白文鳥の出現〔進化か変異か〕

江戸後期の文鳥図
 ところで、江戸末期に弥富町などで飼育・繁殖されていた文鳥は、原種(並文鳥)と容姿はあまり変わらなかったはずである。

 これからいかにして白や桜が誕生したのか、実はこれまた諸説あり漠然としている。
 とりあえず白文鳥の発生地は弥富町であるという点では、異論は少ない。問題は、飼育されていた並文鳥が徐々に白化していき白文鳥が出来た、つまり、並から桜、桜から白に進化したとする考え(
進化説)と、はじめに純白の突然変異個体が出現し、その後、白と並の混血によって桜が誕生するというの考え(変異説)の、相反するような二説の存在である。

 一見すると、素朴な進化説のほうが納得しやすいかもしれないが、現在では、生物の進化は突然急激に進行するほうがむしろ普通とされている。例えばキリンの首などは徐々に長くなるという進化があったとされていたが、実際には、キリンの祖先で首がまるで長くない動物の化石と、キリン級の長さになった動物の化石しか発見されず、進化途上の首の長さの動物の存在は裏付けることが出来ないといった不思議な現象は、結構ありふれたものらしい独り言…隔離された少数グループ内での進化というグールドの説明の方が、ウイルス感染などを持ち出すよりわかりやすいと個人的には思っているが、ここで進化論について立ち入るひまはないのだった)。文鳥についても、この説明における中間種であるはずの桜文鳥の出現が、白文鳥に先立つ証拠がないのである

※ 江戸中後期に描かれる文鳥は、すべて原種の姿をしており、1847年刊行の『百品考』も頭と尾が黒く、頬が白、体は灰色であるのが普通と説明している。ただ『百品考』には、「其他種種色変リアレドモ却テ観賞ナラズ」ともあり、この色変わりは、白色変化を意味する可能性もある。しかし未見のうわさ話であり、色変わりは頬黒や後述するように、白文鳥誕生とは関係ないメラニン色素形成不全による茶化、白化であったとも考えられる。

 さらに文化人類学的な見地で言えば(そんな学問を私は勉強したことはないが)、体のごく一部が白化した文鳥を見た普通の日本の農民が、それを代重ねで拡大させていけば純白になるなどと想像できるとは、とても信じられないのである。それは牧畜が一般的な西洋の近代的な品種改良の思考がない限り、難しい話であろう。ほとんど農耕民族で、肉食の習慣も極めて限定されていた日本には、品種改良の歴史が皆無に近いことを忘れてはならない。

※ 冷血動物である金魚を別にすれば、江戸時代に品種改良されたものとして、塚本学さんは『江戸時代人と動物』の中でハツカネズミをあげられている。しかしその根拠である1787年刊の冊子『珍翫鼠育草』は色がわりの様子をある趣味人が繁殖実験したもので、品種改良とは目的が少し違うようだ(つまり変わり者の趣味行為)。
 なお『金魚と日本人』によると、金魚にしても、江戸時代には積極的な人為淘汰による品種改良を行っていたとは見なせないらしい(弥富町は金魚の産地として有名)。

 またこの文鳥進化説に従えば、部分白化した桜文鳥的個体は、文献史料にも、絵画史料にも見られないものの、選択繁殖出来るほどにありふれた存在であったはずだから(大島八重さんが弥富町に持参したのは、すでに桜文鳥であったとする説明さえある)、万一品種改良の知識が普及しているなら、弥富町に限らずどこの文鳥繁殖地でも純白を目指していても良いはずである。さらに、百歩譲って弥富町がはじめて白文鳥の品種改良に成功したのだとしても、他の地域もすぐに追随出来るはずではなかろうか。ところが、現実に白文鳥発祥地で文鳥生産地として名を残したのは弥富だけなのである。

 一方、文鳥変異説による説明には無理が生じない。そもそも純白個体の変異は珍しいものではあっても起こらないものではない。白いカラスなどもたまにニュースにあらわれるくらいだ。やはり、降ってわいたように突然純白の文鳥が生まれ、人間は腰が抜けるほど驚き、何とかその奇跡的な純白を残そうという一念で、素朴に近親交配などをくりかえし、固定させていったのが事実に近いのではなかろうか。

