ある獣医さんの足跡から

 『セキセイインコ―「鳥の病院」の先生が教える飼い方―』1995年日東書院)という飼育書の序言は、今現在の獣医さんも参考にすべき示唆に富んでいる。
 「セキセイインコに対する最善の対応を第一に考えていたつもりでも、現実には飼い主さんのお気持ちを無視した診療を押しつけてしまう結果となり、無用なトラブルを起こすこともありました。あくまでも、そのセキセイインコは飼い主さんのペットであり、私のペットではありません。ひとりひとりの飼い主さんの長い人生におけるさまざまな時間的背景とセキセイインコとの関係の間に、わずかな診療時間内にいきなり土足で踏みこむべきではなかったのです。自分自身の中だけに理想的診療を追求しようとするあまりに、時間的にも精神的にも余裕がなくなり、私の方針に合わせてくれる飼い主さん以外のニーズにはなかなか応じることができませんでした。私には、個々の飼い主さんに対して、その御心情までくみ取って対応できるような包容力もなく、ご満足いただけないケースも多かったかと思います。」
 他人の気持ちを無視して猛進し、自分の方針に従う者以外は排除する、これは理想を持つ有能な人間の陥る通弊と言える。一口で言えば独善であり、行きつく果ては『裸の王様』、ワンマン経営者、教祖様だが、もし、医療以外の職業であれば、もしくは患者飼い主に対する以外の場面での話であれば、こういった態度も悪いものとは言えない。それは一種のリーダーシップであり、人々をひきつけるカリスマの源に相違ないからである。
 しかし、「診療を業務とする獣医師は、診療を求められたときは、正当な理由がなければ、これを拒んではならない」と獣医師法19条で規定されているように、獣医さんはその自由意志で診療拒否が認められていない存在である事を忘れられては困る。さらに、昨今はインフォームドコンセントとして、治療方法の選択肢を飼い主に示すことが求められてもいる。つまり、独善的に自分の意見を押し付けて良い職業では、もともとあり得ないのである。

 さて、この序言を読む限り、監修者の獣医さんが実に真摯な方であったことは疑いないところと言えよう。しかし、その信じる「最善の対応」そのものが、批判を受けるべき論理的・科学的矛盾点を多々有していることにお気づきになっていたか、今となって読み返してもかなり心もとない。
 この獣医さんの「最善の対応」とはいかなるものなのか、例えば同書の病気とその治療法を記している部分で、卵管・直腸脱の治療法として「全身麻酔の開腹手術を行なわないと手遅れになることがある」(P169)とだけ記しているのはどうだろう。この獣医さんはそれが最善と心得ていたのかもしれないが、同じ病気についての治療法として、別の一般向けの飼育書(高橋達志郎『小鳥の飼い方と病気―すぐに役立つ飼い方のすべて―』【1990年永岡書店】)には、「洗浄した後、腹腔内にもどして肛門を排便できる程度に一針、縫合し・・・」と説明されているのである。そして客観的には、故高橋先生が紹介するアプローチが先で、開腹はそれが不可能な場合に限られ、それは21世紀、2006年の今日でも同様のプロセスが一般的なはずである。
 ところがこの獣医さんは、その開腹手術の前提となるべき一般的な治療法についてはまったく触れていない。したがって、もしこの一般向けの飼育書の読者の小鳥が不幸にして卵管脱となった場合、それによって開腹手術が必至と思い込み、「血液検査やイソフルレン麻酔などによる手術が行なえるような設備と技術をもった病院に連れてい」(P180)こうとして、かえって手遅れになってしまうという悲劇的結末も想定される事になってしまう。さらに、もしかしたらこの獣医さんの影響で、今なおすぐに開腹手術してしまう特殊な獣医師も存在するのではないかとの勘ぐりも働くのである。

