連載小説 渚美智雄
『大和ファウスト』
第20回
吉野川の川音が遠ざかり私は大和一の家の入口に戻った。大和一は突っ立ったまま私を見送るつもりのようだった。何故、自分の家に戻らないのか不思議だったが、私はひとり大和の家に入っていった。切り出したばかりの木材の匂いが鼻を衝く。そこは私の家のベランダに出現した“御座所”だったのです。
格子張りの天井から吊るされた大きな鏡が歪んだ私の全身を映していました。まるで私を監視するかのようで不気味でしたが。
私は振り返りもせず私の家の二階のドアを開いて中に入り、一階に降りていきました。
「何処へ行ってたのよ!? 三か月も留守にしてさ・・・」
加田麻里子の声がしました。しばらくは彼女が何処にいるのか分からなかった。麻里子は映画関連の資料棚の陰にいて熱心に資料類を見ていたのです。
「・・・3ヶ月だって? ほんの一時間程度外出してただけじゃないか・・・」 私は麻里子に抗議する口調で言ったものです。麻里子は私をちらっと横目で見て溜息をつきました。資料の多さにうんざりしているようでした。・・・一時間がこちらでは100日なのか・・・私は何故か謎を解く鍵を発見したような気がした。こちらの世界で100日経っても、あっちの世界では1時間しか経たないという訳か・・・だとしたら、大和一と私が同年代としても、大和があんなに若く、私が立派な老人になっていても可笑しくないことになります。
「やっぱりフイルムからチェックしていった方が良いみたいね・・・」 麻里子はそういうと棚の端に置いてあったビュア(編集機)を持ち上げて入口のソファのテーブルのところへ運ぼうとするのでした。私は手を添えてやりました。麻里子の腕の力では途中で落としてしまうのでは、と心配したのです。
「使い方覚えているかい?・・・」
「そんなもん覚えてる訳ないじゃん」
麻里子はますます不機嫌になっていくようだった。私は麻里子が何故、膨大な保存フイルムのチェックをする気になったのか、さっぱり分かりませんでした。麻里子の次の一言ですべて納得できたのですが。
「こん中に、女狐の痕跡があるんなら、それを早く見つけてお役御免になりたいもんだね。あんたも、こんな家さっさと売りはらって逃げ出した方が良いと思うよ。あんな気違い連中と付き合ってたら碌なことにならないからね」。
私はビュアをセットし、棚の一番上に積まれていた円盤状のフイルム収納ケースを開けフイルムを左右のアームに装着した。フイルムはアームの下にあるハンドルを手動で回していかねばならない。
「ねぇ、モーターで自動的に動かすようにできないの・・・直ぐに手がつかれてしまうじゃない・・・」
「それじゃ映写機と変わらないことになる。一コマ単位の映像をチェックするのがビュアの目的だからな。そうでなきゃ、その女狐サマとやらの影すらも見落としてしまう」
私がそういうと、加田麻里子の不機嫌は頂点に達したようでした。それでも最初のフイルムを中央にある画面を注視しながら、ゆっくりとフイルムを左右のハンドルに手を添えて点検し始めたのでした。女狐にまつわる何かを発見して“お役御免”になることを本気で考えているのだと、私は何やら気の毒になったことを覚えている。
一時間ほど経ったろうか、当然、何の手がかりも発見できなかったが、麻里子は熱心に作業を続けていた。私はその横で紙の資料の束を取り出してチェックしていた。その時、玄関のチャイムが鳴った。私は玄関のドアを開いた。
クスノキが緊張した面持ちで立っている。そしてわずかに私に目配りしたかと思うと、身体を端に寄せ、後ろに立っていた黒い人影を内部に導いたのである。
「こちらへ・・・」クスノキは恭しく上半身を折って、その人影に囁く。
家内の電気の灯りが、その人影の細部を照らし出した。山伏の装束に覆われたその人物は一言も発せず、クスノキに従って二階への階段をゆっくりと昇って行ったのだ。
その時、麻里子がビュアの画面から目を上げて、表情を俄かに強張らせた。
「あいつだよ・・・国栖の大和の家に出入りしていた“拝み屋”だ・・・とうとうここまで来たとなると、私たち下手すると永久に逃げられなくなるかもしれない!」。
ベランダの御座所に居座って、あのミカドの霊を自らの身体に降臨させ、NHD(日本魔改造同盟)の同志たちを指揮しようとするつもりなのか。大きく溜息をついた加田麻里子はしばらく呆然としていたが、再びビュアのハンドルを回し、先刻よりもはるかに熱心に作業に戻った。その集中力が数段高まったことに私は気付いた。
・・・この女は本気になっている。この調子なら、女狐の手がかりを見つけ出すのではないか。私はそう思わざるを得ませんでした。
それからどれだけ時間が流れたのか分かりません。数か月は間違いなくすぎていったと思われます。木々のたたずまいや空の模様で季節が変わったことは間違いありませんでしたから。もっとも大和一のいる世界ではほんの数時間のことだったかもしれませんが。
