連載小説  渚美智雄


『大和ファウスト』
第一回


これは私の手記である。もとより他者に読ませることを想定したものではない。それをWEB上で広く公開する気になったのは、年老いて体験した奇妙な(怪奇なと言っても過言ではない)出来事を私一人の胸の内に留めておく息苦しさに耐えられなくなったからかもしれない。さらに、この手記を読まれた方の中に、この奇怪な出来事の謎を解明してくださる方がおられぬとも限らないと考え始めたこともあった。冷静に考えれば、こんな奇怪な出来事を合理的に科学的に解明することなど不可能であり、ましてや読者にそのような期待をする方がどうかしているのだ。物書きの不遜で傲慢な考え違いだと思わぬ訳でもないのだが。

まずは、私の境遇から説明しておかねばなりません。私は太平洋戦争が終わった頃に生まれたことになっています。当時は“終戦っ子”などと呼ばれ、後には“団塊の世代”などと呼ばれてきました。それほど出生数が多かったのです。これは世界的な傾向で、あの大戦に参加した諸国では、終戦後の帰還兵と内地の女との間で奔流のような性交の巨大な渦が生じました。私の存在もまた、その狂奔が跳ね上げた飛沫にようなものなのでしょう。

焦土となった国土は巨大な復興需要を生んだ。隣国での戦争を境に異常な景気の波と、その反動による不景気を繰り返しながら、この国の経済は一時、あのアメリカに次ぐほどに膨張した。価値観も社会規範も一変した。個人の権利が何よりも尊重され、社会道徳はタテマエ的なものに後退したように思う。とにかく街の変貌ぶりはすさまじかった。路地裏にまで舗装がなされ、繁華街は増殖を続け、そこでは開放的な風俗が思春期の私たちの欲望を激しく刺激した。

あの頃は奇妙な夢をよく見たと思います。あまりに何度も同じ夢を繰り返し見ていた気がします。まず廃墟がありました。夢の中の私は必ず一人でした。瓦礫の迷路をさまよううちに表に出られなくなって・・・。あっちに出口があると思って駆け出しても、巨大な壁に行く手をさえぎられました。別の方向に出口があると思え夢中で向かいましたが、そこにもまた巨大な壁が立ち現れました。何度もそんな虚しい脱出を試みても表に出ることは叶わず、巨大な壁に囲まれた廃墟を墓場として死ぬのかなと思ったものです。目覚めた私は寝汗にまみれ、顔面は蒼白だったように記憶しています。

今ではそんな夢は見なくなった。ただ、あの壁に描かれていた落書きのことは鮮明に思い出すことができる。何か卑猥な図柄であるとは思ったが、執拗に微細な部分まで描かれたソレが何だったのかは、当時は理解できなかった。今ならそれが女性器の精密な描図だったことが分かるが、当時の私はソレを見たこともなく、悪漢たちが結束を誓った秘密の紋章に違いないと思ったり、秘宝のありかを解く暗号かもしれないと思ったりしていたものだが。

あのような執拗に訪れてくる不可思議な夢のからくりに気づくようになったのは、ずっと後になってからでした。私はあの頃、自分の知らない実家の事情で京都の密教寺院に預けられていたことがありました。本堂の隅に一人寝かされていた夜の不安(恐怖と言っても良いぐらいです)が感受性の強い時期の私の脳裏にこびりついたようなのです。闇に潜む本尊の巨大な不動明王の憤怒の顔面は、今思い出しても恐ろしい・・・。私が見た夢の廃墟は、どうもあの本堂の闇が変容したものではなかったのか・・・。そして壁に描かれていたあのモノは不動明王の周囲にあったきらびやかな密教の文様だったのではないかと思わぬでもないのです。冷静に考えれば、私の少年期の異常な生活はわずか三か月ほどでしたが、どうも今に至るまで私の脳の奥底に潜む不条理な世界観の起点になっていると思えてならないのです。

私は今、JR横須賀線の大船駅の西側の小さな高台の奇妙な屋敷に一人住んでいる。兄弟はなく、両親はとっくに亡くなり、結婚をしなかったため身寄りはないのだが。私がこんな老後の住まいを手に入れたのは僥倖としかいいようがない。その高台は複数の県道に挟まれて孤立した狭い土地で、雑木林に占められ長く放置されてきたらしい。1980年代になって、この小さな土地の再開発が鎌倉市役所で具体化され始めた。意外に思われようが大船は鎌倉市の一角なのである。古都鎌倉と異なるハイカラな街のイメージは、大船駅の東側、今は公営ホールや女学院になっているところに老舗の映画会社が撮影所を建てたことに始まる。もともと蒲田にあった撮影所が手狭になり、この大船に最新の撮影所が建設され、戦前から戦後の一時期にかけ映画産業の隆盛とともに、“夢の映画の都”のような街のイメージが育まれてきたのだ。

