ソーシャルエッセイ 荻正道
【昨日・今日・明日】
『国会で語れ』
“小泉劇場”という言葉が復活してきた。小泉農水大臣の米価鎮静策がけっこう急進的で、何やら実父(元首相ー以下同)の“郵政民営化”騒動に似てきたからだろうか。しかし、この父子の“似た部分”と“異なる部分”を、しっかり区別し見据えておく必要がある。
“令和の小泉劇場”のはじまりは、江藤前農相が地元での講演会で“受け狙い”で発した一言だった。「私はコメなんて買ったことがないんですわ。うちには支持者の皆さんからいただいたコメが売るほどありますんでね」。発言の真意は不明だが、米価高騰で生活不安を感じている国民の感情を逆なでにしたのは事実。さすがに石破首相も江藤前農相を更迭するしかなかった。問題は後任人事。なぜ、“シンジロー”という“切り札”をここで切ったのか。やはり7月の参院選への思惑だろう。支持率の低空飛行状態が続く中での国政選挙は厳しい。起死回生策として国民受けする手を打たねばならなかった。米価の高止まりは、流通での“買占め的”な在庫増に原因があると即断した。ならば、政府の抱える備蓄米を従来型の“競争入札”ではなく“随意契約”で小売業者に低価格で売れば、在庫を抱える業者も放出せざるを得なくなる。国民受けすることも間違いなかった。これは恐らく首相周辺からでた案だったろうが、農水族議員を中心に“抵抗勢力”の反対は目に見えていた。彼らは、米の価格低下=生産農家の貧窮という図式を固定観念にしている。一歩間違えば党内混乱(分断)は必至だった。
問題は誰にやらせるか・・・、いや、誰なら出来るかだったろう。抵抗勢力と果敢に戦う姿を見せつけ国民から支持を得るには、江藤前農相と対照的な人物を起用するしかない。“シンジロー”しかあるまいと石破首相は考えたに違いない。かねがね小泉農相は「政治家には、戦おうとする政治家と、戦わない政治家の二種類しかない」と口にしてきた。そこにはヒロイズムがあり承認欲求や自己顕示欲があるに違いない。随意契約で巨大小売企業に直接、政府備蓄米を引き渡すことを、農水族議員の恨みを斟酌せずに堂々とやる“バカ”は、河野太郎か小泉進次郎か・・・。起死回生の人事カードはわずかだった。マイナ保険証のトラブルで味噌をつけた河野は、今しばらくほとぼりを冷まさせる必要があるとすれば、小泉しかいない。案の定、彼は大見えを切って政府の備蓄米を小売大手に随意で放出しにかかった。自民党にしては前例のない大胆な政策であったことは間違いない。石破首相としては博打のようなものだったろう。
結果は上々だった。小売企業はこの策に飛びついた。それは小泉大臣すら想定外の素早さだった。5キロ4000円台の銘柄米を売りながら、“5キロ2000円の備蓄米”を他店より早く並べることは、集客力を上げる願ってもない販促策だったからである。“半値セール”のようなものであり、小売企業にとって、備蓄米は“特売品コーナー”の目玉として利用されたのだ。大手スーパーの店頭では開店前から“特価米”を求めて多くの消費者が列を作った。店長はスーツ姿で備蓄米を客に手渡す姿をメディアに露出し、店のPRの絶好の機会ともした。もちろん、特価米はすぐに売り切れた。これは、政治家たちが想像していた以上に、米価の高騰に悩む消費者(国民)がいかに多いかを示す証左であったろう。農相は消費者の味方として大いに株を上げ、見方を変えれば“親ビジネス”ぶりを露骨に示したのだった。問題は、この動きを米作り農家はどう見たか、である。
