「朔太郎の四つの詩」

作詩:萩原朔太郎

作曲:清水脩


指揮:畑中良輔



1.五月の貴公子

2.孤独

3.陽春

4.緑色の笛




−萩原朔太郎について−『月に吠える』、『青猫』にいたるまで

 萩原朔太郎(1886−1942)群馬県生。第1詩集の『月に吠える』は、日常使う言葉を詩の言葉として高め、感情の切実な表現という点で、詩壇に大きな影響を与えた。口語自由詩の完成者といえる詩人である。
 さて、萩原朔太郎とはどのような人物か。詩人であり、音楽を愛し、貴族的生活を好むという華やかな一面を持ちながら、大学もいくつも転々とするが続かず(慶應義塾にも2度入学している)医者である父からの仕送りに頼り、無為徒食の生活をする実人生における偉大な「敗北者」でもある。
 西洋好きであり、貴族的生活を愛し、また、強迫神経症的不安を感じさせるような作風、幻視者、ダンディー、センチメンタリズム、妹への異常ともいえる愛、人妻エレナヘの恋。生い立ちには興味深いものがある。では、4つの詩が生まれるまでを見ていく。
 まず生まれは、先にも述べたように群馬県の前橋で、名前は、朔日(ついたち)生まれだから、「朔太郎」と名付けられた。後年、彼は易者に姓名判断をしてもらった。易者によると、「朔」がものごとの初生を意味して<陽>、「太郎」も男子の始源を意味して<陽>で、<陽>が二つ重なると逆に<凶>となる。運勢はあまりよくない、ということだった。ともあれ、裕福な名医の長男として生まれた朔太郎は、恵まれた生活環境のなかで、「萩原医院」最盛期(明治30年代)にむかって、地方における「上流階級」の意識にあやされながら成長していく。
 1901年(16歳) この年、中学2年頃から文学の興味が自覚的なものとなる。鳳(後の与謝野)晶子の第一歌集『みだれ髪』を読む。父・密蔵の代診に来ていた従兄・萩原栄次の影響を受ける。藤村を好み、和歌や新体詩を作る文才を持つ栄次は、朔太郎に文学的感化を与えると同時に、クリスチャンとして宗教的感化をも与えた。
 1904年(19歳) 日露開戦の年である。17歳の頃からの学内外での文学活動の忙しさか、中学5年進級のところ落第。「明星」などにも短歌や美文が掲載される。2度目の4年生の秋、妹ワカ子の親友の馬場ナカ(後にエレナと呼ばれる)に恋をする。この恋は以後の短歌、習作時代の作品、詩壇で名声を得てからの詩篇に、またほとんど生涯にわたる私生活面において、直接あるいは間接的に、相を違えながらも朔太郎の基底部を貫流する水脈となった。1905年(21歳)前橋中学校卒業。陸軍戸山学校の軍楽隊を志望したが、家の反対でかなわず。補習科(今で言う予備校)に通う。高校受験と共に、徴兵猶予の手段となった。早稲田の図書館でドンキホーテをよみ、また、実家からの仕送りもたくさんあり、結構芸者遊びもやっていた。
 1907年(23歳) 前年、大阪府立高等医学校を受験するが失敗。同年、9月に熊本の第5高等学校(英語文料)入学するが、7月に落第。退学して9月岡山の第六高等学校(独語文科、独語法科)に入学。翌年落第、原級にとどめられる。
 1910年(25歳) 慶應義塾大学部予科1年に入学。「三田文学」とマンドリンクラブに引き寄せられたと思われる。進路について、Kaufmann(商人)になるか、Medizine Schule(医学校)に通うか、Pistol(ピストル)つまり、自殺するかと苦悩する。
 1911年(26歳) オペラに強い関心を持ち、また、比留間賢八氏につき、マンドリンを稽古する。日本を去りたい思いに駆られ、父に頼るが実現せず。慶應義塾予科に再入学したにもかかわらず退学。東京音楽学校には入学せず。
 1912年(27歳) オペラや西洋劇をよく見た。無為徒食の苦悩や日本の社会に対する批判を述べ、孤独・絶望の思いを吐露している。
 1913年(28歳) 2月、東京放浪の生活を切り上げ、郷里前橋に帰る。エレナから転居通知が来る。それを兄るやいなや、エレナに捧げようと4月、2年のブランクを経て、今までの自筆の短歌を集めた歌集『ソライロノハナ』を制作。文学に本腰を入れようと決心する。『朱欒』を通じて室生犀星を知り、文学・生活の両面にわたる生涯の友となる。5月、『朱欒』に『みちゆき』以下6編の文語自由詩を公表し、詩壇デビュー。北原白秋への熱烈な傾倒始まる(7月に白秋は『東京買物詩及其他』刊)。この頃、詩の創作意欲はすこぶる旺盛となり、短歌は作るのをやめる。『月に吠える』などの詩篇の原型となる詩篇や短歌を浄書した『習作集』を作った。この年は歌人朔太郎が、詩人朔太郎になりかわっていった年。そして、作風のすさまじい変化が見られた年である。
 1914年(29歳) 1月、高崎の音楽会などでマンドリンを演奏。佐藤夫妻を招待するが、エレナは来ず、亭主の佐藤氏がくる。エレナとの恋に破局。このころ、田舎にじっとしているのは精神的自殺に等しいといったふうに、家庭や時代状況と自分の精神生活との葛藤に苦しんでいる。3月下旬、上京。犀星と交流。高村光太郎に会う。5月、犀星・暮鳥と3人で、詩、宗教、音楽の研究を目的とする『人魚詩社』を設立。詩篇を多くつくる。
 1917年(32歳) 処女詩集『月に吠える』刊。集中「愛隣」、「恋を恋する人」により発禁の難に会うが、切り取って免れる。すぐさま「風俗壊乱の詩とはなにぞ」を発表して抗議。3月上旬、大手拓次と初めて会う。芥川龍之介と文通始まる。3月末には『月に吠える』売り切れる。この頃、露風派や白樺派に対抗すべき白秋派の論客として筆をふるう。この年から『青猫』系統の詩篇を発表。5月、エレナ死去。


