「智恵子抄」より

作詩:高村光太郎

作曲:清水脩


指揮:菅野健(学生指揮者)

ピアノ:藤田雅



智恵子抄巻末のうた六首

或る夜のこころ−智恵子抄より−




−『智恵子抄』について−

 『智恵子抄』は愛の詩集である。芸術家であった高村光太郎は近代詩の道に多くの優れた業績を残したが、それに並び智恵子夫人にかかわりのある詩を長い年月にわたって作っていた。年代で表すと明治45年から昭和25年の間であり、光太郎の年齢でいうと30歳から71歳までの40余年もの長期にかけて、1人の女性を対象とした愛の詩を書き続けたのである。したがって『智恵子抄』の作品には恋愛と結婚、智恵子夫人の狂気とその死、なき夫人への追慕といった2人の愛と生活の全てが織り込まれている。愛の喜び、生活の変転、狂気の妻を看取る苦しみ、人の世の悲しみなど、愛を中心とする情意の世界が様々に語られている。
 だがこのことは二人の愛が、すべて天上的な美で満たされていたということではない。光太郎は「『智恵子抄』は徹頭徹尾苦しく悲しい詩集であった。」と語っている。この「苦しく悲しい」思いが『智恵子抄』にはこめられていた。天上的なものの背面には地上的なものの影が、そして天上的な愛を歌ったときにも、地上的な現実の影が詩の中にひそんでいたのである。
 光太郎は夫人の亡くなった4年後に、1人アトリエでこれらの詩を編集して『智恵子抄』を作りあげた。この光太郎が生涯をつらぬいてひとりの女性を愛したという「純粋な愛の気持ち」は、今も多くの者に共感と感動を与えずにはいられない。


−智恵子の生涯−

・青春時代
 明治19年福島県二本松町の造り酒屋の長女として生まれた長治智恵子は、地元の学校を優秀な成績で卒業した後、日本女子大学に入学する。智恵子が「新しい女」として、自分の資質に目覚め、自らの生き方を決定づけたのはこの数年のことであった。学友は智恵子を評して「落ち着いて、口数少なく、物事に熱中する反面、ユーモアに満ち、急に人をアッと驚かすようなところがあり、自転車をいちはやく乗りこなし、たたむ必要のない不精袴を考案したり、得意なテニスでは、おとなしくしずかなひとの強打に仲間が不思議がっていた」といわしめている。明治40年、女子大を卒業後両親の反対を説得して東京に残り絵画の勉強を続ける。雑誌「青鞜」創刊号の表紙絵を斬新なデザインで描くなど、当時としては稀な女流油絵画家として時代の先をいく「新しい女」として世間から知られるようになる。
・光太郎との出会い
 そんな時、フランス留学から帰国した彫刻家であり、歌人、詩人そして絵画にも通じ、新たな評論活動を行っていた高村光太郎と、智恵子の先輩、柳八重の紹介により、光太郎のアトリエを訪問し出会っている。明治44年暮のことである。その後簡単な行き来があり、翌年の7月に光太郎が犬吠岬の写生旅行先で偶然再開し、この時より2人は好意を越えた感情をもち、運命のつながりを予感しはじめる。その後光太郎が上高地に仕事で滞在中、智恵子も1ヶ月ほど一緒に油絵を書くなど、互いの芸術のよき理解者として愛と信頼を深め、特に光太郎は自分を信じる智恵子の愛に深く心を打たれる。そして大正3年12月、友人達に結婚を宣言したのである。智恵子29歳のことである。
・父の死と生家の斜陽
 結婚後、定収もない2人であったが、夕食費や毛布を節約しても彫刻や絵を大切にするなど、互いの芸術活動に没頭していく生活を貫いていく。智恵子も以前のように着物を着なくなりセーターとズボン姿が多くなったが、光太郎にはそれがとても美しく見えたという。智恵子との出会い・結婚は光太郎に健康な芸術家としての充実した日々をもたらした。また体が弱く病気がちだった智恵子は、1年の半分を郷里で暮らすようになった。故郷の自然をこよなく愛した智恵子は、しばらく帰ると体の具合も良くなったといわれている。そんな中、大正7年父今朝吉の死によって、生家の繁栄にかげりが見え始めてくるのである。しかし智恵子は、この数年、健康的には最も恵まれ、文筆活動に冴えをみせ、「病間雑記」や雑誌のアンケートに答えるなど「新しい女」の真価を大いに発揮している。
・病める智恵子
 昭和の年代に入り、弟啓助に経営がまかされていた生家長沼酒造店が破産、昭和4年に一家は離散してしまうのである。心のよりどころとしていた“ふるさとの生家”の危機に、智恵子が大きく心を痛めたのは、長女として当然のことだったに違いない。またこの頃、智恵子は自分の芸術創作に苦しみ、その限界を感じるようになる。実家の破産による心労や光太郎の長期の旅行からくる孤独感、そして自分の芸術創作への絶望感が重なった後、昭和6年45歳の時、光太郎が三陸取材旅行の留守の頃から、智恵子に精神分裂の徴候があらわれる。昭和7年には睡眠薬で自殺をはかるものの未遂。8年には2人で土湯、塩原、川上などの温泉めぐりを行うが症状はさらに悪化していく。この時光太郎は、智恵子の本籍のある、油井村役場(安達町役場)に立ち寄り、入籍をはたす。病める智恵子への温かい思やりであった。その後智恵子は、千葉県九十九里浜での転地療養の後、南品川ゼームス坂病院に入院する。入院中、智恵子は見舞いに訪れる最愛の光太郎のためにだけに製作した紙の切り絵千数百点を残し、光太郎の献身的な看護にもかかわらず、昭和13年10月5日夜、52歳の生涯を閉じたのである。今際のきわに、智恵子は大好きなレモンを光太郎からもらうと、一口かじり、かすかな笑みをこぽしながら息を引き取ったといわれる。
 智恵子の心は詩集『智恵子抄』で蘇り今も多くの人々から偲ばれているのは、2人の純粋な愛の物語が、現代の人々の心をとらえてはなさないからだろう。


