文鳥の歴史



項目   名前と出生地   日本への渡来過程  日本における人工繁殖  
  白文鳥の出現  桜文鳥の位置づけ  新たな品種をめぐって

名前と出生地

 文鳥は英語名が
Java Sparrow、つまりジャワ雀というくらいで、東南アジア、インドネシアはジャワ島周辺原産の小鳥である。スズメ目カエデチョウ科(マニキンス類)の鳥で、学名をPadda oryzivora、「パダ・オリジヴォラ」という。
 原種を日本では並文鳥(ナミブンチョウ)と称していたが、私自身は見たことはない。桜文鳥の胸のぼかしをなくし、色を少し濃くして、小ぶりにしたような姿ではないかと想像する。それが現地では、時に集団化し田んぼで米を食べたりして(従って英語の別名はRice Bird)生活しているようである。その生活のあり方は、わが国の
雀とほとんど同じと見て良いだろう。
 以前には日本国内で野生化した文鳥もおり、また本来の生息地ではないインドやハワイなどにも帰化しているように、かなり生活力のある小鳥と見なせそうだ。

※ 日本では江戸時代末期より、いったん野生化しても根付かずに消滅することを繰り返している。日本の自然環境には、完全に適応できないようだ。 『文鳥問題』野生文鳥

日本への渡来過程

 このジャワ雀が江戸時代にはすでに日本に持ち込まれており、文鳥として絵画や浮世絵などに描かれるようになっている。しかし、どういった経緯で日本に持ち込まれ、『文鳥』と呼ばれるようになったのか、今一つわからない。試みにその起源を少し調べたところ、本によって諸説が分かれ、
しかもそれぞれの話の根拠が不明瞭なので、かえって混乱してしまう。
 伝聞推量の論説を排除し、とりあえず根拠が明確なものは、飼育書の類には存在せず、むしろ小林清之介さんの随筆(「文鳥」『日本の名随筆 生きるってすばらしいK』)に見出される。小林さんはその随筆の中で、『本朝食鑑』という1697年に刊行された書物に「近時外国から来たもの」とあることから、その数年前に文鳥は日本にやって来たとお考えになっている。

 そこで『本朝食鑑』の原文を確認すると、確かに「・・・近時自外国来、以形麗号文鳥、・・・」とある。しかしこの「近時」という表現を数年前と単純に考えて良いものか疑問であろう。大昔はいなかった程度の意味かもしれないのだ。
 何しろ1697年と言えば、時の将軍は「犬公方」の徳川綱吉であり、
生類憐れみ政策のもと、極端な動物愛護が強いられており、鳥の飼育自体を禁じることはなかったものの(「慰み」のために野鳥を捕獲飼育することは禁じられていた)、カゴの鳥を新たに外国から輸入する時期としては 、最も不適当な時期に相違ないのである。  生類憐れみ政策について

日本人の南方居住図 むしろ、それ以前の方が自然ではないかと私は思う。安土桃山時代から江戸の初期、1570年代くらいから1620年代くらいまでは日本の大航海時代で、日本人はやたらに東南アジアに進出して各地に集落(日本町)を作り、貿易したり現地で傭兵になったり、今となっては信じられないくらい活動的な展開を示していたのは、周知の事実で、ジャワ島のバタビヤなども日本人の拠点であった。つまり、間違いなく現地で日本人はジャワ雀と接触しているはずで、そこで飼育も始まり、貿易商人を通じて日本に持ち込まれたとしても、何ら不思議ではない。
 日本でも一般的に収穫される米や、イネ科の雑穀を主食とするジャワ雀の飼育は、オウム類に比して容易であったに相違なく、珍奇な異国風の小鳥として領主階級や豪商に飼育されるようになっていき、17世紀中葉、江戸時代の社会が安定してくるに従って一般化していったと考えられるのではなかろうか(
ただし当初は、野生のものを捕獲して輸入し、一代限りの観賞物として飼育していただけのはずなので、かなり断続的な存在でしかなかったと考えられる)
 つまり、日本人の文鳥飼育の起源をたどっていくと、
野生の文鳥が南蛮貿易を通じて直接日本に持ち込まれたものにさかのぼれると、ここでは考えておきたい。

 しかし一説には、すでに飼鳥化したものが中国(China)を経由して日本に入ったとされている。無根拠なのでとるに足らないが、たしかに『文』という漢字には、『いくつかの色で作りだす模様』とか『みやびやかな』といった意味があるので、南方の珍奇な、どことなく上品な色彩の小鳥を指して、中国の知識人層が『文鳥』と表現することは大いに有り得そうだ