※ いかなる生物にも黒色色素(メラノサイト、メラニン)を欠く個体、白子(albino)は生まれるが、白文鳥の場合は、目の色が薄くならないから、この白子症(白化症、アルビニズム)ではない(「アルビノ」として売られることもある目の赤い白文鳥が白子症による品種)。よくわからないが、白文鳥の白色は色素がなくなった結果のものではなく、白になる要素が遺伝子レベルで出現した結果と、文系である私は理解してしまうことにする。

※ 鳥には部分的白化現象はわりに頻繁に起こることから、専門的になればなるほど無批判に進化説を受け入れてしまいがちのようですが、今のところ日本で文鳥の品種改良が行われた証拠は何一つなく、逆にここで示している状況証拠からは、実は突然変異と考える以上に難しい話と考えざるをえないわけです。なお、この件に関心のある方は『文鳥問題』「白の起源」もご参照下さい。

 白化の突然変異が起き、一羽の白文鳥(シロブンチョウ・ハクブンチョウ)が出現する。これはまさに奇跡といってよいが、この変異種はくちばしなどの赤(これは血色)が映えるため、優雅で美しく、とかく純白清潔の大好きな日本人の心をわしづかみにし、品種として固定され、文鳥の人気を大いに高めることになり、この可憐な新種が前代未聞の需要の拡大を招いた・・・、そのように考えれば、文鳥成金が出現したといった話が残るほど、他に冠絶して弥富町の文鳥産業が振興した理由も理解できるのである。
 つまり本当は八重さんに始まる弥富町以外にも、文鳥の人工繁殖を行っていた地域はあったが、
一羽の白文鳥が偶然にも弥富町に誕生した事で、当初白文鳥の繁殖を独占できた弥富町は、他を圧倒して文鳥生産地となったと見なせよう。

※ 明治期の文豪、千円札の夏目漱石の『文鳥』という随筆の中に出てくる文鳥は周知のように白文鳥であった。また大正初年の頃には、その漱石に弟子の内田百が手乗り文鳥を見せて自慢している(「漱石山房の夜の文鳥」)が、この「文鳥」も「まだ灰色をした小さな文鳥の雛」とあるので、背中に有色羽毛を残す白文鳥のようである。
 漱石も百閧燗チに白文鳥であるという注記をせず「文鳥」で済ましており、明治大正期に「文鳥」と言えば白文鳥を指すくらいに、
白文鳥の需要が圧倒的だった様子がうかがえる。

 それでは、白文鳥の個体が弥富町に出現した時期はいつであろうか。実はこれも良くわからない。ただ漱石の『文鳥』が書かれる明治41年(1908)に先立つこと20年以上、明治18年(1885)の『東京横浜毎日』に、鳥屋の話として欧米への小鳥輸出の記事が載っている(『明治ニュース事典』第三巻)のは参考になりそうだ。
 
「ブンチョウは白無地或いは鼠無地(ねずむじ)のごとき換り物を宜しとす。」
 鼠無地(=灰色一色?)は何を指しているのかわからないが(「白無地」に対する一種の語呂あわせの修飾のような気がする)、白無地は白文鳥のことに違いないから、この時にはすでに存在し、輸出品にまでなっていたことがうかがえる。そして、ここには「換わり物」とあるから、変り種としてまだ一般化していなかったとも思われ、それほど白文鳥の出現期をさかのぼる必要はないと見なせるかもしれない。
 ここでは、とりあえず
明治10年代の初めあたりと推定しておきたい。

〔付記2005・4〕弥富における伝承に依拠したものか、「元治元年尾張藩の武家屋敷に女中奉公していた「八重女」という人が、弥富町に嫁入りした時、日頃飼育の世話をしてきた並文鳥を土産で貰って持参したのが弥富町での文鳥飼育の始まり、その後、文鳥飼育が農家の副業として盛んになり、江戸時代末期には突然変異により「白文鳥」が誕生し、これを苦心飼育の末改良を重ねて、現在のような白文鳥となった」などと説明するものを見かけるが、これはつじつまが合わない。
 なぜなら、1868年から明治時代なので、八重さんが嫁入りして3年弱で、「江戸時代末期」は終わってしまうのだ。