−曲目解説−

 清水脩は『智恵子抄』に「異常なほどの感動を覚えた」と記しており、その多くの詩に独唱付管弦楽や歌曲、そして合唱曲を作曲している。

巻末のうた六首

 2人の24年間の結婚生活は、2人の相い寄り沿うところになりたっていた。しかし智恵子はその生活の中で、自分の芸術精進と光太郎への純真な愛に基く日常生活の営みとの間におこる矛盾に悩み苦しみ、そして精神破綻を起こし光太郎の介護もかなわず逝ってしまった。智恵子の死は光太郎にとって死別の慟哭だけではなく、無限の「痛恨」だったのである。

 昭和16年秋、高村光太郎の詩集「智恵子抄」 が出版された時、私は異常なほどの感動を覚えた。以来、この愛情の詩に曲をつけたいと思いつづけていた。昭和30年、東京交響楽団の委嘱をうけたのを機会に、その中の3篇を独唱と管弦楽に作曲し、続いて2、3年の内に9篇に達した。そして、最後には20篇の歌曲集にしたいと思っていた。昭和39年9月、東海メール・クワイヤーから作品を依頼された時、私は 「智恵子抄」巻末のうた六首によって責を果すことになり、ここにこの曲が生まれた。東海メール・クワイヤーはこの曲を随意曲として、第17回全日本、合唱コンクールに出場し、優勝した。
 曲は題名にある通り、6首の短歌からなり、変奏曲形式にした。第1首をユニゾンの主題とし、第1首をもう1度くりかえしてこれを第1変奏、以下5首で、6つの変奏からなる。変奏曲の構成上、当然テンポや拍子が各曲ちがったものになっている。それぞれの曲想を相互に対照させることが肝要なのは言うまでもない。各変奏はアタックが続けること、これまた当然である。
(清水脩)

或る夜のこころ

 2人がまだ出会った頃の犬吠岬旅行の前のことを歌ったもので、『智恵子抄』の中で唯一の象徴詩である。この詩からは7月の夜に2人の心が熱を帯び、その涙も忍黙も悩みも悶えも、魔酒のように甘美であったことが感じ取れる。そして最後の2行は一転して象徴的手法から離れて普通の言葉になっている。「あはれ何を呼びたまふや/今は無言の領する夜半なるものを」という言葉のやさしさ。智恵子が光太郎に、また光太郎が智恵子に何かを呼びかけたのである。

 この曲は慶應義塾大学ワグネル・ソサィエティー男声合唱団の依頼をうけて作曲した。初演は1965年6月、東京六大学合唱連盟の演奏会で、畑中良輔指揮の同合唱団で行なわれた。高村光太郎の 『智恵子抄』 については、もはや多くをいうことがない。私はすでに、このなかから11の詩に作曲した。この曲はその11番目にあたる。うち、9つは独唱曲、1つは無伴奏男声合唱曲、そしてこの曲はピアノ伴奏付男声合唱曲にした。かなり長大な合唱曲になった。劇的な盛り上がりと迫力を出さなければ、この曲の表現は十分といえない。息の長いフレージングと、強弱の変化のはげしさを、しつかり出して欲しい。
(清水脩)


−第123回定期演奏会プログラムより−



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