ、外で自由に飛びたいはずなどという妄想を、文鳥の意思として認めることなど出来ないのである。
鳥の身になって考える
さて、先ほどの歌詞に「自由な空」などという言葉があったが、この歌詞のように鳥カゴという束縛を逃れ、「自由な空」とやらに飛んで行きたいのは誰かと言えば、これは100パーセント人間である。お考えいただきたい。毎日通学して授業を受けるあなたは「自由」だろうか?毎日満員電車にゆられてノルマをこなすあなたが「自由」だろうか?まったくもって人間社会の現実は「不自由」なのだ!これでは、あらゆる束縛から解き放たれたいと願望しない方がどうかしているだろう。
しかし、学校や職場で、「ボクは「自由」な生き方をするんだもんね〜」と好き勝手をして許されるだろうか。眠かったから午後に出勤、だるいから早退、自由というより勝手気ままなだけで、当然退学や退職を余儀なくされ、社会生活が送れなくなるのは目に見えている。
そもそも我々が持っている気がしている自由など、いちおう現状とは違った生活を選択する自由といった程度のもので、頭の中で空想しているような普遍的な「自由な空」などどこにも存在しないのではなかろうか。確かに、現状を「不自由」だと思った人は、家出が出来るし放浪の旅にも出られる。そうすれば何となく「自由」になった気分に浸れるかもしれないが、それは今まで自分の周囲にあった親類縁者なり知り合いから主観的な精神の上でカミングアウトしただけで、移動した先の風俗習慣や人々から「自由」ではあり得ない(異郷で「自由」と称する勝手気ままを押し通せば、身に危険が及ぶ)。現実と対立するものとしての「自由」など、残念ながら概念の上の存在でしかないのである。
さて、ここで飼い主の陥りやすい叙情的な場面を三文小説風に書いてみよう。
残業から帰ったB子は、カゴの中で出迎えてくれるはずの白文鳥がいないことに気づいた。
窓から差し込む月の光に浮かぶ冷たい鳥カゴ。疲れた私。いつも留守番させてばかりで遊んでやれなかった飼い主の私。
「きっと千代丸はさびしくて家出したんだわ」
空気がこもらないように、わずか数センチ開けておいた小窓。きっと自由を求めてここから飛び立ったのだ。
手の上でさえずってくれたあの子。出勤の時にカゴにしがみついたあの子。
B子は小窓を閉め、缶ビールを一口飲んでため息をついた。
自由を求めて出て行った男、捨てられた女、人生劇場・・・。どっぷりと自分自身の主観的メルヘンの世界に浸りこむ前に、千代丸君の置かれた日常と彼の気持ちを思いやるべきではなかろうか。
まず、新聞も読めなければテレビも見られない文鳥の千代丸君が、どうして自分の生活する環境以外の世界が存在していることを知っているのか、これは大問題である。まして、それがどうして窓の外に広がっているとわかるのだろうか?それだけ考えただけでも、B子さんは文鳥の気持ちなどまったく考えようとしていない事は明らかとなる。文鳥なりペット動物を擬人化するのは必ずしも悪いことではないが(その方が思いやりのある態度で飼育できる)、満員電車にゆられ現実逃避をしたい自分自身の心境と重ね合わせてもらっては困るのである。
千代丸君にしてみれば、伴侶は飼い主のB子さんだ。彼にとっての幸福は、いつもB子さんと一緒にいること以外にはない。その伴侶の姿が見えなくなればそれを追い求めるのは当たり前で、一所懸命カゴの外に出て家の中を探すのは自然な行為と言える。そして、窓の外というまったくその存在も知らなかった世界に飛び出してしまったとしても、そこに彼の自由意志などありはしない。そして、一旦家の外に出てしまえば、そこは未知の世界。千代丸君が自分の家と他人の家を区別することは不可能で、当然のように迷子になってしまったのである。安酒など飲んでいる場合ではない!探しなさい!