農家が懸念する銘柄米の価格に動きはあったのか。ほとんど変化はなかった。価格が下降し始めたという報道は、前農相が実施した競争入札による備蓄米を混ぜた“ブレンド米”が出回り始めたことで平均価格が下がったというだけのことである。当然と言えば当然の話である。スーパーにしたところで、特売品は集客手段であり、肝心の銘柄米の価格を下げたのでは利益を削ることになってしまう。彼らにとってベストシナリオは、特売品の不足感が持続し、買えなかった顧客がやむなく銘柄米を買ってくれることなのだ。政府がやったことは、“官製値下げ”を狙いながら、大手小売企業の“官製販促策”でしかなかった。むろん、副次的効果もあった。運よく特価米(備蓄米)を入手できた国民は、食べてみて銘柄米とほとんど味が変わらないことを実感した。これは“古米”に対する偏見の一掃に繋がる。国民は、次の“特売米”の入荷を心待ちにするようになった。政府は一層大量の備蓄米を放出すると言っているのだから、銘柄米を買わずに次の入荷を待ちたい、と思うのが人情である。今回の“セール”でも、“お一人様一袋限定”の販売と言いながら、複数のスーパーを巡回して“買占めようとする”人達も少なくなかったという。
初回放出の店頭到達の速さと反応の大きさに小泉農相の鼻息は荒くなった。どんどん備蓄米を放出し続ければ、銘柄米の売価は下がると信じて、備蓄米が底をついたら輸入してでも安いコメを放出し続けますと見栄を切る。これにはさすがに農水族議員が危機感を持った。野村元農相は早速、苦言を呈した。「党内の農林部会に話も通さずにコトを進めるのはいかがなものか。自分で決めて自分で発表してしまう。少しは政策を進める際の基本ルールを学んでいただかないと困りますな」と。抵抗勢力の反抗の始まりだった。小泉農相はすかさず反論した。「大臣のやることをいちいち党に諮っておったら、誰が大臣になってもスピード感をもって対処出来ない。大臣の裁量内のことは私が責任をもって決める。ご異論は国会で言っていただければ良い」と。これは自民党内では、当人が自覚している以上の“問題発言”である。党内での政策検討は政務調査会が担当し、その傘下に農林部会等の専門分野ごとの検討機関がある。ここで承認を得た政策が総務会にあげられ、最終決定したものが国会に提出される。当然、総務会で正式に決定したものは党議拘束がかかり国会で賛成するしかない、当然、国会の審議などカタチだけになる。小泉農相の“異論は国会で聞こうじゃないか”発言は“自民党流”の全否定に繋がるのだ。元首相は“自民党をぶっ壊す!”と叫んで見せたが、故意に“言語明瞭、意味不明”にすることで、抵抗勢力との間合いを図る狡知さがあった。農相には、“意味明瞭過ぎ”の危うさが際立つ。
郵政民営化に際して、慎重論を口にする向きを“抵抗勢力”として一くくりにし、国民に“改革を妨げる元凶”として印象付け、真っ向勝負に出た元首相の手法を想起する人も多かろう。元首相は国民の圧倒的支持で勝った。郵政は民営化したが、今日から見れば、それがどのような意味があったのか首をかしげる向きが多いはずだ。何しろ、民営化の結果生まれた企業はいつの間にか巨大なブラック企業になっていたのだから。しかし、元首相の本当の狙いは“角福戦争の落とし前”だった。田中角栄派の支持基盤である特定郵便局網を崩す目的であった以上、民営化した郵政組織がどうなろうと知ったことではないに違いない。小泉農相に不安があるのは、やり方は似ていても、元首相のようなしたたかな計算力があるようにはみえないことだ。元首相が郵政族議員に抱いた怨念のようなものが、農林族議員に対して、この育ちのいい大臣にあるとは思えない。あるのはコメの値段を下げたいという一途な“正義感”と、“戦う政治家”としてのナルシズムだけなのかもしれない。となると、その結果は思いもよらぬことになりかねないのだが。
農相は言う。「コメの流通はブラックボックス。何がどうなっているのか全く見えない。これを透明化することが農政改革の第一歩だ」と。彼は今も、思ったほどに銘柄米の価格が下がらない原因は、米の流通システムの前近代性にあると見ている。彼らが抱えている在庫が“やむを得ぬもの”なのか、“強欲な投機を意図したものか”が分からないと正直に告白しているのだ。流通のひずみに問題の本質があるのなら、農相の今回の例外的措置は的確なものかもしれないが、問題の根が“コメの不足”にあるのなら、今回の措置は一過性のものに過ぎなくなる。