流れは急激に変わった。テレビが普及し、映画は斜陽産業とまで言われ始めた。ある映画会社が京都の時代劇用の撮影所を“映画村”というテーマパークに変えたことに刺激を受け、“大船映画スタジオパーク”にした。これはノスタルジーを抱く往年の映画ファン層によってにぎわったらしい。鎌倉市はこれを好機として、使い道に困っていた狭い高台の地に映画資料館を作ることを思いついた。大船駅を挟んで東側のスタジオと西側の映画資料館とで訪問客を回遊させられれば、駅周辺を発展させられ経済効果も見込めると計算したのだ。早速、予算が付けられ、その狭い高台の空地に資料館なるものの建設が開始されたという。

これには撮影所側の働きかけもあったらしい。スタジオパークには撮影所時代の機材や衣装、おびただしい未編集フイルムや脚本、資料があふれ、パークの整備拡張に支障となっていたのだ。廃棄するのも忍びなく、それなりの資料価値もあると思われ会社の経営陣も決断しかねたらしい。これらを資料館の形にして一般に公開すれば相乗効果が見込めるという鎌倉市への働きかけがなされたのだ。たしかに、スタジオパークが多くの来場者をひきつけ続けていたら、そうなったかもしれない。しかし、パークの繁忙は数年で終わった。リピーター客はほとんどなかったのである。スタジオパークの閉鎖が検討されはじめ、鎌倉市も資料館の建設を中断するはめになった。

私が住んでいるこの奇妙な家屋は、その名残なのです。撮影所との契約上、おびただしい機材、資料類を引き取らざるを得なくなり、むろん公開の目途も立たないまま長く放置されてきたものを、何の因果か、私に売り込みの話が来たのです。私は勤め人をするかたわら、趣味で映画評論を専門誌に投稿し続け映画ジャーナリストとしてそれなりの副収入を得てきたのです。勤めていた会社は副業禁止だったので、私はもっぱらペンネームで執筆を続け、日本の独立系映画(当時はピンク映画と呼ばれていました)についての論考を出版することまで出来ました。これは何の自慢話もない私の生涯の中で唯一の自慢であります・・・。私は自分で考える以上に出版業界の中では知られていたらしい。私が定年で勤め人生活を辞めた時、誰かが鎌倉市に、ダメ元でその放置され“廃墟化”していた特殊物件を私に“特別価格”で払い下げることを勧めたらしいのです。一応、平屋建ての建築物は出来上がっており、コンクリートの打ちっぱなしの外観は、私に少年期の“あの壁”を思い出させました。

私が乗り気になった時には仲介した不動産屋も驚いたぐらいでした。私がその気になったのは、その物件があまりに安かったからです。特殊な地形のため周囲に家屋はなく、近所づきあいの苦手な私には格好の住環境に思えました。何より貴重な映画資料が自分のものになることの誘惑は強いものがありました。私は二階部分を建て増して小さな住居部分を作れば自分の老後にふさわしい住処になると考えたのです。一階のスペースの三分の一程度のスペースがあれば独り者の寝起きには十分であり、残りを広々としたテラスにすれば気分がいいと思いました。私にはそういう夢見がちな性格が今だに消えないのです。その費用を考えれば、くだんの物件などタダでも良いはずで、実際、それに近い払い下げ価格で商談はまとまったのです。コンクリートの打ちっぱなしの外観は、私に少年期の“あの壁”の中に戻る恐怖と裏腹の誘惑を与えたように思います。私はこの歳になって高齢者になって少年期の夢の中へ戻ってしまったのでしょうか・・・。

私はこの因縁の家が気に入っている。周囲に住居などなく夜など不気味なほどの静寂なのも気に入った。私は、私物となった映画資料を研究し、あらためて映画論を執筆したいとも思った。それと、この地を入手するまでは気にも留めなかったが、眼下の県道をへだてて向かい合う高台には巨大な大船観音像が屹立しているのだ。像は東を向いているので、私の家からは斜め横顔が真近に拝める。ある朝、私は朝日を正面に受けた観音様のお顔に神々しいまでの輝きを見た。それはまどろみから目覚め生きておられる女神そのものだった。夕刻には西日を背に受けながら黄金色にお身を輝かされる姿に深い官能が秘められているのを感じた。雨の日などは、全身を雨滴にさらされ滝行される裸形のお姿を想像しさえした。お顔は涙が流れるに任せておられるように見えた。私は、少年期に体験したあの不動明王の恐ろしい形相の記憶が和らぐように感じもしたのだ。

私の境遇は以上のようなものです。もっとも、終焉の住まいを得た私の充足感は長くは続きませんでした。このような奇妙な住居には、住人を非日常的な世界に誘う霊力が秘められているのかもしれません。私は不条理な世界(冥界と言っても良いのでしょうか)に連れ出されるハメになったのです。それは、この奇妙な家に、正体不明の女性が訪れるようになってからのことでしたが・・・。

(続く)


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