連載小説 『天皇と呼ばれた男』
渚美智雄 監修 荻正道
【読者の皆様へ】
この作品は、実在企業をモデルにしたものです。しかし、企業の事業内容や経営状況、経営関係者等の性格、経営観等の一切は、すべて創作された架空のものであることをお断り申し上げます。戦略的意思決定の仕組みや企業統治のあり方を創作を通じて模索する“経営小説”の試みとしてお読みいただければ幸いです。
【主要登場人物】
村中國男
松木電器(現パノニクス)元社長。現在は特別顧問。プラズマテレビに注力し一時は好業績をあげた。
大辻文雄
村中の後を継いだ前社長。村中の敷いた戦略を忠実に継承したが、裏目に出て危機的な状況を招いた。辞任後、慣例に従い会長に就任したが、社内外からの無言の批判に耐えきれず自ら会長を辞任した。
津田和弘
現社長。大辻の後を受けて社長就任後、事業構造の大胆な改革を続けている。
松木幸之輔
故人 松木電器の創業者。「経営の神様」とまで言われる伝説の名経営者。
松木正春
故人 松木幸之輔の娘婿として幸之助の引退後、長く経営のトップを務めた。幸之輔との確執は大きかったとされる。
松木正行
松木正春の長男。幸之輔の血を継ぐ孫。一時は将来の社長と目されたが、副会長という中途半端な名誉職に甘んじている。
長居公一
広報部の社員。メディアの取材窓口を担当し、村中の知古を得ている。
若泉真紀
「日本ビジネス」社勤務の女性ジャーナリスト。新人の頃、社長時代の村中に取材したことがある。
【前回までのあらすじ】
村中國男は松木電器の特別顧問とし自宅で過ごすことが多くなっていたが、著名なビジネス誌への取材を依頼され気が進まなかったが、創業家の松木正行の意向と聞かされ承諾する。取材記事を書いたのは、村中の社長時代に村中が痛烈に抗議したことのある若泉真紀だったが、記事の内容は極めて村中に擁護的で、村中の責任とされるプラズマ戦略等の失敗を村中の後継社長であった大辻文雄にすべて負わせるものだった。この記事は、松木電器の現経営陣の強い関与によるものだと聞かされ、村中は広報社員の長居を自宅に報告に来させ、真相を掴もうとするのだが・・・。
(第12回)
久しぶりに酒が残った。村中は冷たい水で顔を洗いながら昨夜のことを考えてみる。
頭の芯の部分がぼんやりして記憶がつながらない。
二日酔いなど何十年ぶりのことだろうか。あの長居の話があまりに不愉快だったことが悪酔いにつながったのだ、といまいましく思った。
グラスになみなみと水を注ぎ一息で飲んだ。書斎に入り朝刊を開いたが、記事を追ううちに昨夜の話が断片的に思い出された。
PR・・・、「パッケージ・リストラ」・・・、その言葉を聞いた途端、村中は長居に反射的に何か言ったらしい。
何を言ったのかは思い出せない。
その直後に長居は怯えたような表情で、そろそろ失礼させていただきます、と言い出した。一刻も早く逃げ出したいといった態度だった。
「まだ良いだろうが」と言って応接室の掛け時計に目をやったとき、11時を回っているのに驚いたことが思い出された。
「もうこんな時間なのか・・・」
呆然とした。それから応接室に引かれている電話でタクシーを呼んだ。
書斎に戻り、会社から支給されているタクシーチケットを切って応接に戻った。
そのとき体が左右に揺れたのを思い出す。
「今日は遅くまですまなかった。これで家まで帰ってくれればいい・・・」
長居は、恐れ入りますと言って玄関へ急いだ。
村中はその背中に語りかけるように言った。
「奥さんが心配しているかもしれんな・・・電話を入れて置いたらどうか」
そのとき、長居は振り返って言ったのではなかったか。
「女房には三月前に逃げられましたので・・・心配いりません」
「そうか・・・」
思わず何があったのだ、と聞きたくなった。それを押さえながら村中は思った。長居のような年代は仕事に追われ家庭のことなど構っておれないものだ。
村中は、社長時代に失った妻のことを一瞬思い出した。
「そうか、それなら次は夕飯を用意しておいてやろう」。
村中はそんなことを口にしたような気がするが、記憶は不確かだった。
タクシーは直ぐに来た。「失礼させていただきます」と一礼して長居は背を向けた。
その足取りに乱れはなかった。呂律が乱れていたのに実は酔っていなかったのか、こいつは・・・。村中は、この広報社員に感じた得体の知れなさを今も拭い去れずにいた。
「キミ・・・。『日本ビジネス』に工作した黒幕のことでリサーチを続けてくれ。何かあったら報告に来てくれよ」
村中は表まで見送ってやりながら、そう言ったことだけははっきり覚えていた。
