連載小説 『天皇と呼ばれた男』
渚美智雄 監修 荻正道
【読者の皆様へ】
この作品は、実在企業をモデルにしたものです。しかし、企業の事業内容や経営状況、経営関係者等の性格、経営観等の一切は、すべて創作された架空のものであることをお断り申し上げます。戦略的意思決定の仕組みや企業統治のあり方を創作を通じて模索する“経営小説”の試みとしてお読みいただければ幸いです。
(第八回)
何だ、これは!
村中は思わず声に出した。例のインタビューから10日もたたない頃のことである。いつも通り早く起きだし書斎で朝刊に目を通してから、昨日郵送されてきた「日本ビジネス」誌の最新号を読み始めていたのである。
表紙に津田社長のニコリともしないエキセントリックな顔が出ている。
「パノニクス 死の淵からの生還」という特集記事のタイトルが仰々しく印刷されていた。
例によって大袈裟なことだ・・・村中は記事を読む気もしなかったが、取材の結果を多少気にしていたことは事実だった。あの若泉真紀という女性ジャーナリストのことも村中の脳裏から消えていなかった。自分の社長時代の負の記憶として、この記者の存在が新たに加わった気がしている。
記事を読み進むうちに村中は顔面が熱くなる気がした。
「大辻前社長の暴走を止めたのは元社長の村中國男氏か」、という小見出しが目立っている。
記事の内容自体は見出しほどの衝撃はないものだが、村中にとっては見過ごせない論調が展開されていた。
記事は、先般の株主総会で株主の一人が発言し、会社を破綻させた大辻前社長の暴走の罪を明解にし、在任期間の社長賞与の全額返還を求めるべきという動議があったことから書き起こしている。
村中には初耳のことだった。
記事は、この動議の根拠とも言うべき大辻の経営判断の過誤を列記している。村中は読むのがつらかった。
過誤の一つに取り上げられているプラズマテレビへの過剰投資は、そもそも村中が残した戦略を忠実に実行したものなのだ。
しかし記事は、村中の緻密で周到なプラズマ戦略を破壊したのは大辻の罪だというトーンで貫かれている。
「もし、村中國男氏が社長であったなら、このような無謀な投資にゴーサインを出したはずはない」
「市場の趨勢が液晶優位であることを認識し、液晶への参入を決断したのは妥当としても、従来からのプラズマにも注力するという意思決定には、経営戦略の基本とも言うべき「選択」からの逃避がある」
「韓国のサリソンの台頭による価格破壊に対して、増産こそコスト競争力向上の手段とする時代錯誤の経営戦略にのめり込んだ」
他にも、松木電工の完全子会社化や三星電機の買収にも筆は及び、社名を「松木電器」から「パノニクス」に独断専行で変更し、社内に多くの混乱と、松木電工、三星電機出身者の心情への無配慮等、まるで敗戦の屈辱に怯え無謀な突撃命令を繰り返す無能な指揮官のような経営ぶりだった、と断罪している。
村中は反論したい衝動に駆られた。経営の意思決定には常に経営環境や社内状況が関わる。フリーハンドな意思決定が出来る幸福な経営者などいない。その事情を掘り下げての論評でなければ単なる悪口でしかないではないか、村中はそう言いたかった。あの若泉真紀の顔が村中の脳裏で歪みを加えていく。
「大辻氏の最大の暴挙は津田現社長に社長の座を譲った時点ですら、自らの失敗を認めようとせず会長に就任し、V字回復の手はすべて打てているといった虚言を社内外に振りまいたことである。冒頭の株主の怒りは、その数か月後には、V字回復どころか7000億以上の巨額の赤字が続くという見通しを津田社長に発表させ、無配の屈辱まで新任社長に負わせながら、自らは「V字回復見通しの嘘」について何の説明すらしようとしなかった事実から来ている。創業者の松木幸之輔氏以来、経営者が率先して自らに厳しく責任を問うのが同社の経営文化であるとすれば、大辻文雄という経営者の登場をもって同社の歴史は終ったというしかない」。
思わず雑誌を手にしていた村中の両腕が震えた。そして、雑誌を落としそうになるほどの衝撃を受けたのは次のくだりである。
「責任をとろうとしない大辻会長(当時)に引導を渡したのは意外にも村中前社長だった。表向きは大辻氏の方から村中氏に電話して会長辞任の意向を伝えたとされている。大辻氏には自分を社長に任命した村中氏なら、立場上慰留するしかないという計算があった。辞任の意向を村中氏に伝えたうえで慰留されたのなら、その“つらい”胸中を示すことが出来、社内に渦巻く反発を和らげることが出来るという狙いがあったと思われる。
