日本における人工繁殖

 江戸初期より『文鳥』として一部の金持ちの異国趣味を充足させる
輸入愛玩物となったジャワ雀であったが、これでは、ただ野生の鳥を捕まえて鑑賞しているに過ぎない。いつ頃から、国内で人工繁殖されるようになったのであろうか。

 文鳥を日本で本格的に繁殖した人物として、飼育書の中には大島八重さんという女性の名を具体的に挙げているものがある。彼女は江戸時代末期(元治元年[1864]という)に武家奉公先から現在の愛知県弥富町(当時は村で、さらに実際は又八新田とすべきかもしれないが、面倒なのでこの表記に統一する)へ嫁ぐ際、奉公先から文鳥を持参してきたというのだ。この弥富町は今でも文鳥の生産地であり、白文鳥発祥の地でもあるが、八重さんはそれの創始者というわけである。
 しかし、この伝説をそのまま
文鳥繁殖の起源と考えることは出来ない。確かに、武家屋敷で飼っていた文鳥の世話をしていた女中の娘が結婚する際に、女主人から退職金がわりに文鳥を与えられるというのは、いかにもありそうな話だが、残念ながら何ら確証のない口頭伝承に過ぎない。第一この八重さんの話が事実としても、それは弥富町における文鳥飼育の起源を語るだけであり、「日本初」の話ではないのである。

 そこで他に手がかりを求めると、小学館の百科事典「文鳥」項に、
 
「愛知県名古屋を中心に下級武士の内職としてその巣引きが普及したといわれる」
 とある。これに従うと、伝説の八重さんは、この文鳥の繁殖を内職としている下級武士の家の端女(ハシタメ、使い走りのこと)をしており、そこで繁殖のノウハウを身につけ、嫁ぎ先の弥富町に技術移植したものと理解できそうだ。しかし
「といわれる」とあるところを見ると、下級武士の内職うんぬんというのにも確証(文献的証拠)はないのかもしれない。ひょっとしたら、この百科事典の記載自体が八重さんの話を敷衍していった結果という疑惑も起きてくる。
 ここで本来なら、名古屋城下で文鳥の繁殖が行われていた跡を示す文書はないか、徹底的に探すべきだが、それは数十年後の暇つぶしにとっておくとして、表面的にこの下級武士内職説を検討するだけでも容易に賛同しかねるものがあると思う。
 確かに、江戸時代の下級武士による内職は一般的で、草花の栽培、鈴虫や金魚の養殖も行っていたと考えられているから、文鳥の養殖があっても不思議ではない。しかし一方で、江戸時代の社会に文鳥その物がそれほど需要のあるものとは思えず、またかなり貧困であったはずの下級武士層が、高価な生き物に投資するのは
危険極まりないように思われるのだ。いつ病気になるとも知れない小鳥よりも、織物でも作っていた方が、副業としてよほど安全確実なはずである。あれこれ考え合わせると、「普及」というより、それを内職にしていた者もいた、くらいの話に思えてくる。

出島とオランダ船 他に文鳥の人工繁殖の起源を明らかにする確かな史料を探せば、またも小林さんの随筆に糸口が見出される。その短文の中には、享和三年(1803)にオランダ船が長崎に持ち込んだ文鳥の値段は 、7匁5分だったという記録があったが、『飼鳥必用』(刊行年不明、江戸後期の書物らしい)に「この鳥世に沢山に相成り云々」とあると、紹介されており、また、白文鳥が嘉永年間(1848〜54)には存在したと、名古屋の古老青木さんが大正時代末に語っている、などといった話も載っているのである。

 7匁5分、匁というのは銀目の表示で現代人にはわかりにくい。1両が銀60匁で銭4貫文とすると・・・、1貫は約1000文だから、銭約500文になる。今の感覚だと数万円というところだろうか。当時の庶民が簡単に買えるような値段ではないが、途方もなく高いとも言えない。現在に例えれば、輸入ブランドバッグと言ったところだろうか。
 このように、それなりに高価で輸入されているということは、19世紀にいたっても国産が始まっていないように思えるが、寛政11年(1799)刊行の『諸鳥飼法百千鳥』(泉花堂三蝶著、出版元は大坂)という書物には「
庭籠に入て雛を生ずる部」の鳥の中に、しっかり「文鳥」があげられている。また、小林さんが依拠されている大正15年(1926)刊行の飼育書(石井時彦著)には、おそらく1773年『唐鳥秘伝百千鳥』(城西山人著、出版元は江戸)が大きく引用されているが、それを見れば、すでに繁殖の知識が十分存在していた事がわかる。例えば、その大正時代の飼育書から文鳥の繁殖について孫引きすると、
 
「・・・巣は春秋になす、玉子産時分雌よく落ちるもの也、至って産のおもき鳥也、庭籠の廣きはさんざんあしきもの也、玉子は十六日にてかへる・・・」
 となっている。文鳥のメスに卵づまりによる落鳥のあることを指摘し、孵化日数も正確に把握しており、とても一朝一夕の知識ではない。つまり
18世紀後半には、日本の各地で文鳥の人工繁殖が間違いなく行われていたのである。