「かしこまりました」
タクシーの後部席に座り込んだ長居は、村中に頭を下げながら言ったが、村中の言った「黒幕」をどう解釈していることか。
「黒幕は津田社長です」と言い切ったこの男は、村中の「指示」を「津田社長の周辺を調査し報告せよ」という特命とでも受け取ってしまったのだろうか。
村中は大きく溜息をついて思わず苦笑した。そして、それならそれで良いのだが、と思い直した。昨夜以来、村中には、津田社長の動きを知りたいという気持ちが強くなっていたのである。
再び朝刊に集中しようとした。黒幕か・・・。様々な企業に関する記事を目で追いながら、村中の脳裏から「黒幕」の二文字が消えなかった。
日本企業は表の職制の裏側に別の職制表が隠れていることが多い。表の「責任者」とは別に本当の実力者がいたりする。
村中は、ウイスキーを祖業として総合飲料企業に成長した会社の次期社長に、著名なコンビニ会社の元経営者が内定したという記事を読んだ。
この企業は、会長に退く今の社長が黒幕となって隠然と実権を振るうのだろうか。
村中は、自分のことを考えてしまった。社長を退き大辻に禅譲したあとも周囲は自分のことを黒幕と考えていたのだろうか。
今の津田社長の後ろに誰がいるのか・・・。考えてみれば誰しも想像したくなることかもしれない。
長居は「後ろ盾」という言葉を使ったが、「黒幕」と同じことだとも言える。
松木電器という会社は、松木幸之輔という創業者の存命中は誰が見ても黒幕は幸之輔だった。時代が昭和から平成に移るのを好機とでも考えたかのように昭和天皇を追うように逝った幸之輔のあと、しばらくは女婿の松木正春が黒幕となっていた時代があった。
思えば、村中も松木正春が名誉会長として明確な黒幕として控えていたからこそ社長が務まったのかも知れない。創業以来の大赤字を出し、大規模なリストラを断行できたのも、後ろにいる黒幕の存在感があったからではなかったか。
特に松木電器は家族主義経営で広く世間に知られた会社だった。それは創業者の松木幸之輔の経営哲学そのものだった。
これに背くようなリストラは世間に衝撃を与え、メディアもさんざんに話題にした。今でも日本企業にリストラを普及させたのは松木電器の功績であるという皮肉な評価をする向きまである。
「松木電器ですらリストラをやらねばならない時代なのだから」は、心の底にうごめくリストラ衝動を隠してきた多くの経営者に「勇気」を与え、組合への釈明のキラーフレーズにすらなった。
あの大騒ぎの中で、もし「黒幕」、つまり松木正春が一言でも批判的な言葉を口にしていたらどうなったか、村中は今でもぞっとする。黒幕は無言でさえいてくれれば確かに後ろ盾として、これほどありがたい存在はないのである。
もし、長居が言うように、津田社長がリストラの仕上げとして「PR(パッケージリストラ)」などを考えているのだとしたら、物言わぬ黒幕、後ろ盾を欲しがっているということはあり得る。
そのために、あの権威あるビジネス誌で村中再評価の機運を盛り上げ、リストラの大胆な総仕上げに踏み切るが黙っていてくれと、村中に含みを持たせる腹積もりであったとしたらどうか・・・。
しかし、今の津田社長の周辺に「特命」を受けて動く子飼い役員がいるだろうか。津田は経営の非常事態によって緊急登板した男である。子飼いの役員を作る猶予などなかったはずであり、今も津田社長をショートリリーフと見なす観測が根深くある。意中の意を明かして工作を指示できる役員などいないはずだ。
やはり、長居は穿ち過ぎのマスコミ関係者の影響を受け過ぎている。それを分かりながら、自分がなぜこだわり続けるのかが村中には釈然としない。飲み過ぎたせいばかりではない・・・、村中が確信を持って言えるのは、それだけであった。
釈然としないままに午後になり、村中の頭もすっきりし始めていた。それでも逆にこだわりは大きくなる一方である。
あの記事を書かせた真犯人は誰なのだ・・・。
そのとき、書斎の電話が鳴った。
「はい、村中ですが」
いつものようにぞんざいに聞こえる声で村中は電話に出た。
「もしもし、松木ですが・・・」
村中は思わず背筋を伸ばした。電話の主は松木正春の長男で副会長の座に居座る松木正行だった。「経営の神様」、松木幸之輔の血をひくという意味で、副会長という中途半端な地位にありながらも、今も父親の正春よりも別の意味で重い存在感を持つ。
「はっ。・・・これは副会長。ご無沙汰しております」
村中の声がかすかに震えるのを、松木正行は耳ざとく聞き分けていたかもしれない。
(続く)
![]()