【余禄】 「子猫殺し」についての感慨など (2006・8・24)

 2006年8月18日の日経新聞夕刊に掲載された某女性ホラー作家(以下女史とお呼びする)の「子猫殺し」と題するコラムが問題視されている。その論旨は以下のようなものだ。

1、避妊手術をすると、発情しなくなり、交尾することなく出産の経験も出来ない。これは「獣の雌にとっての「生」」を人間の都合で奪う行為といえる。
2、飼い主は野良猫の増加を防ぐ社会的責任を持つので避妊手術を行う人が多いが、生まれた子猫を殺しても野良猫をつくらないという結果では同じだ。
3、愛玩動物として獣を飼うのは人間のわがままに過ぎず、人が他の生き物の「生」を左右すべきではない
 以上3つの論点を挙げ、避妊も子猫殺しも本来人間が行う権利はないが、飼い主は社会的責任においてどちらかを選択しなければならないとし、それはどちらが正しいとは言えないと問題提起をした上で、「私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」と結論している。そして、実際に「生れ落ちるや、そこ
(※崖の下)に放り投げる」という行動をとり、なおかつその行動をコラムという形で世に問うたのである。

 ・・・私がこの話題に気づいたのは22日になってからだが、女史自身「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている」と冒頭に書くように、この数日間、非難の嵐が吹き荒れていたようだ。本来。批判は愛猫家の見識のある方々にお任せしておきたいが、最近『文鳥問題32』で関係がありそうなテーマを書いていたので、私も思うところを記しておくことにする。

 まず女史が1で説くように、交尾や出産は生命としてごく自然の営為で、それを尊重すべきとの考え方はあってしかるべきで、大方の賛同を得ることが出来るものと思う。しかし、その問題提起を受けた2の解釈には飛躍があり過ぎる。なぜ避妊という生じせしめない行為と、子猫殺しという生きているものを滅ぼす行為が、単純に同一にとらえられるのであろうか。これでは、強盗に入られないようにセキュリティを強化するのも、侵入した犯人を待ち構えて残らず射殺するのも同じと言うに等しい極端さであろう。確かに犯人を殺してしまえば物的被害はない。
 もちろん飼い主が獣医師に依頼し避妊手術をすることで、猫にとっての自然の営為のいくつかは永遠に奪われることにはなる。しかし、避妊手術によってオスに付きまとわれることもなく、出産で苦しむ経験もせずに、飼い主の家族の一員として気楽に一生を送れるといった側面も無視できない。「あたしゃ、その方が気楽さ」と思う猫もいるのかもしれない。もっとも、それは人間の主観による都合だけで、女史の言葉を借りれば「もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいという」はずといった反論があるかもしれない。しかし、その女史の言葉も人間的主観によるひとつの意見に過ぎず、猫の気持ちを代弁したものと認めることは出来ない。なぜなら、避妊によって交尾も出産も経験しない猫が、交尾したいとか出産したいとか、そのような想像が出来るとは到底思えないのだ。一年中盛りのついていろいろな情報を得て考える人間とは異なり、猫は繁殖期になって体が欲するので交尾して出産しているに過ぎず、繁殖器官を取り除き自然の繁殖欲求が起きなくなれば、繁殖期ではない時の普通の生活を普通に送り続けるだけで、体が繁殖を求めないのに、「避妊手術なんかされたくない、子を産みたい」などと人間のように頭の中で苦悶するわけが無いのである。
 つまり、避妊手術をすれば繁殖期を意識せず生きていくし、避妊しなければ繁殖期に繁殖しようとするに過ぎず、どちらにしても猫にとっては無意識の状態に相違ないのである。そもそも、利害得失などを考えて、さまざまな可能性から生き方を選ぼうとするのは人間だけで、その他の生き物は、生まれながらに野生に生きようと、生まれながらに人間に飼われようと、飼い主の意向で避妊手術をされようと、その状況に生きるのみで、その生存環境に対して喜怒哀楽など持ちようがない。この点を見誤り、安易に人間である個人の考え方を仮託しては、たんなるファンタジーでしかない。
 結局のところ、女史が心配するような猫側の訴えは、人間の、それも女史の個人的な妄想であり、事実は避妊手術によって猫が飼い主に恨みを抱くことはない
(恨むとすれば痛い思いをさせた獣医を恨む)。何らかの知識で他と比べることなど出来ない猫としては、特にその状態を苦痛に思う可能性は欠片も存在しないのである(「隣のミー子ちゃんは盛りがついてお向かいのニャン太郎君とデートしてるのに、どうして私は恋が出来ないの〜!」なんて心で叫んでいると本当に思ってますか?)。猫側は主観的に特に何とも思っていないが、人間である飼い主は子孫を残せない体にしてしまった客観的事実を知っているために引け目を感じてしまう。しかし、その人間側の思いを猫に仮託するのはお門違いである。
 一方、子猫殺しという選択は、三者にとっての不幸となる。生まれながらに殺される不幸、子を生みながら奪われ育てることが出来ない不幸、必要のない殺生をする不幸だ。女史はその三つの不幸の中の最後、飼い主にとっての不幸を、避妊手術を行った場合に生じる飼い主の後ろめたさと重ね合わせ、これを二者択一の問題のように思い込んでいるようだが、子猫殺しによって生じる子猫にとっての不幸、親猫にとっての不幸について、まったく顧慮していない。
 また、本当に「獣の雌にとっての「生」」を全うさせたいとのお考えなら、子猫が大きくなるまで親猫に子育てさせなければ筋が通らない。これは誰でもわかることと思うが、育児も獣の雌にとって大切な自然の営みなので、女史の考え方を貫くのであれば、親猫の雌としての自然な営みである育児を十分に経験させた後に、
(何ともおぞましきホラーの世界ではあるが)親猫が手塩にかけて育てたその子猫たちを一匹残らずその崖とやらから叩き落すか、いっそ三味線屋にでも叩き売らねばならないのである。それでは親猫の「生」を全うさせたいために、子猫の生命そのものを弄んでいるだけに思えるが、それこそが女史の説の論理的帰結なのである。
 結局、女史の主張は、交尾と出産だけにこだわりながら育児という自然の営みについての考察を欠落させているので、論理的に中途半端なものとなっており、また、もし生まれたてなら崖から落とせるが、大きくなったら三味線の皮に出来ないというのであれば、それは論理的な整合性に欠いた単なる一個人の思い込み
(感情)でしかなく、論ずるに値しないと言わざるをえない。

