連載小説 『天皇と呼ばれた男』         渚美智雄   監修 荻正道


【読者の皆様へ】
この作品は、実在企業をモデルにしたものです。しかし、企業の事業内容や経営状況、経営関係者等の性格、経営観等の一切は、すべて創作された架空のものであることをお断り申し上げます。戦略的意思決定の仕組みや企業統治のあり方を創作を通じて模索する“経営小説”の試みとしてお読みいただければ幸いです。

 【主要登場人物】
村中國男  松木電器(現パノニクス)元社長。現在は特別顧問。プラズマテレビに注力し一時は好業績をあげた。
大辻文雄  村中の後を継いだ前社長。村中の敷いた戦略を忠実に継承したが、裏目に出て危機的な状況を招いた。辞任後、慣例に従い会長に就任したが、社内外からの無言の批判に耐えきれず自ら会長を辞任した。
津田和弘  現社長。大辻の後を受けて社長就任後、事業構造の大胆な改革を続けている。
松木幸之輔   故人 松木電器の創業者。「経営の神様」とまで言われる伝説の名経営者。
松木正春  故人 松木幸之輔の娘婿として幸之助の引退後、長く経営のトップを務めた。幸之輔との確執は大きかったとされる。
松木正行  松木正春の長男。一時は将来の社長と目されたが、副会長という中途半端な名誉職に甘んじている。
長居公一   広報部の社員。メディアの取材窓口を担当し、村中の知古を得ている。
若泉真紀  「日本ビジネス」社勤務の女性ジャーナリスト。新人の頃、社長時代の村中に取材したことがある。


                                  (第十回)

津田社長が『日本ビジネス』の記事に修正を加えた黒幕だと・・・。
あり得ない話だと村中は思った。

「なぜ、津田社長がそんなことをせにゃならんのかね」
村中はスコッチを呑んで長居の目を見つめた。

長居はスコッチが口に合うのか、アイスペールの氷を自分のグラスに加え、慎重に琥珀色のスコッチを注ぎ込んだ。
それを舐めながら村中の表情を見つめ返した。既に目が座っている。

「お話させていただく前に、村中顧問にお聞きしたいことがあるんですが・・・」
長居は遠慮がちな表情を浮かべながらも、探る様に村中の目の奥を覗き込んでいる。

「何が聞きたいんだ? はっきり言いたまえ」
村中は、持って回った言い方が嫌いだった。

「では、率直にお伺いします」
長居はグラスを置いてから背筋を伸ばした。

「津田さんを社長に指名されたのは本当に村中顧問なのでしょうか?」。
「ワシは意見として津田クンの名前を出しただけだ。大辻も同じ考えをもっておったから、すんなりと津田に決まった。それだけのことだ」
「しかし、大辻さんは別の人を後継者にしたかったんじゃありませんか。村中顧問が先に津田さんの名を出されたため言い出せなかったということはありませんか」。

「誰がそんなことを言っとるんだ!」
村中は思わず言葉を尖らせた。先日の取材でも若泉真紀が似たような言い方をしていたが・・・。

「そんなことが今回の記事の問題に関係があるのかね?」
長居の顔が強張ったのを見て、村中は言葉を和らげて言った。再び、長居は能弁になった。

「そりゃ、大いに関係があります。津田社長が自分を社長にしてくれたのが村中さんだと思っているのなら、そりゃ、村中さんの評判を高めたいと思いますよ」。
「キミ、社長というのはキミが思っとるよりずっと忙しいんだ。たとえ、そういう気持ちがあったとしても、わざわざ掲載予定記事をチェックして修正しようなんて出来ることじゃない」。

「私も普通ならそうだと思います。しかし、津田さんの場合は・・・」
長居は再び言葉を濁した。村中にはこういう態度が一番気に喰わない。

「ハッキリ言いたまえ。津田クンの場合はなんだ、と言うんだ」
村中の言葉が再び尖りだしたのを察したか、長居は観念したように話しのテンポを上げた。

「津田さんの場合は、誰が自分を社長にしたのか、どういう理由で自分が社長に選ばれたのか、社長就任後、非常に熱心に周囲にヒアリングされていたようです。会社の再建プランを議論しながらも常にそのことを明快にしようとされていたみたいです。恐らく、あの方にとって、そこをハッキリしなかったら再建の方向性も決められないという気持ちがあったんだと思いますよ。社長就任から一年ぐらいは、津田社長は独自調査を続けておられたらしいです」

誰が自分を社長に選んだのかがはっきりしないうちは、軽々に再建プランをまとめられない・・・。
自分が社長になった時のことを村中は思い返してみた。ITバブルの崩壊で経営危機に見舞われたのは一年後のことだった。社業は安定していた。前任社長はそれなりに評価され、すんなりと会長に納まった。自分が社長になったのは、創業者の女婿として創業者の権威を継承した松木正春という名誉会長が存命だったからだ。

その松木正春の長男である松木正行は村中が務めた米国事業の最高責任者の地位にあった。村中は自分でも米国時代の仕事は充実していたと思う。そして、松木正行は村中を高く評価した。いや、評価というより「信頼」という言葉がふさわしい。日本では、仕事の能力などよりも、「信頼」を得られなければトップに推されることなどあり得ない。

息子が惚れ込んだ男は、松木正春としても「信頼」のおける男であった。こうして村中は創業家の絶対的な権威の後楯を得たのだった。

それに比べれば、津田社長の場合は極めて不安定な足場しかない。そんな立場に置かれれば、まずは自分を社長にした人間、いや勢力を見極めねば、経営の方向が決められないというのは理解できないではない。
「津田社長は、ワシが推したと思っているのか?」