 ただ飼鳥化していたという事は、この場合17世紀までに、中国で文鳥の人工繁殖が行われていたという意味になる点が気にかかる。何しろ日本でも中国でも野鳥を捕らえ飼鳥とすることはあっても、そういった小鳥を人工繁殖させるような習慣があったとは思えないのである。
 例えば日本にも、鳥をカゴに入れて飼うという行為自体は古くからあり、古くは、大化3年(647)にオウムが新羅(朝鮮半島にあった国)から送られているし、11世紀あたりの平安貴族たちは、小鳥合(コトリアワセ、持ち寄った小鳥の鳴き声や羽の色を競う遊びという)をしており(『日本史小百科M動物』、『鳥の日本史』など参照)、清少納言というその頃の女性も「すずめの子がひ」がお気に入りだったし、さらに14世紀の兼好法師という人物は、
空を飛ぶ鳥の翼を切って籠に入れるなんてかわいそうだと主張しているくらいだ(『徒然草』第121段)。
 しかし、これらは野生の鳥を捕まえてきて、鳥カゴに放りこんでいるに過ぎず、野生の小鳥をわざわざ繁殖などする事はなかった。元々、小鳥は
声や姿のためだけの存在で、かわいがって育てようなどという発想は乏しかったのである。昔の児童唱歌に、「歌を忘れたカナリヤは、裏のお山に捨てましょか。」などという文句があったらしいが、昔の人々にとって、小鳥は完全に鑑賞物でしかないのである。

 そういった感覚は、おそらく中国も同様であったものと思う。もし前近代に中国でジャワ雀が飼われていても、野生のものを捕まえて輸入したものだった可能性が高く、まして、人工繁殖をし、それを日本に輸出するなどという、現代のペット産業化した側面は、ほとんど想定しがたいであろう。

 さらに、「文鳥」という言葉の由来を、一概に中国に求めるのにも問題がある。『大漢和辞典』の「文鳥」の項によれば、かの国には「文鳥之夢」という四文字熟語があるのが、この『文鳥』というのは「文彩の有る鳥」、つまり模様の有るきれいな鳥という意味で、ジャワ雀の事だけを指す言葉ではない。また、現代の中国南部の人が、野生の文鳥(並文鳥)を「灰文鳥」と呼んでいるそうだが(『ブンチョウの飼い方・ふやし方』)、わざわざ「灰」をつけるところを見ると、いまだに『文鳥』がジャワ雀固有の名詞となっていないことがわかる。
 実はジャワ鳥をはじめて見た日本人に、
彩色の有る鳥=「文鳥」と中国人が説明したのを、『文鳥』という種類の鳥なのだと誤解したのが、ジャワ雀が日本で文鳥と呼ばれるようになる発端なのではないか、そのように考えた方が、無理がないように思う。

※『民族動物学ノート』によれば、ジャワ雀の現在の正式漢語名は「栗腹文鳥」で、俗に「灰文鳥」と呼ぶとしている。しかし同書で学名としてあげられているLonchura malaccaは和名ギンパラのことなので、その点で混乱されているようだ。一方「栗腹文鳥」の近縁としてあげられている「白腰文鳥」(Lonchura striata)は学名からも和名のコシジロキンバラに相違ないから、中国ではギンパラ類も文鳥と呼んでいるものと判断できる。つまり現在の中国において、明らかに『文鳥』はジャワ雀のみを意味する固有名詞ではなく、模様のある鳥類すべてを表現する普通名詞に過ぎないのである。
 さらに『日本鳥名由来辞典』によれば、清国(中国の近世帝国)では
「瑞紅鳥」と文鳥を表記していた事が判明する。中国では、元々ジャワ雀は「文鳥」ではなく「瑞紅鳥」という別の固有名詞を持っていたのである。結局、現代も過去も中国で「文鳥」が文鳥という品種をさす固有名詞ではなかったと考えざるを得ないのである。

〔付記2004・4〕18世紀中国(清)の余曽三による『百花鳥図』には、「瑞紅鳥」として文鳥(原種)が描かれている。また、化政年間の常陸笠間藩主牧野貞幹の描いた『鳥類写生図』の中の文鳥(原種)も、「瑞紅鳥」としており、こちらが正式名称であったことがうかがえる。
 なお、両図は国立国会図書館のホームページの「電子図書館」「貴重書画像データベース」で閲覧できる。

 しかし、中国大陸経由で持ち込まれたという話は、まったく的外れとも言えない。何しろ日本の場合1630年代から鎖国体制に入り、徳川幕府の政策によって、貿易港は基本的に長崎の出島だけとなり、相手国は中国とオランダに限られていたのである。当然『文鳥』の輸入も出島を経て行われたはずで、中国商人の手を通じた輸入の形態をもって、中国経由であったと理解することも十分に可能なのである。

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