連載小説 渚美智雄
『大和ファウスト』
第18回
クスノキはじっと“駒子”の顔を見つめていた。私からは、その後頭部しか見えず、表情は窺えない。ばれたか!と私は思った。しかし、どうすることもできない。クスノキは微動だにしなかった。それが不気味だった。
どれぐらいの時間が経ったのか・・・クスノキは私の方に向きを変えて戻ってきた。その表情は和やかでわずかに紅潮しているように見えた。
「いや、驚いた・・・こんなところで“駒子さん”に出会えるとはね・・・。昔、映画で見たんです。良い映画だったなぁ・・・。駒子を演じた岸景子さんにどれほど憧れたことか! 『雪国』は俺の青春だった・・・」
クスノキの眼が潤んでいるように見える。私は、この男は幾つなのか、と思った。映画『雪国』を観たのが“青春”だというなら、この男の年齢は私と同じか、上である可能性すらある。しかし、目の前に立つ男の背はまっすぐに伸び、揺らぐことがない。壮年の偉丈夫という言葉はこの男のためにあったのか、とすら思えた。そんなクスノキに、私はいっそう不気味さを感じたものです。
「・・・こりゃ、失礼したな・・・俺のことなどどうでも良いことだった。早速、オカミからの綸旨をお伝えさせていただこう」
「その前に聞きたいことがある。アンタ、岩瀬志麻をどうしたんだ? まさか、殺したんじゃないだろうな」
「俺のことを殺し屋のように思っているようだが、俺はそんなことが出来る人間じゃないんだぜ・・・」。
「鎌倉宮の裏山で、あんた、佐田刑事を巨大なカラスに掴ませて鎌倉の海に捨てたじゃないか・・・」。
「あれは、アンタを救うためにしたことだ。それに、海に捨てただけで殺しちゃいないんだ・・・。もっとも海の中で死んだかもしれんが、それは佐田刑事とやらの責任で俺の知ったことじゃない」。
「状況的にみて死んだと考えるのが普通じゃないのか? アンタがいくら“未必の故意”を主張したところで、殺人容疑は逃れられんぞ!」。
「未必の恋? 未達の恋じゃないのかね」そういうと、クスノキはもう一度、駒子人形の方を向いた。振り返った時、クスノキの眼は再び濡れていたのだが。
「あんたは流石に難しいことを言うね。大和のハジメ旦那に似てるな。まぁ、俺の苦手な人種だね、あんたも。でもな、俺は岩瀬志麻には、その未必の故意とやらで死んだかもしれないなんてことすらしてないんでね」
「じゃ、志麻は今どこにいるんだ?」と私は聞いた。クスノキはうんざりした顔で言う。
「決まってるだろうが、オカミのところで昼も夜もお仕えしながら、特訓を受けているんだ」
「トックン? 何のトレーニングなんだ?」
「俺たちの使命を果たすために必要なあらゆることをだ・・・当然、人を殺めることも含めてだろう。なかなか才能があるみたいで、オカミはすっかり気に入られているご様子・・・。あの分じゃ、俺なんか、何時お払い箱になるかも知れんが・・・」
「俺たちの使命だと? いったいお前たちは何を考えているんだ? 何を目的にしたグループなんだ?」。
「世直しに決まっているでしょうが。オカミが再びこの国の長(おさ)として親政の辣腕を振るわれる・・・俺たちはそのための切り込み隊なんだぜ。アンタだって既にその一員じゃないか。切り込み隊の名前は“NMD”と言うのさ。アンタと俺は、既にNMDの同志なんだぜ」。私は唖然とした。私の目にはクスノキの肩越しに加田麻里子(駒子人形)が見える。その麻里子が一瞬ウインクしたような気がした。今は逆らわずにクスノキの言うことを聞くのが良いとでも言うように。
「じゃ、オカミの俺当ての綸旨とやらを承たまわろうじゃないか」。
「ではお伝え申そう」、クスノキはあらためで姿勢を正して、たった一言言ったものでした。
「朕は、今よりここを座所とする」 私は意味がわからずに呆然とクスノキの表情を窺っていたのですが、クスノキがじれったそうに言い添えた。
「オカミは、このアンタの家を御座所にしたいと仰せなのさ。国栖に隠棲されておられる時期は終わり、いよいよこの国の政治・経済の中心にお出ましになって世直しの指揮をおとりになるおつもりなんだ」。
「何を夢想しようとオカミとやらの勝手だが、この家に住むというのは、いくらなんでも無理な話だ。ご覧の通り、ここはこんなに狭く、映画資料を保管する倉庫のようなもんだ。とてもオカミがお住まいになられる場所にはふさわしくない・・・」。
