新たな品種をめぐって

 
文鳥といえば、桜か白という時代が長く続いていたが(変り種はあったが一般化せず)、 文鳥の歴史から見れば最近になって、これにシナモン文鳥というのが加わってくる。1970年代にオランダで品種改良されたものであるという。さらにイザベル文鳥とか、ブルー文鳥などとも称されるシルバー文鳥も見かけるようになった。名前からしてこちらも外国で品種改良されたもののようである。

 個人的に『セピア色の』とか『(色が)あせた奴』などとシナモンを表現し、シルバーも『銀色の』『青っぽいの』『(色が)すすけた奴』と認識することにしているが、姿はまさにそういった感じで、本来はそれぞれ並文鳥の配色をそのままに、有色部分がセピア化、銀色化した文鳥である。
 シナモンというのはニッキのことで、
ニッキあめの色だからこのような名称になったものと思われるが、個人的にはセピア文鳥としたほうがかっこいいと思うがどうであろう。シルバーは有色部が青みがかった銀色をしているところからの名称だが、イザベルについてはわからない。イザベルといえば、コロンブスのアメリカ大陸探索を支援したスペイン(カスティリア)の女王だが、なぜ文鳥の名称になるのか意味不明なだけに、日本では根づかないような気がしている。

※ 日本ではシナモン文鳥を「古代文鳥」と称していたようだが、この名称は完全に廃れてしまった。シルバー文鳥については、未だ固定的な名称がなく、色彩も微妙に異同があるようだが、ここではシルバーという表現で統一することにする。
〔付記2001・8〕「イザベル(イサベル)」はフランス語で薄茶色を意味するそうだ。何でも女王がイスラム教徒のグラナダ王国を滅ぼすまで下着を替えないと願掛けをしたが、あいにくグラナダは一年ほど持ちこたえたので、そうした色になったと言う。そうなると、「イザベル」はシナモン文鳥のことのはずだが、この辺りには混乱があるようだ。

 どのように創り出していったのかは詳らかではないが、シナモンの目が赤いのは色素欠乏によるものと考えれば、あるいは白子現象(アルビニズム)を利用したものかもしれない。それにしても、この二種のもととなったのが桜文鳥であったかどうかもよくわからない。もしかしたら原種の並文鳥から創ったのかもしれない(特にシナモン)。本来なら、考察しなければいけないが、セピアや銀・青という表現はともかく、あせたのすすけたのという表現が示すように、個人的にこの品種に感心しておらず、そうした熱意が起こらない。

 個人的には、比較の問題として桜文鳥至上主義者を自称しているが、新しい品種を憎悪して排斥しようとか、その愛好者を糾弾する気はまったくない。しかし、この二品種を創り出すにあたって行われたであろう人為的な品種改良には違和感を覚えている。最後にこの点について、少し詳しく考えてみたい。
 驚くなかれ、ことは
比較文化論に及ばずにはいないのである。

 さて、すでに述べたように白や桜も日本の人間によって、独自に品種改良された文鳥であった。しかし、それはたまたま生じた白を残そうとしたり、 「雑種」に美を見出したという、実に偶然のきっかけから起こったものに過ぎない。
 それに対してシナモンやシルバーはどうだろう。商品価値の高い変り種を
人為的に創り出したに相違ない。と、根拠なく断定すれば、セピア色の文鳥がたまたま生まれたのを、オランダの人間が定着したのではないかと反論されるかもしれない。しかし欧米の品種改良と言うのは、それほど牧歌的なものではないのである。
 例えば人間の古き友である犬を見ればよくわかる。日本犬といわれるものは柴犬にせよ紀州犬にせよ、闘犬目的に大型に品種改良されたといわれる秋田犬でさえ、すべてその容姿は
似たり寄ったり、犬らしいといっては変だが、狼的な顔立ちをしている。それに比べて欧米の犬の何と千差万別なことか。これこそ、両者の品種改良の歴史を物語っていると私は考える。

 実は近現代の欧米人の品種改良というのは、例えば、小さくて耳がたれ黒斑の犬を創ろうと考えてから、いろいろ組み合わせ代重ねして創り出したりするのである。つまり品種は偶然の結果といったものではなく、どこまでも人為的選択の結果生じている場合が多々存在するのである。
ブルドッグ
 例えばブルドック。これはマスチフという精悍な犬の系統をひく犬だったが、イギリス貴族たちの楽しみブルベイテング(犬と牛とのでデスマッチ)のために改良(改悪?)されたものの子孫なのである。牛の角に突かれないように脚は短くワニのようにガニ股に変形し、顔も牛に噛み付いたままでも息が出来るように鼻がへこんでいる。みな人間の目的に合わせて変形されたのである。さらにブルベイテングが1835年に廃止されると、その容姿を残し飼いやすくする為に小型化されて現在に至っている。どこまでも人間の都合なのだが、これが欧米的品種改良の思考である。