※『百千鳥』と題する書は多く存在するが、文鳥など海外から輸入された鳥の飼育マニュアルは『唐鳥秘伝百千鳥』と思われる。実物をまだ閲覧していないが、この書物については鷲尾絖一郎著『十姉妹の謎を追う!』(近代文藝社1996年)に詳しい。なお、鷲尾氏の著書は十姉妹のルーツを探求したものだが、文鳥の起源についても示唆的な部分を含んでいる。

 しかし、それほどまでの繁殖技術を持ちながら、何故原種を輸入しなければならなかったのだろうか。どうも不思議だが、『資料日本動物史』によれば、寛政7年(1795)にまとめられた『花蛮交市洽聞記』という書物に、宝暦6年(1756)頃の鳥類の輸入価格が記載されているそうで、それによると文鳥の値段7匁8分であるのに対し、カナリアが37匁5分、紅雀が15匁、十姉妹でさえ13匁となっている。文鳥の値段は比較的にはよほど安かった事がわかる。『資料日本動物史』の著者梶島孝雄さんは、これを文鳥が国内で人工繁殖されていた結果と見なされているが、従うべき見解であろう。
 ただし宝暦6年(1756)に7匁8分で、享和3年(1803)が7匁5分(史料未確認)なら、輸入文鳥の値段は50年で3分下がっただけの
高値安定状態だったことになる。この状態を見ると、当時の国内繁殖は大規模なものではなかったと判断せざるを得ない。おそらく需要が限られた状況で、文鳥の人工繁殖、巣引き自体は18世紀には可能となっていたが、地域差なども含めて、その技術はさほど普及しないままに19世紀に至っていたと推定されよう。

 さらに『資料日本動物史』によれば、1808年刊行の『飼篭鳥』に「昔は長崎で文鳥の繁殖を行い全国に出荷されていたが、近頃では備前(岡山県)の児島郡林村の佐藤九郎冶が繁殖がうまく、数百羽ずつカゴに入れて、大阪や江戸に出荷している。」(現代語に意訳した)とあるというから、庶民文化が花開く文化・文成年間(1804〜30)になって、ようやく文鳥の需要も拡大し、繁殖も所々で一般化し、大規模化されていったものと見なせる。
 先の名古屋の青木老人の話も、白文鳥ではなく、文鳥そのものの繁殖技術が名古屋辺りで行われていた話を誤解したものと考えれば、1840年代に名古屋あたりでも始まった(下級武士の内職かはわからないが)文鳥繁殖を、60年代に八重さんが弥富町に技術移植したと整理できるかもしれない
ただし小林さんの依拠する大正期の飼育書では、弥富町も『名古屋』と表現されている )

〔付記2005・4〕菅茶山の遺した随筆集『筆のすさび』によれば、享和年間(1801〜1804年)頃、「備中備前に文鳥を畜ふことはやり」とあり、「一羽数十金」といった投機的様相を呈したため「岡山藩よりいたく禁じられ」るに至ったとある。風聞を記したもので、事実関係はわからないが、岡山は文鳥の繁殖飼育の先進地帯であったようだ。

 ともあれ江戸末期、先駆者の持ち込んだ文鳥は弥富町でも増殖し、その飼育・繁殖のノウハウとともに付近の農家に広がっていったに違いない。しかしこの文鳥の人工繁殖を弥富町の後世の形態から、女性の副業、農閑期の産業として簡単に定着していったとすぐに結論付けるべきではない。先にも述べたように、生き物はひとたび伝染性の病気でもあれば全滅してしまうなど不確実であり、繁殖地は先の備前林村のように弥富町に限られてはいなかったのだから、とても弥富が独占産業化することはなかったはずなのである。
 この地方でも、男は野良仕事、女は機織(はたおり)という基本的な仕事をしつつ、文鳥飼育は小遣い銭かせぎ程度のお気楽な感覚で、
細々と行われつつ明治期を迎えたと考えるのが、もっとも現実的な推定ではなかろうか。

※ 『資料日本動物史』にも一部引用されているが、1847年刊行の『百品考』(山本亡羊著、昭和58年科学書院より復刻版刊行)二編を見ると、江戸末期に文鳥飼育が非常に盛んであった様子がわかり興味深い。
・・・ブンテウハ原舶来ニシテ珍奇ノ鳥ナリシガ、近年世人好ンデ此鳥ヲ畜ヒ、巣ヲヒカセ、〔雛〕ヲ生育ス。故ニ市中ヲ飛行スルモノアルニ至ル。今年弘化丁未四月朔日、一雄アリ飛テ家園ニ至ル。兒輩黍ヲ籠中ニ入テ、庭中ニ置ク。程ナク籠ニ就テ黍ヲ啄ム。因テ家ニ畜フコト月餘。又一雌アリ、籠上ニ就テ相求ム。数人其旁ニ到レドモ敢テ飛去ラズ。遂ニ合セテ予家ニ畜フ。・・・」
 京都油小路の亡羊先生の家に、オスの文鳥が迷い込んだので飼育していたら、そのカゴに野良文鳥のメスがやってきて、呼び交わして離れようとせず、結局一緒に飼うことにしたというのだ。幕末の京都の町を、かなりの文鳥が飛びまわっていた事は疑いようがない。

 この傾向は京都のみならず、大坂や江戸も同様であったかもしれない。特に京都と江戸は域内に多くの大寺社を抱えているので、そうした所で行われる放生会の際に文鳥を空に放ち、結果として野生化を招いたのではないかと想像している。

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