連載小説 『天皇と呼ばれた男』         渚美智雄   監修 荻正道


【読者の皆様へ】
この作品は、実在企業をモデルにしたものです。しかし、企業の事業内容や経営状況、経営関係者等の性格、経営観等の一切は、すべて創作された架空のものであることをお断り申し上げます。戦略的意思決定の仕組みや企業統治のあり方を創作を通じて模索する“経営小説”の試みとしてお読みいただければ幸いです。

                                  (第三回)

晩秋の日差しは心地よかった。
朝の大気には既に冬の冷たさが兆している。
これでいよいよ本当の引退が出来る・・・村中は家の付近を散歩しながら思った。

プラズマ事業からの完全撤退にまつわるメディアの報道は長く続かなかった。
あの不愉快な論評の嵐は完全に去り、村中の周辺は嘘のような平穏を取り戻している。

まだ10日しか経っていない。それでも世間は既に村中を過去の存在にしてしまったように見える。

あれが自分の引退の最後のイニシエーション(通過儀礼)だったと考えれば、村中の憤りも影をひそめた。
村中に気づいて近所の主婦が丁寧にお辞儀して通り過ぎて行った。村中も丁寧に頭を下げた。むろん適当な微笑を浮かべるのを忘れずに。

幸い地域の人達は自分を受け入れてくれている。近づきがたい「偉い人」から、普通の老人として扱ってくれている。
夫人を亡くした村中にとっては、コミュニティとの付き合いに要領を得ないが、それでも徐々に受け入れられている実感に安堵していた。来年あたりには、顧問などというポストも返上して、かねてから思い描いていた四国遍路巡礼の旅に出たいものだと思う。

朝の散歩から戻った村中は、いつもより遅い朝食を食べた。食欲も完全に戻っている。
電話がなった。
村中は書斎に戻らずに、ダイニングルームでコードレス電話をとった。

広報セクションの責任者である。
「ご報告申し上げます。先日の津田社長の上半期の決算発表以来、メディアの当社を見る目が大分に変化してきました」
「それは結構なことだ」
「我が国の代表的なビジネス誌である『経済ビジネス』で久しぶりに我が社の特集が組まれることも決定しました。
記事の中心は津田社長による構造改革の内容と進捗状況になります」
「ほう・・・。まぁ、業績が回復傾向にあるときは悪くは書かれまい」。

村中としては、それで済むはずだった。さっさと電話を切りたかったが、この広報責任者は思わぬことを言い出した。

「つきましては、村中顧問に取材の要請がございまして・・・」
またか! まだプラズマ戦略の失敗を肴にするつもりか、村中は吐き捨てたくなった。

「そんな取材は断る。だいたい自分はもう経営に関わっていないんだ」
「はっ。『経済ビジネス』の編集部では、津田社長へのインタビューをメインに紙面構成するようですが、囲みで先輩経営者として村中顧問のお話を入れたいよういでして。つまり、津田社長の取組みに大所高所からエールを送っていただくと記事に重みが加わると考えているようでして・・・」
「それなら、会長の仕事だろうが、大辻・・・」
言いかけて村中は口をつぐんだ。そうか、大辻はもう会長ではないのだ。あらためて村中は言い直した。

「そう言うのは会長の仕事だろうが。長江会長にお願いすべきだ」。
長江周造は村中が社長時代に強引に吸収合併した松木電工の経営責任者だった。大辻文雄が会長を辞任したとき、後任会長として津田社長が選んだのである。

「それは先方に申し上げたのですが、やはり知名度の点でちょっと・・・、今回の特集ではどうしても村中顧問、いや村中元社長に登場いただきたいと言われていまして」。
「何でもかんでも相手の言いなりになるのが広報の仕事ではない!」
「はっ。しかし、今回のように好意的な企画には最大限先方の意向を汲むのが得策だと存じます」
「何と言われても取材には出ん! ワシが一番嫌いな仕事だということは知っておるだろうが・・・」
「どうしてもお受けいただけませんか?」
「君には悪いが、断る」

これで、こんどこそ電話を切ることが出来ると村中は考えていたが、相手は思わぬことを言った。
「そうですか。それでは止むを得ませんので、そのように報告いたしておきます」
報告? 回答と言うべきだろうが、と村中が苛立った瞬間だった。
「松木正行副会長が村中顧問が断られるようなら自分に言えとおっしゃっていまして・・・」 

「何! 正行副会長がかんでおられるのか?」
「副会長にも取材要請がありまして承諾いただきました。その際、ぜひ村中顧問にも取材してほしいとご自分から要請された経緯がございまして。それで、村中顧問が断られるようなら自分から話すから、ということでして・・・」。

村中は言葉を失った。副会長の松木正行は、創業者の松木幸之輔の血のつながった孫である。父親は先般99才で逝去した幸之輔の女婿、松木正春である。
その正行からの要請とあれば、さすがに断る訳にはいかない。

「取材はいつなのか・・・」
村中は忌々しげに言うしかなかった。

「ご都合がよろしければ、○日にしたいということですが・・・」
「分かった。止むを得ん」
「それでは当日、社用車をお迎えに手配させていただきます」
「ああ・・・」
そう言って電話を切ろうとした瞬間、村中は受話器を握り直して言った。

「いい! 車などいらん。久しぶりに大阪に出て電車で本社に行く」
広報の責任者は素直に村中の意向に従った。社用車をごり押しして余計に村中の機嫌を損ねて得なことは何もないのだ。

村中の方は、家の前に黒塗りの車など横付けにされたら、近所の人の自分を見る目が昔に戻ってしまうのではないかと怖れたのである。現役の幹部には考えにも及ばないことだったが・・・。


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