 さて、この獣医さんは、かつて(約10年前)、使命感に燃え、最新の設備をそろえ、絶対的な技術を持つ鳥専門の獣医さんとして、マンガで紹介されたこともあった(中央公論社『バード先生はすごいらしい』)。
 そこでは、この獣医さんの常連客であり、いわば『信者』であるマンガ家の「いがらしゆみこ」さんが、この獣医さんの素晴らしい技術や情熱をストーリー仕立てのマンガで大いに喧伝していた。結果、その婦人誌(『婦人公論』)でのマンガ連載を読み、当時その『信者』となった「鳥好きマダム」は少なくなかったのではなかろうか。
 しかし、単行本となったそれを数年前に古本屋で購入して読んだ私は、その常軌を逸した内容に慄然としたことを、告白しなければならない。なぜ、このような内容のマンガがこの獣医さんの宣伝になり得るのだろうか?正直に言えば、この獣医さんも、作者も、雑誌編集者も、当時賛同した読者に対してすら、憤りを禁じえなかったのである。
 マンガを読む限り、なるほど鳥の外科手術がお得意で、その医療技術は素晴らしかったかもしれない(フェレットの手術は苦手だったようだが)。ご経営になっている鳥専門の病院も、先のセキセイインコの飼育書で一般家庭での飼育でさえも必要と力説されているインキュベーターをそろえた入院施設が充実していた様子が見て取れる。しかしその行動は、確かにご自分がインコの飼育本で反省されているように、独善と言わねばならない点が散見されるのである。
 なお、このマンガの登場人物は、『キャンディキャンディ』の作者でお目目キラキラ少女漫画の旗手であった作者の手により、容姿も性格もいちじるしく美化されていたに相違ないが、核となるストーリー自体は、当の獣医さんが「ほとんどが実話」「ちょっとは脚色」と巻末の対談でおっしゃっているので、実話と見なさざるを得ない。そもそもご丁寧にも監修者としてその獣医さんのお名前があり、かつその病院の連絡先まで書かれているのだから、連載や単行本化の時点で、問題点にまったくお気づきにならなかったに相違なく、一体この人々の感覚というのはどうなっていたのか、今となっても実に不可解である。

 例えば、小学生が連れてきた十姉妹の目の上の腫瘍をガンとして、電話で親に手術費(3万円)と入院3週間の費用(1日2000〜3000円)を飼い主に提示する話がある。
 良性腫瘍であれば切除が必要であったかも議論の余地がありそうだが、それ以前に、未成年者の依頼で親に無断で診療し、何も知らぬ親に診療費を請求すること自体が、いちじるしく間違っている。また、他の選択肢を提示せず、「ちゃんと治療をうけさせたいかそうでないか」と電話越しに飼い主にせまるなど、職分の逸脱もはなはだしい。
 当然ながら、子供にはわからない大人には大人の事情がある。しっかりと物事が判断できる大人が、高額でも助けたいと願ったわけでもないのに、勝手にその所有物であるペット動物の診断をし、治療をしないことを責めるなど、脅迫まがいの押し売り行為以外の何物でもないであろう。

 また、他の話の中で、そのう穿孔で手術が必要となったオウムの飼い主に、手術中に死ぬ事は「ありません」と断言し、「ぼくが大丈夫といったら大丈夫です」と言っているのは、自信過剰も極点に達し、すでに異常なレベルと見なすしかない。
 どれほど腕が良く、どれほど簡単な手術でも、危険がないなどと「きっぱり」言えるはずがないのである。もしそれが、この獣医さんにとって臨床上必要な患者飼い主との駆け引きであっても(医者の自信ある態度に安心する患者は多い【ただし、批判力のある飼い主はかえって不安になる】)、雑誌の連載マンガで一般に喧伝すれば、冷静な判断力のある人間の疑心を呼ぶことになる。もちろん、絶対に死なないと請け負って死んでしまったら、この獣医さんは詐欺行為として損害賠償責任を果たさねばならない立場に追い込まれる。
 なぜ、このような分別のある者の不信を買い、自らの立場を司法的に危険なものとする話を、平然と載せてしまえたのか、その神経、思考が皆目私には理解出来ない(マンガ家も編集者も同様)。

 なかでも最悪のエピソードは、この獣医さん一家が飼育しているフェレットが、夜中に鳥患者たちの入院室に浸入し、ご自慢のインキュベーターなどをひっくり返して、鳥たちが入院室内を逃げ飛ぶ話だ。
 この話の本筋は、逃げ惑った鳥患者たちの中によく似た赤カナリアが2羽いて、個体識別が出来なくなってしまったといったものだが、そのような他愛の無い話以前に、イタチ科に属するフェレットが十分に鳥を殺傷する、というよりそれが『本職』の動物とすら言える存在であることを自覚していないらしい危機感の欠如に、ただひたすらあきれるしかない。
 この場合、そのフェレット君は「イタズラ」どころか、本能のおもむくまま鳥たちを襲いに行ったと考えるのが、科学的で冷静な判断と言うものであろう。現実はディズニーのファンタジーとは違うのである。
 つまり、他人様から大切なペットを預かり入院させているにもかかわらず(入院させるのがとてもお好きだったようだ)、その生命を襲う動物をまったくのプライベートで病院内に飼養し、しかもその管理が不十分だったことを自ら告白しているだけなのである。これはは以っての外であり、笑い話で済む話ではない。このような事件を読み、この病院に自分の鳥を預けられるなら、それは大した度胸ではなかろうか。

