最近、週末になると自転車のサドルが恋しくなり、そして自転車に乗って美味しいものを食べに行く事が楽しみになっている。真のサイクリストからしたら、自転車に乗る動機があまりにも不純かもしれないが、何しろ愛機を手に入れた究極の目的が、自宅から延々380kmの距離を走って戸隠に手打ち蕎麦を食べに行く事にあったわけなのだから、休みの度に食べ物を目的にペダルに足を乗せたくなるとしても、それはさして不思議な事ではない。 MTBを手に入れてからすっかりお馴染みになっている、境川サイクリングロードの詳細をネットや地図帳で調べているうちに、戸塚に日本一小さい事を売り物にした牧場を見つけた。16頭の乳牛のみを育てるイイダ牧場である。絞りたてのミルクから作ったソフトクリームと牛乳が自慢だと言う。 これはペダルを漕がないわけには行かないだろう。 僕はソフトクリームが大好きなのだ。 |
すっかり通い慣れた 東海道新幹線沿いの県道を走り 例によって狭いくせに やたらと交通量の多い下分橋から 文字通り大和と横浜の境となっている 境川沿いのサイクリングロードに入る。 そろそろ春の足音が聞こえ始める バレンタインデーのこの日 早朝から 太陽は眩しいほどに輝き 境川の川面をキラキラと照らしている。 |
日向山から入る下分橋から イイダ牧場までは 約6kmの道程である。 天下無敵の方向音痴の僕にとって インターネットで手に入れた 観光地図が唯一の武器というのは なんとも心もとない話なのだが 走る道が通い慣れているだけで 気持ちが大きくなってくるから不思議である。 途中 東屋の建つ休憩所で レースに出るためのトレーニングで この道を毎週走っているという 2人組みのサイクリストに 「綺麗に手を入れているね」と 疾風改を褒められて ますます有頂天になった僕は 柄にもなく 酒冷58年式潤平エンジンを全開にし 後々の疲労を考える事もなく 時速40.6kmを記録したのであった。 |
いい気になってペダルを漕ぎながら 僕も見習わねばと思うほど 仲むつまじい夫婦の鴨が遊ぶ 境川の対岸を眺めると そこには遊歩道をわくわくしながら探検する 中国帽の小さなぼうやと その姿を優しい瞳で追う 綺麗な母親の姿があり その暖かい光景にペダルを踏む足の力も 知らず知らずのうちに緩むのであった。 |
【国道1号線まで3.0km】の標識を サイクリングロードの右に見て 「そろそろこの辺だ」と 疾風改の上でひとり呟き 黄金色の景色が広がる側道に下り 瀟洒な屋根に映える ピンク色の格子に見当をつけて 疾風改を走らせた。 田んぼの畦道をドコドコと走り 細い道を適当に走るうち 目標にした屋根が目の前に現れ そこに【イイダ牧場】の看板を見つけた。 |
本日の営業を開始して間もないイイダ牧場の売店に入り、数あるジェラードとソフトクリームの中から、絞りたての乳から作ったというミルクのソフトクリームをコーンカップに盛ってもらった。 元来、甘いものが苦手な僕なのだが、ソフトクリームだけは別格である。ダウンジャケットを着込んで、背中を丸めて歩きたくなるような寒風吹きすさぶ冬の夜にも、ソフトクリームを舐めながら家路に向かう大バカ者である。その味には少しばかりうるさいのだ。しかし、こだわりの蕎麦屋に入ってざる蕎麦でその味を探る、あるいは和食の店で、出汁巻き玉子でその店のポリシーを把握しようとする一端の料理評論家のような顔をして、ひと舐めしたソフトクリームのその味は、驚くほど濃厚でありながらさっぱりと舌の上に溶けて爽やかで、僕は一言「美味しい〜」と唸るしか、なす術がないのであった。 ソフトクリームの味にすっかり満足し、イイダ牧場から再び境川サイクリングロードに戻って来た道を引き返す。美味しいものを食べて潤平エンジンも軽やかに回る・・・はずだったのだが、ドッコイそうは問屋が卸さなかった。強烈な向かい風が僕と疾風改の進む先を阻んだのだ。家に帰ってニュースを見ればそれもそのはず。この日、横浜には冬の終わりを告げる春一番が吹いていたのである。まるで疾風改を押し戻そうとするかのような向かい風と土ほこりに歯向かって懸命にペダルを漕ぐ。頑張って漕ぎながらふと見たスピードメーターは時速17.3km。かくして往路で記録した、疾風改の新記録時速40.6kmは、虚しく追い風参考記録に終わったのである。 |
横浜ドリームランドも閉園し 住宅地として開発が進む戸塚地区だが まだまだ田園地帯も豊富に残っており サイクリングロードの周りには緑も多い。 田んぼの向こうに広がる 芝生の色も日に日に色濃くなって いよいよ春が直ぐそこまで来ている事を 教えてくれる。 今年は桜の開花も早そうだ。 |
沿道に小さな梅林を見つけて疾風改を下り 林の中に分け入って 形の良い梅の花に向けて カメラのシャッターを押してみる。 個人的には、梅をアップで撮るのではなく 春を彩る風景のひとつとして 構図の中にさりげなく収めたかったのだが 残念ながら梅林はまだ六分咲きの状態で さすがに春を表現する絵にはならなかった。 |