そもそも、文鳥が「家出した」とか「脱走した」といった表現は語弊を招く。なぜなら、野生の経験が無い文鳥が、自ら求めて外に出ることなどあり得ないので、その行為に自発的な意思はまったく存在しえないからである。もし外に飛び出した文鳥がどこか近くに止まり、追いかける飼い主をじっと凝視したうえで反対側に飛んで行ったとしても、(飼い主の主観としては裏切られた気分になるかもしれないが
)そこに文鳥の意思はない。なぜなら、その行動により飼い主と二度と会えない事態になることなど文鳥には想像も出来ず、たまたま気になることがあって反対に飛んで行ったに過ぎないからである。そういったところは、ボールを追って道路に飛び出す人間の子供と同じで、その行動によって生じる危険など考えていないので、その行為が人間のそれも大人並に是非判断に基づいているように考えるのは、まったくの的外れなのである。
外に出てしまうのは偶然の事故以外には有り得ず、その事故を防げなかったのは飼い主側の過失以外の何物でもない。ところがそうした自分自身の過失を認識せず、文鳥が自発的に勝手にいなくなったように考えるようでは、これは無責任と言われても仕方がないように思える。安易に人間の気持ちを仮託するのではなく、本当に文鳥の立場を気持ちを考えて欲しい。
迷い鳥の行方
さて、迷子となった千代丸君はどうなっただろう。おそらく、かなりの確率で他の人間に保護してもらえたように思える。何しろ白文鳥は外の世界では目立つし、手乗りであれば人間に近づいていくので、比較的簡単につかまってくれるのである。そして、その保護した人が親切にも警察に届け、逃がした飼い主も警察に届け出ていれば、めでたく元の家に戻れるかもしれない。
※私はネットで迷子を捜しても、現状ではあまり意味がないと考えている。飼い主も保護者もネットで情報を求めるくらいの人であれば、当然警察には届け出ているはずなので、ネットのみで新たな情報が得られる可能性は極めて少ないと思うのだ。
しかし、悲しい末路もありえる。ネコやカラスに襲われたり、交通事故にあったり、雨に打たれて衰弱してしまう可能性も考えねばならない。
中には、スズメのように野生生活出来ると気軽に考える人もいるかもしれないが、それは無知が生み出すメルヘンに過ぎない。確かに原種の色合いに近い桜文鳥であれば、野生化も絶対ないとは言いきれず、現に江戸時代以来、文鳥が日本で野生化していた例は散見される。ところが、それら各地に数多いたはずの野生文鳥も、根付くことなくすべて消滅しているのが厳然たる事実なのである。
消滅する原因は、結局スズメとの生存競争に勝てないからではないかと思う。何しろ文鳥の色柄は、一年中緑の濃い熱帯の環境では保護色になるが、日本の冬枯れの風景の中ではやたらと目立ってしまうのである。枯れ芝に紛れる保護色のスズメより捕食動物に食べられやすければ、これは大いに不利となるのは当然なのだ。その点、春夏秋冬季節を問わず、白地に赤い白文鳥は自然環境下でおそろしく目立つ。実際、明治時代には飼育ブームとなり、飼育数から考えれば桜文鳥以上に野生化する機会があったはずの白文鳥が、野生化し集団生活をしたという例を寡聞にして聞かないのである。これは自然淘汰されてしまった結果と見なせよう。
実は最近、このHPのゲストブックに「十分な世話ができなくなり、泣く泣く野生になあれーと、逃がしてしましました。しかし、文鳥好きは変わりません」と書き込んだ人がいた。もちろん管理人としては即刻削除したものの、気分が暗くなったのは否めない。確かに、このような動物愛護法に明確に違反する犯罪行為(「愛護動物を遺棄した者は、五十万円以下の罰金に処する」)を堂々と書き込むなど、無知蒙昧な幼児のイタズラに相違なく、気にするまでもないのだが、外に放せば野生化しそれなりに生きていくのではないかといった妄想が、かなり根深く一般的に存在していることの証左に思えたのである。そしてその背景に、野生化はペットにとって「自由」になることを意味すると誤解し、そ
の漠然たる「自由」は良いことだとする現代日本人の思い込みがあるとしたら、これははなはだ文鳥にとって迷惑と言わねばならないのである。
とりあえず、私はそういった無知で妄想癖のある人には、是非ともこの際さらに空想してもらいたいと願う。あなた自身が、何らかの絶対的な存在(神様でも宇宙人でも何でも良い)により、素っ裸にされジャングルに放り出され、「野生になあれー」と言われる場面を!
自由や自然の概念
自由というのは、居住地なり職業なり、いくつかある生活環境から好みのものを選ぶ自由に過ぎず、いつの時代、どこの社会にも存在する普遍的な「自由」などない。そして選択というものは、選択肢の中から選び出すもので、そもそも存在も知らない生活は選択肢となりえない。これはどちらも当たり前のことではなかろうか。例えば、戦国時代に切ったはったしている人間が、六本木ヒルズで豪華ディナーを食するといった軽薄な夢など見るわけが無いのである。
それと同様に、カゴで生まれカゴで育った文鳥は、その他の生活環境の存在など知るはずもない。その文鳥に対し、飼い主が自分自身の極めて浅薄な思い込みで、その安穏な生活を奪う自由など許されるものではなかろう。
「井の中の蛙(かわず)大海を知らず」ということわざがある。せま苦しい井戸の中に安住しているカエルは、世の中の広さを知らないと言うわけだが、これも人間社会に対する比喩に過ぎない。もし、親切で愚かな人が本当に井戸の中のカエルを海に放り込めば、それはそのカエルにとって悲劇以外の何物でもないだろう(たいていは塩分で干からびる)。
