連載小説 『天皇と呼ばれた男』         渚美智雄   監修 荻正道


【読者の皆様へ】
この作品は、実在企業をモデルにしたものです。しかし、企業の事業内容や経営状況、経営関係者等の性格、経営観等の一切は、すべて創作された架空のものであることをお断り申し上げます。戦略的意思決定の仕組みや企業統治のあり方を創作を通じて模索する“経営小説”の試みとしてお読みいただければ幸いです。

 【主要登場人物】
村中國男  松木電器(現パノニクス)元社長。現在は特別顧問。プラズマテレビに注力し一時は好業績をあげた。
大辻文雄  村中の後を継いだ前社長。村中の敷いた戦略を忠実に継承したが、裏目に出て危機的な状況を招いた。辞任後、慣例に従い会長に就任したが、社内外からの無言の批判に耐えきれず自ら会長を辞任した。
津田和弘  現社長。大辻の後を受けて社長就任後、事業構造の大胆な改革を続けている。
松木幸之輔   故人 松木電器の創業者。「経営の神様」とまで言われる伝説の名経営者。
松木正春  故人 松木幸之輔の娘婿として幸之助の引退後、長く経営のトップを務めた。幸之輔との確執は大きかったとされる。
松木正行  松木正春の長男。一時は将来の社長と目されたが、副会長という中途半端な名誉職に甘んじている。
長居公一   広報部の社員。メディアの取材窓口を担当し、村中の知古を得ている。
若泉真紀  「日本ビジネス」社勤務の女性ジャーナリスト。新人の頃、社長時代の村中に取材したことがある。


                                  (第九回)

村中は長居が家に来るのを待っていた。
会長の地位を退いてから、社員が村中の自宅を訪ねてくることはほとんどなかった。

玄関の横にある応接室に入り、あちこちに目をやった。
派遣会社から定期的に訪れる清掃人によって応接も掃除が行き届いている。
それでも村中は慎重に部屋の隅々を点検した。万が一にも社員の目に触れさせてはならないものがありはしないか。

高級スコッチや吟醸酒や舶来のワインボトルの並ぶサイドボードの上に、写真建てに納められたスナップ写真がある。
社長時代の村中が満面の笑みをたたえる横に大辻が無邪気なほどの笑顔をみせている写真。

多分、社内行事のゴルフ場でのものだったはずだが・・・。
いつのものだったろう。村中は写真を好む性格ではない。その村中が特別の一枚として応接に飾った写真。得意の絶頂にあった頃のものだったはずだが、今の村中には、いつどこで撮られたものか思い起こせなくなっている。

村中は、写真の男が自分ではないのではないかとさえ思った。そして横にいる男を見る。
この男は紛れもなく大辻だ・・・。そうつぶやいてから村中の表情は険しさを取り戻した。
「日本ビジネス」のあの記事を大辻は読んでいるだろうか。

読んでいないはずはあるまい。とすれば、今頃、大辻はどんな気持ちでいることだろう。
すぐにでも電話を入れ、事情を説明したくなった。しかし、何を言ったところで大辻はおおらかに笑うだけだろう。そうなれば、かえって村中は、大辻の心の淵の淀みに引き込まれざるを得なくなる。

村中は再び強い憤りに囚われた。身を投げ出すように深々とソファに座り込んだ。
それにしても、長居が言った「上の方からの指示」という言葉が気になる。
「上の方」とは一体誰なのだ・・・。

村中はせわしなく立ち上がり、サイドボードの上の写真を小さな引出に納めた。
それから、並べてあった墨痕あざやかな「同行二人」という弘法大師空海の額を中央に移した。
早く四国の巡礼に出たい・・・。早く完全に会社と縁を切りたい・・・。

村中は応接の壁に掛けられた時計を見る。1時半になろうとしている。
長居に報告に来ることを指示したのが9時過ぎだったとすれば、もう4時間も経過していた。

「いろいろ仕事もあるだろうから、ボクのところには仕事を片付けてからで結構だ・・・」
そう電話で言ったのは村中だった。そのときの村中の想定は「昼過ぎ」ぐらいの感じだったのだが・・・。

村中は苛立った。気が散って本も読めない。こんなことならキッチリ時刻を指示すべきだった。顧問に退いてからの村中には、妙な所で遠慮が出る。歳のせいなのかな、そう思い直して苦笑した。

結局、長居が訪ねてきたのは4時近くなってからだった。
玄関のドアを開けて入ってきた長居は息を荒くしている。

「なんだ、タクシーじゃなかったのか?」
「すいません。出張でタクシーは許可されておりませんので・・・。本当に遅くなり申し訳ありませんでした」
背筋を伸ばして長居はあらためて深々と頭を垂れた。

「上着を脱いでいいぞ。ネクタイなんかとってしまえ」
村中はそう言いながら応接に長居を招き入れた。
村中の家は郊外電車の最寄駅からバスで20分程度かかる。恐らくバスの待ち時間が長すぎるのに驚いたこの男は駆け足で村中の家までやってきたに違いなかった。ハンカチで汗をぬぐう長居を見ているうちに不思議に村中の憤りは納まった。

一人応接を出た村中は、キッチンの冷蔵庫からビール瓶をぶらさげて再び応接に姿を現した。

「まぁ一杯いけ」
長居の前に置かれたグラスになみなみとビールを注ぎながら言う。
「とんでもありません! 就業中ですのでいただく訳にはまいりません」
長居が大真面目な顔で言うのを無視するように、村中は自分のグラスのビールを舐めるように少し飲んだ。
「運動の後のビールは美味いぞ、ぐっといけ」
「いえ、やはりそういう訳には・・・」
「君はワシの命令が聞けんのか?」
「いえ決してそのような・・・」
「駆け足手当とでも思って呑みたまえ。特別勤務には特別手当は当たり前だろうが」
長居はようやくグラスを口につけて一口飲んだ。そして間髪を置かずに喉を鳴らすようにしてグラスを一息であけてしまった。

