「アイヌのウポポ」

採譜:近藤鏡二郎

作曲:清水脩


指揮:北村協一



1.くじら祭り

2.イヨマンテ(熊祭り)

3.ピリカ ピリカ

4.日食月食に祈る歌

5.恋歌

6.リムセ(輪舞)




・作曲者 清水 脩

 清水脩は大阪天王寺の浄土真宗大谷派寺院において四天王寺舞楽の楽人を父親として1911年(明治44年)11月4日に生まれ、少年の頃はそこで子供の舞いを舞ったりもした。中学時代から音楽を志すが、初めて生の管弦楽を聴いたのは小学6年の時であり、モロソフの「鋳鉄」に非常に大きなショックを受けている。中学3年の頃に富樫義海についてピアノを習得。大阪外語大学時代には同校グリークラブにおいて指揮者を務めた。昭和12年東京音楽学校(東京芸術大学)選科に籍を置き、橋本邦彦に作曲を師事、細川碧に理論を学ぶ。昭和15年第4回音楽コンクール作曲部門で「花に寄せたる舞踏組曲」が一位入選。翌年、大日本産業報国会に務め昭和20年に同会常任理事となる。戦後解散後は音楽之友社編集部長を一年近く務めた。こうした中で戦後の全日本合唱連盟創設に加わり。日本宗教音楽協会を造り、東京男声合唱団の主宰など多彩な活動を続けた。
 日本オペラが戦前の山田耕筰の若干の作品等以外ほとんどめぼしい作品の無かった中、昭和29年の「修善寺物語」をはじめとする清水脩の一連のオペラは彼のオペラ作曲家としての名声を高めた。彼の作品には声楽、合唱が多く、特にその生い立ちから来るに仏教或いは邦楽器等の伝統文化への関心も強く現れ、西欧文化を媒介として日本の伝統を継承する事への彼の腐心の程が窺える。主要オペラ作品には歌舞伎の台本を用いた「修善寺物語」や、「セロ弾きゴージュ」「俊寛」「大仏開眼」「吉四六昇天」等がある。
 戦後の音楽界胎動の中心となり、またオペラの未開拓分野へ踏み入り更に邦楽の分野まで手をのばした彼の精力的な活動は注目に値されるものであるが、あまりに能動的な故に作曲界からは異端視されたのは彼にとって不幸であった。


・曲目解説

 清水脩の男声合唱曲において「月光とピエロ」と比肩し得る優れた作品として有名なのが「アイヌのウポポ」であろう。1961年春頃の立教大学グリークラブからの作曲依頼により同年10月23日に脱稿、12月3日に初演されたこの曲は、1965年9月、ニューヨークのリンカーン・センターで催された第1回世界大学合唱祭に招かれて渡米した関西学院大学により北村協一の指揮で演奏され大いに好評を博し、以後、氏の固有の重要なレパートリーとなっている。
 「ウポポ」とはアイヌ語で「歌」を意味するが、アイヌ研究家近藤鏡二郎氏の採集した楽譜をもとに作られた作品の中でも「アイヌのウポポ」は最も成功した作品とされる。合唱音楽としての音楽性も然ることながら、アイヌへの理解の希薄であった当時、和人的な解釈による歌詞つきの楽譜の先行にもかかわらず歌詞の全てをアイヌ語に戻した作曲は、アイヌ文化の独自性を尊重したものといえよう。今年は過去にご恩を蒙った清水先生の十三回忌にあたり、ワグネルは単独ステージに「アイヌのウポポ」を選曲させていただいた。

1.くじら祭り

 登別のフンベ山、室蘭イタンキ岬のフンベ島などの地名にも用いられる「フンベ」とは鯨のことである。くじら祭りは、鯨の魂に対する祭りの踊りの歌であり、北海道には鯨にまつわる伝説もいくつか残る。
 浜辺に打ち上げられた「寄りクジラ」は、アイヌにとって食料として海からの貴重な賜物であった。この曲はそれを真っ先に人間に知らせる鳥のまねをした人が、鯨の役でうずくまった人のまわりを羽根のように両手を広げて踊りながら歌うものである。アイヌ本来のわずか3音からなる民族音階の旋律だが、それに気付かせない程効果的な編曲がなされている。

2.イヨマンテ(熊祭り)

 「イヨマンテ」とは熊を送る儀式とシマフクロウを送る儀式のこと。美味な肉を土産に人間の世界に遊びに来たカムイ(神である熊たち)に様々な御馳走や贈り物をし、ウポポ(踊り歌)やリムセ(踊り)で楽しんでもらう。祭りの終わりには、カムイが無事に神たちの住む自然に帰れるようにカムイ・ノミ(神を送ること、或いは神に人間の世界を振り向いてもらうこと)して帰ってもらう。このような意味の儀礼だが、小熊を檻の中に入れてその回りで踊ったりし、最後には小熊を殺すため、「野蛮な風習」として1955年3月に北海道庁より禁止が通達された。

3.ピリカ ピリカ

 アイヌの歌の中で一番知られているものとして北海道各地で現在にも歌い継がれる。わらべうたもあるが、雪村いずみの歌った芸術祭受賞レコードにより恋の歌として一時期流行歌となり、「ピリカ=美人」の理解が流布した。この曲だけは、アメリカ系の賛美歌がアイヌ式に転化したものと見られる。

4.日食月食に祈る歌

 自然と親しむアイヌの人たちは、自然を人間と等しく魂を持ち生活する存在である「カムイ(神)」と見なしていた。日本や中国における「贄(にえ)」(神に生き物の命を捧げること)とは根本的に異なる思想である。
 アイヌの民話でまだ地上に何も無い頃のこと。天上界の神々が平和な大地を作るための会議をして国造りの神等を遣わしたところ、下界には既に悪魔や魔神達が暗黒の国を作って住み着いていた。太陽の神の光を嫌う魔神達は暗闇の夜に起き出しては神々の作る国土をたたき壊してしまうのが、神の子アイヌ・ラックルを中心としてそれが退けられた。
 もし「太陽の神の光」が失われれば反自然の存在である魔神達の跳梁する世界が再びやってくるわけであり、日食や月食、特に日食で天地が暗くなるときの昔のアイヌの人たちの恐怖には想像を絶するものがあったのだろう。

5.恋歌

 「ヤイ・サマ・ネナ」は「私は自分の心を歌います」の意。夜の語りや歌いの集いの場で誰かが個人的な感情を旋律をつけて吐露するのが「ヤイサマ」であり、「ヤイ・サマ・ネナ」はそれを促す言葉でもある。この「ヤイサマ」は文字通り恋歌なのだが、和人により強制労働に駆り出されて引き裂かれた男女の心が背後には隠されている。アイヌへの和人の虐待を痛烈に物語るものとして、寛政時代の2000人から60年後の安政時代の700人程までのアイヌの人口の減少という事実も残るが、そうした虐待の生み出した恋歌はアイヌに数々伝わる。このことを抜きに私達はこれらの歌を歌うことはできない。

6.リムセ(輪舞)

 この曲は近藤氏の編曲指揮の下に1958年春にNHK札幌放送合唱団により初放送され、1959年春、ウィーン少年合唱団来日時、札幌で団員に紹介され指揮者マイヤー氏を通じて合唱団に献曲された。清水脩のメモには「熊祭りや祝の時に円く輪になって踊りながら歌う。源歌は3部または4部の合唱となっている。リズムの変化を充分に出すこと」とある。「囃し言葉」が主で歌詞の正確な意味はつかめないが、アイヌの人々のコーラスの伝統の一面が味わえる。


−第47回東京六大学合唱連盟定期演奏会プログラムより−



戻る