 論点の3については、今さら指摘するまでもないだろう。そのように個人として考えるのであれば、はじめからペットなど飼わなければ良いだけ、と言われたらそれまでだ。もし、女史がその猫たちを飼わなければ、子猫殺しによる三つの不幸を引き起こさずに済んだし、ゴーギャンの時代から野良猫だらけののどかなタヒチからの論理的整合性を書いた感情的コラムで、日本で避妊手術をした猫と楽しく暮らしている飼い主に不快な思いをさせなかったであろうし、薄っぺらな思い込みを満天下にさらして恥を欠くことも無ければ、掲載した新聞社の担当者の常識(子猫殺しを正当化出来るか、そのような論旨を新聞で公開して良いのか判断する編集者としての能力)を疑われることも無かったのである。

 私がこの女史のコラムに関心を持ったのは、その思い込みの背景にも、「獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ」といった「鳥は大空を飛ぶもの」と発想を同じくする思想がある点であった。実に根深く広範囲に存在するこの軽薄な思想に、私は散々ウンザリさせられ、文鳥問題で取り上げたわけだが、ここでも人間と獣、人為と自然は単純に対立して存在するものではないことを、繰り返し主張しておかねばならない。それにしても、人為と自然、人間とその他の動物を常に対立するものとして捉え、人為と人間は常に悪と見なすような陳腐な二元論が、なぜ故に現代日本人の心に染み渡っているのか不思議でならない。
 そもそも野生に家猫など存在しない。つまり、彼らは野生の生き物ではなく純然たるペット動物であり、人間の存在なくしては有り得ない。だからこそ、飼い主はしっかりと飼わなければならないのだが、その絶対的な基礎認識がないため、飼いきれなくなって平気で「外に逃がす」=「自然に戻す」などと簡単に考える日本人が多いのではなかろうか。まことに腹立たしい限りだ。
 もし人間の干渉が動物を不幸にするのであれば、人間がペット動物を飼うこと自体が罪となる。そのように考えると自虐的でカッコイイかもしれないが、幼児的ナルシズムで思考を停止されては困る。人間が飼わなくなれば、彼らは絶滅するだけという、揺るぎようのない事実を前提としなければ、現実社会での行動としては無責任なだけなのである。つまり、罪があるとすれば、飼育されることのなかった野生の動物をペットにした過去にあり、これは取り返しがつかない。もし人間なくしては存在し得なくなっている現在のペット動物を、幼児的ナルシズムで自然の中に放り出し絶滅に追い込めば、それこそ新たな人類の罪をつくることになるだろう。
 我々人類はもはやペット動物という、我々自らが生み出してしまった原罪を背負って生きねばならず、そこまで哲学的に深刻に苦悶しなくとも、特に今ペットを飼育している人は、ペット動物は自然とは切り離されたところに存在しているという、ごく当たり前で単純な事実を前提として考えてもらいたい。そうでなければ、どのような論説も現実感のない空疎なものになるだけである。