その日も私は加田麻里子と並んで膨大な資料の点検をしていました。麻里子はますます何かに取りつかれたように作業に没頭しています。
私のほうは相変わらず不熱心で、しょっちゅう手を止めては退屈を吐き出すように溜息を付き続けていたのです
時々、私は二階に上がり、ベランダに出て、御座所の中を窺いました。中は暗く、よく分かりませんでしたが、あの鏡の真下に“拝み屋”が座っていました。まつたく動くことがなかったので、何やら浄瑠璃の人形が出番に備えて丁寧に置かれている、というような気がしたものです。その斜め後ろにクスノキが正座して瞑目しているのです。こちらも微塵も動くことがないのです。こちらはミイラのように見えないでもありません。・・・この御座所で彼らが“オカミ”と呼ぶあの狂ったミカドが訪れてくるのを待っているのでしょうか・・・
一階に戻ると、あいかわらず麻里子が浸かれたようにビュアを覗き込んでいました。私が話しかけるのも躊躇われるほど一心不乱に女狐の痕跡をみつけだそうとしているのです。手持無沙汰になった私は、またも二階のベランダに行き御座所の中を窺ったのでした。まるで倉庫の中を覗くように内部は暗く、物音ひとつしないままです。大船観音の巨大な横顔も息を殺して御座所の気配を窺っているように見えましたが。
そんなことを何度繰り返していたか記憶も定かではない。ただ何度か季節も変わったような気はした。
私は、麻里子の傍に戻り、資料の束を手にした瞬間でした。麻里子が突然、声をあげたのだ。絹を引き裂いたような麻里子のものではないような不思議な動物的な声だったことを今でも覚えている。
「何これっ!」。
麻里子はビュアの画面を凝視したまま全身を凝固させたように動かない。私は、驚いて麻里子の傍にいって、麻里子の肩越しにビュアを覗き込みました。
薄暗く狭いセットのひと隅でうずくまっている男が写っていました。撮影中のスタッフを写したものかと思いましたが、撮影の雑然とした雰囲気がなく奇妙に静まり返っていることに違和感を覚えました。少なくとも、通常の映画撮影の映像ではないことは明らかでした。
「鬼が写っている! 気味が悪い!」
麻里子の声は多少、普段の声の調子を取り戻していました。鬼か・・・なるほど、そこに写っていた小柄な男の顔は鋭く尖り、眼は異常に見開かれ目の前の対象にくぎ付けになっている。その男の視線の先は白くぼやけ、男が何を見つめているのか判然としなかった。
「見たことがある気がするわ、この人・・・」
麻里子がそういった瞬間、私は雷鳴に撃たれたような衝撃を覚えました。
「・・・カワバタ・・・」。
私は口の渇きを抑えるためつばを飲み込んで続けました。
「・・・ヤスナリ・・・川端康成・・・」
さすがに加田麻里子も、その名前は知っていました。
「確かにそうだわ・・・『雪国』の撮影のとき撮影所に来た川端康成を見たことがあるのよ。確かに、この特徴のある顔は、あの小説家に間違いないと思う・・・」
川端康成がこんなところで何をしていたのだ。まるで想像もできないハナシだった。麻里子が恐ろしいことを言い出した。
「川端は、女狐を見つけたのよ。画面の手前に白くぼやけているのが女狐なのよ! カメラに近すぎてピンボケになっているけれど、間違いない!」
麻里子の興奮した声はかすかに震え始めました。私は、そのピンボケ部分が女狐だとは思えないものの、異常な何者かだったことは間違いないと思った。女の直感というのは侮れない。特に加田麻里子には、特別の鋭さがあるのは認めていました。
「やっと見つけたわ! これで私は身を引かしてもらうから・・・」
「ちょっと待てよ・・・これだけでは、連中が探している女狐かどうか全く分からない。少なくとも、この男が川端康成であることが確かなのか、この撮影所のセットの片隅で何をしていたのか? 何をするつもりだったのか? そこを追及していけば、もう少し何かが掴めるような気がする」
私はその場でケータイを取り出し、あの志村正に電話した。ここの大船撮影所の資料を建物と一緒に私に売りつけた鎌倉市役所の役人である。
志村は直ぐに電話に出た。
「久しぶりですね。実はね、志村さん。あなたに仲介してもらって譲り受けた未編集フイルムをコツコツ点検していたんですがね、ちょっと妙なものを発見しまして・・・。志村さんに見てもらったら何か分かるかもしれない、と思いましてね・・・」
志村の反応は早かった。
「ホー! どんなもんですか、興味津々ですわ。当時の大船撮影所の所長さんとは今も懇意にさせてもらっとりますんで、声をかけて見ますわ・・・その方が私なんかよりはるかに何か分かると思いますし・・・」
気が付くと、クスノキが階段を降りてきて、我々の話を聞いていたらしい。
「ついに女狐の手がかりを捕まえたようですな。さすがは、キョウメイ殿だ。オカミもお喜びになられましょう・・・」
クスノキもまた、麻里子と同じく、フイルムの端に写っている白いボケが女狐であると信じ込んでいたのか、ひょっとすれば、例の“淫紋”そのものが写されていたと考えていたのだろうか。
(来月号に続く)