それどころか、農家に“米価が下がり続けるのではないか”という不安を根づかせたことで、参院選に向けて農家票を失いかねないという懸念を党内に生じさせた。農相もさすがに問題の本質の究明が必要と気付いたようで、前代未聞の流通関連事業者7万社の実態調査に踏み切ると宣言した。“本当はコメは足らない”のではないか、という疑念に至ったらしい。“作況指数”の突然の廃止は、農水省による生産計画に大きな欠陥があることを直感した結果だろう。しかし、“いくら作れていて、いくらの需要があるのか”が精緻に把握できなければ、農業従事者全体が拠り所を失うことになりかねない。混乱が混乱を呼ぶ陥穽にに近づきつつある。
従来からの農政の根幹には“将来的にますますコメは余る”という予断がある。人口が減っていき、主食の洋風化(パンやパスタ嗜好)も進むとすれば今までのように米を作っていたら米は余る一方で価格は下がり続ける。当然、農家は生計を維持できなくなる。では“適正な減反”をして農業生産者の所得を護るしかない。この論理は間違ってはいまい。鉄鋼業界なども業界あげて“過剰生産設備の削減”を試み、原油の価格を維持するために産油国も“協調減産”をやっているのだから。問題は、日本の減反政策が極めて硬直的だったことだ。当然、時代の変化への対応力を著しく欠いていた。国内人口の減少は予測以上だったが、それがそのまま米の需要減には繋がらなかった。現在の米不足の一因とされるインバウンドによる米食人気は世界中から“日本のおいしいお米”が求められている証であり、今後ますます人気化する兆候かもしれない。となれば減反など止めて大いに生産増に舵をきろうではないかという意見が台頭する。輸出を増やそうという意見も目につく。気候変動等で凶作になり国内需要を充たせないときには輸出分を減らすことで“安全弁”にすることが出来る、というのだが。
輸出は競争力あってこそ実現する。日本の農家は零細であり水田も狭隘である以上、コスト競争力に限界がある。これをどう克服するかが最重要課題なのだ。自民党政権がこれを避けてきたのは、零細な農業従事者が多くいる方が自民党には好都合だったからだ。農家の数はそのまま票数として見込めるからだ。まさしく農水族議員の生存基盤そのものである。さらに流通の基幹である農協(JA)にしても、農家相手に農具の販売や金融サービスほか関連事業を手広く広げることで事業範囲を多角化してきた。つまり農家の数が減ることは顧客減少になる。変化はむしろ、意識の高い農家側から生じている。競争力(ブランド力ほか)を鍛えた生産者は既存の流通システムからスピンオフして独自に販路を開拓した。ネット通販で直接に消費者と取引する例も少なくない。その結果、JAの扱い量(集荷量)シエアは6割台に落ちている。農相の言う“米の流通はブラックボックス”はこうして生じたのだ。本質的に農政改革をするなら、既存の農業関連ステイクホルダーすべての立場に立っての多面的な検討が避けられない。この難題に挑むことこそ農政改革の第一歩なのだ。農相がはからずも言った“国会で聞こうじゃないか”は至当である。多様な切り口が提起されてこそ問題の本質に迫れる。農相が元首相と違うのは“純粋さ”だろう。試行錯誤を繰り返しながらも問題を投げ出さない真摯さもあるように見える。このまま続けていけば真の改革に迫れるかもしれない。しかし、参院選がある。もし自民党が負けるようなら石破内閣は窮地に陥る。内閣改造になれば、“小泉農相”も消える。農政に限らないが、国政選挙が多く“常在戦場”意識が政治家に沁みついている以上、この国では時間のかかる構造改革は不可能なのだ。今回の小泉氏の動きの中で普遍的なものがあるとすれば、“国会で聞こうじゃないか”の一言。すべての改革の起点になる政治改革を、この一言ほど端的に示したものはない。こういう言葉が吐ける以上、国民のこの人への期待は直ぐには消えまいが。 (敬称略)
関連エッセイをお読みいただけます。
◆『米作ドームの勧め』