−四つの詩について−

1.五月の貴公子
(『月に吠える」さびしい情欲より)

 詩のあらすじは、五月の草原を歩いていると豊かで明るい気持ちになり、何の心配もなく前途の希望だけを信じている物語の貴公子になったように思える、という風にまとめられる。しゃれた小道具といい、貴公子といった言葉といい、朔太郎の貴族趣味が感じられるが、彼の高慢な感情はこの詩の抒情主体のような姿になることを望んでいたのであろう。
 かっこよさというより、悲哀さえ感じさせる詩であるが、この詩には「悲しい月夜」の
頑廃的雰囲気も「笛」の絶望的心情もない。孤独な青春の感傷が吐息のように洩らされ、憂愁の雲が静かに流れゆくのを追うような故知れぬ郷愁(ノスタルジア)をさえ感じさせる。そして、その情緒を性格づけているのは、西欧風の近代生活に支えられている都雅で洒落た感性である。彼は田舎の小都市としては当時めずらしいほどの文化的な環境に育った。萩原家は医師という近代的職業に携わる前橋有数の名家であった。その上彼は、ネクタイまで自らデザインするほどの気どり屋であった。室生犀星は初めて前橋を訪れたとき、彼の貴公子然とした風采と先端的な文化生活にいたく驚かされたことを「『卓上噴水』の頃」という追想に書いている。朔太郎がなかなかのダンディーであったことは断るまでもないとして、これが彼を疎外者とした見逃せない一要素であった。であるから、彼が都会的な趣味性に淀ることもまた、その孤独な存在感の確認と無縁ではなかったろう。
 この詩は静かで落ち着いている。第2節の女性に向けられた感情も、「くさった蛤」の章に見られたように烈しく生々しい欲情ではなく、また「愛憐詩篇」のように強く女性を欲求しながら行動できず無理矢理自己を押さえつけている静かさでもない。さまざまな愛の感情を知った上で、静かに充足を求めている姿である。そしてなにより詩を穏やかにしている原因は、恋人を求める感情が抒情主体の心の一部のはたらきであり、彼全存在に関わる問題ではないことである。詩のなかの恋は、既に過ぎ去った日々の懐古として書かれているようですらある。
 この詩はすべて空想の世界の描写である。“五月の貴公子”でありたいと願う彼の心が書かせたといえよう。初夏の若々しい季節のなかで、抒情主体の周囲は透明な明るさにみちている。誰にも理解されない深い孤独を背負った自分、その自分に対する限りなき哀惜と憐憫。そして彼は、自分でこしらえた幻想の中に入り込んでいく。朔太郎は自己を観照しつつ、もはや他の人と共にあることを諦め、自らの手で自らの居るべき場所を定めている。その場所は日常生活から離れた精神的な観念の世界である。

2.孤独
(『月に吠える』見知らぬ犬より)

 この詩は心象風景、と言うより全く詩人のたましいの象徴である。ようやく30歳になろ
うとしている朔太郎であるが、もうすでにこんなにも人生に疲れ倦み、何の希望も見いだせず、孤独にうちふるえているのだ。詩人の自序に<詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者とのさびしいなぐさめである>と書いている。そういう生きることそのことに病んだ孤独者の魂の内面が、これほどに香り高い絵画風のヴィジョンをとおし、深い哀愁をこめて我々に訴えかけてきたことがあるだろうか。ここには生気あるものはひとつもないが、それは朔太郎の自然に対する偽りのない実感であり、この自然に対する実感は、彼の人生に対する実感と照応しあうものであったのだ。<つかれた馬のこころ>はあたかも生きることをただ強いられているようであり、ひからびた日向の草、細い、ふるえる草を見つめるその心は<おまへはなにを視てゐるのか>と答えを期待することのできないむなしい問いをただ問うてみるほかないような心なのである。
 最後の2行はこの詩を立体化してみごとな終止符を打っている。前2聯のイメージを一枚のタブローと見たてるのであって、そのための<このほこりっぽい風景の顔>という、
語の驚くべき自由な結びつき、その<顔に>うすく涙がながれているという結び方に表現の非常な天分が見られよう。

