連載小説 渚美智雄
『大和ファウスト』
第17回
加田麻里子はウイスキーを舐めるように少しづつ呑んでいく。今までの煽るような呑み方が嘘のような気がしました。目は半眼になりがちで、表情は物憂げだった。今にも眠りに落ちるのではないかと思った私は、焦っていたかもしれない。国栖の大和一が苦労して仕上げたらしい例のスケッチを私届けることを依頼され、わざわざ鎌倉の大船にまでやってきた、そのいきさつをもっと深く知りたい、知らねばならないという焦燥があった。
あのスケッチを私に渡す目的は、今は分かる。あそこに精緻に描かれた“淫紋”を持つオンナ(いや、女の外貌を持つキツネというべきだろう)を私に探させるために違いなかった。しかし、何故、この私が選ばれねばならなかったのか。
「アレを持つ女性を私に探させる為らしいが、何故、私なんだろうね? 私が選ばれた理由を何か知らないかい?」
私は素直に聞いてみた。麻里子は一瞬、うんざりした表情を見せたが。
「・・・そりゃ、東京周辺に住む人間じゃないとね・・・。大和一の一味は、その“淫紋オンナ”がこの国を破滅させる工作をしていると信じ切っているのさ。あの山伏・・・あいつらが“オカミ”と呼ぶ高貴な奴の影響だろうね。もし、そのオンナがそんなダイソレタことを考えているんなら、やっぱり首都に近い場所に潜伏するさ・・・。私でもそうするしさ・・・」
そういうとケラケラと笑った。考えてみれば、麻里子はイミテーションとは言え、私が作った“淫紋”を持つ女なのだ。女狐の発想が多少、分かるのかも知れない。
「そうだとしても、首都圏には3000万人以上の人間がいる。その中で何故、自分なのか・・・そもそも男を選ぶことはないんじゃないか?」
「そりゃ、男のほうが都合が良いわよ。淫紋なんて普通、人に見せるものじゃないしね。女はいくら親しくなっても、“見せっこ”なんてしないものさ。そこへいくと男は、交尾のときに見るからね、だから男の方が好都合なのさ・・・」。
「それなら、若い男を選ぶべきだろう。私のような年寄には、そういう機会はないからな・・・」。
「そりゃ逆だよ。若い男は、やるのに夢中でオンナを観察する余裕なんてないものさ。そこへいくと、オトコを卒業した年寄は本来の行為が出来なくて、代わりにじっくり見ることを代償行為にしがちだからね・・・」。
麻里子の言い分には妙に生々しい説得力があった。川端康成の『眠れる美女』という小説を思い出した。薬で眠らせた若い女を、男の機能を失った老人に添い寝させる特殊フーゾク業の隠れ家を舞台にした物語だった。老人たちは若い女の身体の隅々を仔細に観察し続け、老いを一層意識して死と生の際に自らを追い込んでいく。
「そうだとしても、首都圏には高齢者の男は履いて捨てるほどいる・・・。何故、私なんだ・・・」。
「籤にでも当たったんじゃないの」、麻里子は投げやりに言う。私は、気分を害した。それが表情に出てしまったのだろう。麻里子が言葉を続けた。
「住んでる家が分かりやすい、ということじゃないかね。大和一が飼っているカラスがさ、間違いなく飛んでいける分かりやすい家ということじゃ、ここはイチバンだ。何しろ高台の一軒家で隣には大きな観音様が突っ立ってるんだからね。あのバカカラスでも迷うことはないんじゃないの・・・」
この麻里子の言葉にはハッとするものがあった。淫紋の3Dデータが入ったUSBメモリーを咥えたヤタガラスがここへ飛んできたのは数日前のことだったではないか。
「そうだとしても、もっと目立つところに住んでいる高齢男性は他にもいるだろうし・・・」
「そうでもないんじゃないの。首都圏、高齢男性の一人住まい、空から見て間違いようのない大きな目印が傍にある場所・・・で絞って検索しても、そう多くは出てこないんじゃないの・・・。ましてや、大和一の知り合いの中ではアンタぐらいじゃなかったの」
「知らないんだよ、私は・・・。あの大和という男なんか!」
私がそういうと、麻里子はウンザリとした態度を露骨にしめして面倒くさそうに言う。
「年寄は皆、そうなんだって。私のお客さんの中にはね、3年前になくした奥さんのことを全く知らないという人もいたんだよ・・・」。麻里子は眠たげに言う。
私はなおも否定しようとしたとき、麻里子の寝息が聞こえてきた。私は、二階に戻って毛布を取り出し、麻里子の身体にかけてやった。
私は、麻里子の呑み残したグラスのウイスキーを自分の口にすべて注ぎ込んで片づけた。酔いと睡魔が同時に来たようだった。
目覚めたときは、朝になっていた。遠くから横須賀線の電車の音が聞こえてくる。麻里子が大きく伸びをしたので、私も目が覚めたのだが。私は、ソファの上で、麻里子に覆いかぶさるようにして眠っていたらしい。麻里子は私の顔をじろっと眺めながら言った。
