旧王朝の物語


最終回

 手乗りで無い文鳥にはまるで関心を持たなかった私は、この『婿』の白文鳥に名前をつける気が起こらず、たんにシロと呼んでいました。まったくヒナのことしか考えていなかったわけです。しかしそのような態度には、えてして天罰が下ります。
 確かに手乗りではない2羽は喧嘩をすることもなく、実に穏やかに暮らし、秋になれば巣づくりもし、卵も産みました。そう、大量に。巣箱をのぞくと、お腹の横から卵があふれ、どけて数えてみれば10個はあります。そして1つも孵らないのです。念のため光に透かしてみても無精卵ばかりでした。そんな事が何度も続きます。私は不審に思いました。
 考えてみれば、シロがさえずっているのを一度も見た事がないのです。実は2羽ともメスで、産み比べをしているのかもしれないと思えてきたのです。しかし、そんな事があるものでしょうか(実は結構事例のある話のようです)。とにかく私は絶望し、さらに文鳥に対して投げやりな気持ちになりました。完全に自家繁殖をあきらめ、非手乗りの2羽の世話は家族任せにし、かかわらないようになってしまったのです。

 結局見捨てられた形となった本当はメスだったらしいシロは、2年後くらいに死んでしまいました。かわいそうにエサがなくなっていたのに気づかない初歩的なミスだったのではないかと思います。気がついたらいなくなっていました(こっそり片付けたようです)。結局、私が世話をしないのがいけないわけなので、少し反省してその後生き残ったチャコ2世に同じ間違いを起こさないように注意しました。
 しかし、手乗りでない彼女は外で遊ぶ事もなく、カゴの中で月日はたっていきました。

エサと水は上段にも置かれていた そして1995年の初夏、大学院生活で暇をしていた(サボっていたわけです)私は、換羽でみすぼらしい姿となっていた「バアサン」(本当の名を誰も呼ばなくなっていました)を見ながら、重大な事に気がつきました。考えてみれば6才くらいになっているはずの彼女は、すでに老齢と言って良かったのです。
 「このままでは、文鳥がいなくなってしまう」
 普通の人には理解しがたい危機感に包まれた私は、秋までヒナを求めて右往左往し、現在の『系譜』の世界につながっていくことになりました。

 新王朝の初代となるヘイスケが、飛びまわる頃には動きも緩慢になっていた「バアサン」でしたが(カゴの中で運動不足が主な原因だと思います)、カゴの中で、ヘイスケのさえずりに尻尾をふったりもしていました。老後の穏やかな生活をかき回されながらも、結構楽しかったのかもしれません。
「若いモンはいいわねえ」ヘイスケを見つめている
 そして1997年の初夏の朝に冷たくなっていました。7〜8才だったでしょう。全く大切にされなかったのに、今にして思えば、しっかりと旧王朝と新王朝をつないでくれた、我が家の文鳥史の中では偉大な存在だったような気がします。彼女が往生した時には、ヘイスケとフク、そして2代目となるチビやその姉たちが飛びまわり、再び我が家は文鳥たちの活気にあふれていたのでした。

 

 ようやく、この話も終わりとなります。何しろ昔の事なので記憶が全くあやふやな上に、参考となる記録は10年前に歴代の系譜と原稿用紙にして2、3枚の概略をワープロの試し打ちにしたものがあるだけという状態でした。したがって、各々の出来事を特定の年代に当てはめていくだけでも苦労してしまう始末、一体、どれだけの文鳥たちの存在を忘却の彼方に置いてきてしまったものか、まったく申し訳ない気分にもなりました。

 一々記憶しないほど、何となく文鳥を飼い、何となく繁殖させ、何となく継続していたのが我が家の真相なわけです。振りかえれば、わざわざ体験する必要もなく、あまり思い出したくないような経験が積み重なっているといえます。情報は飼育本一冊で、それすらしっかり消化出来ずに同じ事の繰り返しをしていただけだったのですから、長く飼うことだけに大した意味はないといわざるをえません。
 しかし経験談というのも、全く無意味ではないでしょう。それが他人のものでも、聞いて原因を自分なりに考えておけば、同じ失敗を犯す危険は絶対的に減少するはずです。そんな気持ちで読んでもらえれば、怪しい過去の遺産も生きてくるものと思います。
 私本人も書き進めていくうちに、この「旧王朝」という負の実体験を反面教師にしながら、今の文鳥たちと付き合っていることが意識出来たように思います。

 そして、今の文鳥たちが健康に楽しげにふるまっているを見ると、直接血縁関係はない上に、記憶すらあいまいになっている昔の文鳥たちとの、ある種の「つながり」を見出せる気もしてきました。一瞬一瞬の動作に昔の文鳥たちの姿がおぼろげに重なった時、一緒に今も生きているように思えてくるのです。


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