「中也の詩による歌曲」より

作詩:中原中也

作曲:清水脩

編曲:佐藤正浩


指揮:佐藤正浩

ピアノ:藤田雅



北の海

サーカス

お道化うた




−詩人中原中也−

 中原中也は、明治40年4月29日に中原家の長男として、現在の山口市湯田温泉の中原医院で待望の長男として生まれた。しかし父母の希望と家の期待にことごとく反抗し、中学生の時に優等生から落第生に転落し、ついに家を出ることとなる。10代で文学に目覚めた中也はまず短歌により自己表現の欲求を見出し、少しずつ短歌という「悲しい玩具」(啄木)で遊び出す。
 大正12年、父の意向により中也は京都立命館高校に転校する。この頃から彼は文学で身を立てる決心を立てる。そして中也にとって大きな転換期となる出会いがあった。この年の暮れ、長谷川泰子に出会い、また「ダダイスト新吉の詩」に感激し傾倒した。ダダイズムにより定型の枠をはずし、人間認識のあり方を問う叫びとして詩を促えることが可能性を見出した。
 中也は大学に入るために泰子と共に上京する。しかし東京の生活で待っていたものは、「毎夜毎夜、遠い燈火を見ながら歩き廻る」という閉塞感であった。大正14年、泰子が中原の許を去って友人の小林秀雄と同棲を始めてしまう。しかし泰子はまもなく小林が奈良に出奔したため、独身に戻ったので中也は愛情の復活を期待したが、泰子は2度と戻らなかった。この当時泰子は中原との交渉が深かったが、昭和5年には別に男の子を産み、中也は名付け親となっている。こうした愛情の屈折が初期から中期へかけての詩作の重要な動機となったことは疑いない。
 昭和9年処女詩集「山羊の歌」が刊行され、前後して季刊「四季」「紀元」などに詩を発表しようやく詩人として知られるようになる。同年に長男文也を得たが、11年わずか2歳でこの世を去る。このころから神経衰弱が昂じ精神病院に入院する。退院後、郷里山口に帰ることを考えたりしながら、第2詩集「在りし日の歌」を小林に託すが、昭和12年10月30歳の生涯を閉じた。


−中也と歌−

 「『これが手だ』と、『手』といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、
その手が深くかんじられてゐればよい」。(芸術論覚え書)

 中也は、詩人という言葉の表現者でありながらその言葉を持ってしか表現が許されないという矛盾を感じていた。それはどう詩を書くかという問いと共に、詩人はいかに生さるべきかという生への問いでもあった。そこから導き出された答えは、名づけられ、分類され、識別される以前の物と共にある生命を感しる直感を磨くことに行き着いたのであった。そして彼の詩を通して読者は、軽妙なリズムにのって詩を繰り返すことで「歌」を見出すのである。共に歌と題された2つの詩集「山羊の歌」「在りし日の歌」からは、中也の魂の真摯な叫びが読み取れる。


−曲目解説−

北の海

 この詩が収められている「在りし日の歌」には「亡き児、文也に捧ぐ」とあるように、また他の詩にも死の気配が濃厚に表れている。しかしそれらに見える死の気配を中也は客観視し諧謔をもって表すことで、生を相対的に映し出している。この詩では、海という浪の無限の繰り返
しを第1聯と第3聯で繰り返すことにより、寂蓼感を醸し出している。しかしその浪の単調さに詩人は安らぎと共感を覚えているのである。

サーカス

 「山羊の歌」の「初期詩編」に収められる。「お道化うた」の題にあるように、道化とは観客を笑わせ嘲ったりする日常生活とは断ち切られた悲しい存在である。そしてその道化とは、実生活で破綻していた中也にとって、観客(読者)とサーカス(詩的別世界)をむすぶ存在であり、中也そのものであった。この作品の特徴としては「ゆあ−ん ゆよ−ん ゆあゆよん」という擬音や、「今夜此処での一と殷盛り」のリフレインにみられる童謡風の旋律である。この悲しげな旋律は、多く
の季節が繰り返され、サーカスの興行もあるが一瞬の火花のようなものであり、再び明日からは暗い生活に戻るという佗しさに満ちている。

お道化うた

 「在りし日の歌」に収められた作品。「盲目少女の手をとるように」教えたのはシュバちゃんことシューベルトだったのか、ベトちゃんことベートーヴェンなのだろうか。ここには中原中也の恋人長谷川泰子が、小林秀雄のもとに去ってしまったことに起因する三角関係を連想させるものがある。しかし最後には「ビールのコップを傾けて」「月の光を見てあれば」と、もはや「知ろうことわりもない」となるのである。


−第123回定期演奏会プログラムより−



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