「その点はご懸念無用じゃ。オカミはキョウメイ殿に一切迷惑をかけないおつもりじゃ。二階には何にも使われていない大きなベランダがあるじゃないか。オカミはそこを借りて御座所にしたいとおっしゃっておられるのだ!」
私は呆れてしまった。確かにベランダはある。多少広いとはいえ、ちょっとしたテントを張れば埋まってしまうほどの空間に過ぎない。まさか、オカミとやらはテントでキャンプ生活でもなさるつもりなのか。
「出入りのために、この家の中を通られることは迷惑なんだ!」
「一切ご心配無用。オカミはどこにも出かけられない。ベランダから庭先におりる非常階段のようなものも必要ござらん。ただ御座所をおつくりするだけで十分なのだ。キョウメイ殿もご存じだろうが、オカミはこの国を統べられた今までのミカドとはまるで違うお方。何しろ隠岐に流され平民以下の暮らしにも耐えられ、ついには島抜けに成功されて、この国の真の支配者となられた。忍耐力といい、目的に対する執念といい、我々が及ぶところではないお方。何の心配も要らぬし、必要なときは、ヤタガラスが直接に出向く。空からの使者なら何のご迷惑にもなるまい」。
私は自分の意思をはっきりとさせねばと思いました。お断りします! 私はかろうじてそれだけ言ったが、声は自分でも驚くほどかすれていたことを今でもはっきりと思い出します。クスノキはしばらく不思議なものを見るような眼で私を見ていましたが。
「・・・オカミのお言葉に背くことは、NMDの同志には許されません!」。
クスノキは私を睨みつけたまま、右手をスーツの内ポケットに入れました。何を取り出すつもりなのか、私の上体は固まり切っていた。
「お互いNMDの仲間ではありませんか。皆、私財をなげうってオカミの悲願成就のために尽くしているんです。この私だって、国栖の紙漉き工場を手放してオカミに上納したのです。でも、何の後悔もありません。むしろオカミに仕える喜びと言いますか、充実感にあふれた毎日を送らせていただいておるのです。私の言い方が唐突すぎて、キョウメイ殿を混乱させてしまったようで、その点についてはお詫び申し上げます」 といって胸ポケットからゆっくりと煙草をとりだし深く紫煙を吸ったのだった。
「NMDとかいう集団は、私有財産もなければ個人の自由意志すら許されないのか!?」。
クスノキは当たり前じゃないですか、といった表情で紫煙をゆっくりと吐き出し続けていました。
「この国に住む人間の不幸は、“自分”に固執するところです。自分の心と体の一切をオカミに奉り、オカミの喜びを自分の喜びのすべてとする幸せを失ってしまった。昔はそうではなかったはずです。わずか80年でエゴだらけの国になってしまったんですな。オカミはそれを元に戻そうとされておられる。その崇高な志を支える一員になることこそ、ヤマトの国に住む者の至福でなくて何でしょうか・・・」。
私は何も言えなくなり、クスノキの口元に漂う紫煙の勢いが衰えるのをじっと待っていたのでした。
クスノキは時間をかけて煙草1本を吸い終わると、呟くように言ったのです。
「そろそろ出来上がった頃かな・・・」。
「出来上がった? 何が?」と私は聞いた。クスノキはそんな私を見て苦笑を浮かべながら立ち上がり、私を従えるようにして二階に上がっていった。そして、ベランダに出るドアを開けて、言ったのです。
「すっかり出来上がっています。新しい御座所を御覧なさい・・・」
ベランダには新鮮な木の香りが漂っていました。そしてそこに決して大きいとは言えない神社の拝殿のようなものが建っていたのです。この国には現代の今日でも、国際的な規模の企業の社屋にすら、この種のものが建っているのは珍しくありません。お稲荷さんの祠のようなものであったり、酒の神を祀る社であったり・・・恐らく創業者の信仰の対象が禁忌の威厳を伴って存在し続けている。私の家のベランダに突然、出現したモノもそのようなものと想像していただければ良いと思うのですが。
「まだ、オカミはお移りになっていない。今のうちなら中を自由に見られますよ」
クスノキは微笑を浮かべ、私を誘うようにして、木の香り漂う御座所に入っていった。
(来月号に続く)