『生類憐れみ』小考


 いわゆる、生類憐れみの令とは、徳川五代将軍綱吉の治世における一連の動物愛護政策を称するもので、法令自体は内容によって、その都度たびたび大量に出されている(1687〜1708年)。

 綱吉は「犬公方」(公方=将軍)と揶揄されるように、動物、特に犬を過剰に保護し、人命を軽視した狂人のように扱われる事が多いが、本来彼の意図は現代的な動物愛護にあり、妄想的なものではなかったと考えられ始めているようだ(近世史家の塚本学氏の問題提起)。その点は、「はじめはかの殺伐の風習を改めて、好生の御徳を遍く示し給はん盛意より出しが、とにかく禁令に背く者たえず、群臣の其事を奉行するもの、その道を得ざるより、禁網次第に厳俊になり、はてには下民の寃苦する事もいで来しなり」【意訳】当初は動物を虐待する習慣を改めて、一つ一つの命を大切に思う心をお示しになろうとするお気持ちから出た命令だったが、それに背く者が跡を絶たず、それを取り締まる家臣たちすら、その趣旨を十分に理解していなかったために、徐々に禁止事項が現実ばなれして厳しくなっていってしまい、一般市民が生活する事さえ困難になってしまった)、との側近柳沢吉保本人の評言が的を得ていると思われる(『憲廟実録』)。
 実際に幕府の正史『徳川実紀』を現代人の視点から見ると、綱吉の発令自体は至極まっとうで穏当な印象を受ける。例えば、馬に荷物を負わせるについて、
「その馬のさまにより荷物の軽重をはかり」馬が過重で苦しまないようには言っているが(元禄15年5月9日)、荷駄行為自体は禁止していないのである。これは、人間自体が重労働を強いられる当時の社会にあっては、馬に深情けなど現実離れした世迷言と受け止められて当然だとしても、「動物も人間も同じ生物として慈しむべきだ」と心がけを説いたものとして考えれば、別段問題のない話であったと思う。ただ、運用する時点で過剰な取締りとなったと考えられよう。

 鳥の話も同様で、飼鳥の禁止といっても、実際は野鳥を捕まえてはいけないとの趣旨であり、現代の野鳥保護の考え方と何ら変わらない。『徳川実紀』から宝永2年(1705)9月28日の発令内容を掲げよう。
 
「鳥飼事前にも令せられしに、今猶さるものあるよし聞ゆ。こたび査検せしめしに飼をくものあり。いとひがごとなり。前令のごとく、鵝、鵞、鶩、并に唐鳥の類たりとも、はなちやりて鳥の為よからざるは、そのままにやしなひ。其外翫弄のため飼ふ事はすべからず。」(【意訳】鳥を飼うことについては、以前にも命じたはずだが、いまだに飼っているものがあるという話しだ。そこで今度取り調べたところ、うわさどおりに飼っている者がいた。とんでもない間違いである。前にも命じたように、アヒルの類〈鵝=鵞、鵝は鶏・鶴の誤記かもしれない〉や外国の鳥などのような、カゴの外から出して放すことが(日本の自然では野生生活できないので)、かえって鳥自身のためにならない場合は、そのまま養い育てる事が必要だが、其の外の興味だけのために飼ったりしてはならない)
 
ペット化した動物は自然には戻れないという、明確な現実を考えていた事は明瞭であろう。決して妄想の産物とは言えない。むしろ現代人には多いに首肯できる論理的な内容だったのである。
 犬を殺した者を処刑したり、蚊を殺した小姓を遠島にしたりするような、狂気としか思えない罪科が行われるのは江戸城下、まして蚊の話はまさに綱吉の至近で起こった行為でり、限定して考えるべきではなかろうか。この点では、綱吉は「血の穢れ」を極端に嫌い、膝下の江戸府内を寺社の境内同様の聖地と見なし、極度の殺生禁断を強いたものと考えるべきではないかと思う。つまり動物愛護については全国的に緩やかに啓蒙し、近辺の殺生を断然禁止するわけである。愛護の側面と殺生禁止の側面、綱吉の生類憐れみ政策の二つの側面は分けて考えなくてはならない気がする。

 さて、当面の問題である文鳥と生類憐れみ政策との関係だが、文鳥は日本原産ではないので「唐鳥」、従って上記のようにそれを飼うこと自体は禁止されていなかったものと思われる。しかも、わざわざ「唐鳥」が挙げられることから、京都・大坂を中心に元禄文化で奢侈な消費生活が盛んになっていた当時、舶来鳥類の飼育がブームとなっていた可能性が極めて高く、その中には文鳥も含まれていたはずである。
 ただし、幕府側が「唐鳥」の飼養を認めるのは、外国産の鳥を日本で放しても野生では生活できないので飼わざるを得ない、という
消極的な理由に過ぎない。「鳥飼をけばとて、罪科に処せらるべきにあらねば」とは言いつつも、飼っているのなら、「その旨しるして呈すべし」と届け出を義務づけ(元禄5年2月5日)、もし届け出ずに飼っている事がわかれば、「曲事たるべし」(曲事【くせごと】=不法行為)と警告している(元禄9年10月7日)。このような状況下で幕府の直轄地長崎を通じて、堂々と新たに輸入すること自体が、なかなか容易ではなかったであろうし、それが行われたとしても、江戸から遠い京・大坂の豪商に限定されたものと考えた方が自然かも知れない。

 つまり『本朝食鑑』の「近時」を最近と考える事も十分に可能だが、それが文鳥が渡来した始源とする根拠はなく、また、その後飼育が継続していったとは必ずしも見なすことは出来ないので、とりあえず、最近も輸入された程度の意味合いとして捉えるのが妥当だと思う。結局、17世紀末、18世紀初の段階では、いまだに珍奇な舶来の鳥の一種として断続的に輸入される段階であったと見なせよう。(2000年12月記)

以上は、京都のSさんのメールに触発されての愚考です。御教示感謝致します。


戻る