河合メンタルクリニック


私にとっての音楽療法

河合 眞(河合メンタルクリニック院長)

 

 その老人ホームへ通うようになってから、どのくらい年月がたつのだろう。春の菜の花畑に続き、一面の青田がやがて実り、祭ばやしが絶えてまもなく筑波おろしに曝(さら)される関東の米どころ、利根川べりの茨城県稲敷(いなしき)郡東(あずま)町が、まだ東村と呼ばれた二十余年前にさかのぼる。

 この夏に他界された恩師の紹介で、東村の病院と老人ホームへ通うようになり、駆出しの精神科医だった私は、ここで大学病院では得られぬ臨床経験を積み、また精神医学研究の基本を学ぶことになったのだ。

 はじめは農村風景の再現として、隣接する病院の庭で鶏を飼い、草を刈るという一種の作業療法や、レクリエーションとしてのカラオケの時間があった。しかし私たちはそれらを統合、発展させる形で単なるレクリエーションに芸術の要素を加味し、一方で医学としての療法の意味合いを求めて、入所者からなる楽団をつくり、当地の民謡を素材としたオリジナル曲を演奏するという、より能動的な音楽療法を目指した。楽団の編成やオリジナル曲の創作は、私が今も毎週指導を受けているバイオリニストの助言に従い、さらに友人の作曲家や、合唱など音楽的素養のある心理療法士等、人脈に恵まれたおかげで今の形のセッションが実現したのである。

 楽団のメンバーの中には片麻痺、難聴、視力障害などのハンディをもちながらも、スタッフの手の動きや、かけ声を頼りに一糸乱れずにリズムを刻めるようになった人も多く、ついには相互依存の関係が生じるまでになった。

 それは小さな支流が次第に大河に流れ込むように、ひとつの曲として響き、緊張の数分が流れ、最後の一打を全員で決めると演奏が終わる。しかしここまでになるのは並大抵なことではなかった。相手はお年寄りで演奏経験などない人も多い。パートリーダーの真似をしてもらうことから始まり、どの場面においても個々のお年寄りの力量に応じてセッションを工夫することが欠かせなかった。試行錯誤の末、このような演奏が出来るようになったが、その結果、お年寄りはそれぞれのハンディを抱えたまま自らの役割意識を持てるようになったのである。このように社会の中で自分が必要とされていると感じることは、喪失体験に打ち沈んでいるお年寄りにとって、何よりも心の支えとなるに違いない。

 いつのころからかセッションの締め括(くく)りに「夕焼けこやけ」を歌うようになった。「遊び」の終わりにいかにもふさわしいので、ごく自然に定着したものである。

 

 夕焼けこやけで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る

 お手々つないでみな帰ろ からすと一緒に帰りましょ

 

 帰る先に待っているのは、温かい灯であり夕食であり、そして母親である。

 その日の集いの終わりにお年寄りもスタッフも緊張を解きほぐし、あたかも幼児期に回帰したかのような、ほのぼのと懐かしいひとときを共有するのである。

 「万物の根源は水である」と言ったのは古代ギリシャの哲学者タレスである。人類を含む生きとし生けるものが原始の海から生まれてきたことは、体液の組成が海水の組成に似ていることからも例証されている。

 精神分析によれば人は胎内回帰願望があるという。とすれば人は静寂の水の中から生まれて、またそこに還(かえ)っていくのだろうか? 実は人は胎内にあって羊水に浸かっている時から外界の音に反応していることが、近年、超音波診断装置の普及につれてわかってきている。したがって胎教として母親が聴いた曲は、結果として同時に胎児にも聞こえていたことになる。考えてみれば音楽は音と静寂から成り、胎内での静寂の先行経験も、胎児にとって決して音の欠如として感じられるのではない。生後、人は外界の音の波動の中に浸ることになるが、それが母の歌う子守歌など快適な音環境であれば、将来にわたって母子関係に始まる外界との良好な関係が保証されることになろう。

 人は年齢を重ねていくにつれて必然的に失うものも多くなる。一方を選べば他方を失うのであって、ことに初老期以降は自分の選択によらない不幸な喪失も否応なく増えていくわけである。初老期から増え始める喪失体験を乗り越える上でも、幸せだった若いころや幼児期に帰るよすがとして、歌の役割は小さくない。そして幼児体験に回帰して終末を迎えるならば、これ以上のことはないと思われる。

 

 子供が帰った後からは まるい大きなお月さま

 小鳥が夢を見るころは 空にはきらきら金の星

 

 遥かな昔から生まれながらに現世の苦しみを嘗(な)めてきた庶民にとっての救いとは、いつか理想郷において安らぎを得ることであった。日本人の心情にとっては、仏教にいう「彼岸」を目指す心にあたるのかもしれない。人が舞台を去ったあとには、満月、満天の星という、悠久の昔から変わらぬ大自然が残ることを私たちは悟るのである。

 その老人ホームは決して我が家から近いとは言えない。日の短い季節には、星のまたたくうちから出かけねばならない。しかし私たちは、セッションのたびにスタッフを含めた誰もが居心地の良い環境づくりを心がけてきた結果、私たち自身もまた癒されていることに気づいたのであった。それでこそ私は、二十余年もこのホームとのつながりを保つことができたのだろう。気がついてみると、私もいつしか「夕焼けこやけ」と共に「心の彼岸」を求めている年代に入りつつあるのではないだろうか。

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