村中は思わず声を出して笑った。こんな風に笑ったのは何年ぶりだろうか。妙に長居という男は村中の気持ちを和らげるところがある。その感触は、先日の「日本ビジネス」の取材で初めて出会ったときからだった。
珍しく村中が長居に報告に出向くように指示したのは、幾分かは、あの男の顔をもう一度見たいという気持ちがあったせいかもしれなかった。
「出張にタクシーが使えないようでは不効率だろう? 目先の金銭セーブが結局は損につながっておらんのか」
村中は長居の空のグラスにビールを注いでやりながら言う。

「全員という訳ではありません。営業なんかはタクシーを使えます。しかし、私のような間接部門のしかも管理職でない人間は絶対に認められません」
長居は今度は遠慮せずにビールを流し込んだ。どこか鬱憤を晴らしているように村中には見えた。

村中はグラスを傾けながら聞いた。
「余計なことかもしれんが、キミはなぜ主任のままなのかね。少なくとも課長が務まる力はあると思えるが・・・」
「ああ、そのことですか」
意外に長居の声はあっさりしている。

「管理職になるのはリスクが大きいからです」
「リスク? どういう意味かね?」。

「労働組合からはずれますと今の会社は容赦しません。こないだも、万年主任がようやく管理職資格の等級に昇進したらですよ、一月後に“追い出し部屋”ハイゾクですわ。あの人、まだ頑張っているのかな、いや多分、もう“早期退職”させられたでしょうね」
意外な言葉にグラスを持つ手を止めたのは村中の方だった。

そんなに荒廃しているのか、今の我社は!

村中の脳裏に、取材を受けるために久しぶりに本社に向かった時の光景が甦った。
あのときすれ違った、あのぞっとするほど暗い中年社員の顔は長居のいうような処遇をされている男だったのではなかったか。
「私は誰が何と言っても“主任”にしがみつきます。これは“肩たたきヘッジ”の唯一絶対の手段ですわ」
そう言って長居は笑った。その笑いには自虐的な印象はかけらもない。むしろ、ふてぶてしい自信のようなものさえ感じさせた。

長居は二杯目のビールを腹に納めると、バッグからクリップ留めした資料を取り出して村中の前に並べた。
「日本ビジネス」の特集記事のゲラとA4一枚に記されたレポートである。

「私がチェックした最終ゲラと刷り上がった雑誌記事との相違部分はこれだけです」
ゲラには該当部分がマーカーで塗られていた。それをざっと見るだけでも、何パーセント程度の部分に「上の方からの意向」で修正されたのかが理解できる。

「修正部分を一覧にしますとこうなります・・・」

A4一枚に、修正部分、すなわち追加されたもの、表現、内容が変えられたものが簡潔に一覧にされている。

すべてが村中と大辻に関連する部分だった。そして例外なくすべて、村中には擁護的に大辻には批判的に修正されたことが分かる。

「これはワシが今朝キミに電話を入れてから作ったのかね・・・」
「はっ、何ぶん急な作業をしましたので不出来な報告書で申し訳ありません」
何が不出来だ・・・やはりこいつは仕事は出来る。こういう男を主任に留まらせておくというのはどういう経営なのだ!。
村中の憤りはいつの間にか、かつて自分が経営してきた会社の経営陣に向かっていく。

「その、“上の方からの指示”に思い当るところはないのか・・・」
「ありません。若泉真紀さんにも確認したのですが全く見当がつきません」。

「日本ビジネスの編集長に直接確認できないのか?」
「そりゃ絶対言いませんわ。もともとジャーナリストというのは取材源を秘匿します。ばらしてしまったら、その人間から二度と情報を取れなくなりますし、警戒されて他の人間もそうなります。要するにジャーナリズムの世界で食っていけなくなりますからね」
長居はこうも言った。

「たとえ、村中元社長からお聞きになっても、ご勘弁くださいの一点張りでしょう」
「ということは、結局、誰がワシをおだてあげ大辻を叩きのめすようなことをしたのか永遠に分からんということか・・・」

長居は深く頷いた。村中は立ち上がりサイドボードのガラスドアを観音開きに開けた。
「キミ、今日は自宅へ直帰だろう。少しワシに付き合え。何がいい。高級ウイスキーでも大吟醸酒でもヤマほどあるぞ。すべてもらい物だがな・・・。増えてしまって困っていたところだ、少し消化するのを手伝いたまえ。そうだな・・・スコッチをロックででもどうだ?」
当惑顔の長居に構わず村中はウイスキーボトルをテーブルに置き、キチンまで行ってアイスペールに氷を入れて戻った。

長居の顔には、元社長、それも一時は「松木電器の中興の祖」とまで言われた大物社長にそこまでされては覚悟するしかないという表情が浮かんでいた。
ウイスキーを舐めながら村中が言い出した。
「酒の余興にどうだ、二人で、その謎の“上の方”を当てっこしようじゃないか。キミは誰だと思うんだ」

村中に聞かれて長居は開き直った。もう何でも思うままに言ってやろう、そんな覚悟がアルコールで赤らんだ顔ににじみ出ている。

「そりゃ、決まっています」
「誰だ?!」
「津田社長ですよ」
「な、何っ! まさか、社長の津田が黒幕だと言うのか!」
村中は思わずスコッチをこぼしそうになった。


続く

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