しかし、村中氏は、気の済むようにすればいい、と突き放した。大辻氏はさすがに会長を辞めざるを得なくなったが、これで救われたのが津田社長だった。プラズマ事業の“新たな可能性”を探るとしていた延命方針を一変させ、撤退を決断し同社のリストラはここから大きく弾みをつけ、業績は急回復を見せた。村中國男氏の一言によって同社は救われたとも言える。そもそも津田社長を社長に選んだのは村中氏だという噂があり、村中氏は大辻氏に引導を渡すことで津田改革をサポートしたと言えそうだ」
いい加減にしろ! これでは大辻が誤解されてしまう・・・。大辻の苦悩の深さは自分が一番知っているのだ、と村中は言いたかった。
「策略など出来る男ではない!」
インタビューの終わりに、原稿を事前に点検いただきたいと言った若泉真紀の申し出を遮り、記事の内容はお任せしますから、といったのは村中だった。しかし、当然、広報担当の長居は事前に見ていたはずだ。
村中は反射的に広報セクションに電話を入れようとした。長く反復される呼び出し音を聞きながら、ようやく村中は気を静めることが出来た。
まだ朝の7時過ぎなのだ。村中の電話はガランとした広報セクションの大部屋に虚しく鳴りつづけていたのである。
村中はそれに気づき、苦笑しながら電話を置いた。
記事の続きを読む。もう村中の冷静を奪うような記述はどこにもなかった。
自動車分野や住宅分野に経営資源を集中しようとする津田社長の戦略を紹介しながら、パノニクスは全く新しいタイプの会社に急速に生まれ変わろうとしている、と結んであった。
たしかに記事全体を通じて好意的な見方は明らかだ。広報セクションとしては問題にすべきことは何もないという判断だったのかもしれない。
自分が大辻を会長の座から降ろしたことで、会社が過去を清算できたという書き方には、若泉真紀なりの村中への心配りがあったのかもしれないとも思う。
取材の席上で村中の怒りに泣き出した非礼をあらためて詫びたつもりだったのか・・・。
あらためて問題にすることもないのかもしれない。何度もそう思ったが、やはり担当の長居には一言いわなければ気が済まなかった。
「広報リーダーの長居さんをお願いしたい・・・」
村中が再び電話したのは9時を過ぎてからだった。
「あのう、長居というのは、主任の長居のことでしょうか・・・」
電話口に出た女子社員の声には困惑があったが“特別顧問の村中”に遠慮する気配などはどこにもない。社長時代の村中には女子社員といえども過剰な緊張感があったものだったが・・・。
「主任? 長居は主任なのか・・・。ほかにナガイという責任者がいるはずだが・・・」
「いえ、ナガイはここには一人しかおりませんので・・・。今、お繋ぎします」
狐に包まれたような気分だった。
「かわりました。長居です・・・」
声に聞き覚えがあった。間違いなく取材をセッティングした長居という男に違いない。
こいつは主任だったのか・・・。村中の会社では、若手社員が初めてつく役職であり、まだ労働組合に所属する階層だった。二十代後半で主任に昇格し、三十代で次のステップに昇進し労働組合に属さない管理職になるのが普通だった。
童顔だが、四十代であることは間違いない。仕事も出来る、と村中は思っている。
そんな社員が主任であっていいものか!。
「村中だが、今、こないだの取材の雑誌記事を見ているんだがね・・・」
「はっ、何かございますでしょうか」
「偉い褒められとるね・・・」
「はっ。おかげさまで久しぶりに好意満点の特集記事になりました。村中顧問のおかげです」
長居の声にわだかまりはない。かつての“怖い社長”に褒められるのか、といった期待感すら感じられる。
「しかし、事実と違う部分もあるね。特にボクに関するところなんか・・・」
村中は相手にも不機嫌が伝わるように声を低めて言った。
「ひょっとして大辻さんの会長辞任の部分でしょうか・・・」
「そうだ。あれじゃ大辻がひどい悪者になってしまう」
長居はそこで思いもよらぬことを言った。
「私も多少不可解なところがありまして。実はあの部分は私がチェックした最終ゲラにはなかったんです」
「何っ?」
「若泉さんに確認してみたんですが、最終段階で我社の上の方から編集長に特別に口入れがあって記事に付け加えたということでしたが・・・」
我社の上の方だと・・・。今の経営幹部はすべて村中の後輩である。“上の方”という言葉に違和感はあるが、長居“主任”にすれば取締役クラスなら、まさしく雲の上の幹部に違いない。
村中は、その男の正体が知りたくなった。しかしながら、電話でのやり取りでは周囲に聞かれる危険がある。
そんな村中の思惑を察したのか長居は言った。
「細かなことは電話ではなんですので、顧問のご都合がよろしければ早急にご報告にあがりたいと思いますが・・・」
村中は反射的に、頼む、とだけ言った。社長時代から、たいていの報告事項をメールで済ませていた村中にすれば珍しいことである。
(続く)
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