 このマンガからうかがえるこの獣医さんの対応の中で、11歳になるという娘さんが手術の手伝いをする箇所も大いに恐ろしい(弟君もフェレット手術の手伝いをしている)。この話の鳥患者は野良猫に食べられそこなった野生のユリカモメなので、物好きな獣医さんが何をどうしようと好き好きだが、つま先立ちしなければ手術台に手がつけないように描かれるそのお嬢ちゃんが、まるで100%フィクションの手塚治虫のマンガ『ブラックジャック』に登場する助手の小娘(ピノコ)のように、手術の助手をしっかりつとめ、「11歳になるまでだてにバード先生の娘やってたわけじゃない」と仰せになるのだから、大いなる疑念を呼ぶことになる。いったいこの病院は、いつも子供を手術室に入れていたのだろうか?
 いがらしさんと言えば、大昔にアニメ化されたあの『キャンディ・キャンディ』から想像すれば(他の作品は知らない。私には姉がいたのでアニメは見ていた)、ヒロインの少女がくじけず頑張るといったテーマがお好きなのだろうし、何しろマンガである以上、そこには現実とはかけ離れた誇張があっても当然と言える。しかし、これは先ほども言ったように、監修者の獣医さん自身がノンフィクションの前提を持たせているマンガなのだから、読んでいるこちらの方がまったく当惑してしまうのである。
 子供は大人の縮小版ではない。これが現実である。子供に大人と同じ経験も技術も無いのは当然として、より以上に身体や脳が成長段階にあるため、手先の正確さも論理的思考力も未熟なのは疑いようのない生理上の事実なのである。そうした子供に大人と同じことが出来るとか、同じことをさせようという発想自体が、そもそも現実的ではなく、教育的にも間違った思想だと私は思うのだが、いかがであろうか?
 他人の所有物で生き物であるペットが死んでしまうかもしれない手術中に、手先も定まらぬ子供を近くに存在させるなど、どのように考えてもあってはならない行為のように思える。お手伝いをさせるのは結構だが、手術室に入れるのは、せめて義務教育が終わってからが適当で、それが命ある鳥患者自身と、それを家族同然にいつくしむ飼い主に対する最低限の礼儀ではなかったかと思う。

 すでに古い作品であり、モデルの獣医さん自体、最近のご活躍を耳にしないので、今さら批判をしても仕方がないが、それにしても、作者も、監修者も、編集者も、あまりに無邪気で軽率であったと言わねばならない。飼い主としての自覚(自分が自分のペットを守る)も、他への批判力も少ない人ほど、このマンガで描かれた「ブラックジャックみたいな獣医さん」を頼もしく思うかもしれないが、冷静に読めば、自己陶酔して他への配慮を欠き、生命を預かる自覚が著しく欠如している獣医師と見なす以外にない話が列挙されていただけなのである。
 もし違うと言うのなら、このマンガの患者が人間であったら、同じようなことが許されるか、少し想像して頂きたい

 巻末に、作者とこの獣医さんの対談が掲載されている。いがらしさんは、飼育なさっていたニワトリ君を輪ゴムの誤飲による衰弱という、はっきり言えば飼育上の過失(ニワトリはついばめるものなら何でも飲み込む動物であるのは常識)で亡くされている。そのニワトリ君が衰弱しきったところで、この獣医さんの病院を頼られ、それ以来、鳥専門獣医の必要性に目覚められたのだそうだ。
 しかし、これは厳しいようだが、まずいがらしさんに必要であったのは、飼い主として当然知っていなければならない飼育上の知識であって、腕の良い鳥専門獣医師ではなかったのではなかろうか?基礎的な知識があれば、輪ゴムなど床に落とさないように気をつけたであろうし、衰弱しきるまで放置することも無かったはずである。
 これは作者に限らない。まったく初歩的な飼育上のミスを起こすような人ほど、「動物病院かぶれ」する。もちろん飼育上のミスは、どのように気をつけているつもりでも起きるものなので、私はこれを責める気はまったく無い(これを無邪気に責められるとしたら、それは飼育歴が浅く、ミスをする機会がないだけと言える)。しかし、それがミスであるかどうかすら知らずに飼育し、自分がそのように「普通」以下に無知だったから、他の飼い主も同じだと単純に思い込まれては、はなはだの迷惑である。
 まして、その浅く狭い知識と経験から他との比較も出来ずに、特定の獣医師の極めて個性的な意見を実に単純に信じこみ、せっせと他人に啓蒙されては、迷惑以上に害悪とすら言わねばならない。特定の動物病院で自分の過ちに気づかされ、己の無知を恥じるのは良いことだが、より以上に飼育の常識にすら無頓着で飼育していたそれまでの飼い主としての自分の無自覚な態度こそ自省すべきで、受け売りの知識を他人を啓蒙しようとするのはそれからでも遅くなかったと、私には思えてならない。

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