「津田社長の“調査”は執拗を極めたようでした。最終的に決定的な証言は当時の秘書室長だったと言います」
当時の秘書室長・・・、村中はかろうじて顔を思い浮かべることが出来たが、名前を思い起こすことは出来なかった。

「大辻さんが社長を辞任したいという意向を村中さんに伝えに会長室に来られたときの様子は克明に津田社長に伝えられたようです。これは本当かどうかしりませんが、津田さんはお二人のやりとりを“議事録”にすることまで指示されたようで・・・。まぁ、津田社長のあの性格ならありそうなことですが・・・」
長居は思い出したようにスコッチのグラスを手にした。

村中も溜息をつきながらグラスを口に運んだ。その“議事録”を当事者として思い返してみる。
あのとき会長室で村中と大辻は二人きりで向かい合っていた。大辻の気配がただ事でないのを察して、秘書室長は女性社員に茶を出すのも控えさせたようだった。それほど大辻は思い詰めた顔をしていた。
会長室は決して密室ではない。秘書室長は二人のやりとりに耳を澄ませていたに違いない。トップに関するすべての動きを把握し、自分のとるべき行動を準備しなければならないからだ。

「あのときは、大辻は本当にひどい顔をしていた。長い間彼と仕事をしてきたが、あんな暗い大辻は・・・」
村中はそこまで口にして再び黙り込んだ。広報社員に聞かせる話ではない、村中は自分に言い聞かせながら、脳裏に大辻とのやりとりを思い返すことを止められなかった。

「大変に申し訳なく社長として責任を痛感しております」
「キミ、考えすぎてはイカン。社長の責任は大きいが、会社全体の責任なんだ。社長の責任というなら、キミが元気を出して再び会社を盛りあげていかねばならん」。

「・・・もう私にはその力がありません」
大辻は振り絞るように言うなり、押し殺すような声で嗚咽した。

嗚咽はすぐに止んだが、秘書室長が気付かぬはずはなかった。そこからの一挙一動を全身全霊を籠めて聞き逃すまいとしたことだろう。

「まことに申し訳なく、また無責任であることは重々承知のうえで、社長を辞任させていただきたく・・・」
大辻の言葉は最後まで続かなかった。こみあげるものを必死で抑えるようにハンカチで目頭を押さえた。
大辻らしい率直な心情の吐露だった。村中はもはや叱咤激励する気持ちを失った。
「よくよく考えたうえでのことなら・・・」
村中はそう言うしかなかった。そのとき、大辻は深々と村中に頭を下げた。
「日本ビジネス」が書いたような、内心で慰留されるのを望んでいたなどということはあり得ない。そんな器用なことが出来る男ではない。しかし、一呼吸置いてから、村中が大辻にこう言ったのも事実である。

「で、後任は誰なんですか・・・津田さんですか?」
津田の名前を最初に出したのは村中であることは間違いなかった。村中は大辻も同じ考えを持っていると信じ込んでいた。
しかし、このとき大辻は自分の辞任が認められた安堵と虚脱感で、次期社長について村中と話し合う余裕など持てなかったろう、と今の村中なら思う。

しかし、大辻の気持ちが折れた以上、速やかに後任社長を選ぶことが、会長としての村中の責務だった。
ひょっとすれば、大辻はあらためて後任者の相談をしたかったのではないのか。せめて翌日にでも、時間をおいてから・・・。

「それで津田社長がその“議事録”とやらを信じてワシが社長に指名したと思っとるという訳か・・・。しかし、たとえそうだとしても今回の記事の問題と何の関係があるというんだ?」

「社内外への観測気球じゃなかったんでしょうか」
長居は平然と言った。村中にとっては想像を絶する言葉だった。

「悪いのは村中元社長ではなく大辻前社長だと大胆に書いた記事を取締役達はどう読むか、一般社員は、そして社外の取引先や顧客は・・・、津田社長としては知っておかねばならないことだったんですよ」
「だから、観測気球だと言うのか・・・まるで政界の駆け引きみたいな話じゃないか」

「しかし、これほどの規模の会社で上に登るというのは、政界のような工作も不可欠なんじゃないでしょうか。津田さんは今、とても怖いんじゃないでしょうか。行きがかりで社長に据えられたようなものですから」
村中は思わず溜息をついた。しかし、考えてみれば、確かに津田は自分のように創業家のような絶対的な権威に支えられて社長に指名された訳ではない。業績が上向きのときは良いが、悪くなったら遠慮会釈のないバッシングに見舞われることは十分想像出来た。今まで考えもしなかったことだが、もう少し津田社長の心中を察してやらねばいかんのかもしれない、とも思う。

「あの『日本ビジネス』の特集記事に対して周囲から反発が起きるか、共感が起きるのか、それとも全く反響がないか、それで今後の津田社長のスタンスが決まるように思いますが・・・」
「キミはどんな反響が起こると思っているんだ?」

「多分、共感が圧倒的多数でしょう」
「すべては大辻が悪かった、というのが社内の反応だと言うのか」
「特に社員はそうですよ。リストラされた社員やその家族、あるいはクビにならなかった社員も大幅に賃金カットでしょ。犯人をはっきりさせなかったら気持ちが納まりません!。もちろん大リストラをやったのは津田社長ですよ。だからこそ、その原因を作った最大戦犯は前社長の大辻だと、“今回のリストラは自分のせいではない”ということを定着させておきたい。そして、自分を社長に指名した村中さんの再評価の機運が高まれば、津田さんの立場も安定する訳ですし・・・」

「そうまでして、津田は何をやりたいんだ・・・」
しばらく黙りこんだ後にそうつぶやいた村中の目には、怒りが滲んでいるように長居には見えたが。


続く


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