3.陽春
(『月に吠える』くさった蛤より)

 暖かい春の気分を、ユーモラスな<ごむ輪のくるま>のくるまやさんの幻想で歌ったも
ので、おのれの実存を病的なまでに鋭く幻視した同じ詩人が、同時にまた、こういう明るい詩を書いたというのが、一般的な解釈のようである。典雅で明るい春、すべては光に充ち、軽やかにかすんでいる風景が目の前に広がる。
 詩をはじめから見ていくと、はじめの行からゆったりと落ち着き、<ああ>といった詠
嘆には春の漠然とした情感が読みとれる。また続く<遠くからけぶって来る>という叙述にも長閑さが感じられる。だんだんと寒さが薄らぎ、霞をかけた春が近づいてくる様子が目に見えるようである。さらに、春が少女と口づけをしたさに遠くからやってくるといっ
た表現は、春の期待にみちた明るさを余すところなく言い得ている。しかも春は四頭立の馬車に乗ってくる(横光利一)のではなくして、人力車に乗ってくるなどというあたりは
喜劇的である。詩語にしても、<ぽっくり>とか<ごむ輪のくるま>といった表現は、軽快さをもり立て華やかでハイカラな感じを与える。
 <ぽんやりとした景色のなかで>という箇所は、おそらく初行と並置されるものであろ
う。ただ5行目以後は、春の乗った車が詩人の目の前を走っており、詩中の時間と距離感は、明らかに前半と後半で異なる。春を運んでいる車夫は<白いくるまや>とあるが、朔太郎は光に満ちた明るい春を感じさせるために意図的に創作したのであろう。また、<白いくるまやさん>という平易な丁寧語も、和やかで親しみを感じさせる。
 次の<ゆくゆく車輪がさかさにまわり/しだいに梶棒が地面をはなれ出し>というのは、車輪が速く回転したときに逆にまわっているような錯覚を与えることを言ったのであろう。そして梶棒が地面を離れるというのも、速度が上がったことを表現している。車夫はスピードを上げたとき、体を前傾して梶棒を胸で押すように構える。この2行は待ちかねた春の感じを述べておもしろい表現である。
 最後の3行。春の腰のあたりがふらふらするというのは、人力車のスピードが上がり安定性がなくなったために起こったものである。人力車の揺れにつれてまどろんでいた春は起こされ、<まっしろの欠伸>をする。

4.緑色の笛
(『青猫』さびしい育猫より)

 「・・・青猫を書いた頃は、私の生活のいちばん陰鬱な梅雨時だった。そのころ私は、全く生きるということの欲情をなくしてしまった。といって自殺を決行するほどの、烈しい意志的なパッションもなかった。つまり無為とアンニュイの生活であり、長椅子の上に身を投げ出して、梅雨の降り続く外の景色を、窓のガラス越しに眺めながら、どうにも仕方のない苦悩と倦怠とを、心にひとり忍び泣いているような状態だった。」と14年後に朔太郎自身が回想している。
 この青猫のなかで、朔太郎は現実の女を愛するよりも、夢のなかで<いつも紅色の衣装を着て、春夜の墓場をなまぐさく歩く><死んだ恋人の幽霊>と密会することを望んだ。死んだ人妻エレナのイメージと重なり合う詩もいくつかある。そういった詩集のなかの1作品である。
 1、2行目。朔太郎の心の中の情景。夕暮れの野原をグロテスクな動物が複数歩いている。のったりと歩く無数の象の姿は、朔太郎の興味からはずれたものである。見るものを重たい気分にし、うんざりさせてしてしまう。倦怠感が漂う。
 3、4行目。折からの風に草がざわざわする。この2行はそれまでの雰囲気をうすめ、新たな空気をそそぎ込む。
 <さびしいですか、お嬢さん!>とダンディーな朔太郎は声をかけているが、朔太郎自身の孤独、悲しさに対しての問いかけであるともとれる。Fの空5度は、朔太郎の心の悲しさ、空虚をそのまま表現する。
 緑色の笛はこのあと自然な形でそこにあるわけだが、その笛は心の奥にある蜃気楼を呼び寄せ、孤独や悲しさといったものをひとときの間忘れさせてくる。まぼろしは若き生前のエレナであろうか。笛の音は<とうめいなるそら>をつたわり、海の彼方から蜃気楼を呼び寄せるという、美しく、透明感のある表現で歌われる。
 しかし、遠くにあるまぽろしは朔太郎の心を埋めてくれるようであるが、近づいてくる
とその実態が露わになってくる。朔太郎の見たくない現実、理解しがたいもの、死を暗示させるもの、具体的には田舎の小都市である実家のある前橋に象徴されることであろうか。極端の西洋好きである朔太郎の、時代状況、家庭、地域と自分の精神生活との葛藤に対する苦しみがよみがえる。朔太郎の言うところの<くびのない猫のやう>なものである。
 最後の<私は死んでしまいたいのです。>は、朔太郎のこうした苦痛の上の直接的な言葉であり、この部分に上の3つの詩と異なり、悲痛なものを感じずに入られない。


−第123回定期演奏会プログラムより−



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