桜文鳥の位置づけ

 さて、突然変異で全身が白化した一個体を、品種として確立するためには、かなり無理な近親交配も行わねばならなかったはずだが、そのようなことを続けると、体質が弱くなったり、奇形が生じたり、繁殖能力が落ちたり、さまざまな悪影響の危険が高まってしまう。
 そのため、時々、
白文鳥に並文鳥を交配する必要が生じてきた事は想像にかたくない。この、いわば白文鳥の体質劣化を防ぐための混血の結果出来たのが、桜文鳥(サクラブンチョウ)という事になるのではなかろうか。第一、最初の突然変異体の交配相手は、並文鳥以外にはいないのだから、その間には桜的な個体も必然的に産まれざるを得なかったはずである。

部分白化個体の大量発生? 桜文鳥の起源については白を創り出す過程で出来たとか、白が先祖の色に戻ろうとする現象によって誕生したという説明もある。しかし、これらの説を主張する人たちは、文鳥がペット動物で、人間によって交配相手が選ばれる事を忘れているようである。なぜ品種改良の『過程』にある中途半端なものを、純白を目指していたという品種改良の天才である某氏(実在したとは思えないが)が品種として固定しなければならないのか。
 また、なぜ先祖がえりしつつある文鳥、純白を良しとすれば「汚れてきている」その個体を、飼育者はわざわざ繁殖に用いて、純白でなくなっていくのを促進しなければいけないのか。それに、
どうしてその先祖がえりというのが、胸のぼかし模様を残した段階で止まってしまうのであろう
 以上の諸点に、合理的な説明が出来るであろうか。結局、これらの説明はずいぶん
矛盾を含んでいるものであり、実証的な話が何もない浮説と断じざるを得ない。

※ 少なくとも、部分白化した個体同士の人為淘汰の末に白文鳥が創られたとするなら、並文鳥が頻繁に部分白化を起こすことくらいは、実証しなければならない。原種を捕まえて代重ねして観察すれば良いのだから、研究環境さえ整っていれば簡単なはずである。

 やはり桜文鳥は、白文鳥を継続させる(いわゆる体質劣化の防止措置)ための必要悪として生じたものと考える以外にないであろう。繁殖という点のみで評価すれば、当初の桜の存在は白を補完するものとしてのみ意味を持っていたわけである。
 しかし、白を維持するための必要悪に過ぎないその雑種の胸の白い模様に桜の花びらを想い、その美点を見出し、曲がりなりにも品種と呼んでしまうのだから、大したものである。本来雑種だから、桜の配色は固定せず、胸のぼかしもわずかなものもいれば、胡麻塩頭のものもおり、現在でも品種といえるのか怪しいとする見方すらあるが(私は品種間交雑がなければ、メンデルの遺伝法則の上でも、ある程度一定した配色になると考えている)
そのあいまいさも日本的で、桜の魅力といえるかもしれない(

※ もっとも、明治期に生まれた弥富町の白文鳥系統は絶滅し、大正期にまた現れたのが今の白文鳥の直接の先祖とする説もある。そのように都合良く同じ突然変異が起こるとは思えないので、この話自体は信じがたいが、何らかの原因で一時期明治期の白文鳥の直系は全滅したものの、残された桜文鳥(並と白の混血)の白が多いものを選択しつつ代を重ねる事により、大正期に白文鳥を復元したといった事態は大いにありえそうだ(もともと無かった純白を創出するという発想は難しいが、存在した純白に戻すという発想は容易であろう)。
 むしろこのように考えれば、白文鳥の段階成立説も、大正期の復元の過程を説明したものとして正しいといえよう。(−補足2003年−桜文鳥というよりゴマ塩頭をした文鳥同士からは白文鳥が生まれるものと思われる。

 以上、面倒この上ない考察を続けてきたが、白も桜も完全に日本人の努力と美的感覚によって生み出された小鳥である事だけは疑いようもない事実と言えよう。

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