 さらに犬種は忘れたが、一度完全に地上から姿を消した品種の姿をよみがえらせようとして、まったく縁もゆかりもない別の地方の犬を組み合わせ、代重ねして、容姿だけは絶滅したのと 寸分違わない犬を創り出したりもしてしまう。これに対して、日本人が例えば高安犬のような消滅した日本犬の形だけを、柴犬とかを品種改良して似せたりしようとする人がいるだろうか。日本犬の形などは似たり寄ったりだから、それは容易に実現できるはずだが、誰もそんな事はしないのである。
 日本人には、動物の容姿を変えるという情熱の持ち合わせが、
根本的にないからこそ、犬以外にも日本の猫は、みな同じ形をしていて、色はドラか三毛くらいのものだし、近代までの日本の馬はポニー並の大きさしかなかったのである。

 欧米人の動物についての品種改良の情熱は、彼らがもともと牧畜に従事していた存在であったことに起因するであろう。牧畜民族にとって、家畜の品種改良は絶対的に必要なものである。羊からはより多くの毛を取りたいし、牛は乳を多く供給するものが良いに決まっている。品種改良は必然で、もはや習慣化しており、家畜でないペットに対してもその習慣が、何のためらいもなく適用されているわけである。
 さらに彼らはキリスト教によって、他の動物に対する
人間の絶対的な優越が保証されているので(他の生物を人間が支配する【万物の霊長】ように旧約聖書で神様が言っているそうである)、自然のものに手を加えることに宗教的罪悪感などほとんどなく、何の躊躇もなく新たな品種を創造できるのである。

 しかしこれは、もともとが農耕民族で、仏教もしくは神道(多神教)を基礎とする日本人の感覚と根本的に違っている。日本人にとって動物は基本的に自然界に属するものなので、人間が好きに変えてやろうという発想が出来ないのである。何しろ仏教 では、他の動物も人間も同じ魂を持ち輪廻の輪でつながっている(人間死んだら次には別の生物に生まれ変わるかもしれない)などと言っているし、多神教では 、物にはすべて神霊が宿ってしまっているので、とても安易に手を出せるものではない(罰が当たると考えるのだ)。おかげで牧畜によって動物を支配する経験がほとんどないまま、近代まで極端に劣弱な食肉習慣を保持していたくらいである。
 欧米人は自然は人間に対立するものとして、これを
征服しようとするのに対し、日本人はこれと共存、さらには自然に依存すると言う文化論は、もはやずいぶん使い古されたものであるが、ペットの品種改良においてもその考え方の相違は現れているといえよう。
 そして、品種改良に対するこの消極性は案外現代の日本人も引きずっているようで、ペット動物の純潔種を保存しようと言う類の活動はあっても、積極的に品種改良に取り組んでいると言う団体の話は
あまり聞かないのである

 ・・・で、私個人はどうあがいても日本国民であり、いわゆる『本土』の人間なので「日本人」の系譜に属しているに相違なく、日本的文化、もしくは情緒から逃れられないため、動物を人間本位に人工的にいじりまわすといった感覚、それによって出現した品種には、理屈以前に抵抗感を持ってしまう。まして桜と白という立派な品種が存在するだけに、シナモンが流行し桜を隅に追いやっていたり、シルバーが高価に取引されるのを見ると、感情的に腹が立ってくる。自分たちではほとんど出来ない品種改良も、外国製ならホイホイ飛びつくなど、何とも無自覚ではないか。
 新しいものを優先させていくと、日本犬が一時絶滅に瀕したような事態にならないとも限らない。
『桜文鳥保存会』が必要になる未来を考えたくないのである。

 しかし、人の趣味は多様である。犬も猫も欧米的な品種改良のおかげでどんどん新たな品種が出来、愛好者を獲得しているのも事実である。確かに、柴犬と三毛猫だけではつまらないかも知れない。文鳥も如かず。この際色があせたの、すすけたのどころか、赤・青・黄色・群青色、くちばしが長いの、尻尾が極端に短いの、多種多様に出来あがって普及していっても悪いこととは言いきれない。むしろ、いろいろな文鳥の中で、自分の好みに合ったものを選べれば、文鳥の素晴らしさに触れる人もそれだけ多くなるのだから、結構なことなのかもしれない。

 ただし、日本人が愛して育てあげた白と桜という品種、ペットとしての文鳥の基本であるこの日本産の二種については、文鳥愛好者たるもの十分尊重すべきであり、少なくとも日本に居住する者だけでも、これからも特別大切にしていかなければならないことだけは確かなのではなかろうか。

終わり


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