1926年刊石井時彦著『文鳥と十姉妹』(『小鳥の飼い方叢書三』)について

 小林さんの随筆でこの本の存在を知った私は、国会図書館まで行ってしまい、相変わらずの面倒くさい手続きの末ボロボロの本を借り、一枚35円さらに消費税という昔ながらの超暴利に苦しみながらも、その文鳥に関する部分30枚のコピーを手にした。

 その内容は実に面白かったが、文鳥の起源をめぐる飼育書間の混乱の原因が、この本にあるようであった。せっかくなので、長〜く引用しておこう(一部カナづかいなどを改めた)。

 【白文鳥は】白変(Albinism)による物でありますが、全身一時に白化したいわゆる白子ではありません人為淘汰の結果でありまして、体の一部に白い差し毛のある鳥から種を引きまして、代を重ねてだんだんと、白色の多い鳥を選抜して、遂に今日にみるような全身白色で覆われた白文鳥をこしらえ上げたということです。年代はよくわかりませんが、名古屋で出来たということで、そのこしらえた人というのは、名古屋の住人でありまして海阜某とかいう人だと、私幼少の頃から名古屋で大の仲良しだった鳥屋のお爺さんからききました。年代はいつの頃か知りませんし、このお爺さんのいうところも会ってるかどうかも判断はつきません。しかし最近これもまたやはり名古屋の人ですが、青木という古老からききました所によりますと、八十年前にはすでに白文鳥はいたということです。今から百四五十年前に書かれた本になく、八十年前にあったというからにはその間五六十年の間に出来た物でしょう。ですから、この白文鳥という鳥は、全く我国の特産で、純然たる家禽でありまして、巣引きの上手な事は原種や桜文鳥の比ではありません。飼鳥界一方の旗頭で、我国の誇りとする所であります。
 桜文鳥といいますのは、白文鳥から出た鳥で原種と併せて一口に一名駄文と申します。一見並の文鳥と白文鳥の
混血かと思われるかどもありまして、頭や翼や胸や背に白い刺毛あり、又総体に色のうすい鳥です。もっともこの刺毛は多いのと少ないのとありますし、全くないのもありまして、一概にはいえませんが、ともかく庭籠で生まれた白文鳥の子の中で俗に先祖帰りと申します帰先遺伝によりまして変種から再び帰って原種と同様な物になったのでありますが、立派な家禽には相違ありません。しかし白文鳥ですら従来あまり力を打込まなかったので、まして駄文ではてんで巣引きをする人もいないせいもありますが、一面においては、先祖帰りというものは外形ばかりでなく、性質や能力にまでも影響するものですが巣引きの具合は白文鳥にはかないません。何といっても巣引きには白文鳥です。

 全体に問題が多い。まず、Albinism、アルビニズムを日本語に訳せば白子症か白子現象でも良いので、白子ではないというのは間違い。また、名古屋というのは弥富町かも知れず、不正確。さらに、鳥屋のお爺さんや、青木という古老の証言に対する裏づけは一つもないのは、非学問で無責任といわざる得ない。白と白の間に桜が生じるのはメンデルの法則で説明がつくので、桜文鳥を偶発的な帰先遺伝(隔世遺伝)とするのは少し違う。第一、桜文鳥に対する考え方は、偏見と誤解以外の何ものでもない。

 白文鳥の出現の説明は、一部白化の変種→人為淘汰→白文鳥と、見事に古典的なダーウィン進化論に当てはまるだけに、Albinism・人為淘汰・帰先遺伝という、おそらく大正時代には目新しかった学術用語に当てはめようとした結果の文章ではなかったかと思えてくる。つまり、きつく言ってしまえば思い込みの産物であって、この文章をもとに文鳥の起源を考えるには、十分な注意を払う必要がありそうだ。

 さて、石井さんは、白文鳥は江戸時代(1800〜1850年頃)に品種改良によって出来たもので、桜文鳥は白文鳥が帰先遺伝によって再び先祖の色彩に帰った結果現れた物だと説明したいわけだが、白文鳥の出現を白子症としながら、白子(アルビノ)ではないといったり、桜文鳥は混血かもしれないといいながら、何の理由もなく先祖がえりだと結論していたりするのが問題なのだ。
 この文章を基礎に、一部白化の変種とは桜文鳥ではないかという解釈をすることも可能であり、弥富町で文鳥の生産が始まったのが江戸時代末で、白文鳥がそこを発祥地とするという前提の場合は、その不都合な部分だけをかえる人も出てくる余地が多分にある。結果、白や桜文鳥の起源の説明は混乱してしまったのではなかろうか。

  私は歴史学しか知らないが、明治・大正期あたりの研究というのは無邪気なところがある(そこが面白さでもあるのだが)ので、現在では、十分に批判しつつ利用しなければいけない。検討もせずに利用すると、とんでもないことになると思う。文鳥についても、今後、石井さんの説に惑わされずに科学的に自然科学者が実証的に研究してもらいたいと願っているが、これは釈迦に説法かもしれない(すでに研究された方がいるのかもしれない、御存知の方はお教えください)

 さて、この本で人文系統の人間が着目したのは、起源についての叙述などではなく、大正期の文鳥飼育についての証言。これは同時代の報告だから正確である上に、非常に示唆に富んでいる。例えば石井さんは「名古屋を初め主として関西地方」で孵化一週間程度のヒナを、人工に差餌して育てることを、親文鳥により多くのヒナを産ませるための生産者側の方便で、「無理をした鳥で誤魔化している」と断じ、「名古屋方面からの移入物」である「差餌鳥」は巣引きが下手なので十分警戒しなければいけないとしているのは興味深い。
 そこには手乗り文鳥にするために人間が差餌をするという発想が完全に欠如している。差餌は生産性向上のための必要悪であるとは、手乗り文鳥が当然のようになっている現代人には、なかなか思いがけない話であった。どうも手乗り化を、人間がペットである文鳥とより仲良くする手段としてポジティブ(飼育者の積極的な需要)に考えてしまうが、その大々的な展開には、むしろ生産者側の都合という、飼育者にとってはネガティブな側面が強かったのかもしれない。

 考えてみれば、百鬼園先生(内田百閨jが「漱石山房の夜の文鳥」のなかで、自分は文鳥を手乗りにしておきながら(どう読んでも溺愛しているのだが、そうは書かないところが「らしさ」であろうか)、馴らしてはいけないとか、「だらしのない家畜のようなもの」とか言っているのも、伝統的な小鳥の飼育が、声や姿を鑑賞するのことを主目的にしているのを示していた。
 そうした伝統的なあり方から見れば、手乗りの文鳥などは、芸物であって、外道というわけだろう。外道がペットという概念で本道に変わっていったと思うと人間の心性の変遷を考える上でも面白いと思えた。

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