「ひょっとしたら、一味の狙いはコレだったのかも知れないわね・・・」と言う。その眼差しは大船撮影所から譲り受けた撮影資料や未使用フイルムの山に向いている。麻里子は夢でも見たのか、眠っている間に何か啓示をを受けたのかもしれない。
「その淫紋を持つオンナが日本にやってきたのは、いつ頃なんだろうね、と私は考えたんだよ。・・・敗戦直後じゃないかしらね。本当にこの国を滅ぼそうとしてるんだったらだよ、あの敗戦時なんて絶好の機会じゃないか。それに何十万もの人間が日本に帰ってきたんだろ。入国審査なんかあってないようなものだったろうさ。そいつが中国や満州にいたとしたら、この国に来るのに、こんな好都合な時代はなかったと思うよ・・・」
私は、全くその通りだと思った。淫紋の獣が最初に日本にきて保元の乱を引き起こした平安末にしても、遣唐使のような大陸との交流が行われた時代の後であったことを思えば、戦後の淫紋狐の来日が終戦後の混乱時であったとしても頷けるのだ。
「そいつはどこに身を落ち着けるか考えたろうよ。最大の武器である独特の美貌を使ってこの国を滅ぼすなら、多くの人間に注目される立場が必要だろうさ。となれば、テレビのなかったあの当時の娯楽の対象は映画しかなかったんじゃないのかい・・・。淫紋オンナが映画女優になろうとした可能性は十分にある、と私は思うね・・・。この撮影所のゴミの中にさ、その痕跡があるかも知れないと、大和一の一味は考えたのさ。だからここのオーナーであるアンタを仲間に引き入れたかったんだよ。そう考えりゃ、あんたが選ばれた理由はハッキリするじゃないか!」
私は慄然とした。あらためて私は、麻里子の頭脳に感服してしまった。それも、股間にはめこんだ私の疑似淫紋のせいなのかもしれないが。
「まぁ・・・ここの資料を丹念に調べていけば何か掴めるかもしれない。オカミとやらがアンタに淫紋のキツネを見つけ出せと言ったのは、そういう意味じゃないのかね。やってみて損はないと思うよ・・・」
元はと言えば、映画史研究の資料として譲り受けたものだった。その時は、すぐにでも内容のチェックに入ろうとしていたが、いざ作業に着手しようとして怯んだのだ。あまりに膨大で、どこから手を付けていいか分からなかったからでもある。今こそ徹底して調べなければならないという覚悟が出来た。
「私も手伝うから・・・」と、麻里子が言った時だった。玄関の扉が乱暴に叩かれた。私は思わず身体を振るわせて麻里子と顔を見合わせた。ここに来客があるのは、あの行方不明になった佐田刑事以来である。
麻里子はソファから跳ね起きて、資料棚の奥の駒子人形の定位置まで駆け、すました顔で駒子人形に戻ったが。
玄関のドアを開けると男が突っ立っていた。三つ揃いのダークグレーのスーツを着こみ、ネクタイは蛇を思わせる斑模様のグレーとブルーだった。頭部には、これもグレーのソフト帽が載っている。
男は何も言わず、深々と会釈してきた。覚えのない顔だったが。
「キョウメイ殿、お忘れか? 私ですよ!」。
私はあらためて男の顔を覗き込んだ。思い出した。あのクスノキではないか。
「こんな柄にもない恰好をさせられてますんで、お分かりにならなかったのも無理もありません。しかし、はじめて新幹線とかいうモノに乗りましたが、あまりの遅さに死ぬ思いでしたよ」。
あまりの意外さに私は何も言えずにいた。クスノキはかまわず喋り続けた。
「いつもなら、ヤタガラスに跨って一鞭いれれば、奈良の国栖から鎌倉までひとッ飛びなんですがね。キョウメイ殿を助けようと、あの刑事をヤタガラスに掴み上げさせて始末したでしょう。そのことでオカミに酷く叱られましてな、誰かに見られていたらどうなったと思うと、恐ろしい形相でコテンパンですわ。それでしばらくヤタガラスを取り上げられましてな、ここまで来るのにこんな恰好をさせられて、新幹線に乗せられて・・・。しかし、今の日本人はよくもあんな時間のかかる窮屈な乗り物にガマンしてますな。オカミがこの国を作り直さなきゃならんと仰るのはもっともだ、とあらためて思いましたよ」。
「そりゃ、まぁ・・・ご苦労でしたな」と、私も言わざるを得ない。
「で、何の御用でこんな遠くまで?」と私は聞いた。
「オカミの綸旨(命令)をお伝えに上がりましたのです・・・」
クスノキはそう言うと、誰かが聞き耳をたてていないか探るような鋭い目つきであたりを見まわした。それから、気配を殺すかのように立ち上がったかと思うと、資料棚の向こうへ歩き出しました。
言うまでもなく、そこには駒子人形が立っているのです。
(来月号に続く)