エサと水に困らないカゴの鳥にとって、大空は未知で計り知れない恐怖の世界であり、エサも水も探さねばならない不自由な世界であることを、「カゴの中の鳥、大空を知らず」などと人間的な一人よがりで空想する前に、鳥たちの身になって必ず認識してもらいたいと切実に願っている。
過日頂いたメールに、カゴの鳥も自然に生きたいと思っているに相違ないと主張される方がいた。私はそれに明確過ぎるくらいに反論したのだが、納得して頂いたとは思えない。何しろ、まじめな人ほど、何かひとつの結論を考え出す(もしくは意識するしないにかかわらず他人から信じ込まされる)と、あとは確証バイアス(すべてが自説の裏づけになるとこじつける)の永遠の繰り返しとなり、他の結論と比較検討するといった冷静な議論が出来なくなってしまうからである
。
その方は「まだ人に知られていない生物は人に左右される事無く生きているわけですよね」と、それがあたかも自明のこととされ、それを論理構成の前提としてお考えのようであった。しかし、この一見常識的な意見も、事実とは認められないのである。そもそも、自然と人為(人工)は、対極にあって相容れないといった単純なものではない。現実には人為的に創出される「自然」も多く、例えば日本の田園風景は絶対的に人為的なものであって、人類がこの世に存在しなければ存在し得ない環境なのである。
そして、そもそもスズメや文鳥といった生き物自体、人間無しには存在せず、少なくとも人間がいなければ生物としての繁栄は絶望的な種類と言えるのである。これを意外に思う人は多いかもしれないが、スズメなど人里でなければ存在せず、廃村となった途端に姿が消えるほど、人間に依存している生物であるのは紛れも無い事実である(中村一恵『スズメもモンシロチョウも外国からやって来た』1990年PHP研究所 など参照)。つまり、スズメという生物種は、人為的に作り出された田園なり都市空間と言った環境を、当然無自覚のまま自然に生活する場(野生の生息環境)として受け入れているのである。これは、絶滅した日本のトキも同じだ。何やら希少で飼育が難しい動物のように錯覚してしまった善意の人が、数少ない野鳥を無理やり檻に閉じ込め絶滅させてしまったが、本来はあつかましいくらいに人里に存在してきた生き物で、完全無欠に人為的な環境である田畑を生活の場として、「ドジョッコだのフナッコだの」食べて生きていたのである。ところがそうした人為的環境に適応し過ぎていたので、人間が生産性向上のために(ようするに手抜きするために)農薬を過剰にばら撒いた影響を直接的にこうむってしまったのだ。つまり、農薬によりドジョウなどが田んぼから消えてしまったから生きていけなくなったわけで、これは人間の稲作文化無しには存在しにくい生き物であった証であり、皮肉な結果と言わざるを得ない(人間側の裏切り行為と言える)。
ようするに、生物にとっての自然と言うものは、その種が生きるのに適した環境を指しており、それは種によって異なり、種によっては人間の存在を抜きにしてはあり得ないものなのである。つまり、野生のスズメにせよトキにせよ、彼らは「人に知られなければならない」生き物であって、その生物が稲作文化に片務共生する形で何千世代と代を重ねている事実を踏まえれば、人間に知られていない状態はむしろその種にとって不自然と見なす以外にないのである。
※片務共生・・・一方のみが利益を受ける共生の形態。スズメや野生のブンチョウにとって、主食であるイネ科の作物を栽培する人間と共生する事は大きな利益となるが、人間側には共生による恩恵がない。
そしてカゴの鳥だ。手乗りであるにせよ無いにせよ、カゴなり禽舎で生まれ育った小鳥にとっての自然とは何か、じっくりと考えていただきたい。
カゴの中の文鳥は大空を翔る「自由」など求めない。求めるわけが無い。知らないのだから。では、知らない事が不幸なのか。知ったところで、どちらが良いか比較検討出来るものではない。そもそもメルヘンでもなければ、人間以外の生き物にいくつかの「生き方」の存在を説くなど不可能であり、他人がこちらが良いと勝手に決めて「生き方」を強制すれば、それはまったくの「不自由」となる。さらに、生き物にとって「自然」とは人間のいない環境を意味せず、片務共生する生物種にとって人間の存在こそが自然である。
このような事実を積み重ねていくと、人為環境下で生まれ育った生き物にとって自然な環境とは、生まれ育ったのと似通った人為的環境の他にはない、といった結論(論理的帰結)に至るのではなかろうか。
人間によってカゴなり禽舎で育てられた文鳥にとって、外界はまったく不自由で危険極まりない世界でしかない。このような外世界に生活の場を持ち得ない人為的な生き物であるペットに対し、自然に生活できる人為的な環境、つまりカゴの中を用意し、彼らにとって不自然で不自由な外世界に出さないように最大限注意することこそが、飼い主の責務だと私は信じざるを得ないのである。
まるで論理性も科学性も持たない現実離れしたメルヘン、そういった思い込みにしばられ、野生動物との相違も考えずペット動物を死地に追い込んでしまうのは、飼い主として大いに問題と断ぜざるを得ない。論理性の欠如したメルヘンに基づく不必要な罪意識など持つ余裕があるのなら、現実にカゴの中で生活することを前提として存在している文鳥の幸福を、出来る限り考えてやりたいものだと思う。
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