再び疾風改にまたがり 周りに人が見当たらないのを良い事に 「うぉぉぉぉぉぉぉぉ」 などと奇声を上げながら 向かい風に逆らい 調子に乗って ペダルを漕いでいるうちに 自宅方面に向かう下分橋の分岐を 何時の間にか通り過ぎてしまった。 まあ良いだろう。 今まで境川の下流に向かって 走るばかりだったのだが たまには上流に向かうのも 楽しいかもしれない。 |
梅の花がほころぶ休憩所で疾風改を下りて、水筒のお茶を口に含みながら地図を広げた。 つい先日興味を持ってインターネットで調べた矢倉沢往還(旧大山街道)を走り、大和から鶴間に抜けて、境川と並んで流れる引地川の源流の清水が湧くという「泉の森」まで走ってみる事にした。勢いよく疾風改にまたがり、相変わらず強い風の中を気合を入れて走る。東名高速の高架下でサイクリングロードを下りて、狭いわりにやたらと車の通りの多い舗装道路を抜け、渋谷と静岡を結ぶ国道246号線を越えて矢倉沢往還に入る。 江戸城の赤坂御門を起点にして多摩川を渡り、さらに相模川を厚木で渡って、伊勢原の大山阿夫利神社、松田の大雄山最乗寺を経て矢倉沢の関所に向かう矢倉沢往還は、幕府の公道と大山詣での信仰の道というふたつの顔を持ち、東海道の脇往還として江戸時代多いに賑わったという。 |
街道の面影を追い 今なお宿場町の風情を残す鶴間宿を過ぎて 新田義貞の言い伝えが残る 観音寺を右に見て小田急鶴間駅を越える。 やがて『泉の森商店街』の看板が現れ 地図に導かれるままにペダルを漕ぐと 迷う事もなく 泉の森北門に辿り付いた。 大和市の中央部に広がる 約42ヘクタールの泉の森は 文字通り貴重な湧き水の森林であり 湘南の海に注ぐ 引地川の水源になっている。 |
オフロードを 疾風改でガタゴトと走り そして時にのんびり押して歩きながら 広大な森林公園を散策する。 湧き水が豊富な公園らしく 水源から池に流れる 透き通った清水は優雅に水車を回し 水しぶきの下には 色とりどりの鯉が泳ぎ 鴨の群れが のんびり羽を休めている。 大和の街中から 僅かな距離にあるとは思えない 風情あふれる景観だ。 |
県の天然記念物に指定されている白樫の木から名前を取った、シラカシの池の畔を疾風改を押しながらのんびり歩いていたら、チッチッという聞き慣れない野鳥の鳴き声が林の方から聴こえてきたかと思うと、突然僕の目の前を、鮮やかなサファイア・ブルーの羽根を広げた小鳥が横切った。 カワセミだ! 瞬時に気付き、慌てて宝石のような色をした小鳥の飛び去る後を追う。 やがてカワセミは、シラカシの池の畔に茂る葦の茂みにぽつんと立った枯れ木に止まった。 |
疾風改をその場に置き 足音を忍ばせて そろりそろりと 小さな宝石に寄っていく。 なんとか10メートルほど近づいた頃 かすかにカワセミが僕の気配を察し その小さな身体に緊張感を 漂わせたような気がした。 やむなく僕はそれ以上足を進めることをやめ 音を立てないようにそっとしゃがんで デジタルカメラのレンズを向けた。 しかしデジタルカメラの 光学3倍ズームのレンズは その能力を最大限に発揮しても あまりにも頼りなく モニターの中のカワセミの姿は 悲しいほどに小さかった。 |
200ミリの望遠レンズを装着した一眼レフカメラをザックに入れてこなかった事を悔やみながら、サファイア・ブルーの宝石が何時の間にか姿を消したシラカシの池を後にして、疾風改にまたがって引地川の源流へと進む。 湘南の海に注がれる大きな流れになる頃には、ずいぶんとその色を濁らせてしまうその水も、サラサラと軽い川底の小石を巻き上げて滾々と湧くこの源流では神々しいほどに澄み切っている。 源流にたどり着いたら、その清水を手の平に掬って口に含もうと思っていた僕なのだが、実際のその場に着いてみたら、自分の手の平を浸ける事によって湧き水が汚れてしまいそうで怖くなり、僕は疾風改にまたがったまま、そっとデジタルカメラのシャッターを押した。 |
腕時計の針が午後3時を回り、林を抜けて吹く風もずいぶん冷たくなってきた。 そろそろ引き返す頃合である。 水筒のお茶を口に含み、何気なく額を拭った手の平が土ぼこりで汚れていた。春一番に逆らって楽しんだ代償に、顔も手も真っ黒になってしまったようだ。 帰り道、温泉に寄り道をして潤平エンジンの汚れを洗い流し、ついでにガソリンも補給していこう。 泉の森から自宅に向かう道は、疲れた身体には都合のよい事に追い風となる。 こうなりゃ、追い風参考記録の更新でも狙うかな。 水筒のお茶をもう一口ゴクリと飲んで、僕は疾風改のサドルによいしょとまたがった。 |
走行距離42km 平均速度20.4km/h 最高速度40.6km/h(追い風参考記録) |