 

 さて、個人的には避妊手術が出来るペット動物の飼い主をうらやましいと思っている。なぜなら、外科的手術でメス文鳥を発情産卵させないようにするとしたら卵巣を摘出するしかないが、産卵しない代わりに生命の危険にさらすことになってしまうからだ(卵巣を摘出して生存した例を聞かない)
 そういった生き物の飼い主である私は、産んだ卵をせっせと捨てており、この行為は子猫殺しの女史と同じではないかと思われる危険をはらんでいる。確かに卵を生き物と考えればそういった結論となってしまう。しかし、現実を踏まえて行動しなければならない飼い主である私は、文鳥問題の「卵の管理」の項目で論じたように、飼い主として成すべき事を成すだけ、卵は生ものとして処分するのみである。
 それでひどく罪悪感に囚われてはいないし、やはり子猫殺しとは違うと論理づけている。なぜなら、卵は産むもので生まれるのは孵化と考えれば、生まれながらに殺される不幸とは言えないからである。また、孵化しない限り文鳥の育雛本能は発現しないので、卵を取り除いても親鳥に子を生みながら奪われ育てることが出来ない不幸も存在しない。さらに卵を生ものと飼い主側が主観的に認識できれば、必要のない殺生をする不幸に飼い主である人間が人間としての倫理観によってさいなまれ続けることは軽減されるのである。

 おそらくペット動物と向き合ったとのない人(つまり人類のペット動物に対する原罪を認識できない人には、手前勝手なへ理屈のように思えるだろう。しかし、それぞれのペット動物の生態に合わせて必要となる行動は異なり、その行動に対しベターな解釈も飼い主が人間である以上必要となるのが現実といえる。避妊手術が出来れば避妊手術、出来なければ他の方法をとる以外にないのである。避妊手術が出来ず、飼い主に愛を感じて産卵を始めるような手乗り文鳥という生き物を飼う場合には、他の生き物の飼い主とは異なるそれ相応の行動と考え方が必要になる。
 それでは、避妊手術が出来ない胎生のペット動物ではどうだろう。例えばハムスターだ。このペット動物はオスとメスがいれば、それこそネズミ算式に増えてしまうので、短絡的な人は子猫殺しの女史のように、飼い主の責任として生まれた子を殺さねばならないと思い込むかもしれない。しかし、繁殖の予定のない飼い主は、一匹ずつ別々に飼うか同性同士でしか同居はさせなければ済む。ハムスターは基本的には集団性の生き物ではないので、その飼育で生態としても不都合があるとも思えない。また、特に決まった繁殖期はないが、異性と交尾しなければ100%子供は生まれないので、飼育上の対処は比較的楽とも言える
(夫婦にならない限り繁殖期を迎えないことになる。これを客観的にみれば「かわいそう」かもしれないが、ハムスター自身は気づかず普通に生活をするだけ)
 その程度の知識もなく飼育を始めるのは軽率と言わねばならない。また、そうした知識がありながら「獣の雌にとっての「生」」なるもの、具体的にはその中で交尾と出産にのみこだわり、生まれた子を飼い主の責任として次々に始末するとしたら、実は子を処分する残虐性を求めての飼育ではないかと疑われても仕方があるまい。

 ペット動物の生き物としての営為を尊重するのは大切なことだと思う。しかし、それ以前に生き物の生命そのものを尊重しなければならない。生命を尊重することを前提に、現代の人間の責任(宗教的に言えば贖罪。なお私はキリスト教徒ではない。念のため)としてペット動物を飼育する時、すべての個に客観的な自然の営為を実現させるのは難しく、いかに自然の営為にペット動物たちが気づかないで済むようにするかも飼育上の課題としなければならないのである。
 それぞれの飼い主は悩み、その解決策として、犬猫であれば避妊手術が進歩し、ハムスターであれば個別飼育が選択されるようになった。そして、避妊手術が不可能で一羽飼育でも想像産卵する可能性の高い文鳥となると、産卵と孵化を別々に考える必要も出てくるのである。

 人類の責任としてペット動物を飼う以上は、それぞれの生態についてそれなりに理解し、妙な人間的な思い込みにとらわれず、それぞれに適した避妊方法を含む飼育方法を実行出来るように、それなりに努力しなければならないものと思うし、そうあって欲しいものと願わずにはいられない。

 


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